2019年1月3日木曜日

おせちもいいけどステーキもね


正月らしいことをしたくなった。それどころではないのに。

正確にいうと、休暇らしいことをしたくなった。

明日14日には教え子……いや、呑み仲間たちと新年会だ。計画を立てる際に最初、アルゼンチン料理店が候補にあがった。5日からの営業とのことで、他の店に決まった。

アルゼンチン料理と言えば、肉だ。牛肉だ。それをグリルする。アサードという。グリルではないが、その行けなかったアルゼンチン料理の敵を取る(?)ために、昨日はステーキを食した。まあ、これは正月らしいことではないが、あえて、それでタイトルに使った。タイトルはククレカレーか何かのCMのコピーのもじりだ。おせちもいいけどカレーもね。キャンディーズが歌っていた。ある年代以上の人にとっては、正月の風物詩だ。

で、休暇らしいこと。映画館で見損なった映画を見た。たとえば:

ミシェル・アザナヴィシウス『グッバイ・ゴダール!』(フランス、2018

ジャン=リュック・ゴダール(ルイ・ガレル)と妻アンナ・ヴィアゼムスキー(ステイシー・マーティン)の話だ。彼らが『中国女』で出会い、結婚し、分かれるまでの話。1967年から始まるので、これもまた68年を扱った映画と言っていい。ゴダールがカンヌを中止に追い込み、ジガ・ヴェルトフ集団を作って自らの全否定に走った時代の話だ。周囲との軋轢が深まるにつれてアンナへの嫉妬を深め、一度など自殺未遂にまでいたり、彼女に愛想を尽かされる。ヴィアゼムスキーの回想が原作なのでゴダールが実に憎たらしくて口うるさい、小難しい人物に造形されている。

カメラを見つめての台詞や、字幕を使って言葉の裏の本音を表現するなど、ゴダールその人への目配せも怠らないが、何よりもこれは、彼が68年の喧噪で4回も眼鏡を落として駄目にする話でもある(4回目はラジオで伝えられるのみではあるが)。メガネ、メガネ、ってなもんだ。横山やすしだ。

昨日、「Macの小さいの」と書いたのは、これのことだ。MacBookAir

そして最近は、机のスタンド、ベッドわきのスタンド、椅子わきのスタンドだけで夜を過ごしている。このくらいだと集中力が出る。
              

2019年1月2日水曜日

新たな気分で


新年だし、気分転換に部屋を少しばかり、ほんのわずかに模様替えしてみた。

何のことはない。机の上からCDプレイヤーを取り払っただけのことだ。

Macの小さいのを家ではモニターに繋いで使っている。このモニターのスピーカーがなかなかいい音なのではないかと思うようになった。

モニターの横にはCDプレイヤーが置いてあって、ふだん、音楽を聴くときなどは主に、iPadiTunesアプリから自分のライブラリ内や、ネット上で(会費を払っているので)聴ける音楽をかけ、それをBluetooth経由でこのプレイヤーで聴いていた。CDを入れることはめったにない。

そんな使用状況なので、モニターのスピーカーが(少なくともCDプレイヤーに比して遜色ないか、もしくは)いいのであれば、Mac内のiTunesで直接音楽をかけてもいいのではないかと思い立った次第。少しでも机を広く使うために、ステレオは隣の棚の上に移動した。

ついでに言えば、椅子の配置もこんな風に替え、少し機能性をよくしてみた。

なんだか新しい年を迎えたような気になった。

2018年12月12日水曜日

レビュー! ただしツールの


今年、秋学期の授業ではこれを読んだ。今日の授業で読み終えた。

Ricardo Piglia, Blanco nocturno (Barcelona, Anagrama, 2010).

ピグリアの『夜の標的』だ。ロムロ・ガジェーゴス賞受賞作だ。

が、これから書くことはこの小説についてではない。それを読むに際して使っていたツールについてだ。

既に報告したように、ちょっと前にソニーのデジタル・ペーパー DPT-RP1 というのを導入した。これだと本よりも気軽に持ち歩けるので、外出先でもするかもしれない予習のために、使ってみた。

本をコピーしてPDF化し、これをPC内のデジタル・ペーパー用ソフトに入れて情報を移行する。専用のスタイラスペンでそのファイル上に書き込みができる。デジタル・ペーパー自体の表示は白黒だが、ペンの色は青と赤から選べる。PDFファイルとしてこんな風に出力できる。

書き込みしながら文書を読むにはいい。もちろん、電子書籍同様、素早くめくるには適していないので、書き込みしながら読む予習のうちはいいのだが、授業でめくるには手こずる。

少なくともScanSnapで読み込んでPDF化したファイルには、適用されない機能があることが判明した。☆を書いておくとそれがしおり代わりになって、そのマークのある場所に飛ぶことができるのだが、これが読み込んだファイルだとできない。自分のPCのエディタやワードで作った文書をPDF化したものなら、もちろん、できる。

もうひとつ、喧伝されているすぐれた機能が、ファイルをみながらノートを取れるというもの。ノートも自動的に生成して、こんなPDFファイルとして読むことができる。

これの問題点は、参照元のファイルが小さくなるので、文字サイズによっては、見ながらメモというわけにはいかないことだろうか。それから、これはこのツールの問題点というよりは、読むファイルの性質の問題にもかかわってくるのだが、小説のように何日かかけて読む資料は、前に取ったメモを参照しながらのことも多くなるので、参照元のファイルが小さくなるこのサイドノートのあり方では、いささかもどかしい。

ファイルを見ながらノートを取れるという意味ではiPadのアプリFlexcilというのがあり、これはノートの位置を移動でき、参照元のファイルを小さくする必要がなく、少しばかりの利がある。Apple Pencil の方が書きやすい。なので、ノートテイキングにはこちらの方を選ぶ人が多いかも知れない。僕は、少なくとも小説を読む時には、メモはやはり外部化した方がいいかな、との観測を得ている。

ちなみに、デジタル・ペーパーのスタイラスペンもかなり書きやすい。ペン先を堅いのと柔らかいのから選ぶことができて、僕にしてみれば柔らかい方がより書きやすい。そして何より、圧倒的に読みやすい。自然に読める。それはメリット。授業や講演、学会発表などで読む原稿や、素早くめくる必要のないファイルなどは、これで読むのがいちばん。その他の用途は必要に応じてiPadなどと使い分けるといいのだろう。

2018年12月3日月曜日

今日も本を読んでみた(いつもだけど)


斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書、2018は中村光夫の『日本の近代小説』や『日本の現代小説』の後継を目指した、一九六〇年代以降に発表された代表的小説のパノラマを描くガイドブック。私小説とプロレタリア小説の発展の先にタレント本などを配置して、そのまとめ方が鮮やかで、唸らされる。個々の作品の掘り下げた分析とまとまった引用がない(短い引用ならある)のは、ガイドブックである以上は仕方のないことだ。何より、挙げられた小説の多くは、たとえ読んではいなくても、概要は目に(耳に)したことのあるものが多いのだから、やはり、そのまとめ方の手並みに唸るというタイプの本なのだろう。

たとえば、『されどわれらが日々――』と『赤頭巾ちゃん気をつけて』がインテリがいかに生くべきかとの問題が潰えるのが六〇年代だとした議論に続けて、七〇年代を論じながら『青春の門・自立篇』を解説する斎藤は、次のようにまとめる。

 『青春の門・自立篇』の舞台は一九五五年、貧乏と格闘する一方、何人もの女の子と関係を持つ伊吹信介は、とても『されど、われらが日々――』と同じ時代の大学生とは思えません。朝から晩まで発情している『青葉繁れる』の高校生たちはふざけた連中ですが、四年前に出版された『赤頭巾ちゃん気をつけて』と並べて読むことで、はじめてその意図がクリアになる。タイトルに埋め込まれた「赤」と「青」の対比も含め、「男子高校生の考えていることなんて、一皮剝けば、みんなこんなもんだべ」という批評性、ないしは敵愾心がそこには込められている。ヤワなインテリが担ってきた明治以来の青春小説の伝統は、つまり、七〇年代にはとっくに過去の遺物と化しつつあったのです。(73-74ページ)

ふむ。そういえば、三浦雅士は「青春」が終わったのは一九七〇年だと言ったのだった。実際の「青春小説」は七〇年代にむしろ増殖するのだが、それはもう既に「青春」ではなくなった青春小説なのだな。

2018年12月2日日曜日

今日から君もポハピピンポボピア星人


鹿島茂が立ち上げた ALL REVIEWS というサイトがあって、このたび、僕もそこに参加することになったのだ。ついに僕も書評家デビュー! ……いや、実際は、僕はこれまでもけっこうな数の書評を書いてきたのだ。その一部がここで順次、公開されるはず。

どこにも書評は書いていないのだが、最近読んだのは、これ:

村田沙耶香『地球星人』(新潮社、2018

母親からは半ば虐待され、姉に虐げられ、塾の先生には性的に虐待される語り手・奈月が、自らを宇宙人(ポハピピンポボピア星人)と見なし、宇宙人との自認を分かち合うことのできるいとこ由宇と疑似結婚することによって辛い少女時代を乗り切ろうとする話……と思ったら、その23年後、セックスや人間の再生産システムに対する嫌悪感を分かち合う智臣との偽装結婚がそのシステム(彼らが「工場」と呼ぶもの)との軋轢を深めたため、奈月、智臣、由宇は3人で籠城、宇宙人として生きていく決心をする話に転化する。そして思いがけないカタストロフ。

この作家の家族と再生産システム(つまり、セックスの社会的管理なのだが)に対する嫌悪感が実に好もしく、つい読んでしまう。昨日はこんど千葉に引っ越すという教え子と忘年会だったのだが、千葉には「工場」やら人工妊娠の実験都市があるぞ(『消滅世界』)と話して盛り上がったのだった。

2018年11月18日日曜日

ちっちゃいやつら


以前、告知したとおり、青山の「本の場所」というとこで何やらお話をしてきた。朗読+トーク、といったところ。

カルペンティエール研究から始まり、初の個人全訳もカルペンティエールであったこと、それをめぐって二度ばかり死にかけたことを話し、ボラーニョが描くメキシコDFの話で、次に出るはずの本を予告し、で、今度ある出版社に企画を出すはずの、つまり、僕が翻訳をしたいと思っている小説の話をした。それぞれ朗読つきで。つまり、最後のものについては、まだ存在しない翻訳を朗読したのだ。

僕たちは何か翻訳したいものがあるとその作家や作品について説明し、試訳を添えて提出する。それで出版社の企画会議にかけてもらうのだ。その資料のための試訳を読んだという次第。これに合わせて、長らく進めずに来た訳を完成させたのだ。

その作品というのは、Juan José Millás, Lo que sé de los hombrecillos ( 2010 ) 

ちっちゃな人間たちの話だ。その人間たちと感覚を共有することになった普通サイズの人間の語り。訳した部分はそんなちっちゃな人間たちの世界で唯一の女性とセックスするシーン。感覚共有の最大の醍醐味は性交と殺人だ。だからそのシーンを訳したのだけど、考えてみたら、それを人前で読むなんていささか恥ずかしい。

本の場所の前には「本」の文字の形の鉄のオブジェがあり、そこでイベントをした者はそのオブジェに自分の名を書き記すしきたりになっている。終わってその儀式を行った。表参道の駅からほどない本の場所には、かくして、僕の名が刻まれた。

2018年11月14日水曜日

ママ、人を殺しちゃった……


昨日、秘密の仕事を終えてから観てきたのだ。


館内に僕と同世代かもう少し上の人たち(老人と呼ぶには忍びない世代)が多いように感じたのは、平日昼間の早い時間帯だったからという理由だけではあるまい。きっと皆、若い頃、クイーンを聴いていた人々に違いない。僕も、ビートルズよりも先にクイーンを知った世代だ。僕にとっての最大のアイドルではなかったとはいっても、常に聴いていたアーティストであることは間違いない。

物語はフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)がブライアン・メイ(グウィリム・リー)やロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)に出会ってクイーンが結成され、「キラー・クイーン」や「ボヘミアン・ラプソディ」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」といった曲ができる過程を小さな山のように挟み、一時期の仲違いを経て、最終的に1985年のライヴ・エイドでのパフォーマンスにいたるまでの話を描いたものだ。

フレディ・マーキュリーはジンバブエで生まれてインドで育った。ゲイであり、公言はしなかったけれども、グラム・ロックの時代の時流に乗って奇抜な衣装をまとい(後にはハードゲイ風のタンクトップをも身につける)、その名も「クイーン」を名乗り、そしてあっという間にエイズによる肺炎で死んだ人間だ。実に興味深いバックグラウンドを持っている。いろいろな焦点の当て方があるだろう。

物語はフレディがメアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)と出会って結婚してからゲイに目覚め、自分の性的アイデンティティを見いだすという流れになっている。こうした描き方、いかにもゲイ(映画ではブライアンはメアリーに「バイセクシュアル」と告白する)の描き方としては問題だ。たとえばBuzFeedPier Domínguezはだいぶ不満のもよう(リンク)

この点に関しては、フレディがツアー先でメアリーに電話しながらその晩の相手に目をつける(ドミンゲスも言及している)シーンの最後に、メアリーが電話を切って誰か訪問客にドアを開ける一瞬のカットが気になるところ。明示されている以上にこの二人のカップルの関係について何らかのほのめかしがあるかもしれないというのが、僕の気になるところ。

生まれ育ちと、そこから来る葛藤についての描写も物足りない。冒頭から「パキ」と呼ばれて差別されていることがほのめかされ、家族との葛藤も描かれているのだが、それと音楽活動との関係は掘り下げられていない。たとえばかつてNHKが『世紀を刻んだ歌』というシリーズのドキュメンタリーの一環として「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」というのを放送しているが、その番組の方がよほど深く掘り下げていた。

といった不満は多々あろう。しかし、これは映画なのだ。映画はもっとも映画らしくクイーンを提示したに過ぎない。つまり、クライマックスの1985713日のライヴ・エイドだ。実際のライヴ・エイドの曲目からは一曲少ないものの、実物をかなり忠実に再現してウェンブリー・スタジアムの熱狂を伝えている。ポスターにも「ラスト21分」の感動を謳っているが、あれをあんなふうに再現されると圧倒されるのだ。映画ならではの再現。大ファンというわけではないけれども、そこそこ好きだった往年のファン(僕のような存在)やクイーンのことをよく知らない若い世代の者が、ともに懐かしく思い出す新たな思い出としてのライヴ・エイド。

そして、そんな再現を楽しくしているのが、俳優たちのなりきり具合。フレディだけでなくクイーンのメンバー全員が本物にだいぶ似せて(体格差さえも)作られている。びっくりだ。

映画の前の20世紀フォックスのロゴ(大島紬における「本場大島紬」の認定ロゴみたいなものだな)をみせる時の音楽すらも、ブライアン・メイ(本物)のギターの演奏になっている。

2018年11月11日日曜日

500ポンドと自分だけの部屋


ヴィム・ヴェンダース監督『ローマ法王フランシスコ』(スイス、ヴァチカン市国、伊、独、仏、2018@今日もラテンビート映画祭。

ヴァチカンからの委託で作られた映画らしい。ヴェンダースが行ったフランシスコ教皇へのインタヴューに様々な場面のフッテージをつなぎ合わせたドキュメンタリー。が、現教皇をアッシジの聖フランシスコにたとえ、アッシジのフランシスコの活動を再現ドラマのように挿入しているので、フィクション、みたいなものだ。

教皇がアッシジの聖人にたとえられるのは、名前が同じだからのみではない。清貧を旨とする点においても同様だ。そして現在のフランシスコは、貧困問題を現代社会の問題の中心に捉えてもいる。『回勅 ラウダート・シー』などの態度表明が話題になった。数々の演説などの映像と、聖書のみならずトマス・モアやドストエフスキーまでも引用してのインタヴューとが彼の思想のエッセンスを伝える。

貧困は大問題だ。貧富の格差を拡大するシステムへの反動というか、反省、そうしたシステムの修正が急務の課題となっている。それは政治の問題であり(残念ながら日本では絶望的だが)、経済主体の問題であり、同時に精神の問題でもあるのだろう。精神の局面で貧困を問題化する教皇は、いわば時代の要請に応える存在なのだ。共通善(と字幕では訳されていたが、教皇自身はun bien mayor とも言っていた。より大きなひとつの善)を合い言葉にグローバル社会を見直す新しいコモンズ主義者たちとの親和性が高い。たとえば、ステファーノ・バルトリーニ『幸せのマニフェスト』中野佳裕訳(コモンズ、2018らが政治経済的視点から新しいコモンズを提唱している。フランシスコの言動にこうした系譜の発露をヴェンダースは見いだしているのだろう。LOHASの概念やいわゆるミニマリストの風潮もこの時代の産物だ。「500ポンドの収入と鍵のかかる自分だけの部屋」という、フェミニズムの文脈で語られがちなヴァージニア・ウルフの作家になるための条件に、たとえば、安心できる公共のスペースの確保というのを加えた条件を、人は目指しているのかもしれない。目指すべきなのかもしれない。だからそこに満足しているような教皇(やホセ・ムヒーカといった人々)が人気を博すのかも。

2018年11月10日土曜日

俺が観なけりゃ誰が観る


クリスティーナ・ガジェーゴ、シーロ・ゲーラ監督『夏の鳥』(コロンビア、2018)@ラテンビート映画祭

冒頭、これが事実に基づいているとの字幕が提示されるし、エンドクレジットではクリスティーナ・ガジェーゴの発案からできたと注釈があるけれども、これは僕の訳したフアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社、2016に対応するというか、それを補うものだ。「俺が観なけりゃ誰が観る」とタイトルをつけたのはそういう意味だ。

グワヒーラの先住民ワユーの青年ラパイエット(ホセ・アコスタ)が美しい娘サイダ(ナタリア・レイェス)と結婚したいと思い、サイダの母親のウルスラ(カルメン・マルティネス)に要求された品物を買うために、平和部隊のグリンゴ(北米人)たちに大麻を売ることにする。親戚のアニーバル(フワン・バウティスタ)が栽培するそれを友人のモイセス(ジョン・ナルバエス)と組んで仲買をしたのが間違いのもとで、金は儲けたのだが、トラブルが続き、……やがて破滅に至るという話。

周知のごとく、バスケスの『物が落ちる音』は平和部隊の隊員(彼女自身は麻薬取引には関与していない)と、その仲間の平和部隊隊員の麻薬密売の運び屋になったコロンビア人との話だ。この小説では栽培者である農民たち(先住民であることが多い)は特に言葉を持たない。その欠落を補っているのがこの映画だと言っていい。逆に平和部隊のグリンゴたちについては詳しくないこの映画は、先住民社会の贈与の体系が大麻の取引に関するトラブルに絡み合う形で描かれ、丁寧である。さすがは『彷徨える河』の監督なのだ。

荒野と家、煙、雲の図が印象的。

2018年11月8日木曜日

子供欲しい?


友人のツイッターで今日までだということを知ったので、仕事の打ち合わせを終えて吉祥寺まで出向き、観てきた。


いわずとしれたフェデリコ・ガルシア=ロルカの『イェルマ』をサイモン・ストーンの演出(脚色もか?)でヤング・ヴィック劇場で上演したものを映画としてみせるもの。通常の映画料金よりは演劇の料金に近い額での提供であった。

子供のできない女性の苦悩を描いているのはガルシア=ロルカの作品どおりなのだが、舞台を現在のロンドンに移し、うまく脚色した。ロルカ的カトリック=スペイン=地中海=アンダルシア的閉塞感に変わって、SNSやら不妊治療、ローンなどが主人公「彼女」(ビリー・パイパー)の精神を追い詰めていく。うまいアダプテーションだ。演技も素晴らしい。ガラス張りの舞台を前後から観られるようにした会場のレイアウトもなかなか。

渋谷から吉祥寺に向かう途中、井の頭線の向こう側の車両から4-5歳くらいの女の子が楽しそうに手を振ってきたので、僕も満面の笑みをたたえて手を振り返した。子供はかわいい。子供が欲しい。その気持ちは分からないでもない。でもまあ、僕はそうでもないのだが……

ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』中山エツコ訳(河出文庫)とその親本(2016年刊)