2017年10月15日日曜日

今年のラテンビートは1作品しか見られなかった。

いや、表題以前に、10月は半ばの今日になるまでブログを更新せずにいた! 

日本イスパニヤ学会63回大会に出た。

授業が始まってオロオロした。

そして、今年唯一のラテンビート映画祭:

ルクレシア・マルテル『サマ』(アルゼンチン他、2017)


一度では分かりきれなかったところもあるが、植民地の閉鎖的スペイン人社会に流れるなかなかに不穏な雰囲気を作り出して、いかにもマルテルらしいと思えた前半だったのが、ディエゴ・デ・サマ(ダニエル・ヒメネス=カチョ)が悪党のビクーニャ・ダ・ポルト征伐に出かけてからの後半の展開は目を見張る。前半は音声の取り扱いにハッとさせられ、後半はBGM(「アマポーラ」と "Te quiero dijiste" ! )にハッとさせられる。

2017年9月26日火曜日

狼狽える9月末

9月22日には非常勤先の大学のひとつが開講し、23日(土)も立教のラテンアメリカ研究所の講座が始まった。が、その日は授業を終えると京都に飛んだ。

恒例のハンバーグラボ参り……

ではない。世界文学・語圏横断ネットワークの研究会だ。今回は会場が同志社大学。

美しいキャンパスなのだ。比較的新しい良心館が会場(写真は異なる校舎。彰栄館、かな?)。

二日目の25日(月)午前中のパネルは「文学首都とその分身」。僕が司会を務めた。東大の駒場の学生たちのパネルだ。パスカル・カザノヴァ『世界文学空間』の提示する「文学首都」とその「分身」の概念を出発点にアルジェやニューヨーク、サイバー空間という「分身」または「文学場」などの立ち上がる様子を追った研究発表。

その日、最後の発表は聞くことができず、というのも、取って返した今度は東京へ。

『チリ夜想曲』出版記念兼ボラーニョ・コレクション完結記念トークショー(野谷文昭対小野正嗣)を聞きに。

終わって久野量一さんや斎藤文子さんも交え、コレクションの訳者揃い踏みで写真を撮ったが、きっと、やがて白水社のツイッターに掲載されると思う(いや、もう掲載された)

そして今日、否応なしに東大の授業が始まった。


ああ!……

2017年9月21日木曜日

メキシコを痛む

留学生たちと食事して飲んで、ぐっすり寝ている間にメキシコでは大地震があったようだ。M 7.1。今朝の『朝日』朝刊の時点で死者が225人。数日前のオアハカ、チアパスと違い、今回は首都も直撃した。奇しくも1985年の大地震と同じ9月19日のことだった。

レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』では85年の地震のことが扱われている。邦訳のメキシコの地名や人名は惨憺たるもので、スペイン語(世界)など、すぐそこにあるのに、その程度の調べ物もしないのはいかがなものかと、ほとほといやになったけれども、その表記の問題は今は措いておこう。『災害ユートピア』ではメキシコのことが扱われている。

ノノアルコ=トラテロルコ住宅、つまりトラテロルコの三文化広場を取り囲む高層アパート群の一棟がまるごとひしゃげたこと、治安が乱れるのを恐れて投入された警官隊や軍が逆に略奪に走ったこと、一般の人々は文字どおりの「地獄に立ち上げられた楽園」(これが原題の直訳)を実現してみせたことが紹介される。とりわけスラム街テピートの住民たちの自衛は特筆に値する、と。

メキシコ当局はこれを機にテピートから低所得者層を追い出し、再開発しようと考え、地上げまがいの工作をした。住民たちの組合は地震の前からNPO組織と共同で自分たちの住む長屋のような共同住宅(vecindad)の改修を考えていた。住民を追い出した上での地上げによる再開発ではなく、住民たちに益する下からの再開発が実現した。

地震に乗じて政府が住民を追い出し再開発でもしようものなら、それはたとえばナオミ・クラインの『ショックドクトリン』(惨事便乗型資本主義)というものだろう。僕らは3.11においてこのショックドクトリンを経験し、独裁者を許してしまうことになるのだが、メキシコはそれを阻んだのだ。

85年を思い出し、祈るしかない。

95年の神戸を経験した安藤哲行はその経験をホセ・エミリオ・パチェーコの85年についての詩とともに思い出している(『現代ラテンアメリカ文学併走』)。安藤はパチェーコの詩で95年を乗りこえたのだ。

85年のメキシコは僕らの心の支えともなったのだ。

きっとメキシコはそのように惨事を乗り越える。そう思うことにしよう。

写真は青山南『60歳からの外国語修行――メキシコに学ぶ』(岩波新書、2017)

青山さんは60になってから早稲田から研究休暇をもらい、グワダラハラ大学でスペイン語を学んだ。その後、オアハカにも行った。その時のメキシコの学習体験記。


メキシコから僕らは学ぶことだってできる。

2017年9月20日水曜日

青木ヶ原の樹海の入り口には看板が立っている

留学生見学ツアーというのに行ってきた。僕は東大では留学生ではない。教師だ。だから引率教員立場で行ってきた。

まずは忍野八海。

池の水面に人の姿が映って、モネの絵のようだ。

そして鳴沢氷穴。

鳴沢氷穴は青木ヶ原の樹海の端にある洞窟で、かつて天然の冷蔵庫として使われた冷たい場所。

幻想的な地底の風景だ。

そして少し裏に回ったら、こんな看板が立っていた。


今日は山梨県立美術館と文学観を訪ね、その後、昇仙峡を歩いた。2010年に外語のオリエンテーション旅行で来たことがあった。少し記憶と異なっているような気もしたが、写真を見比べてみたら間違いなく同じ道を歩いていた。

2017年9月11日月曜日

París, París, por fin París...

エンリーケ・ビラ=マタス『パリに終わりはこない』木村榮一訳(河出書房新社、2017)

の書評を書いたのだが、それはあくまでも短い文章。以前もそんなことがあったが、書き足りないという思いがあり、書評には書けなかったことをここで何カ所か紹介したく。

『パリに終わりはこない』París no se acaba nunca (2003) は、かつて、2009年、外語の学生たちと読んだ作品だが、今回、その時の学生(現在は勤め人)が翻訳を買い、読んだら、あっという間に授業で読んだ箇所を通り過ぎてしまったと泣き笑いしていた。

ビラ=マタスが最初の長編『教養ある女暗殺者』を書いていたころのパリの思い出を、三日間連続の講演会で話すという体裁の小説。「私は講演、それとも小説だろうか?」

下敷きにはヘミングウェイによるパリの回想録『移動祝祭日』があるのだが、この写真に映っている章ではスコットという名のろくでもないオドラデクを登場させてヘミングウェイとフィッツジェラルドの後日譚を空想するという章。(オドラデクは『ポータブル文学小史』にも登場させている)。こんな調子だ。

書評のために取ったメモから:『われらの時代』に所収の「雨の中の猫」を講演で読み上げ、「私」はこれがよくわからないと白状する。しかし、ガルシア=マルケスはこれを「世界で最もすぐれた短篇」と呼んだと。そして聴衆に解釈を求めるのだ。そうして出てきた解釈が以下のとおり。

①……この短篇は白い象が出てくる別の短篇を思い起こさせる。実を言うと、女性は妊娠していて、ひそかに子供をおろしたいと思っている。それがこの短篇の秘められた物語である。②……この短篇は若い女性の性的欲求不満を描いている。そのせいで猫がほしいと言っているのである。③……実を言うと、この短篇は戦争が終わったばかりで、北アメリカの援助を必要としているイタリアの悲惨な状況を描いたものである。④……この物語は性交後の倦怠感を描いている。⑤……新妻は、夫の同性愛的な要望に応えるためにボーイッシュな髪にしているが、そのことに嫌気がさしている。⑥……新妻はホテルの支配人に恋をしている。⑦……男は本を読みながら、同時に妻の話に耳を傾けることはできないと言わんとしている。これは穴居時代に端を発するもので、男たちは狩猟に出かけ、女たちは洞窟に残って食事の用意をする。男たちは沈黙の中で思索することを学び、女たちは気がかりなことを口に出してしゃべり、さまざまな感情に基づいて関係を築き上げていく。(24-25ページ)

この解釈を、僕は感心して読んだものだ。確かに、「雨の中の猫」は、新婚の妻がホテルの窓から見える広場で雨に濡れている猫を拾いに行くのだが、広場に出てみるといなくなっている、そしてやがてボーイがその猫を抱いて「支配人からのプレゼント」と言って持ってくる、というだけの話だ。「氷山の理論」(「もっとも重要なことは語られない」223ページ)よろしく語られないことがたくさんあるのだろう。それが何なのかを予想するのが解釈の楽しみだが、なるほど、様々な解釈があるものだ、と感心させられる。⑤などは思いもよらなかった。

ヘミングウェイが双極性障害だったとはよく言われる話。彼のサディスト的傾向についてはレオナルド・パドゥーラが『アディオス、ヘミングウェイ』の題材にしている。そして今、ここでは(別に作家その人のと考える必要はないが)同性愛の傾向の可能性が示唆されているというわけだ。シェイクスビアとその秘めたる性向。なんだか興味深い。


ところで、『パリに終わりはこない』はビラ=マタスの別のある小説を読みたくさせる小説だ。でも「もっとも重要なこと」はここでも語らないでおこう。

2017年9月10日日曜日

ペコロスが会いに来た

タコス熱に浮かされたのは、僕の好きなタコス・アル・パストールのレシピをネット上で見つけたからだ。

ある時、今度はアマゾンでトルティーヤプレスを見つけた。欲しい、などとFacebookで呟いたら、友人があることのお祝いにプレゼントしてくれた。(プレスをいただく直前までの様子は、この記事〔リンク〕。この後、具と市販のトルティーヤでタコス・パーティをした際にいただいたのだ)

困った困った。いただいた以上は使わなきゃいけない。かくして僕のタコス生活が始まった。

昨日は、そんなわけで、教え子を招いてのタコス・パーティだったのだ。

こうしてトルティーヤとサルサを作り、

こうしてアル・パストールの下準備をし、

トルティーヤの一部は揚げてチップスにして、ワカモーレを作った。

でもスワデーロ(tacos de suadero)も準備したいと思った。牛肉を焼き、ライム(またはオレンジ)を絞り、その皮も搾り汁の中に入れ、水を足して水気がなくなるまで焼く。それを刻んでトルティーヤに乗せ、みじん切りのタマネギとコリアンダー、サルサをかけ、ライムを搾って食べる。

が、このスワデーロにはなくてもいいけどどうしても付け合わせたいものがあった。

Cebollitaである。小さなタマネギcebollaだ。日本ではペコロスとして知られる。残念ながらこのペコロス、そんなに頻繁には見られない。

たまたま参加者のひとりが高島屋で見つけてきてくれて、今回は手に入れることができた。本当は茎つきがいいのだけど、まあいいや。

これを牛肉と一緒に焼き、スワデーロのタコスを準備。味つけというか、ダシとりに使うのだが、このペコロスにそもそも味が染みこむので、つけ合わせとして食べると、最高だ。

こんな感じ。


おいしくいただきました。(下の写真は (c)蓑毛はるか)

2017年9月4日月曜日

英語、始めました……? 

今日届いた本:

右から順に、まずは献本2冊。

コリン・バレット『ヤングスキンズ』田栗美奈子、下林悠治訳(作品社)
(寡聞にして知らなかった作家だ。読みます)

J.M.G.ル・クレジオ『心は燃える』中地義和訳(作品社)
(中にスペイン語やガリシア語の表記、というか文章や単語が少し出てきて、確認を頼まれたので、中地さんからいただいたのだ)

そして左端は:

鈴木長十、伊藤和雄共編『新・基本英文700選』(駿台文庫、2002)

いわゆる駿台の『700選』だ。

説明しよう:

ちょっと前にFacebook上で管啓次郎さんが、どうすれば英語ができるようになるかという質問に答える形で、何らかの文章をカードに書き写し、それを覚えるようにすることだと書いていた。そして、たぶん、ご自身の教え子向けに、毎日のように数行の英文(その後、それに仏文が加わった)の引用を掲載するようになった。

管さんの意見には大いに賛成。もっとも、彼がそうして挙げてくださる英文や仏文を書き写して覚えることはしていないのだが……

で、ふと思い出したのだ、俺の『700選』はどこに行ったのだ? と。そして、なくなっていることに気づいた。

高校時代の参考書などのうち、世界史の図録や資料集と政経の参考書、それに国語便覧などを手許に置いている。その手許に置く参考書のひとつに『700選』があったはずなのに、いつ間にかなくしてしまっていたのだ。

僕たちの高校では英語教師が独自に英文の『600選』というのを作っていた。それを僕たちに覚えさせていた。これはとても役に立ったと思っている。これはもちろん、『700選』の模倣というか、それをモデルにしたローカル版だ。本家・駿台より100文少ないところがわが校の志の足りないところというべきだろうか? ともかく、『700選』という本家があることを知り、それを手に入れて、これも大いに参考にしていた。僕が高校時代に憶えている学習と言えば、これとZ会の通信添削くらいだ。

で、高校を出てからも、大学に入ってからも、大学院に入ってからも常に手許に……本棚に置いていた。国語便覧や世界史資料集とともに。世界史の資料集などは数年に一度新版を買うから、常にそこにあることがわかるのだが、問題は買い換えずに高校時代からずっと同じもののまま置いていた『700選』だ。これをいつの間にか捨ててしまっていたらしいのだ。まあ、だいたい開くこともなくなっていたし……

で、管さんの試みに触れたとき、この本のことを思い出し、なくなっていることを確認し、でもそのままにしておいた。

2、3日前にアマゾンである本を注文しようとしたとき、ふと、この『700選』のことを思い出し、検索してみたら、あった。だから注文した。それが届いたという次第。

『新・……」なので、僕が持っていたものとは少し違うはず。少なくともCD2枚つきではある。当時はCDなんかついていなかった。

そして今、CDは特に必要ないかな、と思う。

……いや、待てよ。これを話題の(?)「スピードラーニング」のように聞き流しにしたりすれば、僕もいつか、無意識に英語が口をついて出てくる日が来るかな? 

えへへ……

聞いてみた。何も考えずに聞き流したり、こうして文章を書きながら聞いたりすると意味がすぐに立ち上がらない文章がたまに紛れ込む。

テクストを見れば、覚えた記憶(記憶した記憶!)のない文章も散見される。ボルヘスの言うように、学びの最終段階は忘れることにあるから、これらの文章を文字どおりに記憶している必要はないし、大半は、今さらおぼえるまでもないような文章だが、確かに、自分で発話する際にものにしていない構文や表現を含む例文も多々あって、今さらながら勉強不足を痛感する。索引つきなので句動詞やイディオムの検索にも使える。

さ、英語を勉強するぞ、と……

ところで、こんな感じのものがスペイン語やフランス語、イタリア語などであるといいと思うのだが、ざっと見たところ、フランス語やイタリア語にはないようだ(かつて、フランス語のもので、何か学習に使っていたような記憶があるのだが、手許にないし、アマゾンで検索する限りでは、ない)。スペイン語ではあるにはあるが、古いもののようだ(やはり瓜谷良平の『スペイン語基本文2000』だかを使っていたような気もするのだが、同じく手許になく、確認できない)。ポルトガル語には『ポルトガル語重要基本構文275』というのがある。これは275の熟語表現と、それを使った800ばかりの文章の本のようだ。ちょっと取り寄せてみようか? 

で、スベイン語教師たちに言いたい。こんな感じの参考書、作らないか? 『基本スペイン文○○百選』。買うんだけどな。教育目的で。


そして、他の言語もいかが? フランス語やイタリア語、買うんだけどな。勉強のために。

2017年9月2日土曜日

自らアイロンをかける日々

わが家には、話せば長くなるし泣いちゃうので細かく言いたくはない理由から、自分で買ったおぼえもないのに存在するものというのがある。

同じ理由から、はっきりと買ったことを記憶しているのに、なくなってしまったものというのもある。

後者の代表はバーミックス。そして幾冊かの本(『ウディ・アレン・バイオグラフィー』など)。

前者の代表が、アイロン。

スチーム・アイロンがいつの間にかわが家にあったのだ。僕は独り暮らしを始めてから、ずっとハンディ・アイロンを持っていて、それを使っていたのだが、ある時から、スチーム・アイロンを持っていた。しかし、残念なことに、スチーム機能がイカレているアイロンだ。スチーム・アイロン、スチーム抜き。仕方がないからスチーム機能はないものとして使っていた。

いろいろな方の話をうかがうに、スチーム・アイロンなどよりは普通のアイロンに自分で霧吹きで水を拭きかけた方が良いとの意見もある。

なるほど。

わが家には、上と同じ理由から、なぜか使いさしのファブリーズなどもある。僕は使ったことないのに。ともかく、それで霧を吹き、普通のアイロンとして使うようになった。

なかなかいい。

なかなかいいと思ったら、スチーム抜きのスチーム・アイロンという存在が間抜けに思えてきた。それで、こんなの

を見つけて、手に入れた。今やアイロンはスチームつきが一般的なので、スチームなしのアイロンは実に安いのだ。3,980円だかなんだか、そんな値段だった。

で、今日届いたのはいいのだが、残念! 今日は洗濯をしていないのだ。だいたい2日に一度のペースで洗濯するのだが、今日はその谷間の日。明日まで我慢。

でも、ところで、以前、スーツ用にあつらえたのだけど染みができてしまったので、クリーニングに出すのをやめて洗いざらしでハンガーに吊したままのシャツがあるのだった。それで、試しがけ。

ふむ。きれいな仕上がりである。このシャツもまた着たくなったぞ。

コードが短いのが玉に瑕だが、なに、短ければ延長すればいい。あるいはコンセントに近い場所で使えばいいのだ。


明日が楽しみ♡

2017年9月1日金曜日

9月も映画に始まる


を観るのはかれこれ3度目だ。


そして関係者試写会(リンク)についで、今回、プレス試写会にも呼んでいただいたので、観られるものなら何度でも、てなわけで観てきた。

もちろん、メキシコで観たときと同じ内容だ。だから内容については上のリンクを参照のこと。

同じ映画を何度も観ると、同じ本を何度も読んだ時と同様、観るたびに新たな発見があったり、新たな感慨を抱いたりする。今日は、たとえば、ネルーダが逃避行に出る直前に、滞在先の家の庭で、まるで男らしさか何かを顕示するかのようにピストルを撃つシーンがあるのだが、それを窓越しに眺める妻の存在に、僕はなんとはなしにビクトル・エリセの『エル・スール』を思い出したりもした。ところが、これまでまったく気づかなかったのだが、この射撃訓練は迫り来る追っ手に対処するためのものだとの台詞があったのだった。

そうだったのか……


帰りにABC六本木店を冷やかしてから戻った。戻ったら仕事関連でちょっとした問題が持ち上がっていた。


9月だ。

2017年8月30日水曜日

書きこみの季節

最近(年度初頭から)、こういうものを持ち歩いている。

先日、『エルネスト』の試写会で斜め前に座った方おふたりが試写の始まる直前まで本を読んでいた。そのうちひとりは鉛筆を片手に読んでいた。

すっかり老眼になってからだろうか? (ちなみに、最初に目の衰えを感じたのは40にならないころだ。トホホ、なのだ)ちょっと隙間時間ができると本を開くということが徐々に少なくなってきた。同時に、たとえば電車で読書に集中できなくなってきた。

しかし、果たして僕はその昔、読書に集中などしていたのだろうか? 

まあいい。そんなわけで、『エルネスト』試写会での斜め前のお二方のような振る舞いをすることは今は少なくなった。

それでも、締め切りや予習に追われているときには寸暇を惜しんで本を開く。開かざるを得なくなる。

ところで、本に書きこみをする人としない人がいる。僕は気紛れなので書きこみしたりしなかったりだ。しかも、人生の時期によって書きこみの時期と書きこみしない時期とがあるようだ。ある一時期読んだ本には書きこみがあり、その他の時期に読んだ本はまっさらだったり、ただ付箋が貼ってあるだけだったりする。

最近は、比較的書きこみをするほうだ。近々、同僚がこんな本(リンク)を出すみたいだし、今は書きこみをする時期のようだ。書きこみには早く読むためにする書きこみとゆっくり読むためにする書きこみがあるが、いずれにしろ、集中力を持続するためのひとつの方策だ。最近は集中力不足なので、書きこみすることが多い。

書きこみするためには鉛筆が必要だ。鉛筆はペンケースから取り出せばいいのだろうが、それも面倒だ。本当は読んでいる本に鉛筆を挿して持ち歩きたいものだ。でもそうすると、本がその必要もないのに傷ついたりする。僕は本をぞんざいに扱う方ではあるが、だからといって意図的にボロボロにするのは僕の好みではない。

そこで、冒頭の写真のような器具を見つけ、使っているのだ。こんな風に(下)本やノートに挿して歩く。後ろの翼がマグネットになっていて、本体を吸い付ける。ピッタリとはまる。


こうして鉛筆片手の電車内や出先での読書が始まる。