2022年9月22日木曜日

黒い弦に替えたのは……♪

今日問題にしたいのは、



これだ。


鉄弦とナイロン弦のギターを一本ずつ持っている。ナイロン弦のものは、そうは言ってもカッタウェイの入ったいわゆるエレガットではあるが。ともかく、それらを時々思い出したように引っ張り出してきてつま弾くくらいのことをやっていたのだが、最近では机の近くにおいて仕事に行き詰まったり疲れたりした時の気分転換に弾いている。つまり、少しだけ手にする頻度が増えた。仕事と気分転換では後者の方が楽しいから、気分転換の合間に仕事をするなんてこともある。


久しぶりにレパートリーを増やすことも考えた。そこでふと気づいた。


楽譜が読めなくなっている。


いちばん頻繁にギターを弾いていた中学生の頃は、楽譜が「読める」とまでは言わずとも、アルペジオやフィンガーピッキングの音は楽譜を見ながらたどっていったので、ある程度の勘は身についていたように記憶する。当時はTAB譜などないのが普通だった。


高校時代の寮生活でギターを持ち込めなかったので、そこでほとんどギターのことは考えなくなった。とはいえ、卒業後、しばらくの間は増やしたレパートリーはやはり楽譜を読んで練習したものだ。


大学に職を得て少し余裕も出たので思い出したように買ったギターとそのための楽譜類にはTAB譜がついているのが当たり前になっていた。20世紀の末におそらくTAB譜は標準となったのだ。


確かに楽ではあるし、僕もそれで何曲かは身につけたはずだ。


が、あらためて振り返ってみると、楽譜を見ていないと忘れたりしたときの再現性が格段に低くなって困る。やはりTAB譜などではなく楽譜を見て覚えた方がはるかにいい。TAB譜は、なんというか、外国語辞書の発音記号代わりに掲載されるカタカナ表記のようなもので、現実的には使いものにならないのだ。


で、どうにか楽譜を読みながら勘を取り戻していこうと言う気になっている。そうやってタレガの「ラグリマ」とかフリオ・サルバドール・サグレーラスの「マリア・ルイサ」といった比較的易しい曲を練習していた(そして少し、ほんの少しだけ勘が戻った……かも)。


そういうときにはやはりナイロン弦を使いたくなるもの。愛用のエレガットが活躍していた。


そのナイロン弦の張り替えの際に試してみたのが、上記写真。タダリオD’Addarioのその名も「ナイロンフォーク」。


鉄弦は弦の先にエンドボールと呼ばれるものがあり、これをピンで突き刺してブリッジの穴に埋めて固定する。簡単にできる。一方、ナイロン弦はエンドボールがなく、端を巻き付けるようにしてブリッジに固定する。弦交換は慣れないと面倒だ。慣れても面倒だ。


それで、上記のような、写真のような、エンドボールつきナイロン弦があることを知り、手に入れてみたのだ。


そしたら、1-3の高音弦3本が黒いものであった。このことは知らずに買ったのだが、意外な喜び。


昔、少年時代、日本在住のフランス人ギタリスト・クロード・チアリのギターに黒い弦が張ってあるのをTVでみてあれは何だろうと思った記憶がある。通常の白いナイロン弦ではない黒い弦。それが欲しいと思ったりもしたのだが(当時もナイロン弦と鉄弦を持っていた)、ついぞ手に入れることはなかった。それが今、思いがけない形で手に入ったのだ。


しかも、この弦の音が、心なしか通常のそれとは違い、より透明な感じがして、いいのだ。


これは頻繁に使うことになりそうだ。

2022年9月17日土曜日

月が出た!

フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』田尻陽一訳、杉原邦生演出、木村達成、須賀健太、早見あかりほか@シアターコクーン


大手ホリプロが、今、シアターコクーンで『血の婚礼』をやるというのは驚きではあるのだが、まあ、ともかく行ってみた。若いアイドル級の俳優たちだし、花婿の母親役は安蘭けいだしで、客のほとんどは女性であった。


僕の頭の中には最悪の改編の事例として、2007年のTBSとアトリエ・ダンカンによる上演がある。白井晃演出。音楽に渡辺香津美を起用したのはファンとしては嬉しいが、レオナルドと花嫁が逃げた後の森のシーンでは月と乞食という配役を廃して、その代わり「死」という新たな人物を登場させたりして、台なしであった。こうした改編はきっとある種のわかりやすさを模索した結果だったのだろうけれども、詩がそれだけで悲劇なのだということを忘れさせる。


そんな事例を思いだしたものだから、怖い物見たさのようなところもあったのだが、結果的に、このホリプロ版は、そうしたキャストの手入れをすることなく(レオナルドの妻の母親は削除されていたが)、ちゃんと月も乞食も出していて、良かった。しかもこの月、声が良いと思ったら安蘭けいが二役で演じているのであった。レオナルドと花嫁の韻文の台詞によるやり取りには、生演奏の音楽——ギター、チェロ、パーカッション——に合わせているのでダンスに見える動きを取り入れていて、これも良かった(白井版における森山未來の腰の据わっていない疑似フラメンコ的な踊りと違って、良かった)。男ふたりの殺し合い(原作では「叫び声が聞こえる」とのト書きで処理している場面だ)に殺陣を取り入れて、これがこの版が模索して得た「わかりやすさ」だったのだろう。


パネルのようなものを組み合わせて作った壁を一枚ずつ押し倒していくセットの仕組みも面白かった。


ちなみに、僕が演出した時には、ふたりが逃げた瞬間に壁を壊すという演出を試みたのだった。1985年のこと。



9月は名古屋で集中講義をし、アルモドバル『パラレル・マザーズ』の試写を観た。写真は名古屋のホテルにて。

2022年8月9日火曜日

エッフェル塔の文鎮

昨日、読み終えたのは以下の小説:



河内美穂『海を渡り、そしてまた海を渡った』(現代書館)


著者は中国研究者でこれまでに研究者としての著書もあるのだが、今回は、小説。


いわゆる中国残留孤児(さすがに現在では「孤児」は使わないか?)三代にわたる女性の話。三人がそれぞれ自分の人生と家族について二度ずつ語る形式。


王春連(ワンチュンリェン)は戦争で満州に取り残され、養父母に育てられた。自身の意志とは無関係に連れ添うことになった蒼東海(ツァントンハイ)とのあいだに三人の子をもうけたが、文革の時期に「日本鬼子」とされ迫害を受けた。その後、例の「残留孤児」帰国計画により日本に「帰国」。だいぶ年上の夫は、しかし、その直前に病死。本人は今では老人施設に入っている。


春連の娘が蒼紅梅(ツァンホンメイ)。知識欲旺盛で中国にいる頃は医者になりたいとも思っていたが、それもかなわず、母とともに日本に「帰国」後も学校でいじめなどに遭い、夜間学校を出て後、資格を取って今は医療機関で中国人たちの通訳をしている。一緒に帰国した夫の楊立軍(ヤンリージュン)は少数民族エベンキの出で、日本には馴染まず、中国に戻る。


このふたりの末娘の楊柳(ヤンリュウ)が三人目の語り手。日本人の翔太と結婚しいつきという子ももうけている。小説の終章では彼女が家族で父を訪ねていく。だから「そしてまた海を渡った」なのだろう。


女三代の物語を、それぞれの代の人物に焦点化して語るというのは、いってみればオーソドックスな形式だろう。たとえばイサベル・アジェンデ『精霊たちの家』。これは初代のクラーラのノートを三代目のアルバが読んで辛い時代を耐えるという話題から始まる話であった。つまり書き継がれ、書き換えられる物語だ。それに対してこの『海を渡り、そしてまた海を渡った』の女たちはまともに教育を受けられなかった者たちであり、つまりは『精霊たちの家』の対極にある。


その意味であくまでも興味深いのは二代目の蒼紅梅だ。無医村無文字の文化状況で、派遣された医師を通じて医学に興味を抱き、文字を覚え、知識欲を掻き立てられ、医師への道は開けることはなかったけれども、言語を変え、医療の現場で二言語の橋渡しとして生きる彼女と、結局のところ日本社会に溶けこむことの出来なかった夫・楊立軍のつがいのあり方がいろいろな意味でこの小説の構造を支えていると言えそうだ。



表題のもと。

2022年7月27日水曜日

ドアノーが迎えてくれた

フェルナンド・トゥルエバ『あなたと過ごした日に』ハビエル・カマラ他(コロンビア、2020は、


Héctor Abad Faciolince, El olvido que seremos (2006) の映画化作品だ。1987年、暴力の時代のメデジンで殺された父のことを小説化した作品、その映画化。脚本を息子のダビ・トルエバが、プロデューサーをシーロ・ゲーラの2作品をプロデュースしたダゴ・ガルシアが務めている。


大学の医学部教授であるエクトル・アバド=ゴメス(カマラ)が衛生面から予防医学に貢献し、しかし、そのリベラルな態度から大学を一度は追放され、アジアでの仕事の後にまた復職し、退職(実質的な免職)し、そして政治的なリーダーとなり、自由党から市長に立候補、殺されるまでを、息子のエクトル(ニコラス・レジェス=カノ/フアン・パブロ・ウレーゴ)の視点から語る。


アバド家には10人もの女たち(と原作小説では紹介される)がいて、男はふたりのエクトル(父と息子。下から2番目の子ども)という構成。この家族のメンバーが揃っているシーンが多く、これの描き方が良かったように思う。初孫が生まれ、それを見に家族全員が病室に揃うシーンなどは印象的だ。なぜ、どのように印象的なのかは、ストーリーに関わってくるので詳しくは言わないが、ある人物を目立たせるための全員の細かな動きが、きっと綿密に計画されたものなのだろうなと思わせる。


そういえば、ローリング・ストーンズの「ルビー・チューズデイ」が印象的。



こんなものをもらった。東京都写真美術館で数量限定で配っているらしい。


そして、これ:


佐藤究『爆発物処理班の遭遇したスピン』(講談社)


これは短篇集だ。8篇からなるのだが、扱っている題材の幅の広さに驚かされる。量子力学から映画のクリーチャー、戦後日本の混乱、零落する暴力団……等々。いずれも凄惨な事件を扱っていながら道具立てが面白く、引き込まれるのだ。


そういえば僕は昨年末、佐藤さんと立教大学で対談したのだが(そしてその際の記録のゲラをつい最近見ていたのでそのことに気づいたのだが)、その際、クリーチャー作家の片桐裕司さんに会ったという話題を出していたが、それはつまり2作目「ジェリー・ウォーカー」の取材か何かだったのだろうな、と思い至ったりする。まあ、これは二次的な豆知識。


僕はやはり、知性がない分、理知的なふりをしたい人間なので、「猿人マグラ」と「九三式」に強く惹かれた。それぞれ(前者はタイトルからわかるだろうが)夢野久作と江戸川乱歩を特集した雑誌が初出のようだ。それらふたりの作家――というより、彼らの時代――を扱っている。とりわけ前者は作者自身が夢野久作と同郷であるので、必然的にオートフィクションになるのだが、このジャンルとして読むと興味はますます尽きないのである。

2022年7月5日火曜日

紙は神である

学生時代、僕が住んでいた北区は、可燃ゴミは専用の紙のゴミ袋を購入し、それに入れて出す決まりになっていた。ゴミ処理の煙が問題だとして東京都全般が炭カル入りポリ袋に換えられた時には、それは一種の後退だと感じた。当時はそのゴミ袋には氏名記入欄があって、名前を書くようになどととんでもないことが言われていたので、僕はこれを決定した当時の東京都知事・鈴木俊一の名を書いて出していたものだ。


スーパーなどのレジ袋が有料化されたとき、これもまた民にのみ苦労を強いるこの国の官の圧政だと思ったし、何しろレジ袋はゴミ袋として使えるので、素材があやしくどこがエコなのかわからない「エコバッグ」を持つくらいならと金を出して買い続けている(レジ袋が無料の時代、不要にポリ袋を入れてくるスーパーの過剰サービスに辟易していたので、まあ、一長一短ではある)。


ところで、昔、イメージとしてのスーパーマーケット(つまり、フィクションや広告での買い物帰りの風景)は紙袋を提供していたものである。実際には、紙袋に入れてくれるところはほとんどなかったけれども。


さて、僕は廃棄時に分別を強いられるような肉や魚のプラスチック・トレイが大嫌いである。卵のも。プラスチックの廃棄が問題ならば、レジ袋を有料化して消費を減らそうなどとけち臭いことをいわず、パッケージの紙化、もしくは紙への回帰を推進すればいいのではないかと思う。もっとも、商店街の肉屋や魚屋でもいまではプラスチック・トレイを使う時代だ。コストもはるかにこちらの方が安いのだろう。



あることがきっかけで、ここ1年ほど、生ゴミはこんな紙袋に捨てている。水切りもできるし、丈夫な紙なので破れることはない。


ある日、ふと思ったのは、卵はまだ紙パックで売っている商品があるはずだということ。いつも使ういちばん近くのスーパーには、しかし、残念ながら、それがなかった。で、少し足を伸ばして別の所に行ったら、あった。



案の定、割高な商品ではある。でもまあ、100円くらいの差ならば、僕はむしろ喜んで差額を払いたいと思うのだ(いや、本当は決して喜んではいないけれども、それはまあ、言葉のあやというやつで……)。ついでにここのスーパーの弁当も紙の容器入りのがあったので、買ってきたのだ。こういうところが増えるといいな。


ちなみに、レジ袋は金を出して買うと言ったが、それはゴミ袋に使えそうな大きな袋だけだ。人のいるレジでお願いすると何も言っていないのについてくる、肉魚等の汁漏れを防ぐためらしいビニールの中袋は断固拒否する。コンビニのパン程度の買い物のためには、紙袋を持ち歩くこともある。これはある日、あるお菓子屋が商品を入れてくれた紙袋をついでに使ってから気づいたこと。遠い昔のイメージとしてのスーパーでの買い物のようだ。

2022年7月1日金曜日

自炊なら子供のころからやっている

自宅では


このキャノンのインクジェット・プリンタを使っていたのだが、コロナ禍、授業準備なども家でやることが増え、やはり文書のプリントアウトはレーザープリンタにまさるものはないので、2年ほど前に



これを買ったのだった。モノクロだけど、プリントアウトするものはだいたいテクストなので、問題はない。で、キャノン、どうしようかなと思っていたところに、


鎌田浩毅『新版 一生ものの勉強法』(ちくま文庫、2020にカラーのインクジェットとモノクロのレーザー、2台のプリンタを持って使い分けるのが良いと書いてあったので(109-12)、それもそうかと思い、使い分けている。幸い(?)コロナ禍で印鑑を押した書類をメールでやり取りすることも増えたので、カラープリンタはあるに越したことはないので。


プリンタはいずれもスキャナつきなので、本などをスキャンするときはレーザープリンタのそれを使っていたのだが、キャノンのそれの方がiPad miniで操作できるし、そうなると操作性がより良いので最近はこれを使っている。


書類のスキャンには、僕は以前からScan Snapを使っていた。大学にはix1500があり、それは今では最上位ではなくなったけれども、充分に満足する速度と機能なので、問題がなかった。そして家ではこの



ix100 というモバイル型のものを使っていた。両面ではないし、自分で給紙しなければならないのだが、大量のスキャンならば大学でやればいいだけのことだった。


が、やはりコロナ禍で家での作業が増えたので、常々、家にも大量スキャンできるScan Snapが欲しいと思っていたところ、出たのだ。



ix1300(既に上の写真に写り込んではいたのだが)。最上位ではないが、コンパクトで、実に使い勝手がいい。何しろ、



開いたときに給紙のために紙を支える板が自動的に飛び出すし、スキャンを始めると排紙用の板がやはり自動的に出てくるのだ。Uターン型で、手前にせり上がってくる形なので、場所も取らない。


昨日はこれでさっそく古いノートを裁断してPDF化していたのだ。いわゆる本の「自炊」のノート版。


これでコピーしたまま紙が黄ばんでいく一方の論文や雑誌記事などを次々とPDFにしていくのだ。

2022年6月28日火曜日

本当に面白かった


吉田拓郎『ah-面白かった』(AVEX


既にどこかには書いたことだが、僕が生まれてはじめて自分の金で買ったレコードは吉田拓郎(当時はよしだたくろう)『元気です』(CBSソニー、1972だ。僕は決して吉田拓郎のファンらしいファンではなかったけれども、それでも最初に自腹を切って聴く気になったミュージシャンであり、ある一時期の僕を規定した人物のひとりには違いない。その彼が人生最後のアルバムと称して出すものを買わないでいられるわけはない。


タイトル曲が最後にあり、しかもそれはこのフレーズ「あー、面白かった」で終わるのだが、曲内で何度目かになる「あー」のこの最後の叫びが、実によくて涙なしには聴けない。そんなアルバムが、今日、届いた。


何よりも嬉しいのは「雪よさよなら」。これはごく初期の、最初の個人アルバム『青春の唄』に収め、その後、猫というユニットに提供した「雪」という曲に原曲に存在しなかった3コーラスめを加え、小田和正に編曲とコーラス、そしてヴォーカルを頼んだ作。ライナーノーツで言うには、拓郎自身が当時のアレンジを気に入らず、その後歌っていなかったこの曲を小田に頼んで蘇らせたのだとのこと。今回のものは気に入っているらしい。小田とのコラボレーションという意味でも。


実は僕はこの曲がかなり好きで、しかも拓郎自身が気に入らなかったという『青春の唄』のヴァージョンが好きで、折に触れて思い出し、ギターをつま弾いては口ずさんだりする曲のひとつなのだった。ライナーノーツの内容とほぼ同様のことをどこかでしゃべった記録を、実は昨日YouTubeに薦められて聴いて知り、ひょっとしたら拓郎自身と僕の決定的な趣味の違いを露呈する結果になっているのだろうかと、危惧しつつ、待ちきれず聴いたら、まったくの喜憂で、これもまた素晴らしい仕上がりであった。


付属していたメイキング映像のDVDによればヴォーカルのレコーディングを終えて花束ももらった後になって、23、シャウトを入れた方がいいと思いついて新たにそれを録音したらしい。こうした態度がファンには嬉しい。シャウトは彼の持ち味のひとつなのだから。

2022年6月22日水曜日

馬車道の次の駅の読み方を知っているか? 

また更新を怠ってしまった。


その間に見た映画、演劇など。


ヴェルナー・ヘルツォーク『歩いて見た世界――ブルース・チャトウィンの足跡』(英国、2019


7月で閉館する岩波ホールが最後に選んだ上映作品。


もちろん、『コブラ・ヴェルデ』の原作者と映画化作品監督であることは知ってはいたけれども、ヘルツォークとチャトウィンがそれ以上に親密な間柄であったことを知らず、そんな僕にはいろいろと発見も多かったのだ。『ウォダベ』の女性たちのカットを見せられ、少し元気になったチャトウィンは、しかし、その直後に最後の昏睡状態に陥ったとか、彼からの形見としてもらった革のリュックサックのおかげで、『彼方へ』の過酷な山岳ロケでヘルツォークは命拾いしたのだというエピソードなど。


オスカル・カタコラ『アンデス、ふたりぼっち』(ペルー、2017。これは試写会で。公開は730日。


全篇アイマラ語による、アンデスの標高5,000メートルほどの場所にふたりきりで暮らす老夫婦の話。息子が帰ってくることを夢見ながら彼はいっこうに帰る気配はなく、マッチが切れたといっては遠くにある村まで買いに行かなければならないのだが、それもできず、飼っていた羊は何者かに食い荒らされ……といった厳しい生活を描いたもの。救いはない。ないからこそ見入ってしまう。cine regional などと呼ばれる部類の映画のメルクマールとなった作品。すごい。


そして今日、横浜で観てきたのが:


セルヒオ・ブランコ作、大澤遊演出『テーバスランド』KAAT 神奈川芸術劇場。甲本雅裕と浜中文一による2人劇。


父親殺しで服役中のマルティン(浜中)を実際に起用して彼の物語を劇化するつもりのS(甲本)は、しかし、内務省の許可を得ることができず、仕方なしに俳優のフェデリコ(浜中の二役)を起用して劇を作ることにする。マルティンと面会を重ね、それを基にフェデリコと話し合いとリハーサルを重ねる。劇は父親殺しの話なので、オイディプスの劇や『カラマーゾフの兄弟』などが想起され、……という、いわばメタフィクショナルな劇制作の物語。オートフィクションでもある。こういうものの好きな僕にとっては嬉しい作品。浜中文一が虐待され(たことが徐々に明らかになる)学歴も浅い繊細な殺人犯と俳優のふたつの役を演じ分けて印象的。


セルヒオ・ブランコはパリ在住のウルグワイ人劇作家・演出家。『テーバスランド』原作と『ナルキッソスの怒り』(いずれも仮屋浩子訳、北隆館、20192022)も買って帰ったのだった。



UT Café Bertholet rouge でのランチ。これは昨日のこと。

2022年6月5日日曜日

日本のホテルは狭いのだ

土日は京都に行っていた。日本ラテンアメリカ学会第43回大会に出席のため。


前夜から乗り込んでいたのだが、急な仕事のため初日午前中の発表は聞けずじまい。ま、No asshole priciple というやつだとの説もある。


午後からの分科会1「ラテンアメリカをめぐる国際政治」での中沢知史さんの発表「ウルグアイにおけるファシズムの台頭とラテンアメリカ主義思想形成――戦時期南米南部における政治外交史の一側面」のディスカッサントに指名されたのでコメントしてきた。


最近の学会の傾向として、発表者は事前にペーパーを提出、一発表に対しひとりディスカッサントを立て、討論の切り口にする、ということをやる。僕はその討論者。


1930年代にウルグアイにファシズムが勃興したことに関する話だったので、その時期、アルゼンチンとブラジルで大使として過ごしたアルフォンソ・レイェスがラテンアメリカ全般の和平のための工作をしていたことを、21世紀に入ってから公刊された彼の外交官としての仕事に基づいて紹介し、かつ369月にブエノスアイレスで開催された二つの会議のこと(ペンクラブの国際大会と国際連盟知的協力機関の会議)も話した。


夜はここ



その名も “Órale” で若き友人たちと食事、その後、古くからの友人に合流し馬刺しなども食べた。


二日目も盛りだくさんの内容だったが、文学の分科会に参加。南映子さんのクリスティーナ・ペリ=ロッシのセルバンテス賞受賞スピーチの分析の話など。



昼にはこんなカップでコーヒーなどを飲んだのであった。



ちなみに、ホテルは狭いので、こんな最小設備で臨んだ。正解であった。

2022年6月1日水曜日

isshoni (Study with me blog?)

もう何度も書いているけれども、一冊のノートにすべてを集約させるべく、それを常に持ち歩いている。Moleskineのサイズ(A5変形、というのに近い。A5判よりも横幅が少し狭い。四六判の本くらいのサイズ)がなんといっても好きで、それと渡邉製本Book Note(リンク)を交互に使っていた。後者はオンラインで買うとカスタムカットしてくれるのだ。

 

ところが、困ったことが起こった。ちょっと前から

 


こんな使い方をしているのだ。左側に余白を作ってそこにキーワードや本体内の文章へのコメント、あるいは修正案、小説のストーリーをメモするときにはページ数などを記している(写真はそういう例)。いつだったか、映画を観に行ったときに、左側にキーワードだけをメモして帰りの電車でそれを見返していたら、その言葉に関連するシーンが思い出されて、すらすらと内容を再現できた。

 

いわゆるコーネル大学方式のように、下段にまとめの文章を書く必要はない。

 


こんな風に引用とコメントを本文として書くことも多いので、欄外はあくまでも簡単なメモ(これは柳宗悦『琉球の富』日本民藝館監修〔ちくま学芸文庫、2022の読書メモ)。欄外はまるで本のマルジナリアだ。「(笑)」を意味する「w」まで書いてある。しかも赤で! そして自分のコメントには誤字もある。恥ずかしい。

 

こんな風に使ってみると、幅は狭いより広い方がいいという観測結果に辿り着いた。当然のことながら。A5変形よりはA5の方がいい。

 


そんなわけで、ちょっと前にLOFTで見つけて買ったノートを卸してみる。Daigo Corp の isshoni. ノートブック ナンバー(リンク) というやつだ。この写真ではわかりづらいかもしれないが、方眼の左から6マス目くらいの仕切り線が太くなっている。自分で線を引かずとも、これで欄外が確保される(本当はもう少し欄外が広い方がいいのかもしれない。アガンベンのノートは無地で線も引いていないけど、左側を広く確保していた。ジョルジョ・アガンベン『書斎の自画像』岡田温訳〔月曜社、2019〕100ページ)。

 


しかもこのノートにはノンブルが打ってあり、巻頭には目次のページがある。なんだか少しシステマティックになった感じ。本当はMoleskineももう一冊新しいのが控えているのだが、これが調子がよければBook NoteもカスタムカットなしでA5のものをそのまま買うようにしよう。ロゴも新しくなってかわいいぞ。