2014年12月15日月曜日

貧乏の効用?

トリクル・ダウンなどという世界のどこでも功を奏しなかった理論(※1)を振りかざして「この道しかない」と脅すヤクザ者たちがのさばってしまっているので、私たちは貧しくとも生きていく道を探らねばならないのだろう。

貧しいと言えば、学生時代のぼくは付箋紙を買う金もなかったのだろうか? ノートやコピー用紙の残部を縦長に切り、付箋紙の代わりに本に挟んでいたようだ。

あるいは節約の精神(貧乏性とも言う)なのか? それともこうすることにこそ何らかの意義があったのだろうか?

アルトゥーロ・ペレス=レベルデの小説をロマン・ポランスキーが映画化した『ナインス・ゲート』で、主人公(ジョニー・デップが演じた)がある収集家の貴族の女性の家で見出した本には、そんなあまり紙らしいものを切り、メモ兼付箋としているかのようなものが挟まっていた。

ふむ。これは意外にいい考えかもしれない。付箋でもありメモでもあるもの。

たとえばぼくはこれから大量の修士論文と卒業論文を読まなければならないのだが、それらは研究室に保管され、後輩たちが参照できるようにするものだ。だから無闇やたらと書き込みするわけにもいかない。そんな場合があるのだ。そうしたときのために、コピーの残部を付箋代わりにして、そこにメモも書きこむ。試してみる価値はあるかも?


(※1) 中山智香子『経済ジェノサイド』が伝えているところによると、新自由主義経済政策はチリやアルゼンチンなどで試行され、実際にはそれほどの効果を上げなかった。それだというのに、自己宣伝によって「この道しかない」とでもいいたげに自らを売り込んでイギリスやUSAなどで採用されるにいたるのだ。アメリカ合衆国がその後どうなったかは周知の如く。

2014年12月14日日曜日

Hoy se ha suicidado nuestra democracia. あるいは下衆とシックについて

今日、14日『朝日新聞』読書欄11面「売れてる本」で紹介されていたのは、ジェニファー・L・スコット『フランス人は10着しか服を持たない』神崎朗子訳(大和書房)

朝日の編集委員鈴木繁のまとめていたことを思い切りパラフレーズして言うならば、要するに悪趣味で下品なアメリカ人がフランス人にシックの何たるかをさとされて開眼し、それを伝える、という話。

実際、ちょっと前からネット上でもいろいろと評判で、ぼくの場合、まあこの種の本は本屋での立ち読みで済ませるので、そうしようと思ったら、池袋西武リブロでもたくさん面出しされていたのだが、既に立ち読みの先客がいてできなかったという次第。なので、上のまとめはだいぶバイアスがかかっているかも。

しかし、……

はて……。

今日も選挙で悪趣味で下品な成金どもの利益団体が大勝したとか何とか……

ぼくだってフランス人張りにシックを気取るほどではないにしても、それにしても品のない連中は嫌いだ。安倍晋三の顔などもう見たくはないのだ。


『フランス人は10着しか服を持たない』が売れる世の中とは、シックなんて言葉すら知らないだろう下衆がのさばる時代であるのだなあ。まことに世は反語的なのだ。

2014年12月13日土曜日

ぼくだって本を読む

そんなわけで、「冊」の単位に還元したらどのくらいになるかはわからないが、ぼくだって本を読む。

ところが、その本たちは授業のためだったり執筆のためだったりに読むものである割合が、このところ高くなってきた。趣味、……というか、すぐには何かに反映されないけれども読んでみた、という本が少なくなってきた。

たとえばぼくはNHKテレビでスペイン語のテキストに「現代作家の味わい方」という連載を持っていて、なるべく最近訳された小説などを紹介している。そのために読むものもある。そこで紹介するので、いきおい、ここではあまり紹介しない。

たとえば今度出る1月号ではエドゥムンド・パス・ソルダン『チューリングの妄想』(服部綾乃、石川隆介訳、現代企画室、2014)なんてのを紹介しているし、来月号ではロベルト・アンプエロ『ネルーダ事件』(宮崎真紀訳、早川書房、2014)を紹介する。それについては本文をどうぞ、というしかないのだな。

ところで、『チューリングの妄想』は面白かった。イシアル・ボヤイン『ザ・ウォーター・ウォー』(スペイン、フランス、メキシコ、2010)なんて映画に想を与えたボリビアの水戦争とパラレルな事態が電気に関して生じている架空の都市で、反グローバル化の動きをサイバースペースと現実空間で起こす集団と、それを食い止めようとする国家の情報機関との攻防を扱った小説だ。暗号解読者が主人公なので、暗号についての蘊蓄が垂れられ、推理小説とは暗号の歴史なのであったということを改めて知らされる。パス=ソルダンは「反マジックリアリズム」のマニフェストと言えるMacOndoに参加した人物だが、さすがだ。

読んでね、小説そのものと、ぼくの紹介文。


背後に見えるのは『図書新聞』12月20日号。ここに1年を回顧している。(ぼくは回顧しているのだが、他の人たちは下半期の3冊を挙げている。崎山政毅さんが『チューリングの妄想』を収穫に挙げている)

2014年12月11日木曜日

本は読むべき……だろうか?

ちょっと前にこんなニュースが流れた。文化庁の国語に関する調査で、人々の読書実態を調査したら、ひと月1冊も読まない人が半数近くいたという話。それを受けて、昨日、NHKではこういう番組を放送したそうだ。残念ながらぼくはその時間帯、たくさん本を読む人たちと本を読まずにパエーリャなどを食していた。よって、観ていない。立花隆の意見は知らない。NHKの意図も知らない。

わかっていることは、問題が、人は本を最初から最後まで辿り、それを辿り終えないうちは1冊読んだとみなさないというオブセッションに囚われているところにある、ということだ。

管啓次郎は本を「冊」の単位で考えることはないのではないかと提唱している。ぼくも何度かここに書いたけれども、大半の読書法指南書が、そう明記せずして伝えていることは、1冊丸ごと読む必要のない本というのが存在するのだという事実だ。

そもそも20ページの本も1,000ページの本も同じひとつの「冊」という単位で扱っていいのか? 


すべての本を丸ごと1冊読む必要はないのだよ。そう伝えるところから読書の推進は始まるのだと思うのだけどな。

2014年12月8日月曜日

本は高い……だろうか?

ぼくは「外国」の婉曲語法として「海外」を使うことに抵抗がある。「外国」で通す。


書物、もしくは読書行為は以下の2つにカテゴライズされる。

1) 趣味、もしくは余暇(の伴)
2) 仕事(のための資料)

2)にはさらに以下の下位区分がある。

2)-i) 一次資料
2)-ii)二次資料

2)-i)一次資料とは、仕事で論じる対象となるもの。2)-ii)二次資料とはそのための補助となるもので、さらに、

2)-ii)-a) 情報取得のために必要なもの
2)-ii)-b)思考のヒント、比較対象、等々に使われるもの

に区分してもいい。もちろん、一冊の本がこれらの中の複数のカテゴリーに跨がることはある。往々にしてある。2)-i)一次資料が文学作品である場合、1)と区別をつけることは難しい。

今そのカテゴリー横断は措いておこう。2)-ii)の場合、とりわけ2)-ii)-a)情報収集のための本の場合、ぼくらが必要とするのはそのピンポイントの情報だけだ。そんなもののために一冊まるごと読まないし、そのためにその本を買ったりはしない。(研究者となると、こうしたものも手許に置かないと成り立たないので困るのだが、それはまた別の話)

が、困ったことに、読書好きを自認する人の中には、ぼくらにとってこの2)-ii)-a)の意味以上のものを持ち得ない本を偏愛する人もいる。市場にはぼくにとってこの意義しか持ち得ないと思われる本の方が多く出回っている(そのこと自体はなんら非難すべきことでもないし、軽侮すべきことでもない)。

ピンポイントな情報だけ必要ならば、その情報だけ取れればいいので、場合によっては本屋で立ち読みしたっていい。が、2)-i)の場合、線を引いたり書き込みしたり、折ったり破ったり(!)しながら読むので、やはり買って手許に置いておきたい。外国文学を一次資料とする場合は、やはりそれは原書でなければならないといのうが暗黙の了解なので、その翻訳となると、2)-ii)-b)に分類すべきなのかもしれないけれども、これは限りなく2)-i)に近いので、2)-i)' とでもしておこう。2)-i)' とすべき存在を図書館で借りて済ませるわけにはいかない。借りる場合は、それを自分自身の本にする(つまり線を引いたり書き込みしたりする。そして貸出期限を過ぎて持ち運びする)ために丸ごとコピーすることになる。400ページの本の場合、おおよそ2,000円かかる。それでも商品としての外国文学作品よりは安上がりかもしれないが、読みやすさ持ち運びやすさ等々を考えると、あまりお得とは言えない。

2)-ii)二次資料を読むのに1日かけることはまれだ。2日以上かけたら、それは怠慢だ。一方で2)-i)一次資料は、何しろじっくりと取り組まなければならない。2日、3日、一週間……一ヶ月……なんなら1年かけたっていい。10年かけたっていい。

さて、ところで、2)-i)一次資料が書物でありうる分野は、哲学や文学、その他、少数の人文科学の分野だけではあるまいか。経済学者ならば目の前の日々の経済活動(やそれを記す資料)が一次資料だろう(経済学史の分野ならば経済学の書物が一次資料となるだろうけれども)。哲学や文学、そして理論の書物は読むのに時間がかかるし、かけていいし、かけなければならないし、そうでなければつまらない。

たった一行だけの情報を収集するのに、たとえば、500円出してそれが掲載されている書物を買うのを、ぼくはもったいないと思う。3年かけて読むかもしれない、少なくともその価値があるかもしれない書物(その価値のある書物の補助となる書物)に1万円かけるのに躊躇はしない。

ましてや1)趣味となれば、人は金に糸目はつけないはずではないか?

……とはいえ、もちろん、安いに越したことはないけれどもね。


高いと言われる翻訳書をいくつか世に出した立場からすれば、高いからといってそれだけ実入りがよくなるわけではないことは、声を大にして言いたい。むしろ、逆かもしれない。外国文学の翻訳だけで(少なくともスペイン語からの翻訳だけで)生きていくことなどできない。

2014年12月7日日曜日

洪水は一七九七村におよび

火曜日の演習の授業で、偶然、2週続けてダニエル・アラルコンについての発表がある。まずは前回、『文學界』2013年4月号に掲載された短編「洪水」(藤井光訳)の発表があり、今度は『ロスト・シティ・レディオ』(藤井光訳、新潮クレストブックス、2012)について、訳者のtocayoが発表する。

『ロスト・シティ・レディオ』は、ペルーを想定しているのだろうが、一応、架空のある国が舞台になっている。内戦が終結したその国の首都で、行方不明者の名前を読みあげるというラジオ番組のパーソナリティを務めるノーマの許に、一七九七村という密林地帯の村民に託され、その村の行方不明者のリストを携えた少年ビクトルが訪ねてくる。ビクトルと彼に付き添ってきた首都出身の教師エリアス・マナウが実際のラジオ番組に出演するまでが小説の外枠。それまでの数日間の行動の合間に、カットバックの手法によってノーマとビクトル、それに国の内戦の過去が語られていく。


先週の発表が、terruco(田舎に潜伏して活動するゲリラ)という存在の共通性からマリオ・バルガス=リョサ『アンデスのリトゥーマ』との比較に及ぶものだった。『ロスト・シティ・レディオ』もまた、先住民の集落に足を踏み入れる首都の知識人/ゲリラというテーマにおいてバルガス=リョサとの比較が有効かもしれない。たとえば『密林の語り部』との。そしてまたカットバックの手法の多用という形式的側面においても、比較ができそうだ。

2014年12月6日土曜日

友あり

愛用のOlympus OM-D E-M10に今度こんなレンズをつけてみた。25mm単焦点の標準レンズ。f1.8のかなり明るいもの。

f3.5でもこんな感じ。

で、この空の青さと浮き出る卒塔婆など、撮ってみた。

友あり、遠方より食を携えて来たり。また楽しからずや。カプレーゼにバジルが浮いて見える。


夜の御徒町駅前。ストロボなしでこの絵が撮れる。

あ、しまった! 昨日のShakespeare、撮ってくればよかった。

2014年12月4日木曜日

シェイクスピアの偉大さについて

上野に行く用があったので、そこから歩いて大学に向かった。湯島天神の横に出るのに、なんと言っただろう? 不忍池の南端から一本入った、いわばいかがわしい通りを抜けた。呼び込みのあんちゃんたちがすり寄ってくるのをかわしながら歩くぼくの目に飛び込んできたのが、水着の女の子がふたりでこちらを見ている立て看板。書いてある屋号は:

Shakespeare
シェークスピア

参ったな。立ち止まってまじまじと確認しちまったよ。

これはいわゆるキャバクラだろうか? それとももっと違う範疇の店か? あるいは射精産業なのか? 店名に心奪われて、そのカテゴリーの見極めができなかった(そもそもそれが明記してあったのかも定かではない)。

カテゴリーがどうであれ、人見知りの対人恐怖症気味なぼくとしては、そんな見ず知らずの女性のいる店にさして興味はないのだが、でも、どうしよう、グローブ座みたいな内装の店で、壁には、

To be or not to be.

とか、

It is the cause. Yet I'll not shed her blood,
Not scar that whiter skin of hers than snow.
And smooth as monumental alabaster.

なんて貼り紙(?)がしてあったら……

ぼくにはこんなお店やこんなお店で働く人の清廉さを問題にする気もないし、そういう立場にもないが、シェイクスピア(ぼくはこの表記でいく)という名がこういう店でも何らかの力(わいせつ? エロス? 淫靡?)を持ちうるのだという事実に、なんだか素直に感心してしまった。

シェイクスビアは偉大だ。


(カメラをバッグに忍ばせていたはずなのに、写真を撮るのを忘れたことだけが悔やまれる。代わりに、今日送られてきた投票所入場整理券の写真を添えておこう……代わりになるのか?)

2014年12月3日水曜日

流通の都合について

J. Herbin のビュヴァール、すなわち吸い取り紙。

ぼくは主に万年筆をつかうので、こうしたものをノートに栞代わりに挟んでおき、インクの他ページへの移りを防いでいる。普通の紙でも良かったのかもしれないけれども、あるとき、Amazonで見つけて取り寄せ、使っていた。ノート1冊使い終わるころには紙もインク汚れだらけになるので、1冊1枚だ。

これがこのセットの最後の1枚だったのでまた買わなければ、と思っていた。Amazonで検索したところ、見つからなかった。

他のサイト(分度器ドットコム)で見つけて注文したからいいのだが、……はて、どうしたのだろう?

ネット販売の契約にはいろいろな条件があろうから、折り合いがつかなくなったのか、単に切らしているだけなのか?


まあいいや。ともかく、補充はできた。大きさもノートに挟むのにちょうどよくて、重宝するひと品。

2014年12月2日火曜日

「壁ドン」とは何の丼だ、とつぶやいてみる

日付が変わったが、12月1日には流行語大賞の発表があった。ノミネートされた語の中に「壁ドン」というのがあった。壁を背にした女の子を男が追い詰め、壁に「ドン」と手を突き、迫る、というもの。

それを「壁ドン」と名づける命名センスのなさに、まずは驚け。そんなセンスのない名が流行語になってしまうことにもっと驚け。あきれろ。

で、次なる問題。これについて、ある人が、Facebook上で、そんなことされたら怖くないかな、と書いていた。ぼくは早速反応して、こういうコメントを書いた。

威嚇ですね。相手を追い詰める行為です。ぼくならそんなことされたら、顎に掌底を入れ、腹(または股間)に膝蹴りを入れます。あくまで反射的に。

誰かが、いや、あれはされる女の子もその先を期待しているからいいんじゃないの、と書いてきた。

ふむ。そうかもしれない。しかし、ぼくにはまだ言いたいことがあった。だから書きこんだ。こういうことだ。

 ぼくは高校3年生の時、180cm100kgの友人(その直前まで友人だと思っていた男)に同様の仕打ちを受けたことがあります。もちろん、ぼくには「期待」などありませんでした。彼にしたところで悪意もないし、性的(?)な意図もない。突発的な思いつきの冗談だったようです。でもそれは本当にびっくりするできごとでした。上で書いたほど効果的な反射行動は取れなかったけれども、ぼくは一瞬後に蹴りを入れ、喧嘩に発展しました。彼は謝り、ぼくもそれ以上は追求しませんでしたが、その後、ほとんどしゃべらなくなりました。  
 本当に「期待」が存在していればいいのかもしれませんが、こんなものが流行語になるほど流行るのだとすれば、勘違いする輩はいないわけではないでしょう。心配です。  
 「期待」も存在しないのにそんなことをされて、そこに好意が生まれるとすれば、それはまるでショック・ドクトリンというか、洗脳というか、そんなものだと考えるのは飛躍が過ぎるでしょうか? いずれにしろふたりで同じ恐怖をくぐり抜ける吊り橋効果とは少し違うと思います。 
 少なくとも、追い詰められて脅されることを待ち望む人間の気持ちはぼくにはわかりませんね。 
 失礼しました。ついこんなことを書かねばならないほど、ぼくはその高校3年生の経験に傷つけられているのだと思います。

もちろん、呼称が「壁ドン」であっても、乱暴にではなく、そっと壁に手を置けば、それほどの恐怖は引き起こさないのかもしれない。けれども、追い詰める体勢なのは変わりがない。ぼくは、そんなものを待ちわびる、「ショック・ドクトリン」を「洗脳」を待望する時代が怖い。


ま、実生活で「壁ドン」(この語感も、あくまでも嫌いだな)をする人などほとんどいないとは思うけれどもね。だけどな、流行になっちゃうと、本当に、勘違いしてやりたがるやつがいると思うのだよな……