2016年10月31日月曜日

薔薇の木の下には何が眠っている?



課題図書は村山さん著作二つ。『放蕩記』『ラヴィアンローズ』。いずれも集英社。講演タイトルは「モラルハラスメントと自由――透明な鎖をどう断ち切るか」。

課題図書の内容を少しまとめておこう。出席者はあらかじめ課題図書を読んでから来るようにとのことなので、ここでは、いわゆる「ネタバレ」はよしとしようじゃないか。

『放蕩記』は母と娘の問題を扱ったもの。主人公は鈴森夏帆。小説家。結婚中に小説家としてデビュー。その後、離婚。7歳年下の恋人・大介と暮らしている。

夏帆の母が美紀子。大介からは「いい人」だと思われるような茶目っ気と明るさを備えた人物だが、娘からすればある種の嫌味が感じられる物言いばかりする。自己顕示欲と潔癖さが鼻につく。鼻につくだけならばいいのだが、夏帆は夏帆で母への遠慮や、彼女に好かれたいという思いなどがあり、その言葉の呪縛から自由になれない。

大介らに助けられながら夏帆が幼少期からの思い出を語ることによって、自らの呪縛を解いていく過程であり、そこで語られる半生の物語でもある小説。終盤、駆け足に騙られる夏帆の男性遍歴が実は怖い。エスの世界なども描いているところはサービス精神に満ちているという感じか。

『ラヴィアンローズ』は『放蕩記』で少し触れられた「前夫」との仲を展開したもの。ただし、設定は『放蕩記』とは共通していないので、続編などと見なすことはできない。

主人公などは前回書いた。不倫によって夫との関係がハラスメントの加害者と被害者のそれだと気づき、主人公の咲季子は夫に反旗を翻し、結果的に殺してしまうのだが、そうなって気づいてみれば年下の不倫相手・堂本裕美も、実は求めていたような王子さまではないことに気づくという結末が小気味いい。


ここではもう「モラルハラスメント」という語が出て、夫の言葉の暴力がよりわかりやすく展開されていて、後半のノワールな世界に導かれて行く。

2016年10月30日日曜日

富士巡礼

散歩しているとつい遠くまでいたり、実は護国寺の近くに来ていることに気づいた。

ちゃんと訪ねたことはなかったので、行ってみた。護国寺。

大仏の微笑みに衝撃を受けた。菩薩のような仏だ。

猫はこちらを向いてくれない。

で、音羽富士というのがあった。


山頂には浅間神社まである。これがないと富士塚とは言えないらしい。

なかなかの散歩であった。寒かったので今秋、というのか冬というのか、ともかく初めてのスタジャン(フランクリン・マーシャル)を着ていたのだが、中は汗をかいたのだ。

おまけ。たまに思いついて作るトルティーリャ・エスパニョーラ。アリオリを作るのが面倒なので、マヨネーズにすり下ろしたニンニク、オリーヴオイルを少し加えて即席アリオリを添える。



先日呼んでもらったホーム・パーティで、友人がカボチャ入りのトルティーリャを作ってくれて、少人数用にいい具合に成形するにはどうすればいいか、という話になり、その彼女と僕が実は同じ結論にいたったらしく、その話で盛り上がったのだった。それで、思い立って作った次第。

富士巡礼の後は卵料理に限る……? 

2016年10月29日土曜日

薔薇色の人生

来週の日曜日、「人生に、文学を」オープン講座第1回というので村山由佳さんの講座の司会をせねばならないので、課題図書のうちまだ読んでいなかった『ラヴィアンローズ』(集英社、2016)を読んでいた。母と子の確執を描いた『放蕩記』(集英社文庫、2014 / 2011)よりもさらに、夫の妻に対する言葉の暴力(このふたつのテーマでもって「モラルハラスメント」というテーマで話す模様)が最初から痛く辛く響く作品だ。

不倫相手の堂本裕美との出会いの鮮烈さなどがチャームポイントであるに違いないこの小説の、だからこその夫・藍田道彦の言葉の刺が痛くてたまらなくなり、そうだ、息抜きに薔薇を見に行こうと思い立ったのだ。

La vie en roseというタイトルから察しがつくように、薔薇に関係する話だ。主人公の咲季子はフラワー・アレンジメントの教室などを開き、ガーデニングやその他の活動が話題になって本なども出しているカリスマ主婦(というのかな?)だ。冒頭からバラ園の記述が読者をその世界に誘い込む。

そういば、そろそろ薔薇は見頃だろうか、と思い立ったわけだ。それで、いちばん近い薔薇の見どころといえば、やはり旧古河庭園。以前、このブログにも書いたことがあるけれども、そのときは薔薇の季節ではなかった。だから薔薇を見に行ってきたのだ。

旧古河庭園はかつてよくTVドラマのロケなどにも使われていた(はずだ)典型的な洋館と、高低差のある庭園が特徴だ。上の段の庭園はフランス式のシンメトリーで、薔薇が特に名物。

下の段が日本庭園になっている。

この薔薇の浮き上がりようはどうだ! あ、つまり、写真映りのこと。


館内の喫茶店でコーヒーなども飲んだのだった。(写真はない)

2016年10月23日日曜日

知的生活の方法? 

ところで、富山に行った際、話題の富山市立図書館にも行ってきたのだ。隈研吾の手になる、木を多用した館内は今から国立競技場を見るようであった。ただし、吹き抜けのある作りは、僕のような高所恐怖症の人間にはいささか怖い。

さて、地方に出かける必要のない久しぶり週末、当然、仕事をしているのだ。

2-4冊、本を書く約束をしている。「約束」をどこまでの範囲にとるかによって、冊数が変わる。2-3冊、翻訳を約束して、その「約束」の意味を取り違えてまったく話を無駄にしたことのある(1冊分の翻訳原稿を作ったのに、いまだに宙に浮いている)僕としては、常に「約束」の範囲は怖いものなのだ。でもまあ、とりあえず、2-4冊だ。

それらをそろそろ仕上げにかからねば、と思うのだが……いつまで経っても終わらない。

書いてはいるのだ。でも僕はまだまだ「一気呵成に書き上げる」神話にとらわれているのだろうな。

僕が準備している本だから、当然、それは多くの本に依拠している。そうした文章が書き進められないということは、

1)書く時間をつくらない
2)書くための準備(読書)をしていない
3)読んだことは読んだし、書く時間も作れるのだが、読むことと書くことの橋渡しを面倒くさくてやっていない

のどれかの理由によるものなのだ。そしておそらく僕は圧倒的に2)か3)の理由によって書き進まない。

3)つまり読むことと書くことの橋渡しとはこういうことだ。僕らはだいたい、次のような手順を踏んで文章を仕上げる。

i) 本を読む。
ii) メモを取る。カードとかノートとかいうやつ。
iii) メモを基にある単位の文章(大抵は1段落)をつくる。
iv) そうしてできた段落などを組み合わせ、全体の流れを考えたり修正したりしつつそれに組み入れ、もっと大きな単位(節、章、など)を作っていく。
v) めどが立ったところでその節なり章なりを冷静に書き直してみる。
……
後はひたすら、推敲。何度も推敲。

このii)とiii)の手続きが「橋渡し」。実はこれが面倒なのだ。この段階を飛ばして文章を書けちゃう人もいる。あるいは同じ人でも書けちゃう文章と書けない文章がある。書けないとき、この手続きを踏むのが実に難儀になってくる。ii)とiii)の段階ではまだ文章(章や1冊の本全編)が見えないものだから、焦るのだ。焦ると放棄したくなるのだ。

そこで、i)から一気にiv)ないしv)に進もうとする。すると、そこに問題が生じる。何かを読んで、それを紹介したり、別の文脈に組み込むべく説明する文章を書いたりするということは、実に労力を要する作業なのだ。ある章のある箇所にある本のあの一節を引用するといいとわかってはいても、それがとても難しい。

問題のふたつめは、ある本を自分の文章に組み込もうとすると、その文章を書いている間、その本を持ち歩かなければならなくなるということ。すると荷物が膨大になる。文章を書くのは、出先でも喫茶店でも、どんなところでもできる。僕の場合はむしろ、外出先の方が文章がはかどるくらいだ。ところが、そこに引用を紛れ込ませようとすると、その本が必要になる。できるだけ身軽にして歩きたいと思っている僕としては、現在執筆中の原稿にかかわる本をすべて持ち歩くなど、難しい話だ。

そんなわけで、本当はi)からiii)までの、いや、せめてii)までの作業を早く終えた方がいいのだ。iii)での作業を経て段落単位の文章をたくさんフォルダに入れておけば、文章を書く作業も楽になる。ところがii)やiii)の作業は執筆中の本の流れからすればわずかな進捗しか意味しない。だから焦りを産み、焦りは怠惰を導く。

今日もオスカー・ルイスの文章をある文章に組み込もうとして手が止まり、はて、どうしたものか、よくわからないのだから、とりあえず使えそうな文章を全部ファイルに書き写して眺められるようにすればいいのだ、との結論に達したのだが、さて、それもめんどうだ、うーむ……としばし唸った次第。で、それを実行に移さずに、この文章を書いたりしている。逃避。


いやいや。今頃卒論や修論で悩んでいるだろう学生たちを鼓舞するつもりでこれを書いているのだ、ということにしておこう。さあ君、諦めてオスカー・ルイスの文章を書き写すことから始めたまえ。それが君の文章にどう活かされるかわからないからといって焦ることはない。最低でも1行分くらいにはなるはずだ……

2016年10月17日月曜日

金沢にパストールを食べに

またまた間が空いてしまった。

10日(月)には東京外国語大学の「翻訳を考える」シリーズで温又柔、関口涼子、金子奈美の鼎談を聞きに。

15日には富山に行った。

教え子、というか飲み仲間がいるので、彼女の勤めている農場が食材を卸しているイタリア料理のレストランに。美味しかった。

富山に行ったのは翌日、金沢に行く予定があったから。16日(土)には日本フランス語教育学会で講演してきた。「世界文学の時代:ラテンアメリカ文学のひとつの首都パリ」というタイトルで1時間ばかり。

懇親会には金沢大学に勤める大学時代の先輩も顔を出してくださり、久しぶりにまみえたのだった。

二次会では美味しい酒と刺身などの食べものを。そして〆には、なんと! タコス・アル・パストールを食べたのだった。

今回呼んでくださった金沢大学のK先生と奥様のYさんが連れて行ってくださったのだが、僕が東京のメキシコ料理屋にはパストールを置いているところが少ないとブログに嘆いたのを知っていて、金沢にはあるぞ、と教えてくださったという次第。

参った。金沢、侮れない。


ちなみに、この前に金沢に行ったのは1988年3月のことだった。

2016年10月9日日曜日

ご無沙汰

ずいぶんとブログの更新を怠ってしまった。

前回の記事からいろいろなことがあったのだが、ブログも更新しなかったし、概してTwitterFacebookへの書きこみも減ったと思う。

特に書きこみを減らしたくなるような何かがあったわけじゃない。

9月24日(土)と25日(日)には京都にいた。世界文学・語圏横断ネットワーク研究会でコメンテーターをつとめた。仁和寺に行った。

10月1日(土)と2日(日)には神戸にいた。日本イスパニヤ学会第62回大会で2つの分科会で司会を務めた。2つもの分科会で司会をするなど、異例なことだ。

10月3日(火)には飯田橋文学会主催の作家インタヴューのシリーズで筒井康隆の話を聞きに行った。

翌4日(水)には同シリーズで島田雅彦の話を聞きに行った。

久しぶりに東京で過ごす週末、昨日の8日はラテンビート映画祭に行ってきた。

まずはアンドレス・フェリペ・ソラーノによる朗読劇「ホワイト・フラミンゴ」

かつてラミーロという元締めの下で殺し屋(シカリオ)をやっていた友人二人のうち独りが性同一性障害で、性転換後に再会して会話を交わすという内容。榊原広己と宮菜穗子。

僕はソラーノの「豚皮」という短編を『グランタ・ジャパン』に翻訳したことがあるのだが、初めて彼を読んだ時のような不思議な感覚が蘇ってくる。

宮さんはさすがに上智のイスパニヤ語出身だけあってその後のソラーノを交えたティーチ・インでも彼の発話を少し理解しているようだった。すてき♡

少し時間を置いて、イシアル・ボジャイン『オリーヴの木』(スペイン、2016)El olivoなんてシンプルな題をなぜThe Olive Treeとことさら英語表記にするのか理解できないので、僕は「オリーヴの木」と書く)

この映画祭でのボジャイン3作目の上映。

認知症なのか言葉もしゃべらずものも食わず、徘徊するだけの祖父を、かつて彼の命の木だったオリーヴを、オリーヴ農園の景気の悪いのにかこつけて子供たち(つまり彼女にとっての父と叔父)が売り払ったことに対する抵抗なのだと理解したアルマ(アナ・カスティージョ)が、その木がドイツの電力会社のシンボル・ツリーになっているのを発見し、叔父や友人に噓をついてそれを取り返しにいくという話。


終映後、ボジャインが登壇。話を聞いた。こちらも、すてき♡