2017年4月21日金曜日

戦後を待ちわびて

「戦後文学が読みたいぞ」という文章を書いた直後に新聞で北村総一朗がお膝元・昴で新藤兼人の『ふくろう』(2003)を脚色して舞台にかけているという記事(北村のインタヴュー)を読んだものだから、これは見てみようと思い立って見てきたのだ。

はまだ久米明が生きているころ、今はなき三百人劇場に何度か見に行ったくらいではなかろうか? 『セールスマンの死』で知られる昴/久米明の組み合わせだが、テレンス・ラティガンらの他の翻訳ものもやっていて、楽しかった。三百人劇場は、他に、1985年、メキシコ時代のルイス・ブニュエル特集を組んだりと、映画の記憶もある。

今回の会場・大山Pit昴は三百人劇場に比べるとぐっと小さな、百人も入らないくらいの地下の典型的な小劇場だ。

新藤兼人の『ふくろう』は大竹しのぶと伊藤歩による快作というか奇作(こんな言葉、あるのか?)というか、なんとも不思議な映画で、ともかく、1980年頃までは戦後だったぞ、と改めて思い出させてくれる作品であった。北村はそれをかなり忠実に舞台に再現し(もともと、部屋の中だけで展開するシチュエーショナル・サスペンス(こんな言葉、あるのか?)なので、舞台向きだ)ていた。

満州からの引き揚げ者で故郷もなくして東北の入植地に入植していたユミエ(服部幸子)が、すっかり入植者がいなくなり、娘のエミコ(立花香織)と二人だけになってしまった。そこで近所のダムの建設現場や電気会社工事人など、訪ねてくる男たちを相手に売春しては金を巻き上げ、毒入りの酒を飲ませては殺し、入植地の空き家の庭に埋めるということを繰り返す、という話だ。男たちは死ぬ瞬間、鶏のようなうめき声をあげ、最後にはひと言、不思議な言葉を残す。それが奇妙なおかしみを産み出して、テーマのシリアスさをやわらげている。

珍しく若い客もある程度いて、後ろに3人の女性のグループがいたので、幕間が楽しかった。聞く気はなくても彼女たちの話(感想を言い合っている)が聞こえてきたからだ。どうやら殺される男たちの1人がこのグループの誰かの知人らしく、「あのパンツ一丁になってた人? あの人やばいね」などと話していたのだ。裸の立花香織に服部幸子が水浴びをさせるシーンがあって(映画ではホースで盛大に水をかけていたように思う)、それをすだれ越しに見せたのだが、彼女たち、「あれ、どうなってるんだろうね? ヌーブラ?」「ニップレスみたいなのしてるのかな?」「後ろだとわからないけどね、前の人なんか、おおっ、てなったのかな?」「意外に仕組みがわかってがっかりしたりして?」なんて語り合っていた。


なんだか楽しそうだった。僕もなんだか楽しくなった。

2017年4月19日水曜日

引き返せない4月

先日、実に濃厚なメンバーと読んできた。

滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋、2016)

ある人物の通夜に集った親類(故人の子とその子たち)の様子をなめらかに移動する複数の視線で描いたもの。

特に大きな物語が生起するわけではないが、語り口と語りの妙によって楽しく読ませる一篇だ。

語り口、というのは、視点人物によって多少変化するが、おそらく最も中心となる人物・知花(故人の3番目の子、次女多恵の娘)のそれが、いかにも2015年の時点で17歳の高校生らしいもので、とりわけ面白い。通常の引きこもりとはいささか趣を異にする引きこもりの兄・義之との関係が微妙で、それを「やばい」だの「エロい」だのという言葉でしか表すことができないとしながらも、その関係を説明する様々な出来事を想起し、あるいは捏造していく過程が面白い。

こうしたことについて数時間、みんなでああでもないこうでもないと語ったのだった。

ところで、最近、こんなものを机の上に置いてみた。

まあ、なんということはないCDプレイヤーだ。これまで机とは違う場所に置いていたのだが、その場所であまり使わないことに気づいたから。

そしてまた、Bluetoothつきなので、iPadからの(Macからのでもいいが)音楽を聴くスピーカーにもなる。本当は、Bluetoothのスピーカーだけでもいいのではないかと思ったのだが、ともかく、遊んでいる機器が一台あるのだから、それを有効に使ってみた。


遅れ馳せながら定額で音楽聴き放題のサービスを利用し始めた。月額980円なら月に1枚CDを買う者でも元は取れるとの観測からだ。ただし、このサービスに提供されていない楽曲、CDなどはあるわけだから、そういうのを手に入れようとすると、当然、それはまた別の支出になるわけだが。

2017年4月4日火曜日

メキシコの仇を東京で

パブロ・ラライン『ジャッキー――ファースト・レディ最後の使命』(アメリカ、チリ、フランス、2016)

アカデミー賞ノミネートだの、公式サイトに謳う「知られざるジャッキーの真実に迫る感動作」だのの文句を見る限り、僕がまず間違いなく見なかっただろう映画なのだが、何と言ってもパブロ・ララインなのだし、まさか「感動作」なはずはあるまい、そう思って見に行った。それから、メキシコで見る予定が時間を勘違いして見られなかったので、仕切り直しの意味もあって。

副題に「最後の使命」とあって、この「使命」というのはナタリー・ポートマン演じるジャクリーン・ケネディの台詞から取ったものだけれども、その台詞というのはIt's my jobだかbuisnessだか、そんな単語を採用しているところで、それを松浦美奈の字幕が「使命」と訳しているわけだ。配給会社と監督や脚本との意図の違いが鮮明に現れるところ。

ジャクリーン・ケネディの話とくれば、夫の暗殺の瞬間だとか、華々しくファースト・レディになったころ、あるいはしばらくしてギリシヤの富豪と結婚しジャクリーン・オナシスになったことなど、いくつかのポイントが考えられるけれども、これは暗殺直後から葬儀を出すまでに焦点を当てたもの。

夫の死後1週間して訪ねて来たジャーナリスト(ビリー・クラダップ)との会話を通じて特に暗殺後数日の日々をジャクリーンその人が回想するというストーリー。役作りでかなり体重を落としたのだろうポートマンの首筋辺りが痛ましい。が、最初から記者に懐疑的な彼女はメモをチェックして発言を変えたり削除させたりして、かなり神経質に自己演出している。この自己演出こそが夫ケネディの国葬張りの大々的な葬列を可能にしたといのうが、この映画の極めて単純で悪意に満ちた主張だ。

暗殺直後の機内で大統領に就任するリンドン・ジョンソンの良く知られた写真を再現し、その隣で複雑な表情を見せるジャッキー。霊柩車内で運転手や看護婦にジェイムズ・ガーフィールドやウィリアム・マッキンリーを知っているかと訊ね、要するに過去暗殺された合衆国大統領で知られているのはエイブラハム・リンカーンだけであることを確認すると、同乗するロバート・ケネディ(ピーター・サースガード)にリンカーンの葬儀に関する文献を届けさせるように命じるジャッキー。そうした細部が彼女の下心というか野心を照らし出す。

もちろん、目の前で夫を射殺されたのだから気丈で立派に振る舞ってなどいられない。狼狽えもしようし、理性を失いもしよう。それを正直に(といってもこれらが事実かどうかは僕は知らないけれども、少なくともおかしくなるのが正直な人間の心理だろう)描き出すところが、悪意だと言っているのだ。

ところで、最近はタイトル・クレジットをストーリーが終わった後に出すのが流行りなのだろうか? よく見るような気がする。この作品もそうだった。


池袋HUMAXはひとつのシートにつきちゃんとふたつの肘掛けが確保されていた。HUMAXってどこもそうだっけ? 

2017年4月2日日曜日

新たな年が始まる

もう4月だ。4月は僕らにとっての新年だ。
肩書きから二水の文字が一文字抜け、身軽になるのだか肩の荷が重くなるのだか、ともかく、いろいろと変化があるので、僕自身も無理矢理変化をつけてみた。

iPhone7 を導入し、それに合わせてモバイルSuicaを導入。ちゃんと使えるのだから面白い。

ちなみに、これはそのiPhone7 で撮った写真。珈琲サイフォン(株)の字が見えると思う。珈琲サイフォン株式會社の建物で、ここでは豆も挽き売りしているらしい。最近知って訪ねて来たのだが、さすがに日曜日は休みだった。

珈琲サイフォン社というのは、いわゆるコーノの珈琲器具の会社。僕が生まれて初めて使ったミルはここの製品だった。

最近、以前紹介したフレンチプレス一辺倒なのもどうかと思い、ここの、つまりコーノのドリッパーを導入してみたのだ。

これも僕の変化のひとつ。

一番普及しているカリタ式と違い、円錐状で、溝が下半分にしかないというドリッパー。台形状のカリタ式よりもコクと深みのある味が出るし、フレンチ・プレスよりはあっさりしている。一説にはネルドリップに近い味だとか。もちろん、ネルではなくペーパーフィルターを使うので、後片付けなどは楽。


週があけるといよいよ新学期だ(といっても本郷キャンパスの場合、学部1年生がいないので、少し落ち着いているのだが)。

2017年3月30日木曜日

響き渡る鳴き声、染みいる悪意

坂手洋二作・演出『くじらの墓標2017』燐光群@吉祥寺シアター。楽日前日のマチネで見てきた。

若い頃の作品だけあって、主人公が若い。藤間流の舞踊もやれば、徳之島というルーツに従って島唄のウタシャもやるという客演のHiROと宗像祥子のカップルの婚約を契機とする物語だ。

死者の召還の物語とも言えるし、いわゆる「夢落ち」かと思いきや、そこに悪意のこもったもうひとひねりがあって、中孝介を彷彿とさせるいかにもウタシャらしいHiROの悲劇的な声と乾いた声で単なる清純派などではあるまいぞと存在感を示す宗像祥子のコントラストがいい効果を上げていたと思う。

事故で入院して回復期にあるらしいイッカク(HiRO)は、クジラ漁師の家系の7人兄弟の末っ子。その彼が婚約することになり、田舎から母代わりの叔母タツエ(中山マリ)が上京、すると20年前に死んだと思っていた兄たちが現れて、故郷に帰ると言い出す。

話を聞いていると彼らはクジラ漁師というよりはクジラの化身のようでもある。クジラ漁師はかつて陸に上がったクジラの子孫なのだという、まるで神話のような話が提示されて、その曖昧な存在に説明がつけられる。さらには、えびすと呼ばれるある種神話的クジラとの取り決めによる贈与を仲立ちとした関係を維持するために死んだことにして姿を隠していたのだとも。きっと日本式捕鯨文化にまつわるさまざまな伝承などに依拠しているのだろうが、こうした設定によって劇全体のトーンがぐっとファンタジックになっている。そこがこの作品の面白いところ。


もちろん、クジラの話だから、最後はクジラとの対決もある。ファンタジックなだけでなく、思いの外スペクタキュラーでもある。もちろん、クジラそのものが出てくるわけではないけど。

2017年3月27日月曜日

映画を観ようとは言うけれど……


? ? ? ? ?

シネ(cine)はいつから女性名詞になったのだろう? 思わず辞書を引いた。

やはりcineはあくまでも男性名詞だ。cinemaもそう。であるならば、当然シネ・エスパニョールcine español であるべき。

はて? なぜこのような事態が起こるのか? 

思い浮かんだのが、サッカーのスペイン・リーグ、liga españolaリーガ・エスパニョーラの単語としての定着。名詞と形容詞の性を持たない日本語話者が、それで、「スペインの」という形容詞は「エスパニョーラ」なのだろうとの理解したのでは、との推論。

他に類似の例があるだろうか? 

と思ったときに思いついたのは、逆の例。鈴木亜美が「アミーゴ」を名乗った例だ。アミの音からの連想なのだから「アミーゴ」でも「アミーガ」でもよかったはずだ。むしろ女性だから「アミーガ」であって欲しいところ。それなのに「アミーゴ」に落ち着いたのは男性名詞のそれが定着してしまっていたからなのだろう。

そう考えると、リーガ・エスパニョーラはよくぞ「エスパニョーラ」と女性形になったものだと思う。つまり、定着と呼べるほどかどうかはわからないにしても男性形「エスパニョール」の語はある程度流布していたように思うからだ。

おそらく、従事している人がどれだけスペイン語に敬意を抱いているかの問題なのだろうと思う。映画界におけるスペイン語軽視は本当に悲しいほどである。

たとえばこの「シネ・エスパニョーラ2017」の作品ラインナップを見るといい。

『ザ・レイジ 果てしなき怒り』
『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』
『クリミナル・プラン 完全なる強奪計画』
『クローズド・バル 街角の襲撃手と8人の標的』
『キリング・ファミリー 殺し合う一家』

……教えていただきたいのである。こんな立派な、すてきな副題をつけるなら、なぜそれだけでだめなのか、よりによって英語(風)転記のカタカナをつけなければならないのか、なぜここがスペイン語であってはならないのか。


単にスペイン語軽視というだけでなく、明らかにある時から映画タイトルはおかしくなってきたのだが、今、おそらく、人はそれをおかしいと思う感覚が完全になくなっているのだろう。

2017年3月22日水曜日

最後の日は映画を観よう

帰国した。

帰宅した。

ホテルのチェックアウトが現地時間20日(月)13:00。飛行機の出発予定時刻が21日(火)1:01。早い話が、20日の深夜(感覚)。時間ぎりぎりにチェックアウトしても12時間、飛行機へのチェックインがぎりぎりでも10時間ばかりの時間がある。最終日だという意識があるし、ホテルも発っていることなので、なんだか手持ちぶさた。とても困るのだ。

前の晩、ちょっとした仕事でメキシコに滞在していた教え子とアルゼンチン料理など食べながら、映画の話をし、映画を観るのがいいのじゃないかと勧められた。

なるほど! 

こんなそわそわと落ち着かない日でも、映画は観ているうちに集中する。集中するけれどもある時間が来れば終わるから、熱中しすぎて時間を忘れ、取り返しのつかないことになることもない。ちょうど国立フィルムライブラリーCineteca Nacionalでは『ネルーダ』と『ジャッキー』、つまりパブロ・ララインの2作が観られるぞ、と……

シネテカは特集上映などのみならず、今では新作の上映もするし、今はキューブリックの展示会とか、そんなものも行っている。シネコン並みにネット予約もできる。スクリーン数も増えた。そして休日だった20日(月)は、実際、シネコンのように客がたくさん来ていた。『トレインスポッティング2』のチケットもう買えないんだってよ! なんてやり取りが聞こえてきた。

さて、14:00から『ジャッキー』を観て18:00から『ネルーダ』を観れば、終わるのは20:00少し前。そこからホテルに引き返して預けていた荷物を受け取れば理想的だ! どうせ飛行機の中では寝てばかりで映画など観られないのだから、その代償に、最終日は映画を観よう。

……と思ったのだが、ちょっと本屋に寄ったりしている間に、『ジャッキー』は16:00からだと記憶が書き換えられ、見損なってしまった。その代わり、パトリシオ・グスマンの『真珠のボタン』を再見。素晴らしい作品であることを再確認。

『ネルーダ』(アルゼンチン、チリ、スペイン、フランス、2016は上院議員になったネルーダ(ルイス・グネッコ)が大統領ガブリエル・ゴンサレス=ビデーラ(アルフレード・カストロ)を敵に回し、地下活動に入り、ついで亡命を余儀なくされたころ(1948-)を扱い、その詩人を追跡する警官オスカル・ペリュショノー(ガエル・ガルシア=ベルナル)を中心に据えた物語だ。

こう書くと、まるで事実に即した、ネルーダ亡命の物語かと思うだろうが、それが、そんなことはない。この映画はなかなかにくせ者なのだ。だいたい、参議院議員となったネルーダが共産党に所属したことによって最初に引き起こした軋轢を表現するのが、サロンなのかトイレなのかよくわからない場所なのだから、そもそもの最初からヘンだなとの疑いが湧き起こる。

ネルーダの描き方にしてもロベルト・アンプエロの『ネルーダ事件』張りに悪意に満ち、売春宿で遊び呆けるは、十年一日、同じ詩を詠んで人気を博して浮かれているは、妻が隣にいるのに口述のタイプライターの女性の胸に手を這わせるは…… まあ、ネルーダ神話を強化したいだけなら、きっとその最期を描くはずだろう。

このヘンな感じがだんだん形を取り始めるのは、オスカルがネルーダを追跡して行く先に常に置いてある一冊の本があるからだ。どうもネルーダが書いた小説らしく、その小説には自分のことが書かれているようで、オスカルは読み耽ってしまうのだ。そして追いかけても追いかけてもネルーダは直前で逃げていて、いなくなったその場所に、オスカルは常に同じその本を見出すだけ。こうしたところはコミカルなサスペンス仕立て。

クライマックスの始まりはネルーダの妻デリア(メルセデス・モラン)とオスカルとの会話だ。そこで彼女は彼にお前はネルーダの書いた物語のなかで端役に過ぎないのだと種明かし(?)されるのだ。

最後のチェイスではガエルのオートバイが故障するし(『モーターサイクル・ダイアリーズ』だ)、母親は娼婦だ、などとガルシア=マルケスみたいなことを言うし、……


なかなか一筋縄ではいかない内容なのだ。

メキシコでの最後の二晩を過ごしたホテルの部屋からの眺め。いわゆるソナ・ロサの朝。

2017年3月20日月曜日

ついでにメヒコ覚え書き

コンピュータがいろいろなものをアップデートしたりして、使えないソフトがあるので、暇に飽かせて、ついでにメヒコのことも書いておこう。

メキシコのペソは今では東京の至るところにあるTravelexという両替屋で買うことができる。ただし、売る時にはとてもレートが低くなる。今回、買う際にあらかじめ1,000円余計に払えば、高値で売れるという制度があるがどうだ、と訊かれて、とりあえず1,000円余計に払った。

さて、……

必要最小限だけ持ってきて、後はキャッシングでいいんじゃない、と言われたが、まったくその通りだと思う。本を買ったときや少しよさげなレストランで食事したときはカードで払うのだし、そのカードはvisaデビットで、すぐに引き落とされるし、キャッシングもできるので、ということは実質、キャッシュカードで引き落とすのと同じことだし、持ち歩く金を少なくすることに何の問題もないのだ。それなのにまだ現金取り引き社会の亡霊から自由になり切れていないのだな、僕は。あるいはピッキングを極度に恐れているのか? 

実際、今回、ペソはかなりあまりそうだ。
(50センターボ硬貨がたくさん余った! 写真は5ペソ、1ペソ硬貨とともに)

メキシコでは人と会う予定があったので、プリペイドのSIMカードを買ってみた。メキシコではsimはchipと呼んでいる。TelcelにしようかMovistarにしようか悩んで、後者にした。15日間(2週間)で100ペソ。入れればすぐ使えるよ、と言われたが、使えない。どうしたのだろう? 

どうもチャージするといいらしい、とどこかから聞こえてきた。コンビニに言って番号を言い、なにがしかの金を払えば、手続きしてくれる。サークルK(てっきり日本のものかと思っていたらUSA発祥なんだね)では30ペソからチャージができると言われた。チャージしてほどなく、通話もデータ通信も使えるようになった。ただし、一日中ブーブーとうるさくメールやらフェイスブックのコメントやらを受け取っていると、あっという間にチャージ分を使ってしまった。

やれやれ。

言うまでもないことだが、iPhoneのsimのスリットは何かとても細いものでつついて開けないと行けない。買ったときにはそれがついているのだが、別に人はこれを持ち歩いているわけではない。入れ替えるとき、苦労する。ホテルのメイドに針のようなものはあるかと訊ねたところ、本当に針を持って来た(裁縫キット)ので、それを使った。


ほとんど通話はしないので、特にこちらでプリペイドsimを買う必要もないかな、との思いもある。アップルsimのようなもので充分かもしれない。特に今回、maps.meというアプリを入れていて、それがオフラインでも自分の地図上の位置を教えてくれるものなので、オンラインでgoogleマップなどを使う必要がないとなれば、ますます無理してsimを入れることはないかな、と。もちろん、もっと長く滞在するなら話は別だが。

キューバ覚え書き

日本時間では日付が替わったので、少し補足の記事を。

今回僕が泊まったのはDeauvilleというフランス系の名前のホテル。どう読むんだろうと思ってスペイン語風にデアウビーエ? と発音したら、タクシーの運ちゃんはドヴィユだね、とフランス語風に呼んでいた。

で、ともかくそこはマレコン(ハバナの海岸沿いを走る通り)の目の前で、こんな絵に描いたような光景が展開されていた。

よく目にする、マレコンに打ちつける波を、しかし、遠くから素人の手で捉えようと思っても難しい。せいぜい、こんな感じだ。うーむ。

さて、14年前はドルをそのまま持ち込んで使えば良かったのだが、キューバは今では兌換ペソ(Peso convertibleまたはCUC。後者はクックともセー・ウー・セーとも発音していた)の方が通りがよさそうだ。ドルやユーロも使えるには使えるのだけど。レートは$1=1euro=1CUCくらい? これが5CUCと10CUC紙幣。それに1ペソ硬貨。

空港を出てすぐのところにある両替屋は長蛇の列。これには参った。ホテルまで送ってそこで両替して払ってくれればいいよ、とタクシーの運ちゃんが話しかけてきたので、そうすることにした。が、ホテルでは1euro=90ペソと低めのレート、少し損した。

Peso nacionalというのもあって、CUCとNacional併記の店などもあった。書店で買い物をして、結構な額になったのだがCUCを渡すべく数えていたら、そのうちの5CUCだけを取られて「これでいいんだ」と言われた。何かの勘違いをしているのだろうか? だとすればその勘違いが解けないうちに、と思ってそそくさと書店を出たのだが、たぶん、あれは、最初国内ペソでの額面を言ったのだろうと思う。

ネットの接続状況は悪い。通信会社ETECSAのWi-Fiを使うためのカードを購入し(1時間分2CUCだった)、そこにあるユーザー名とパスワードでアクセスする。僕のホテルで買ったものを他のホテルや空港などの施設でのETECSAのWi-Fiにも使ってみたら、使えた。汎用性はあるということだ。ただし、Wi-Fiの施設そのものは範囲も狭いし弱い。ホテルではロビーでしか使えなかった。

でもまあ、そんなわけなので、しばらくネットアクセスは仕事のメールのチェックなどのために必要最小限に抑え、晴れて自由の身となって過ごしたのだった。

ETECSAの事業所などではSIMカードも売っているので、それを購入すれば、SIMフリーのディバイスなら、LTEだか3Gだかのデータ通信も可能。ただし、ETECSAがどこにあるかわからないし、ホテルで聞いてもあやふやだし、やっと見つけたのはもう滞在4日目だったし、列も長かったしで、これを買うことは断念した。それでこそ自由の身だ。でも後学のために記しておくとオビスポ通り(ラ・フロリディータから港へ向かう道。財務省とかがある通り。両替屋なども同じ通りにはある)にあった。

CUCを換えすぎて余らせるのも癪だし、と思ってユーロが使えるところではユーロを使うようにしていたのだが、これは本末転倒で、結局割高なところでばかり食事していたように思う。良くないな、と反省するのであった。


こんなところだろうか? 後は仕事と散歩の日々であったのだが……

2017年3月19日日曜日

14年越しの願い

1週間ほどキューバに行ってきた。

授業のない時期にメキシコだのキューバだのと言ったら、人はどうも休暇で出かけると思うものらしいが、実際は仕事で行ってきたのだ。研究だ。取材と資料収集とその他諸々だ。

今回の一番の目的地はここだ。


こんな風に作家の蔵書がある。ディジタル化の進むこれらの資料もじかに眺めることもできる。

こんなものを眺めながら、ついでに、ここにある資料が眠っているのではないかと目星をつけて来たのだが、はかばかしい成果は得られなかった。

でもまあ、研究部門の人と話し、いろいろと示唆を受けるところはあった。

ついでに、前回、2003年には修復中で入れなかったところに行ってきた。

ホセ・レサマ=リマ記念館。レサマの生活がそのまま維持されているスペースだ。

レサマの書斎の机。

そしてレサマを真似、書斎の棚に持たれてポーズ。

前回、やはり場所は特定したけれども、写真を撮ってこなかった場所。でも、こんな像はあっただろうか? 

これはセシリア・バルデス像。

シリロ・ビリャベルデの『セシリア・バルデス』はキューバ19世紀を代表する恋愛小説で、サルスエラなどにもなり、映画化もされ、いわば国民的な人気を誇る作品。それの主人公セシリア像だ。副題をLa Loma del Ángel。Lomaというのをどう訳するかは悩ましいところ、坂、というか丘、というか、……まあ、坂、としておこう。アンヘル坂。その上にある教会の前。実はこの教会の裏手が革命博物館なのでわかりやすい場所にあるのだ。


ところで、繰り返すが、このセシリア像、前からあったのか? 記憶にないな……