2011年9月30日金曜日

光を捕らえる


昨日、光を捕らえた写真のことを書いたので、思い立って光を捕らえる努力をしてみた。
といっても、大学に行ったときにカバンの中に入れているCanon S90で撮ってみたということだ。光はやはり捕らえきれていないか?

大学に行ったのは、別に写真を撮るためでも何でもない。それなりに仕事があったからだ。仕事に必要な本を借り、仕事のための書類を受け取り(読まねばならないのだ。何百ページをも)、10月からの準備を少し。

昨日は右の腰が痛かったのだが、今日は左が痛くなっていた。度合いはだいぶ小さく、痛みというよりは違和感というていどだけれども。これで均衡が取れた……?

2011年9月29日木曜日

秋の夜長は読書をしろと……


朝、腰痛を感じた。無理して歩いたら、足首がおぼつかない。倒れそうになった。今日はラテンアメリカの都市の修復やらバルセローナの都市化やらの話を聞きに行く予定だったが、大事を取って取りやめた。夕食後には腹までこわした。

やれやれ。要するに踏んだり蹴ったりだ。

腰痛は動けないというほどではないが、気になるところ。学期開始直前に腰痛に見舞われた十数年前、冬に大病を患ったのだ。因果関係があるのかないのかわからないけれども、以後、どうにも怖くて仕方ない。

徴候としての腰痛はともかくとして、その十数年前の大病以来、ぼくはどうにも現実感がなくていけない。目の前で起こっていることに自分が参加しているという感じがしないのだ。悪く言えば、そのとき以来、感情が麻痺し、小説などのストーリーに対する感覚がなくなり、記憶力が悪くなっている……ような気がする。

記憶力が悪くなっても、読むしかない。悪くなったら、記憶の中にためこんでおくためでなく、外部に出力するために読むしかない。腰が痛いのだし、夜は長いのだし、秋は読書の季節だからなのか、3冊も献本をいただいたのだし。
順に:八木久美子『グローバル化とイスラム:エジプト「俗人」説教師たち』(世界思想社、2011)
 イスラムが不変だと思ってはいけない。19世紀には西洋からの近代化の波、20世紀後半にはグローバル化の波、などを被りつつ、イスラムへの回帰も見せつつ、知識人としてのウラマーの存在のしかたが代わり、かくしてエジプト社会の今がある、という内容。

アルセーニイ・タルコフスキー『白い、白い日』前田和泉訳、鈴木理策写真(エクリ、2011)
 アンドレイ・タルコフスキーの父にして「その日、僕は世界を見たのだ」(13ページ)の詩人であるアルセーニイ・タルコフスキーの詩集。鈴木理策の写真が光を捉えて美しい。

管啓次郎『島の水、島の火:Agend'Ars2』(左右社、2011)
 詩集Agend'Arsの第2集。「私たちの目が光の受容器なら/すべての木の葉は目」(26ページ)。これなどは先の鈴木理策の写真にむしろ添えて謳いたい。グリッサンの追悼の詩を含み、クレオールへの志向性の強いものとなっている。

移動は歴史の要請
移住は心の冒険
マングローヴのもつれが四世紀の記憶を
火として野に放つ(64ページ)

そういえば管さんはグリッサンの『第四世紀』を訳すはずだ。その話をうかがったことがあったのだった。

学校に夜はなく夜に学校はない
砂糖黍の死者のための焚火のまわりに集い
闇の中でMaître-la-nuit(夜の親方)の語りに目を輝かすだけ
幾千の通夜がそうして遠い土地の記憶を伝えてきた
Yé, kric!
Yé, krac!
パトワ(島言葉)が語るありえない不思議の物語を
デレクとその双子の弟は隣の島で英語で聴き取り
おれたちはフランス語で震えながら聴き取った(66-67ページ)

2011年9月27日火曜日

見えないけど見える

試写会に呼んでいただき、拝見した。ダニエル・ブスタマンテ『瞳は静かに』(アルゼンチン、2009)
1976年に始まるアルゼンチン軍政時代、多くの反対派を弾圧した時代だ。この時代のこの人権弾圧が背景になっている。舞台は地方都市サンタフェ。離婚した母と兄と三人で住んでいたアンドレス(コンラッド・バレンスエラ)が、母ノラ(セリーナ・フォント)の死によって、大好きなおばあちゃんオルガ(ノルマ・アレアンドロ)の家に移り住むことになった。父親のラウル(ファビオ・アステ)が売却のためにノラの家を整理していると、反体制運動に参加していた証拠となるような書類が出てくる。どうやら彼女はアルフレド(エセキエル・ディアス)と関係を持ち、彼に引き込まれて運動に手を染めるようになったらしい。大人たちの会話などから、アンドレスは少しずつ母親の死の真相を理解していく、……という話。

ただし、これは軍政における人権弾圧のことを扱った話ではない。恐るべき子供(アンファン・テリブル)の話でもある、というところがこの映画の面白いところだ。

フレーミングがいい。子供の視点を表現するために、見えるものと見えないものをはっきりと作り出してさまざまな効果を上げている。学校の先生が、子供に説教するのに背中しか見せないシーンなどは、滑稽でもあり恐ろしくもある。最後のシークエンスで脚しか見えない二人の大人(たぶん、ひとりは警官のセバスティアン〔マルセロ・メリンゴ〕)が、地べたに座ってゲームに興じるアンドレスに「おばあちゃんはどうしている?」と訊ねるのも恐怖だ。

この限られた視界の中で、登場人物たちの視線が多くを伝えていて、印象深い。アルフレドが葬式に現れた瞬間、大人たちの視線と態度だけで、人間関係の複雑さが示唆される。「空気が変わる」などと言うが、本当に空気が変わる瞬間が見えるようだ。こうした作りが実にうまい。

限定され、見えないことも多い子供の視界だけれども、その中に子供たちは見えないはずの空気の変化を見て取ったりするものだ。そんなことを思い出させてくれる。秋になって伸びた髪を撫でつけると、女の子にも見える中性的な8歳の少年アンドレスの視線が、最後、実に怖くて怪しい。

秋、冬、春、夏の4つの章からなるこの映画。もうひとつ確認しておかなければならない前提は、夏とはクリスマスであり正月であるということだ。アルゼンチンは南半球にあるのだよ。

生ハムを偏愛する

今日は会議が一つ。そして学生との面接。その後、3年のゼミの連中と、大学近くのプロペラ・キッチンで、飲み。生ハムとサラミの盛り合わせ。パン付き。

2011年9月25日日曜日

テピート


何の因果か、今週2回目となるメキシコ料理店テピート

テピートというのは、メキシコ市中心街の北に隣接する名だたるスラム街。『野生の探偵たち』では、ある人物が、酔っ払ってテピートのクラブに行ったときのことを、テピートに行くってことは前線にいくようなものだ、というふうに表していた。

オスカー・ルイス『貧困の文化』が叙述した家族の幾組かはこの地区にあるベシンダーと呼ばれる集合住宅に住んでいた。上で『野生の探偵たち』を引き合いに出したが、あの第一部では語り手の少年が、やはりこのベシンダーに住む女性の部屋に入り浸りになるのであった。

1985年の地震で甚大な被害を受けたけれども、ここに住む人たちの互助活動は模範的なものとして注目を集めたとのこと。地震後、この地域を活性化して立て直そうという都市計画が実践されている。

そんなテピートの名をなぜつけたのかはわからないが、店主のドン・チューチョ・デ・メヒコが、単純なコード進行のはずのスタンダード・ナンバーを手練れのギター・プレイで歌ってくれる。「ククルクク・パロマ」(『オール・アバウト・マイ・マザー』でカエターノ・ヴェローゾが歌っていたやつだ)のトマス・メンデスは彼の付き人だったそうで、その曲も彼のメキシコの家のリヴィングで生まれたそうだ。

2011年9月23日金曜日

鶴は千年、……人は死ぬ


先日書いた集まりで千羽鶴を作った際にもらった別の鶴。写真に撮ってみたら思いの他絵が美しかったので。

昨日はスペイン大使館に『侍とキリスト』宇野和美訳(平凡社、2011)の著者ラモン・ビラロの講演会を聴きに行った。

講演会というよりは、ジャーナリストのゴンサロ・ロブレードとの対話による本の紹介という感じだ。日本語版に解説をつけたルイス・フォンテス神父(ザビエルの子孫)や弥次郎の子孫なども参加。

ビラロは1986年だったか87年だったか、バブルに突入するころの日本に『エル・パイス』紙の特派員として滞在していたそうで、そのときのことや、小説にこめた思い、次にでる、日本をめぐる3冊目の本となるエッセイの話しなどをしていた。16世紀の異文化体験、といった調子で読めるこの小説、なかなか面白いので何かの授業で使えないだろうかと考えている。

授業と言えば、今日見つけたのは、ホルヘ・マンリーケ『父の死に寄せる詩』佐竹謙一訳(岩波文庫、2011)

15世紀の名作詩だ。往年のサンティアーゴ騎士団長であるロドリーゴ・マンリーケ(ホルヘの父)の前に〈死〉が現れて、「永遠に続く生ともなれば/風塵を逃れぬかぎりは/実現しまい」(421-423行)などといい、それに答えて騎士団長が「神がもたらす死の命に/背いて今世にこだわるのは/狂気の沙汰」(444-446行)などと覚悟を決めるのだ。潔い無常観。

ペストの流行によって中世ヨーロッパに広まった『死の舞踏』。これの作者未詳によるスペイン版も併載。


訳者の佐竹さんによる解説もたっぷりな上に、マンリーケの詩は原文まで掲載されている。うむ。勉強になる。

2011年9月19日月曜日

連休の最終日だからと焦っているわけではない

下北沢のテピートにて店主ドン・チューチョや八木啓代さんらのライブを聴き、千羽鶴を完成して、メキシコの平和を求めるグローバルネットワークへの協力をした。

とって返してラテンビート映画祭、新宿での最終日。ダニエル・サンチェス=アレバロ『マルティナの住む街』(スペイン、2011)は遅れて入ったので細かいことは言わない。佳作コメディだ。

ヘラルド・ナランホ『MISS BALA/銃弾』(メキシコ、2011)は最初から見た。主演女優ステファニ・シグマンとプロデューサーのパブロ・クルスの挨拶も聞いた。

『ドラマ/メックス』で何年か前のラテンビート映画祭の監督賞をもらったナランホの作品。麻薬マフィアの犯罪に巻き込まれたミス・バハ・カリフォルニアの話。BALAは弾丸だが、MISS BAJA ( CALIFORNIA )との言葉遊びとなっている。ミス・バハを目指すラウラが、クラブで犯罪組織エストレージャの襲撃に遭い、そのボスのリノ(ノエ・エルナンデス)の顔を見たことから、逃げても逃げても捕まって、犯罪に荷担させられてしまうという話。組織はさらなる悪事のために背後から主宰者を操って彼女をミスに選ばせ、その地位を利用して重要人物殺害計画に出向く。

話の一番怖い点は、警察に助けを求めても、あるいは警察に逮捕されても、身の安全は保証されないということ。下っ端の警官は組織に買収されていたり、公式発表では銃撃戦で殺されたはずのリーダーが生きていることがほのめかされたりと、実に、スリラーである。

女優とプロデューサーとの質疑応答の時間には、質問というよりは感心した、そのことを伝えたい、とのコメントが相次いだ。その気持ちはわかる。それだけテーマの面でも作りの面でも優れた映画だったということだろう……でもなあ、せっかく来ているのだから、ゲストたちの話を聞こうよ、と思ったのであった。

2011年9月17日土曜日

かゆみ

とにかく、かゆいのだ。掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)というやつだ。手のひら(掌)と足の裏(蹠)に膿疱ができ、やがて皮がむけて、また膿疱ができ……というようにしてなかなか治らない皮膚病だ。ぼくの場合、足の裏は無事だけれども、手のひらがひどい。皮がむけてぼろぼろ落ちてくる。あまりにもひどいので、写真に撮った(しかも現時点ではその写真よりもひどい状態になつている)。それをここにアップしたくてしかたがないのだが、そんな醜いものを見せるのもいやだ。美しいものだけを見ていたいじゃないか。

でも、人にはそうしたグロテスクなものを明るみに出したいという気持もある。露悪趣味。露出狂。スカトロジー。ネクロフィリア、等々。それを発露したいけれども、不謹慎だと思ってしないでいる。でもしたい。こういう感情もかゆみに似ている。

そのかゆみを和らげてくれるのが、こうした趣味を文学作品にまで昇華させたもの。その種の文学作品であるカルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』の装丁色校が、さっき届いた。すばらしいできだ。いわゆる「ジャケ買い」してしまいそうだ。前に何かのときに書いたかもしれないが、この瞬間がぼくは何より好きだ。これも見せたいけど見せられない。別のかゆみを抱えてしまった。ああ!……

と喜んでばかりもいられない。今月末が締めきりですよ、と催促が来たのだ。不幸と幸福は一緒くたになってやって来る。ある文章。三本合計で130枚ばかりの原稿を、ぼくは書かなければならないことになっている。らしい。今月末までに。

かゆい。仕事のことを考えたらかゆくなってきた。やりたいけどやれない、むずむずとした感情なんだろうな。Mac Book Proを前にして感じるかゆみ。これも実存のめまいなのだ……?

2011年9月16日金曜日

民営化を巡る劇は日本にもあったっけか?

今日もラテンビート映画祭。イシアル・ボリャイン『雨さえも:ボリビアの熱い1日』(スペイン、フランス、メキシコ、2010)

特にアレハンドロ・ゴンサレス=イニャリトゥに感謝を、というクレジットがエンドロールに入っていた。どういうことだろう?

2000年4月にボリビアで起こった水戦争。つまり水道の民営化によって水が断たれてしまった先住民たちの抗議行動とそれへの軍による弾圧などの騒動を描いたもの。といってもそれを正面から扱うのではない。スペイン・メキシコのチームによる映画クルーがボリビアにコロンブスのアメリカ到着とバルトロメ・デ・ラス・カサスらの聖職者の活動を題材にした映画を撮るためにやって来る。ケチュアの先住民をタイノのそれと扮装させて、安上がりに撮ろうという腹づもりだ。エキストラに必要な先住民たちのオーディションから映画は始まる。

中にひとり反抗的だけれどもとてもいい目をした人物ダニエル(フワン・カルロス・アドゥビリ)がいて、プロデューサーのコスタ(ルイス・トサール)は渋るけれども、監督のセバスティアン(ガエル・ガルシア=ベルナル)は気に入って登用する。この彼が水の権利を求めての抗議行動でも中心に立つからややこしくなる。タイトルの『雨さえも』は雨さえも利権の対象として先住民の自由にさせないとの、ダニエルの抗議の言葉から取ったもの。

ゴヤ賞ではコロンブスを演じる俳優を演じたカラ・エレハルデが助演男優賞を獲ったとか。確かに彼がいい。読み合わせからすっかり役に入り込み、しかし、映画と現実とを混同してラス・カサス役の俳優(カルロス・サントス)に食ってかかったりする。撮影中の映画と現実が混同され、先住民たちの苦難の始まりの時代と、その結果としての現在の彼らの態度が平行関係を描く。巧みな脚本だ。

この現実とフィクションの混同を倍加しているのが、メーキングを撮っているドキュメンタリー作家マリア(カサンドラ・シアンゲロッティ〔チャンゲロッティ?〕)の存在。気になるところだ。名前のない女優役でナイワ・ニムリが出ていたらしいのだが、気づかなかったな。また、カサンドラ・シアンゲロッティはカルロス・ボラードの『トラテロルコ』(2010)という映画に出ているらしい。この映画、ぜひ見たい!

新自由主義経済政策の浸透による公共事業の民営化が引き起こす問題。『今夜、列車は走る』がアルゼンチンの国鉄の民営化を扱ったものだった。デイヴィッド・ヘアーは『パーマネント・ウェイ』というイギリス国鉄民営化の劇を書いている。こういう問題を扱ったもの、日本にもあったっけかな? 電電公社がNTTになったことによるドラマ、国鉄がJRになった悲劇、専売公社がJTになったサスペンス……?

明日は何だか人前で話さなきゃいけないのだけど、映画なんかみてて大丈夫か? そんなことより、掌蹠膿疱症による手のささくれとかゆみと痛みが激しく、仕事をする気にもなれない……ま、言い訳だ。ということになるのだろう。ぼくとしては切実なのだが。

2011年9月15日木曜日

津川雅彦はやはり長門裕之の弟なのだと実感

京都外語大の坂東省次さんのスペイン文化協会の出す雑誌 "acueducto" 6号をいただいた。立林良一さんやアンヘル・モンティージャさんなどが京都でのバルガス=リョサの活動のことなどを報告している。

今年も巡ってきたラテンビート映画祭。今日はオープニングの日で、黒木和雄『キューバの恋人』(日本・キューバ、1968)津川雅彦、ジュリー・プラセンシア他

次に上映されるアルモドバルの新作用に来ていたマリサ・パレーデスも登壇して挨拶。そのかっこよさにあてられた。すごい! 1946年生まれ。それがほっそりとした長身に、白いストッキングに包んだきれいな脚をこれ見よがしに出したミニ・ワンピースなんか着てきて、さすがこれこそ女優だ、という感じ。

さて、『キューバの恋人』。革命10年を記念して代々木系の黒木が撮った映画で、革命の勝利を前面に押し出すあまり、セリフなどは(異文化間コミュニケーションでもあることだし)いささか鼻白み、活気にかけるような気がするけれども、いろいろと唸らせるシーンや設定などがあって、面白く見た。グティエレス=アレア『低開発の記憶』との同時代性を強く感じる。船乗りで休暇をハバナで過ごす軽薄なアキラが、マルシアという女の子を追ってヒロン海岸、トリニダー、どこかの農村、サンティアーゴ・デ・クーバ、サンタ・クラーラと旅する物語。カストロやゲバラの演説の記録映像を取り込み、クライマックスにサンタ・クラーラでの革命10年祭の祝祭を持ってきて興味深い。

旅の途中の農村でのカストロの演説は、激しい雨の降りしきる中でなされたもので、実に面白い。しかも、めずらしく演説を始める前からの映像を挿入しているので、つい身を乗り出してしまう。

上映後に津川雅彦の話を聞いた。だいぶカストロにほだされたようだ。そのことを語っていた。

2011年9月12日月曜日

私は今のところ人類最高の学歴を誇る……?

昨日、やはり気になったことは、言葉に関するもの。ツイッター上である知人がある書き込みを引用していた。それが、ナントカという女性3人組のユニットのメンバーが、それぞれ中央・慶應・外語のドイツ語の出身だというもの。

そもそもそのユニットを知らなかったので、ネットで検索、映像なども見た。見なけりゃよかった。芸もなければ品もない、さりとて下品を極めるきざしもない、物珍しさだけで持ち上げられているらしい、見るに堪えない連中だった。1年後にはきっと誰も覚えていないだろうこんな人々のことを、だから、相手にしようというのではない。こんな人たちにかかずらわるほど、おじさん、暇ではないのよね。(と言ってるわりに3行も書いた)

問題は、この人たちのことをこの出身大学を引いて「高学歴」と表現していたことだ。ためしに検索したときに引っかかった、同じ情報についての他の反応(ブログ記事、他のツイッター記事)も「高学歴」だと驚いていた。

ある知人の学生が、この記事を引いて「問題は外語が『高学歴』と呼ぶに値するかどうかだ」などと書いていたことからみてもうかがい知れるのだが(こういう自虐的でゆがんだ自意識持つやつ、たまにいるのだよ)、この記事を流布させている人たちは「高学歴」の意味を、どうやら取り違えているらしいのだ。

大学全入時代だ。たいていの人が大学に入り、そして卒業する時代だ。もはや大学卒は、本来の意味での高学歴ではありえない。だからその空いた意味を流用してのことだろうが、どうやら人は「高学歴」を「成績優秀」、「難関大学の出身」というような意味で使っているらしい。東大卒は日大卒より高学歴(名前のスケールは日大の方が大きいのにね)、という考えかたなのか? 冗談じゃない。両者は学歴の点では同等だ。

やれやれ。これが単に学歴差がなくなりつつあることの結果だけならば目くじらたてることはないのかもしれない。「そんな誤法をするなんざ、君ら、学歴が低いな? 大学出やがれ」とでも言っていればいいのかもしれない。でも、ひょっとしたら、これも「成績優秀」(あくまでも受験段階での話だけど)という語を使わないための婉曲語法だったら、と危惧するのだ。

「成績優秀」、「頭いい」という語すらも使えない、その使用が避けられているのだとしたら? それくらい言ってやれよ、と思う。どうせ受験段階での話なのだから。どうせどこの大学を出ようとも大卒は大卒という同じ学歴なのだから。

怒鳴るな

鉢呂吉雄経済産業大臣が就任一週間ほどで辞めたそうだ。理由はいつもの失言問題らしい。が、その失言問題、今回は少しばかり様相が違っている。

最初は福島原発付近を「死の町」と表現して、メディアや野党、与党内野党政治家らに叩かれたらしい。ところが、原発の事故で人が住めなくなった町を「死の町」と表現するくらいは正しい言語表現だという擁護論がツイッター上などで形成されていった。すると次に出てきたのが記者団との私的なやりとりの最中に「放射能をつける」とかなんとか、それに類する表現をした、とのリーク情報。これで騒ぎが蒸し返された。そして失言の責任をとる形で辞任した。鉢呂吉雄は原発をゼロにすると明言したり、大臣就任後、資源エネルギー調査会のメンバーを入れ替えるように要請した人物だった。それで、このたびのバッシングは東電と結託したメディアおよび、官僚・政治家による陰謀説がだいぶ有力な説としてささやかれてもいる。

まったく、へそで茶を沸かすとはこのことだ。本当にやっていられない。絶望的な気分だ。

政局やらメディアと役人の陰謀やらのことは今は語らない。言いたいことはひとつ。人の住まなくなった町はゴーストタウンという。ゴーストタウンとは幽霊の町だ。つまり死者の町。死の町。こんな正統な語法を口に出したときに不謹慎だとの攻撃の糸口を与えているものは何なのか? これは問い続けていくべき問題ではないのか。その何かが、この国にはびこる数々の不要な婉曲語法や迂言をのさばらせているものだ。この不気味な力に対して死の国は死の国と言い続けなければならない。パンはパンであり、ワインはワインなのだ。

それにしても、鉢呂(鉢呂は鉢呂だ鉢呂元経産大臣などと言ってはいけない)の辞任会見は、Ustreamで見たのだが、何ごとかを考えさせた。例の「放射能」云々の発言内容に関してはよく覚えていないと主張する鉢呂に対し、激高して「説明しろ」とすごんだ記者がいた。その不可解な激高……というよりも恫喝口調に、他の記者がその彼をたしなめる始末だった。あの罵声に対しても怒鳴り返すことをせず、落ち着いて対処した鉢呂の態度には敬意を表していいと思う。

つい十数年前までTVのニュースショウには何がそこまでさせるのかはわからないけれども、怒鳴り散らしてすごみ、恫喝する政治家たちがときおり映し出されていた。あまつさえそんなやくざものが人気者に祭り上げられさえしたのだ。そんな悪夢のような光景を忘れられないでいるぼくにしてみれば、記者の恫喝に冷静に対処する政治家がいるということは、感動的な事実と思える。ぼくなら怒鳴り返しちゃう。

そういえば、今週末、怒鳴る人をもうひとりぼくは見た。玉木宏だ。いや玉木宏と佐々木蔵之介、西村和彦などだ。松本清張の『砂の器』の何度目かのTVドラマ化作品というのを、ぼんやりと見ていたのだ。

恥ずかしながらぼくは『砂の器』を読んだことがないし、過去のTVドラマ化や映画化(されたのか?)作品も見ていない。だから、実は今回はじめてその話の内容を知ることになったわけだし、原作や前作との差異などもわからない。けれども、犯罪の動機を野心の点から説明しようとするヴィジョンや、被害者の素性を辿るヒントとしての方言(これの変種が『人間の証明』におけるニューヨークの英語のバリエーションというもの)という道具立てなど、ある種の警察小説の型が、ここで作られたのかな、などと思いながら見ていた。

クライマックスは刑事(玉木)と犯人(佐々木)の心理戦だった。物的証拠と状況証拠を半々で積み上げていって、自白を得ようとする刑事と、その手にはかかるまいと耐える犯人。戦災孤児、生き別れになった父、捏造された戸籍……こうしたものを前にしての心理戦で、ついつい声が荒げられ、2人は怒鳴り合う。

そういえば、やはり、うんざりするほど大量生産された刑事物のTVドラマなどでは、やたらと刑事たちは怒鳴っていた。この怒鳴り声による取り調べというトピックも、松本清張原作ドラマが作り出したものなのだろうか? でもなあ、単なる恫喝ではなく、こうした息詰まる心理戦のあげくの激高だから、怒鳴り声も受け入れられるのだ。恫喝にしか響かない怒鳴りながらの取り調べは、やはりついて行けないのだよ。やってはならないことなのだ。

公共の場で怒鳴る者を信じてはいけない。称賛してもいけない。怒鳴る者は単にやましさを抱えている者だ。怒鳴るときはついに犯罪が吐露されるときなのだ。

2011年9月8日木曜日

MVLl滞日の記録は、集英社が抑えた

マリオ・バルガス=リョサの日本での講演の記録が、集英社の2冊の雑誌に載っている。今月は集英社はバルガス=リョサの月だ。

1冊は季刊なので、「今月」というのは当たらないかもしれない。季刊『kotoba』2011年秋号(コトバ第5号)には「ノーベル文学賞作家が語る 言葉のリアリズム」(訳・解説 立林良一)(160-165)として、京都外語大での講演の記録が載っている。京都の会はぼくは聞けなかったので、まずはこちら。

 英語と同じことがスペイン語でも起きています。英語にも互いに大きく異なる変種が存在しますが、文学作品の大部分は、その共通性の基盤の上に成り立っています。そのように書くことはスペイン語作家にとって、文学的というよりは道徳的義務と言ってよいと思います。(165)

というのが、いわば結論で、そのために、ガルシア=マルケスから始まり、ボルヘスやルルフォ、そして自分の例を出しながら、さまざまな変種を超えて、世界中のスペイン語話者が読むことができるような言語を編み出すことの重要性を説いている。

自分自身の例として『緑の家』におけるピウラとアマゾン川支流密林地帯の言語的対立や、『世界終末戦争』のカヌードスの反乱農民と共和主義者たちの言語的対立(しかもポルトガル語だ!)を、世界中のスペイン語話者の理解可能なしかたでいかに表すか、それが問題だったのだと。

そういえば『緑の家』では、アマゾンから連れてこられたボニファシアという女性に対して、彼女を連れてきたリトゥーマの仲間たちが、ピウラの、その中でも1街区であるマンガチェリーアの言語と彼女の言語がいかに違うかを説いて聞かせるシーンがある。たとえばろばをどう表現するか、その差異が浮き彫りになる(木村榮一は「ろば」と「馬っこ」と訳していたように記憶する)。続いて言語の対立(多様性)を都会と田舎の生活様式の差に帰結させてボニファシアを都会に馴染ませようとするリトゥーマと、土地柄の差異だけに回収してリトゥーマのしかける支配を逃れようとするボニファシアの対立が生まれ、そこからピウラでの章のストーリーの重要な転換点が記される章だ。多様な地方語をリーダブルな普遍語に書き換えることは、かくも緊張に満ちたものになるのだという例といえるだろうか。

文芸誌『すばる』10月号には「文学への情熱ともうひとつの現実の想像」(150-165)と題して訳・解説 野谷文昭で、東大での講演録が掲載されている。これについては、ぼく自身も書いた……んだっけ? お忍びで行ったから口をつぐんだのだっけか? 人類学者フワン・コマスに同行した密林への旅、『緑の家』が誕生したことで名高いその旅から生まれたもうひとつの傑作、『密林の語り部』(岩波文庫から近々、復刊)の誕生について話した講演だ。

2011年9月7日水曜日

届いた!

で、ともかく、iPhoneが欲しいと思っていたわけだ。

今、話が煩雑になるので、iPadのことは除外する。iPod Touchは持っている。これのアプリはほぼiPhoneと同一だ。優れものが多い。『西和中辞典』とか『リーダーズ英和辞典』とか。これらは重宝している。電話と別にiPod Touchを持ち歩いているのだが、それをするくらいなら、いっそのこと、iPhoneにすればいいのでは、と思い続けていた。

一方で、iPhoneは日本ではソフトバンクのみの専売で、ソフトバンクだと、さすがに、ぼくのような田舎の出は、実家で使えなかったりする。それが剣呑だった。

そこへもってきてNTTがロック解除したSIMカードを発売するようになった。つまり、SIMロック解除されたiPhone(日本以外の国では売っているところも多い)にこれをさしこめば、NTTdocomoの回線でiPhoneが使える。

なるほど! これにすればいいんだ。ネットなどで調べたところによると、SIMフリーのiPhoneはデザリングといって、これを通じてPCもネット接続できる機能もあるらしい(ソフトバンク版はない)。つまり、Wi-Fiルータも、これでいらなくなるのだ。iPod Touchとルータのふたつをリストラできる。使用料やらバッグの重量やら体積やらが、これで少し楽になる。

で、ニューヨーク出張のついでに買ってきました……などと言えば、格好良いのか? 残念ながら、ニューヨークやら香港やらに出張の予定はない。これを買うためだけに交通費を使うのもばからしい。しかたがない、いろいろ探して、いちばん信頼が置けそうな業者を通じて、SIMフリーのiPhoneを海外から取り寄せた。

それが今日届き、使い始めたという次第。この小さい写真で見えるだろうか? 回線がNTTとなっているのだが……

2011年9月6日火曜日

はっとする午後1時

ロマン・ポランスキー『ゴーストライター』(フランス、ドイツ、イギリス、2010)

ポランスキーの映画にはたいてい原作がある。『ローズマリーのあかちゃん』も『テス』も『死と処女』も『戦場のピアニスト』も……『チャイナタウン』は違うのか? 実際、『テス』あたりからポランスキーをそれとして認識した人間としては、原作を読まずに観るのもどうかと思ったのだけど、原作のロバート・ハリスをぼくは『羊たちの沈黙』のトマス・ハリスと勘違いして、あれの原作は映画への色目が目に余るものがあってだめだったとの意識がよみがえってきて、まあ今回は映画だけでいいや、と思った次第。もちろん、ロバートとトマスは別人だ。

元イギリス首相アダム・ラング(ピアース・ブロスナン)の回顧録を書くことになったゴーストライター(ユアン・マグレガー)が、USAマサチューセッツ州の島マーサズ・ヴィンヤード(ただし、ポランスキーは合衆国には入国できないので、他の場所でロケ)の別荘にこもることになる。前任者は首相の右腕だったのだが、不審な事故死をしたというこの仕事、引き受けた瞬間から、主人公は荷物を奪われ、ラングにはスキャンダルが巻き起こり、その妻ルース(オリヴィア・ウィリアムズ)は夫と秘書アメリア(キム・キャトラル)との関係を疑っているわで、不穏な空気たっぷりだ。

巻き起こったスキャンダルというのは、おそらく、実際にあった、無実の英国籍のパキスタン系の青年たちが9・11以後のテロ警戒網にひっかかって捕まり、拷問を受けたという事件にヒントを得たものが発端。実際の事件で拷問が行われた場所がキューバのグワンタナモ基地。『グアンタナモ、僕達が見た真実』という映画にもなっているし、関連の書籍などもある。だが、この映画では、特にそれが大きな問題ではない。ともかく、この問題に端を発して、ラングがCIAの工作員に操られ、その意向を受け、繰り出すことごとくの政策をCIA、つまり合衆国追随型のものにし、それによって不当な戦争を起こした罪があるのではないかと、国際司法裁判所に告訴されるという話。主人公は、前任者がラングとCIAの癒着の証拠を握っていたのではないかと思い至り、発見したいくつかの証拠をたぐって真相を探ろうとする、という話。

名人技と言っていい語り口で、前半の実に雰囲気のある語り口と後半のスピーディーな展開を同居させ、飽きさせない。うまいな、と思う。さすがはポランスキーだ。この映画を何よりも面白くしているのはピアース・ブロスナン。かりにも元ジェームス・ボンドなのに、今回はスパイに操られて傀儡に成り下がってもしかたがないかと思わせる政治音痴な馬鹿なオヤジぶりを発揮してすばらしい。はじめて主人公と出会うのは、専用ジェットでマサチューセッツの空港に降り立ったときなのだが、そのとき、いかにも外遊先についた国家元首といった風情であたりを睥睨して手を振ろうとして我に返ってやめる、その仕草が、滑稽ですばらしい。この仕草は、わずかに違うしかたで、後半のクライマックスにもう一度繰り返されるのだが、こうした作りが心憎いのだ。

映画が始まる前に見たスチール写真の1枚に、ベッドに入ってこちらを見つめるオリヴィア・ウィリアムズを写したものがある。一目見たとき、ぼくはこの女性がシャーロット・ランプリングかと思ってはっとした。ランプリングにしてはとても若かったので、思い直した。

ぼくはシャーロット・ランプリングを見ると、はっとしないではいられないのだ。

2011年9月4日日曜日

書誌……ではない、何情報というのだ?

昨日NHK-BSで『コットンクラブ』をやっていたものだから、ついつい見てしまったのだが、キャブ・キャロウェイの「ミニー・ザ・ムーチャー」が歌われるシーンで『ブルース・ブラザーズ』を思い出した。まあそれは当然の成り行き。

が、昨日は加えて別のものへと思念が飛んだ。

レゲエ・フィルハーモニック・オーケストラ『レゲエ・フィルハーモニック・オーケストラ』(Island Record、1988)

これの一曲目が「ミニー・ザ・ムーチャー」だった。聴きたくなってCDを探したが、昨日は見つからなかった。Amazonで調べたら中古品がたくさんあったのだが、そんなことより、その情報が気になった1992年リリースとなっていたのだ。

おかしい。ぼくは1991年にメキシコに留学に行く際に、いろいろと迷ったあげく、これをジャンゴ・ラインハルト&ステファン・グラッペッリSouvenirsらとともに持っていったのだから。ウォークマンで聴くために、これらをダビングしたテープを、ということだ。

どういうことだろう? と思っていたら、何のことはない、今日、本格的に探してみたら出てきたそのCDは1988年だった。

でもなぜAmazonの情報では92年になっていたのだろう? 版の違いかな? レコード……CDも「版」というのかな、初版、第2版、等々と? 

ミカエル・ライリー(マイケル・ライリーでもテリー・ライリーでもない。ウエストミンスター大学の先生などもしているらしい)がストリングスなどを募って編成したアンサンブルで、この後、2枚くらいはアルバムを出しているみたいだ。それらは聴いたことないけれども、ともかく、ずいぶんと久しぶりにこのアルバムを聴いたという次第。

2011年9月2日金曜日

暗闇にすすり泣く声

『ベルナルダ・アルバの家』はぼくが読んだ最初のガルシア=ロルカの戯曲だ……と書いて思い出した! 2番目だった。でも、少なくとも一部、原文と対照した最初の戯曲だ。大学1年のときの教科書に、最後の部分が載っていたのだ。

フェデリコ・ガルシア=ロルカ『ベルナルダ・アルバの家』長谷トオル演出、神田晋一郎音楽、ウンプテンプカンパニー@シアターχ。

スペイン的対面感情とキリスト教的純潔概念、それに抑圧的な母が支配する女だけの家(父親が死んだばかり)の中で、その母と使用人ふたりに娘五人が繰り広げる葛藤の心理劇だ。『血の婚礼』のように悲劇のクライマックスで詩を多用するわけではないし、音楽的素材もふんだんなものではないけれども、いくつか出てくる歌や効果音をモチーフとした音楽(第8回公演『血の婚礼』のときと同様、神田晋一郎の)をつけ、生演奏でシンクロさせた音楽劇。

ストーリーはいたって簡単だ。五人の娘のうち、種違いの長女アングスティアス(中川安奈)がペペ・エル・ロマーノという男(一度も舞台には登場しない)と婚約するのだが、次女のマグダレーナ(こいけけいこ)はアングスティアスに嫉妬して快く思っていないし、四女のマルティリオ(森勢ちひろ)はペペに横恋慕、そしてペペは現実には末娘アデーラ(薬師寺尚子)に恋しているようで……そういった人間関係がカタストロフを招く、というもの。

ベルナルダが娘たちの上にしかける専政以外に、アングスティアス×マグダレーナ、マルティリオ×アデーラ、アデーラ×アングスティアスという娘たちの間の対立軸があって、それも劇の駆動力となる。今回出色はベルナルダ役の新井純(『血の婚礼』では母親役をやっていた)で、鬼気迫る演技であったけれども、それに負けずにこの娘たちの対立が表現されていたので、つまりは娘たちもたいしたものなのだと思う。

娘たちの対立を際立たせるのに役立てようとの演出なのだろう。4人の性格づけのために、たとえばマルティリオの背中に瘤を作り(原作にそうした指摘はなかったように思うが……調べておこう)、マグダレーナをとても背の高い女性に演じさせたりしている。こいけけいこはプロフィールによれば182cm。比較的長身の中川安奈よりもなお頭半分高く、水際立っていた。それが実によかった。

舞台は壁をあらわす紗の布が三方にかかっているという作り。ひとつ屋根の下で2人の女が同時にひとりの男と関係を持つという話だ。家には壁がいくつもあり、部屋があるのだから、見えないといえば見えないけれども、やがてはばれる。その見えそうで見えない緊張状態をうまく表象した作りだと思う。最終幕でその布に浮かび上がった模様が、怪しげで何ともよい。

ベルナルダのセリフで劇が終わり、照明が落ち、音楽が鐘の音をモチーフとしたテーマの最後のバリエーションを弾いている間、最後のシーンで泣いていた4人の娘たちのうちの誰かがまだすすり泣く声が聞こえた。つまり、役者のうち少なくともひとりは本当に泣いていたということ。そんな細部が、劇場で観ることの楽しみのひとつ。

『血の婚礼』の舞台がDVDになって、2000円で売られていた。買った。

2011年9月1日木曜日

先取り

もう紀伊國屋BookWebにもAmazonにも予告が出て、予約可能になっていた。

カルロス・バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』の翻訳。

昨年の12月には脱稿していたやつだ。シリーズ内での順番などもあり、10ヶ月後に出版と相成る。現在、再校校正中。一方で、その10ヶ月の間に、次の原稿も残すところ50ページ弱だ。まだ邦題すらも決まらない、次なる傑作。昨日もげらげら笑いながら訳していた。

一方、睡眠の調節はうまくいかず、またいつもの夏休みのように昼夜が逆転したり、それをどうにか取り戻そうと徹夜したり……

やれやれ。脂漏性皮膚炎で頭皮がかゆく、かつ、あるいはそれ以外のものなのか、手がかゆく、おかげで神経が逆立って眠れなかったりしているのだ。

明日は台風の最中、両国に劇を観に行く……はず。