2010年11月1日月曜日

新たな批評言語の創出を目指して?

先週末の学会の懇親会で2度ほど話題にのぼった新聞記事があった。ぼくは読み落としていたので帰宅後、読んでみた。『朝日新聞』10月29日朝刊、13版17面『オピニオン』欄。「池上彰の新聞ななめ読み」のコラム。タイトルは「ノーベル文学賞 我ら素人にもわかる解説に」。もちろん、池上彰が書いたのだ。

言うまでもなく「ノーベル文学賞」というのはマリオ・バルガス=リョサのこと。彼の受賞決定後、新聞に掲載されたバルガス=リョサ紹介の文章のことごとくが、「我ら素人」にはちんぷんかんぷんで、これでは読む気にならない、ということを説いたもの。

いやあ、耳が痛いなあ。ぼくは引用されて批判された対象ではないけれども。批評の対象になっているのは、同業者。先輩たちだ。だから懇親会で話題にのぼるわけだ。こうした批評に対して、批評された側を党派的に擁護する気はない。でもだからといって、池上彰の言うことを受け入れるわけでもない。

たとえば池上は「バルガスリョサ氏の存在は、日本ではあまり知られていません」とことさら無知を装い、もっと知られるように専門家たちは努力すべきだと、そのためにやさしい解説をすべきだと言うのだが、彼が匿名で引用し批判している対象たちがバルガス=リョサの作品の貴重な翻訳者たちであることには触れようともしない。わずかに『緑の家』の翻訳文庫本があることはほのめかしているものの、これでは翻訳がどれだけあるのか、言い換えればどれだけ日本の出版界や読書界で認知されているのかを知らしめることはできていない。読んでもらうための第一歩を、彼自身示していない。

だいたい、ぼくは無知を装い知識人のジャーゴンを批判する知的カマトト戦略を信用していない。池上彰など、どう「我ら素人」の側に立っても、インテリであることを誰もが知っている人間が、そんなものを装って何になるというのだろうか? 大半の人間が仮にも大学に入学する時代に、あまりものを知らない大衆でござい、なんて態度が許されていいものだろうか? インテリならインテリとしてインテリたちの言語に対峙し批評してもらいたいものだ。もはやありきたりの紋切り型である知的カマトトの言語など使わないでいただきたいものだと思う。

ま、でも、確かに池上の言うことにも一理あるのだろうな。バルガス=リョサの小説の魅力を、短い新聞の記事で紹介するなど、至難の業だと思う。リアリズムだのナショナリズムだのフラッシュバックだの、等々といった語など使わずに的確に表現する。それが問題なのだろうな。

マリオ・バルガス=リョサはとても真面目な作家だ。真面目な作家だということはどういうことかというと……