2010年6月28日月曜日

虚空に叫んでみた

 あるイベントに参加をお願いしていた人の都合が悪くなりそうで、もう何が何やらわからなくなって週の始まりを迎える。


 ぼちぼちと献本をした人から『映画に学ぶスペイン語』に対するお礼のはがきやメールが届く。

 えへへ。何しろ東洋書店のサイトの紹介によれば、「映画の見方も変える一冊」だもんな。

 ん? なんとここでは最初の数ページがPDFファイル化されて読める。立ち読みというやつだな。

 で、……しかし、お礼ついでに間違いを指摘してくださる方もいた。ありがたい。『ゴヤ』の章、64ページ。文法事項の説明の③ella: 「ここではfantasiaのこと」と書いてあるが、これが間違い。razonのことだ。(アクセント記号はここでは抜いてある)セリフの訳ではちゃんと「理性と結びつくと」と明記したのだけどな。

 こうした初歩的なことに限って間違いが発生するものだ。ぼくもまだまだ甘いな。『映画に学ぶスペイン語』を手に取られた方々、どうかひとつ、ご訂正方、よろしくお願いします。

 アメナーバル『海を飛ぶ夢』の原題Mar adentroは「海の中へ」でなく、「沖へ」ではないかとの指摘もいただいた。うん。まあ、そういう意味なのだろうけどね。でもこれは主人公のモデルとなったラモン・サンペドロの詩のタイトルで、それが映画の中でも読まれている。その時の字幕や状況から「中へ」でいいかなと思ったので、そうしたような記憶がある。ちょっと時間があったら確かめてみよう。

 ところで、ちょっと前からやたらとFacebookへの誘いを受けるようになった。ぼくはSNSというのにまったく興味がないので、無視している。最近、Badooというところからもやたらと誘いがくる。知り合いの名を騙り、その人物がぼくを誘っているのだと。その他にこんな人々もあなたに興味を持っている、として紹介されているのが、まったく知らない人物のなにやら怪しげな写真。それで、これも無視している。

 今日、ちょっと懐かしい名前から誘いがあった。去年の今頃、受験生だといってぼくにコンタクトを取ってきた人物で、苗字がなにやら興味そそられるものだったので覚えているのだ。直後にあったオープンキャンパスに来てくれて、メール、失礼しました、とわざわざ挨拶に訪れてくれた。礼儀正しい高校生ではないか。感動とともにその人物は記憶に残ることとなった。

 その彼女の名でBadooへの誘いがあったのだ。

 うむ。別に知らない名前ではないのだけどね。でもね、ぼくはともかく、こうした誘いは警戒することにしているので、無視しました。これを読んでいたら、そういうこととご理解ください。

 今日はなんだか特定の相手に向けて書いている。でも直接ではないので、届いているのかは不明。「虚空に叫」ぶとはそういうことだ。

2010年6月27日日曜日

文化の無償制について考えた

 ごめんなさい。


 今まで黙っていたけど、

 ……わたくし、……

 買っちゃいました! iPad。

 いいよね? 週に12コマ+αなんて、非常勤暮らしのフリーのインテリくらいの数の授業に追われて、加えて趣旨もわからなければ賛同もできない他者の満足感をかなえるための仕事もして、そのためにあちこちに連絡し、しかられ、最後には断られ、なんてことがあって、翻訳とか著書とか出したはいいけど、義理を欠いてはなるまいと、自腹であまりにも多くの人に献本したりするものだから、印税なんて半分くらいなくなって、損ばかりしているんだから、たまには、わがままな買い物しても、いいよね?

 ……って、おれはいったい誰に言い訳しているのだ? 

 まあ、iPadといったって、たかがタッチパネルPCなわけで、それ以上の期待はしていないんだが、思ったよりAPPと呼ばれる専用のソフトが充実している。電子書籍としてのあり方がやたらと喧伝されていたように思ったが、その根拠たるiBooksはともかく、i文庫HDなんて人気のソフトがあり、青空文庫その他の書籍がかなりの点数、読めることを発見。「青空文庫なんて」と鼻であしらうひともいるにはいるが、知的文化財を無償で奉仕しようと、日夜入力に努める人々の善意を思うとき、ぼくはこうしたものを鼻で笑う気にはなれない。尊いものだと思う。

 で、一方、今日は「青空文庫」でなく、iBooksの無償の書籍でエマ・ラザルスの詩集などを読んでいたのだった。先の仕事に少し関係してくるかもしれないので、だ。

 やれやれ、また仕事のことを考えているのだから、世話はない。でも、i文庫HDもなかなかだが、iBooksの作りも楽しい。たいていの電子書籍にはブックマーク機能がついている。さすがに書き込みはできないのだけど、この機能の有用性はもっと喧伝していいと思う。

 ちなみに、Wi-Fiだけのものだ。3Gなし。

 

2010年6月26日土曜日

映像は残酷だ

 昨日は卒論ゼミの学生と武蔵境の居酒屋パンダへ。テントウムシがいたので写真に撮ったが、ブログ用に画像を小さくしたら何が何だかまったくわからなくなったので、載せない。


 で、何がどんなふうに展開したのだったか、気づいたらカラオケボックス。誰がどうしたのか覚えていないが、何枚か写真を撮られていた。しかもぼくのデジカメで。若い連中の隣に映っている自分を見ると、老いと醜について考えさせられる。映像は残酷だ。

 大学の駐車場に乗り捨てた車を取りに行く途中、吉祥寺ブックファーストに寄り、買ってきた。

 島田雅彦『悪貨』(講談社、2010)

 すてきな付録がついていた。これだ。

 でもこれの前にあれとあれとあれを読まなきゃな。

 それとは別に、今日はセルジオ・レオーネの日と決め込み、『荒野の用心棒』、『夕陽のガンマン』を見て、そのうちレオーネとはまったく無関係な『第三の男』なんてものまで見た。スイスなんて作ることができたのは鳩時計くらいのものじゃないか、とのセリフは観覧車のワゴンの中で言われたと思っていたのだが、それは勘違い。降りてからのセリフだった。

 オーソン・ウェルズもクリント・イーストウッドも驚くほど若かった。映像は残酷だ。

2010年6月24日木曜日

これからが正念場

 今日は通常、2時限からなのだけど、1時限に大学院のリレー講義の担当だったので出かけていった。昨日なくしたと思った本は、本棚に貼ったカレンダーの裏に隠れていただけだった。


 間抜けだ。

 実に間抜けだ。

 来週から3コマ、5時限の「表象文化とグローバリゼーション」の授業を担当する。木曜日は2、4、5時限の担当となるわけだ。

 一番暑い時期に。

2010年6月23日水曜日

つきない悩み

 今日は2限だけの授業で、2時から会議。1限の時間や昼休みにでも明日の授業の準備をしなければ、なぜなら明日は1回だけ担当のリレー講義が1限にある、と思って必要な本を探した。


 ……

 ない!

 ははん。誰かに貸してしまったのだな。確かめてみた。2冊探していたうちの1冊は、少なくとも、ある学生に貸していた。メールした。昼休みまでに返して欲しいと。

 水曜は授業がないので今は埼玉県にいる、とのこと。返してもらうのは無理だと。

 やっぱり授業で何度も使うような基本的な文献は学生に貸してる場合ではないな、と反省。

 が、ところで、貸した記録すらない、もう1冊はどこに行ったのだ? 

 誰かに貸そうが貸すまいが、本は持っているだけではいけない。必要な時にすぐに取り出せなければ意味はない。

 さて……

2010年6月21日月曜日

出来

 できました。『映画に学ぶスペイン語』(東洋書店、2010)


 日本でDVD化された映画34本を厳選し、1本につき、4ページ。映画の情報とストーリーに1ページ、セリフ(のスペイン語と日本語訳)、その背景説明、文法説明で2ページ、映画そのものについての解説に1ページ、という構成。けっこう楽しんでやった仕事。

 外大生などはこんなのに興味を示すんだよな。

 書影は左のガジェットでどうぞ。

2010年6月20日日曜日

書評に涙する

 『読売新聞』書評欄「本よみうり堂」では、都甲幸治さんによる『野生の探偵たち』評。これはまだウェブには載ってない。「……本書は、強烈な青臭さに満ちている」。そう。その部分に焦点を当てるとは、さすがは都甲さんだ。「……自分たちの世代へのオマージュとして書いたらしい。そしてまた、革命や詩に憧れながらも、革命家にも詩人にもなれなかったすべての人にも本作は捧げられている。それでもいいじゃないか。あのころの友情や夢は本物だっったんだから。読んでいると必死に生きる彼らの仲間に自分もなったかのような錯覚に陥るはずだ」。


 都甲さんもそうだろうが、彼より少し年上のぼくだって、もう革命や詩に憧れた世代ではない。でも、アマデオ・サルバティェラがセサレア・ティナヘーロを語り、ホセ・レンドイロがアルトゥーロ・ベラーノを語りながら、自らの詩の才能に見切りをつけ、詩に背を向けることとなった心性を語るくだりなどでは、そんなぼくでも涙が出そうになることがあった。そこを突いて都甲さんの書評は、読んでいるだけで泣けてくるなあ。

 涙を拭いて(……って、本当に泣いたわけではないが)、書店に向かう。今日の収穫:

 ル・クレジオ『悪魔祓い』高山鉄男訳(岩波文庫、2010)

 「夢の中の言葉や酔っぱらったときの言葉がそうであるように、沈黙は、いうなれば裏返しにされた言語である。かなたにあって、告発や責任が及ぶことのない言語だ」(37ページ)

 ル・クレジオは先日の『物質的恍惚』豊崎光一訳に続き、岩波文庫化だ。岩波文庫は最近、活性化しているというか、活気づいているというか……いわばインサイダー情報(?)だが、オクタビオ・パスのあの本が今年中か来年にはラインナップされるらしい。これで学生たちにも晴れて薦められる。嬉しい限りだ。カルペンティェールなんかもばんばん入れてくれるとありがたいな。そういえば『朝日新聞』では、筒井康隆が、先日のコルターサルのことにつづき、ガルシア=マルケスやその他のラテンアメリカの作家のインパクトのことを書いていた。これを機に、ぜひ!

2010年6月17日木曜日

逃走

深大寺付近でそばを昼に食し、ついでに寺を少しだけ散歩。梅雨の晴れ間の幸福を楽しんだ。


それもつかの間、あれを提出し、あの問題を片付け、……と、いろいろやらなければならないのに、今さらそんな問題が! というような問題まで持ち上がり、きわめて個人的な悩みを学生にぶつけられ、そうか、学生もつらいな、と同調している間に日が暮れた。

で、本当は、その提出しなければならない何かを片付けなければならないのに、古い日記のアーカイヴ化に努めたりしている。2008年8月。いろいろなことがあったなあ。あの時の仕事はいまだ報われていないな、と思い出す。

深大寺ではスケッチをする人や写真を撮る人、団体で来ている人などがいた。

さ、やるべき仕事に戻ろう。

2010年6月15日火曜日

くり返される身振り

 昨日は熱が出て休講にしてしまった。ぼんやりと1日を過ごした。前回の書き込みでiPadの3Gが必要か? と書いたので、そう言えばぼくは3G対応のアンドロイド携帯を使っていながら、この電話の醍醐味をまだ充分には堪能していないのだったと思い立ち、フリーソフトをいくつかインストールしたりしていた。「青空文庫」などもあって、読める作品は限られているけれども、ちゃんと縦書きできれいなテクストが表示されて、発見であった。大学のアドレスに送ったメールも携帯で読めるようにした……やり過ぎか? ツイッター用のアプリTweetsRideなどは、ぼくのホームに新たなツイートが現れるたびに知らせてくれて、これをいちいちバイブで告知するように設定したら、さすがにちょっとうるさいか? 


 で、ついでに、マーティン・キャンベル監督『マスク・オブ・ゾロ』(1998)なんてのも観ていた。

 こうして観てみると、この作品は意外なほどタイロン・パワー版『怪傑ゾロ』の身振りをくり返していることがわかる。「こうして」、というのは、比較してやるぞ、という心づもりで観ると、ということ。エンディングなどはアントニオ・バンデーラスのアレハンドロ(ゾロ)が、アンソニー・ホプキンスのディエゴ(ゾロ)の身振りをくり返している。自分自身の身振りをくり返す映画だ。これは最初に撮ったエンディングが不評で、スピルバーグの提案で撮り直したものだとのこと。

 ふむふむ。色々と言いたいことが出てくる。

 風邪で休んだ日でも、先々の授業のことを考えた行動をしているのだから、泣けてくるじゃないか。

 今日はまだ少し頭痛が残っているものの、さすがに休むことはできない。

2010年6月13日日曜日

反響続々

 『本の雑誌』7月号では、「新刊めったくたガイド」のコーナーで「今年一番ヒップな海外小説『野生の探偵たち』を読むべし!」と感嘆符つきで、山崎まどかさんが1ページ半割いて紹介してくださった。以前ツイッターで、やがて出る予定のミランダ・ジュライの短編集のために1位を空け、今のところ『野生の探偵たち』を今年の暫定2位にしてくれた人だ。だからRT(リツイート、つまり、ぼくのページへの再掲載)したのだった。さて、その山崎さん、「新しいもの好きの若者たちが、ジュール・ド・バランクールの絵画を使った秀逸な装丁の上下巻を持ち歩くようになればいいと思う」と書いてくれた。そうなればぼくも有頂天だ。


 『毎日新聞』では、かなり大きな書評。「貧血気味の現代文学への強烈なカンフル剤、いやちょっとした爆弾くらいの効果はあるのではないか」と評してくれたのは沼野充義さん。

 驚いたことに『毎日』のこの評、もうサイト上で読める。新しいメディアに時間差を置かず(時間差というのは利子を生み出す。つまり時間差とは利益だ)転載するというこの大新聞の態度は快挙だ。ただし、たとえば「ここに挙げた絵」というのがサイトではどの絵なのか確認できない。100%完全に転載はできていないのだ。メディア間の齟齬を顕在化させるような文章を書くのだから、沼野さん、さすがだ。

 立川ビックカメラで、iPadが品切れだから予約しろと言われなければ、きっとぼくは今頃買っていただろう。予約しろと言われて冷静になり、もう一度果たして必要かと考え直そうと(そしてまた3G通信が本当に必要かと考え直そうと)店を出た。で、伊勢丹に行ってポロシャツを買ってきた。

 ぼくは赤や緑やピンクのポロシャツをたいていいつの時代も持っていたものだが(たとえば今週の月曜、大学院生2人から立て続けに、会うなり、赤いですね! と言われた)、去年、それまでお気に入りでさんざんに着古したJ.Press(まただ!)のピンクのポロシャツがよれよれのしわしわ、シミもだいぶできたのでさすがに部屋着へと転落して以来、ピンクを持っていなかった。で、ピンクのやつを。今度はラルフ・ローレンで。ラルフ・ローレンの店にはかわいいボウタイがあり食指を動かされたのだが、iPad以上にためらわれて、ポロシャツのみで済ませた。考えてみたらラルフ・ローレンのポロシャツというのも、ずいぶんと久しぶりのアイテムだ。

2010年6月12日土曜日

到着

 昨夜、ちょっと遅めに帰宅すると、届いていた。『野生の探偵たち』第2刷。いくつか訂正を入れたので、明らかな誤植などが直っているはず。


 ついでに、これまでに出た書評のコピーなども送ってくださった。

 陣野俊史さん:「なんだろ、これ」。この書き出しの書評は、それによって対象小説(『野生の探偵たち』)の「はらわたリアリズム」という第1語に伍さんとするものか。

 野谷文昭さん:これについては以前書いた。

 越川芳明さん:「本作は、21世紀の地球人の象徴としての亡命者や移民の姿を、社会の底辺の視点からしっかり見据え、個人史と世界史を巧妙に交錯させた斬新な政治小説だ」。ふむふむ。それが『2666』に至ってさらに顕著になるんだよな。

 『東京新聞』「文芸時評」欄で取り上げてくださった沼野充義さん:「卑俗な現実に直接わたり合いながらパワーに満ちたフィクションの世界をまだまだ構築する可能性があるのだと思えてくる。その意味でこれは、とても元気づけられる小説である」。高橋源一郎の小説への言及の直後になされたもの。

 ちなみに、沼野さんの訳されたナボコフ『賜物』(河出書房新社)は、『野生の探偵たち』とほぼ同時期に出版され、評判を博している。

 今日はこれから法政市ヶ谷キャンパスでの仕事。現在、非常勤で多摩キャンパスに行っているのだが、そしてそれは元同僚のゼミの代講なのだが、彼の流儀に従い、年に一度の発表会だ。 

2010年6月10日木曜日

サプライズ

 人類の「存亡にかかわる重大事」を抱えた同僚に成り代わって、実際にはぼくはかかわりを持たない授業の開始に際して、ちょっとした指示を出しにいった。知り合いの学生が何だか奇妙なまでに驚いた顔してこちらを見ていた。その次の時間の授業を受講していたから、ずいぶん驚いていたみたいじゃないか、と声をかけた。その授業、前の週が奄美の歴史だかなんだかというトピックだったらしく、それでぼくが一週間間違えて来たのかと思った、と。


 うーん、すると何か、ぼくがその授業の「奄美の歴史」の回の人類サンプルになり損ねた存在だ、と……?

 ま、それでも良いんだけどね。

 ところで、ちょっと前からツイッターをやっている。これがオーバーチャージでつながらない時間帯がある。22:00台だとか24:00台とか。今日はペドロ・コスタが東京造形大学の客員教授になったとか、『ルシア』のDVDが発売されるらしいといった情報が飛び込んできたので興奮していたのだが、以後、つながらない。検索機能も日本語だとうまく機能していないみたいだし、成長にシステムがついていってないみたいだ。

 実際、最近ウーゴ・チャベスもツイートし始めたと話題になったし、菅直人が総理大臣になると新首相を騙る人物が出てきたりと、参加者の増加はかなりのものなのだろう。

 でも、ところで、にわか菅直人が増えるなど、いかにもありそうな話。ちなみに、ガブリエル・ガルシア=マルケスは5人くらいいる。ぼくがフォローしている人物の中には「村上春樹」を名乗る者がいるが、これなど、きっと本人ではないだろうと思う。たまに村上作品からの引用をツイートするばかりだ。

2010年6月8日火曜日

いただきました。

 白水社から何やら通知が届いた。


 お、早くも印税か? 封筒を開けてみた。目に飛び込んできた数字はささやかなものだった。そりゃあね、翻訳者印税は一般に、著者印税より少ない。ましてや今回は共訳。半額になる。外国文学では発行部数も決して多くはない。印税相殺での献本もだいぶした。もとよりこれで一財産築けるなどと夢は見ていない。そんなことわかりきっている。しかしなあ……それにしちゃ少なくないか?

 よく見たら、先日の出版記念イヴェントの謝礼だった。なあんだ、そんならわかる……

 いや、むしろびっくりだ。あれで金がいただけるんだ! ええ、確かに一晩飲めば使い果たしそうな額ですよ、でもね、一晩しゃべっただけなんだから、それで充分、ありがたいというもの。

 2年ほど前に、同じくセルバンテス文化センターでやったセサル・バジェホのイヴェントに出たときの報酬は、後日ペルー大使館からいただいた極上のピスコ酒1本だった(そういえば今回もチリ大使館からワインを1本、いただきました。おいしかった)。そんなものだ。なにかお話しして金がもらえるなんて思ってはいない。ぼくたちはそんな価値観の世界に住んでいる。

 大学というのはそんな価値観に基づいて経済活動を行っている。

 水村美苗がどこかで書いていた。われわれは世界中の大学から招かれ、講演などをする。受け取るのはたいてい、エコノミークラスの航空券とつましいホテルの宿泊代、わずかばりの謝礼。そう。ビジネスクラスで旅をしたければ、自身で貯めたマイルでアップグレードするしかない。

 売れっ子の同業者が言っていた。とある大新聞の書評委員になったら、黒塗りのハイヤーで送り迎え、……あれでは堕落してしまう。ぼくらはこのように、独りで、安上がりに移動するのが当然との意識で生きている。

 近年は大学も、しかし、外部から様々な人を招かなきゃやっていけないようだ。ぼくの属する大学など、この規模でなぜこんなにイヴェント尽くしなのかと、あきれるばかりだ。もっとあきれるのは、ぼく自身がそのようにして人を呼ぶために東奔西走しなければならなくなることがあるということ。手紙を書き、電子メールを送り、電話をし、場合によっては直接出向いていってお話をする。自腹を切って出向き、そんな大学的価値観を基に設定された安い仕事をオファーし、結局、快い返事が得られないかもしれない。

 やれやれ、とため息が出る。確かに、郊外型に成り下がってしまった現在、学生たちが街に繰り出して街の中で迷い、考え、行動し、知恵を身につけるような機会を提供することはできない。人文・社会科学の学生は街で考えなければならいと思っているのに、だ。でも、だったら、街を大学に持ってくればいい。都会ではなにがしかの料金を払わなければ聞けないような人の講演やシンポジウムを、この郊外のキャンパスでもやってしまおう。しかもただで。その心意気はいい。だが、そのためにぼくたちが費やさなければならないエネルギーを思うと、何だかやり切れない。そのことの本当の因果関係はわからないけれども、疲れているときなどは、あるいは企画が思い通りに行かないときなどは、そしてまた自分が立てたわけでもなく、納得も行かない企画であるときなどは、これでは授業の質が落ちてしまうよ、とぼやきたくもなる。

 あ、この点に関して、今日何かがあったというわけではない。日頃思っているということ。

 

2010年6月6日日曜日

今さらながら

村上春樹『1Q84 Book3』(新潮社、2010)

これは、前に書いたように、電車の中だけでしか読まないと決めていた(ちなみに、ぼくの普段の通勤は、車)。最後の数十ページだけその原則を崩して、京都のホテルで読了。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、主人公の頭の中にできた「世界の終わり」の町から、最後、出ていくか留まるかで逡巡した主人公の倫理的態度が物議を醸したような記憶がある。そのときの議論に対する返答のような決着のつけ方。

『世界の終わり……』では、さらに、地下に下っていく階段や、池の中に潜っていく結末など、下降が印象的だったが(その他にも村上春樹は穴の中に潜りたがる人々を書いている)、ここでは非常階段を上っていく。その意味でも対照的だ。

電車の中以外では読まないという原則を立て、それがおおむね守られたのも、この『1Q84』、Book2までで終わりにしていても良かったとのぼくの思いが覆されることがなかったからだ。ことさら必要な第三巻だとは思わないが、その第三巻でこんな決着をつけるのだから、これは意外に決定的な転換かもしれない。

きゅっきゅっ

日本ラテンアメリカ学会に参加。初日に「文学」の分科会に参加し、フエンテス、カルペンティエール、ビジャウルティアについての研究発表をそれぞれ拝聴する。ある観測を得たのだが、それはここには書かない。午後は「クリオーリョ世界の実態に迫る――17世紀メキシコ市の事例から」を拝聴。懇親会、二次会、三次会、とワイン三昧。

今日はもう気力も萎えたので京都御苑を散歩し、さらに近場で二条城まで足を伸ばして観光気分。御苑では、許可がなければ入れない京都御所や大宮御所の周囲を黒塗りのパトカーがきゅっきゅっと砂利を軋ませながらゆっくりと巡回していて、なんだか追い掛けられている気分になった。

二条城では二の丸御殿のうぐいす張りの床がきゅっきゅっ。

二条城、昔来たことがあると思っていたのだが、どこに行っても記憶がよみがえってこない。つまり、ここは初めての場所だったのだ。

2010年6月2日水曜日

「そんな中」

 健康診断。ずっとなにがしかの金を払っていわゆる人間ドックに入っていた。去年、あまりにも忙しくて忘れていた。途切れたのを機に、大学の健診を受けてみた。たぶん、以前よりチェック項目が増えていると思う。胃のレントゲン(バリウムを飲む、というやつ)なんてなかったはずだ。まあだから、日帰り人間ドック程度には項目が増えた。悲しくなるほどの健康体としては、これで問題なかろう。


 終わって研究室に戻ったら、鳩山由紀夫退陣のニュースを知った。(半分以上)外交問題であるはずの基地問題を、官僚やメディアとの情報コントロール争いに敗れて公約問題に矮小化してしまった非政治的な人間の、あまりご立派とは言えない退陣。もとからこの人に総理大臣の資質など認めていないから、擁護する気もないけど、何だかいくつもの問題のすり替えが行われているような気がしてならない。

 問題は「そんな中」にあると思う(と、これも問題のすり替えだと思うが)。「そんな中」、「……する中」、「その中で……」等々。

 例:「ぼくがバリウムを飲む中、鳩山由紀夫が辞意を表明した」。「普天間問題で逡巡する中で内閣支持率が落ちて行った」。

 「上」も「下」も「横(加えて、とか、一方、など)」もどこかに行ってしまい、対比、同時性を表す接続詞が今、すべて「中」に収束しようとしている。

 若者の言葉が乱れていると嘆く人はいる。そんなときに取り上げられるのは、たいてい、名詞や動詞だ。でも、そんな中(へへ)、老若男女を問わず、止めどなく崩していっているような気配を見せているのが、接続詞だ。「そんな中」だ。

 接続詞こそ思考の要だと言ったのは誰だっけ? ずっと昔、高校生くらいのころに何かで読んで、なるほどと思い、爾来、そのことを気にかけるようになった。接続詞こそ思考の要だということを。事象Aと事象Bの関係は、上下なのか前後なのか、単なる横なのか、内と外なのか、それとも無関係なのか、それが問題なのだ。

 本当はこう言うべきだろう。「ぼくはバリウムを飲んだけど、その間、違う空の下、鳩山由紀夫は苦渋を飲んだ」、「普天間問題で逡巡したから内閣支持率が落ちた」。

 こう言ってくれれば、普天間問題と内閣支持率が因果関係にあることがわかる。そしたら、はたしてその因果関係は本当に正しいのか? との疑問を呈して、議論を前に進めることができる。「普天間問題で逡巡する中、内閣支持率が落ちていった」では、よくわからん。普天間問題、あったよね、支持率、落ちたよね、でも何がいいたいの? としか言えない。

 突然の首相辞任で日本社会が動揺する中、ぼくはこれから学生たちと飲みに出かける。

 これは「中」でいい? 街に飛び込んで行く感じ? ぼくは「動揺を尻目に」と言いたいな。それがぼくの心情にぴったりだ。