2018年7月11日水曜日

大きさも重要


もう何度も書いていることだが、ふだんはモレスキンのノートを使っている。ソフトカバー、方眼。そこに日記から読書ノートから何から何まで書く。読書ノートは、読書会や授業、あるいは書評のためのものの場合、さらに整理してPC上にファイルを作って残す。でもともかく、最初のメモはこのノートに書く(ときどき、メモ帳や余った紙の裏にも)。

僕は飽きっぽい性格なので、ときどきモレスキンに辟易する。不満はないけど、今はいいや、という気になる。そんなときには別のノートを使う。ミドリのMDノートなども気に入ってはいるのだが、ある学生が使っていることもあり、最近は、これにしている。


で、先日、ストックにと2冊注文して手に入れたばかりなのだが、最近、ここにA5版が加わったとのニュースが流れた。しかも、数日前にオンラインショッピングも始まった。

さっそく、取り寄せてみた。

モレスキンのノートは高さがA5と同じで、幅が従来のブックノートのサイズB6と同じだ。モレスキンの横幅がもう少し広いといいなと思うこともあるので、A5は、やはり最適のサイズなのではあるまいか。

何でもひとつのノートにまとめるのが僕のやり方ではあるが(サルトルに学んだ)、大きな作品を書くときや旅行のさいには専用のノートを作る。買い置いたB6版はそうしたやつとして使うことにしよう。

村田沙耶香『消滅世界』(河出文庫、2018)は親本(2015)で読んだ作品。ある読書会の課題図書として読んだのだが、その日、急に老母の世話をせねばならず帰省したので、会には参加できなかった。

生殖のためのセックスというものが消滅しつつある世界で、人工子宮にと受精により男も女も平等に母親になれる共同体の実験が進行中。そこに逃げ込むことにした夫婦の話。実に小気味よい。

既に持っている本でも文庫本が出たらそちらを買う習慣なので、今回、文庫化されたものを買った。

(これはノートをWordファイルにまとめて保管してある。写真、本の下にあるものは別の本のメモ。合評会をやるので。あまりにも教材のコピーが余ったので、その裏にメモしてみた)

2018年7月8日日曜日

たまにはブログ記事を更新しよう


このところサボっていた。ブログを書くのを。特に理由はなく、とりわけ多忙になったというわけでもないのだが、活力が低下する時期だったのだろう。

普通に生きていたので、書くべきことはたくさんあったのだが、……ラテンアメリカ学会に行き、堀江敏幸への都甲幸治によるインタヴューを聞き、その他にもいくつかのイベントに参加し、何冊かの本を読み、映画を見、教え子たちを招いてタコス・パーティを開き……という6月であった。
(写真はタコス・アル・パストール用の肉が焼けたところ。オーヴンで焼いた)

6日にはシアター・オーブに『エピータ』を観に行った。ハロルド・プリンス演出。主役のエマ・キングストンの張りのある高音に圧倒された。

ティム・ライス/アンドリュー・ロイド=ウェーバーによるミュージカル『エビータ』は、僕が大学に入った1984年、外語祭でのいわゆる語劇の演目として、僕らも上演した思いでの作品だ。ただし、スペイン語版。僕は舞台監督として役者にキューを出したり、舞台装置の指示をしたりしていた。

スペイン語版をやったのだから、歌詞はスペイン語で覚えている。ついつい口ずさみそうになる。口ずさもうとすると涙が出そうになる。昔を懐かしんで涙する年になったのだなあ……

7日はひとつの小説をめぐる2つの読書会に参加した。ひとつの小説とは、パク・ミンギュ『ピンポン』斎藤真理子訳(白水社、2017。いじめられっ子の釘がセットでいじめられているモアイとともに卓球台を見出して卓球をするようになり、卓球用具店店主セクラテンに導かれて人類の未来を決することになる話だ。ひどく面白い。

2018年6月1日金曜日

噓だと言ってくれ!


といっても、明らかに噓をついている人物たちへの言葉ではない(その人たちに対しては、嘘をつくならもっと真面目に、ちゃんとした嘘をつきなさいと言いたい。嘘をつく度量がないのなら、個人としての誇りと人間としての最低限の尊厳を持ちなさい、と)。もう6月になったなんて信じられない、と言っているだけだ。

既に閉鎖したものも含め、ブログを始めて17年ばかりになるが、ひと月に記事がひとつだけだった月は先月がはじめてだ。

もちろん、何も書かなかったからといって何もしていないわけではない。

5月17日(木)には来日したホルヘ・フランコのレセプションに呼ばれ、コロンビア大使館に行ってきた。21日(月)にはそのフランコの講演会を聴きにセルバンテス文化センターへ。田村さと子を聞き手とする講演会は盛況であった。都市を舞台とする小説を書く自分たちの立場を丁寧に説明し、明解であった。

25日(金)には星野智幸の講演会を拝聴しに駒澤大学へ。法律の、説明の言葉と文学の言葉を区別し、法律の言葉が権力によって改竄され、言葉が奪われていくことに警鐘をならした。法が機能しなくなると文学も機能しなくなるのだ、と。

あるところに神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』(白水社、2018)の書評を書いた。表題作は今年の岸田國士戯曲賞受賞作。戯曲らしくない形式で書かれた三本の戯曲とエッセイとからなる1冊。エッセイは主に表題作のキャスティングのため(だと思う)にブエノスアイレスに滞在したり、そこで集めた俳優たちと京都でリハーサルしたりしているときのもの。

ブエノスアイレスの街の描写は、こんな風にメモを取りながら読んだのだ。

……書評の原稿には戯曲のことのみを書き、このメモは活かされなかったのだが。

ともかく。神里は日系ペルー人と日系日本人の間に生まれた人物で、少しのスペイン語をしゃべり、戯曲にもルーツに関係する場所やトピックが散見される。僕はこれまで彼の劇作品をそれとして観たことがなかったのだが、不覚であった。

2018年5月2日水曜日

4月は翻訳大賞で締めた



今年の受賞作はキム・ヨンハ、吉川凪訳『殺人者の記憶法』(CUON)ボレスワフ・プルス、関口時正訳『人形』(未知谷)。4回連続、ご縁のある方の受賞となった。

関口さんは残念ながら旅行中で、代わりに未知谷の社長の飯島徹さんが話をされた。製本のことなど、興味深かったのだ。

が、これでまだ4月は締まらず、30日(月)には、なんと! 『リメンバー・ミー』を見に行ったのだ! 僕がディズニーのアニメなんて見ないだろうと思ったその同行者は、僕がいとも簡単にいいよ、と言ったので、驚いたとのこと。ふふふ。

ギターを弾く手の再現が実に正確かつリアルで、恐れおののいた。

ところで、掃除機が壊れてしまったので、こんなのを買った。

ビックカメラの店員と話していて分かったことは、スティック・タイプのものはキャニスター式のものに比べて吸引力が落ちること。例外はダイソンであること、などだ。

では、なぜダイソンにしないのかというと、これは紙パック式だからだ。捨てるのが楽なのだ。

しばらくサイクロン式を使っていたのだが、やはり紙パックに勝るものはないのだ。

そういえば、コーヒーも最近はフレンチ・プレスでなく紙のフィルターを使うことが多くなってきた。

カミは偉大だ。

2018年4月26日木曜日

小説とはマジックである、と奥泉光は言った(僕も賛成)。


飯田橋文学会の現代作家アーカイヴ第14回奥泉光@東京大学駒場キャンパスを見に行った。インタヴュアーは鴻巣友季子。鴻巣さんは奥泉さんのかなりのファンなのだろう、作品を実に詳細に読み解いてインタヴューを構成していた。

最初、マイクのトラブルで生の声でのやりとりを10分ばかりも続けただろうか? マイクを通さないと映像に残らないというので、二次的な話(発行部数とか、そんな話)から始めたのだが、これがなかなか面白く、奥泉さんは「自分の書きたいことでなく読みたいものを書く」ことを自らに課していると言い、鴻巣さんは翻訳は需要が先にあると応じた。

このシリーズのインタヴューは作家自らが選んだ三作品を中心に話を進めるという形式になっているのだが、今回は『吾が輩は猫である殺人事件』、『虫樹音楽集』、『雪の階』の三作品。これらについて語りながら、ストーリーという調性とセンス、他作品からプロット(モチーフと言えばいいだろうか?)を骨組みとして借りること、という創作技法を披露する奥泉さんも実に明解だった。

『雪の階』の視点と文体の問題に関しては鴻巣さんが手品の話を引き合いに出したところ、奥泉光が自分は「小説手品論」というのを唱えているのだと解説。そういえば僕は「マジック・リアリズム」という語がいやで、『百年の孤独』のあるシーンを分析し、つまりこれはマジックの手法なのだ、いささかも「魔術的」などではなく、視点の問題で、小説に普遍的な話なのだと主張したことがあるが(ある短い文章の中で)、そんな僕からすれば、我が意を得たりといった感慨である。

懇親会で、このシリーズでは珍しく主役の目の前に座ることになった僕は、奥泉さんからなんとかという若手のお笑い芸人に似ていると言われた。その人物の名を思いついた時の奥泉さんの嬉しそうな顔は印象的なのだが、ところで、そうなのだろうか? まあ僕は平凡な顔ですから、誰にでも似ているんですよ、と答えておいた。誰に似ていると思うかによってその人の心理が分かる。ロールシャッハ・テストのような顔なのだ。

2018年4月4日水曜日

デスクトップ


今日は新入生の研究室別オリエンテーションの日で、新3年生と新大学院生たちへの説明に行った。

本郷キャンパスは3年生以上が学ぶ場なので、18歳の新入生というのはいない。だから他の大学とは華やぎ方が少し異なるかもしれない。

さて、なんとなく見せびらかしたくなったので見せびらかすと、最近はこういう体制で仕事をしている。わが家のデスクトップ。

いや、デスクトップにあるのはデスクトップPCではない。そうではなくて、机上にあるのはモニターだ。

機動力もないくせに機動力重視の僕は、小さなノートPCを大抵持ち歩き、家でも職場でもちょっとした外出先でも書いたり訳したりしている(ふりをしている)。以前、MacBook Airの時にはサンダーボルトのモニターを大学の研究室に導入して使っていたのだが、MacBook12インチにしたら、USB-Cなどという新しい端子が登場し、サンダーボルトが使えなくなってしまった。

参ったな。

USB-CからHDMIへの変換の器具はあるので、安いBENQのモニターに繋いでその場しのぎをした。

やがてアップル純正ではないが、LGからUSB-C対応のモニターが出た。だからそれを導入し、家で使っているという次第。ついでにBluetoothで繫がるキーボードとトラックパッドを導入。わが家ではMacBookはほとんど薄っぺらな本体という立場に落ち着くことになった。

Ultra Fine 4K を名乗るくらいだから、実に美しい。

2018年4月1日日曜日

彼我の差に愕然


フランス文学者・鈴木信太郎の家が豊島区の文化財として公開されるという話を聞いたのは、3月31日のこと。実は28日にはもう開館していたようだ。

鈴木信太郎記念館。

立派な家だ。

書斎がすてき。

この机で、執筆していたのだ。

ステンドグラスはカメラの設定をうまくできず、上が映っていないけれども、ともかく、こんなものが何枚か書斎には張られていた。

こんな書斎、僕も欲しいのだ……

2018年3月21日水曜日

メヒコは今日も雨だった


激しい時差ボケに苛まれている。

メキシコに行っていたのだ。行く前日が雨で、その日も午前中は雨だったが、少し晴れたので傘も持たずに出た。乾季のメキシコに傘など持っていってたまるか、という意識だ。ところが、メキシコではまだ雨季でもないのに、毎日のように夕方、雨が降った。そして帰宅したら冷たい雨、一部には雪が。

やれやれ。
(写真はイメージ)
帰国の日には、去年同様、国立フィルムライブラリーで映画をハシゴした。見たのは:

セバスティアン・レリオ『ナチュラル・ウーマン』(チリ、2017) 日本で公開中なのにまだ見ていなかったのだ。誰かが、原題はUna mujer fantástica なのになぜ『ナチュラル・ウーマン』? と言っていたが、案の定、途中、アリサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン」がかかっていた。その意味で松浦理英子と同じだな。

この映画のすぐれているところは、感情の盛り上がる場所でリアリズムを拒否しているところ。つまり、メロドラマなのだ。圧巻は、トレイラーにも使われているので、言ってしまっていいと思うのだが、あまりの強風に抗して主人公マリーナ(ダニエラ・ベガ)の立った姿勢が斜めになる(マイケル・ジャクソンのダンスのように)ところ。それから自暴自棄になったマリーナがクラブに行き、踊り狂い、行きずりの男と関係を持つという陳腐なシーンで、ここではいきなり衣裳も揃えたバックの連中とともにマリーナがダンスを(クラブでのそれではなく、振り付けのある、アンサンブルのダンス)踊り、しまいには……という処理。

ロマン・ポランスキー D'après une histoire vraie (フランス、2017)

これは日本で公開されていないのだろうか? 原作のある映画しか撮らないポランスキーがなかなかの皮肉なタイトルだと思って、見に行った。サイコサスペンスとしては詰めが甘い、などという評も見かけるし、なるほど、たとえばELLE(エヴァ・グレーン)は最後どうしたのだ? という思いも残る。

が、僕はどちらかというと、映画の完成度など唯一の物差しではないと思っている。僕はただ、パリのアパルトマンがすてきだな、と思うのだ。それからデルフィーヌ(エマニュエル・セニエ)のノートやら創作過程やら……

それに、メキシコの観客たちはいちいち声を挙げて反応していた。充分にサスペンスがあったということなのだと思う。

眠い。時差ボケに押し潰されそうだ。今日はここまで。

※ ポランスキーの映画は、この記事を挙げた翌日、『告白小説。その結末』のタイトルで日本での公開が決定した模様。この決定に対する僕の記事の影響力は、未確定。(ないに決まっているのだけど)

2018年3月4日日曜日

これも昨日のこと


東京シティ・バレエ団創立50周年記念公演『白鳥の湖』@東京文化会館

1946年、藤田嗣治が帝劇での『白鳥の湖』初演の舞台美術を手がけた。その資料を見つけて、それを手がかりに舞台美術家フジタについての博士論文を書いたのが佐野勝也。その博論は書き直しを経て佐野勝也『フジタの白鳥――画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン/新宿書房、2017)という本になった。佐野さんはこの本の完成を見ずに死んでしまったけれども、こうした活動を続けながらもフジタの舞台装置による「白鳥」の再演を希求していた。今回、足達悦子が佐野さんの遺志を受け継ぎ、復元、大野和士指揮、東京都交響楽団の演奏で上演と相成った。

日によってキャストが違うが、初日の昨日はいずれもベルリン国立バレエ団のプリンシパル、ヤーナ・サレンコとディス・タマズラカルがそれぞれオデット/オディールとジークフリード王子を客演。

「幻想的な」夜の湖と言えば青が思い浮かぶところを、フジタの美術はそこに緑を射し、鮮やか。ヤーナ・サレンコの羽と脚の動きの優雅さ、リズムの堂々としたタメは素晴らしかった。

『フジタの白鳥』の佐野勝也は僕の大学の先輩。外語大は通称「語劇」という専攻語による劇を作って秋の学祭で披露する伝統があるのだが(というか、学祭はもともと「語劇祭」であったわけだが)、僕も大学の最初の2年間は彼とともに劇をつくったのであった。最初の年は彼が演出、僕が舞台監督(ミュージカル『エビータ』)。僕が2年の時には僕が演出、彼はキャストの一員として(ガルシア=ロルカの『血の婚礼』)。ともかく、そんなわけで、東京文化会館大ホールの満員の人出ではあったけれども、学生時代、佐野さんに縁の先輩後輩たちとも顔を合わせたのだった。

観劇後は美女二人(要するにそこで顔を合わせた後輩だが)と牡蠣を堪能。

2018年3月3日土曜日

昨日のこと


昨日〆切りの原稿を、〆切りのその日に書き終え、同僚の最終講義に行ってきた。

同僚というのは中地義和さん。「ランボーと分身」というタイトルでそのテクスト分析の手法を披露してくださった。

昨日〆切りの原稿というのは、次の本に関するもの。

星野智幸『焰』(新潮社、2018)

大人の事情があるので、その原稿に書かなかったことを、一部……

『焰』は短篇集というよりは連作短篇で、読みようによっては長篇小説とも思える1冊。長編小説とも思えるのは、短篇と短篇とを繋ぐ短い文章があるからだ。冒頭は災害だか壊滅的な戦争の直後だかで生き残った僅かな人間たちが、焰を囲んで一人ずつ話を始めることが説明される。『トラテロルコの夜』や『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録』からの引用が差し挟まれ、つまりは災害というよりは人為的な災害による人類の死滅が示唆されているのだろう。戦争の後なのだ。

ひとつひとつの短篇は、自分ではない何ものかになる人物の話だ。その自分以外のものになるなり方が面白い。たとえば第四話「クエルボ」は、スペイン語を理解するものはすぐに察しがつくように、カラスになる人物の話。妻から「クエルボ」とあだ名される人物だからこのタイトルがついているのだが、このあだ名は、彼がテキーラのホセ・クエルボを飲んでいたから。こうしたミスリードをするのだが、繰り返すが、スベイン語を解するものならすぐに察しがつく。この人はカラスになるのだ。

ところで、この人物は第一話「ピンク」にも出てくる。

「クエルボ、またカラス?」と妻にうんざりされながら、一心不乱に池を眺める初老の男もいる。(14-15)

この「初老の男」が、クエルボこと室内なる人物。しかし、まだ第四話に至らない読者としては、ここで戸惑う。「クエルボ、またカラス?」だからだ。「カラス、またカラス?」と言っているのだろうか? 最初の「クエルボ」は呼びかけではなく、この発話をした女性(室内の妻・亜矢子)がスペイン語と日本語の話者で、単にスペイン語で「カラス」といい、それから自己翻訳して「カラス」と言い換えただけなのか? という具合に。

けれども、ともかく、「クエルボ」はあだ名だ。そしてあだ名どおりにカラスに変わるのだ。

カラスにつきまとわれることになった「私」こと室内は、ある日、カラスたちが自分に向けて上空から急降下し、バンジージャンプのようにまた上昇を繰り返すさまを眺めている。

 圧倒されてたたずむほかない私をよそに、カラスたちは落下劇を続け、食事を終えた個体まで加わり、うち一羽は落ちてから飛びあがるときに私の肩にぶつかったりした。俺をからかっているのか、と頭に血が上りかけたが、そのカラスは私の前に降り立って、私のことをじっと見つめ、クー、クーと小声で鳴いた。私はしゃがんだ姿勢で後ろ手を組み、カラスのつもりで、アーアーと喉から声を出してみた。
 気持ちいい。自然な気がする。
 カラスはそんな私をもうしばらく無言で見つめると、ついて来いという形に小首をかしげ、また飛び上がって遊びを再開した。私はついて行かれないことに無念を感じた。(101 下線は引用者)

たとえば猫を呼ぶときに、僕たちはしゃがんで猫の鳴き声を真似たりするわけだが、それに似たようなことをカラスに対してやったときに「気持ちいい」と、しかも「自然な気がする」と。ましてやその後、彼らについて行けないことに「無念を感じた」となったら、もうこの人はカラスになりかけているのだ。

ちなみにこのクエルボ、実際にカラスになったときには卵まで産むのだが、その描写もまた面白い。引用しないけど。みなさん、自分で読んでね。

つまり「私」はメスのカラスになったということだ。種が変わっただけではない。性をも超えたのだ。そのへんがまた面白いところでもある。最終話「世界大角力共和国杯」なんざ、冒頭から「ぼくはおかみさん。角力部屋のおかみさんである」(230)だものな。まいっちゃうな。