2014年11月30日日曜日

糞尿譚、というか、尿尿譚……?

まずは傍系の前提。学生のころに聞いた(うろ覚えの)エピソード。ある大家(ぼくらの先生たちの世代の人が教わった先生)が教え子(つまりぼくらの先生たちくらいの世代)と共訳の本を出したはいいが、そのあとがきに「小便をおしっこと訳すような小娘」と仕事をしたのは間違いだったとかなんとか、そんなことを書いたとか書かないとか……少なくともぼくはそれを確認していない。あくまでも伝聞だ。うろ覚えの伝聞だ。でもまあ、ある種のオブセッションではある。

さて、ところで、俗語でもない語を俗語風に訳す翻訳(や映画字幕)をぼくはあまり信用しない。つまり、同様に、幼児語でないものを幼児語に訳すのはいかがなものかと思う。

さて、ある翻訳で3度ほど「おしっこ」という語が出てきた。原文を持っていないので確認していないのだが、文脈から考えるに幼児語が使われているとは考えにくい場所だ。言語はmeadaとかorinaではないかと推測される。ここではその翻訳を非難する意図はないので、それに少し違和感を抱いたということだけを指摘しておこう。上のエピソードを思い出した、とだけ。

その後、テレビか何かで、やはり幼児語でもないはずなのに「小便」の代わりに「おしっこ」と使われているのを聞いた。なるほど、ある種の語彙は幼児化する方向に行っているのだな。それが日本語の流れなのだな。

けっ! 馬鹿な話だ。

orinarやmearは「小便する」であり、「(お)しっこする」ではない。大辞林にも書いてある。「しっこ」は「小便の幼児語」だ。ぼくが翻訳するなら、少なくとも、そう訳す。幼児語でない「おしっこ」があるなら、幼児語はどう訳せばいいというのだ? 「しーしー」か?

が、しかるに、今回、ある小説の翻訳をしていたらpipiやらcacaやらの幼児語が出てきてしまったのだ。

参ったな……「おしっこ」とか「うんち」とか使っちまったよ。

使っちまったのは構わないのだが、ぼくのような人間から勘違いされはしないか、それだけが心配だ。今訳している小説というのは話者が宇宙人で、彼の言語運用がちぐはぐなところも面白さのひとつだ。だからときどき、こうした幼児語も使われる。ここは下手に大人風の発話をさせては、翻訳者としては裏切り者になってしまう。ジレンマなのだ。


うーん……みんな、わかってくれるかな……心配だなあ……

2014年11月23日日曜日

いわゆる”夢オチ"というのではなく

アレハンドロ・カソーナ『海の上の7つの叫び』(1952)は、大西洋横断客船の中の上級客室の8人が船長に呼び集められ、これから始まる戦争でこの船がおとりとなって沈められることが決まっている、だから銘々、覚悟を決め、自らの人生において犯した罪を告白するように、と命じられる話。妻への自殺教唆や売春の過去など、上流階級の人士の集まりのはずが、ひとりひとりはあまり立派ではない過去を抱えていることが明るみに出される。

ちょっと前に、あるところで、この船長役を演じている人物に会い、観に来てくださいよ、と言われていつものごとく安請け合いしたので、見に行ったという次第。

外語祭のスペイン語劇のことだ。ブエノスアイレスで初演されたこの亡命スペイン人劇作家による作品には食指を動かされたこともあり、約束を守って行ってきた。

台詞回し、というか、スペイン語のセリフの感じは、近年で一番のできだったと思う。もちろん、個人差はあるし、個々の音や個別の単語などでまずい発音はあるものの、リズムやイントネーション、スピードなどは平均的に良かった。演技そのものはまだまだ研鑽の余地が残ったという印象だが。

内容からわかるように、もちろん、言葉のやりとりが生命線であるような戯曲だ。セットや演出などに凝った味を出すのは難しい。だからこそ、その良くできた台詞回しに見合う身のこなし(演技というよりは、これだ。身のこなし)がもう少し訓練されているとよかったな、ということ。身のこなしと、間。

でも、しかし、演出はどこへ行ったのだ? パンフレットに書いてくれないと記載できないぞ。


字幕はこの写真のようにプロジェクタをセットして投影していた。こんな風に壁にポールでくくりつけた形は初めてだったのではないだろうか? 

休日終日旧交を温める

行ってきた。東京外国語大学の学園祭、外語祭。

ぼくだって学部学生だった5年間は何らかの形でコミットしたし、楽しんでいた。大学院に進学すると、あまりかかわらなくなった。外語の教員になった2004年は、もうキャンパスも移転した後だったし、ずいぶん様変わりしてしまった外語祭(料理店がすべて屋外)には戸惑いつつ、別ものだと思えばいいのだと独りごちながら、結局、在任中の9年間、毎年必ず1日か2日は行くことになった。

昨日のNHKの朝の番組では子供と行ける学祭として紹介もされていた。実際、子供連れの近隣住民も多く見かける(この近所に住んでいるある作家も、訪ねるのだと言っていたな)。一方でOBOGもたくさん来る学祭と言っていい。外語時代の教え子たちも卒業後もこの時期によく見かけた。

さて、今では他大学勤務となったぼくは、OBとして、と言うべきなのか、卒業生に連れられて、と言った方がどうやらよさそうな感じだが、そんな風にして、昨日も行ってきたのだった、外語祭。

で、なんとなく思うのだが、こうして卒業後も親しくぼくを誘ってくれる人たちは、外語祭にもよく行く。


……ような気がする……なんとなく……

2014年11月20日木曜日

出来

港千尋監修、金子遊・東志保編『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』(森話社2014)

ここに「祝祭と革命 クリス・マルケルとラテンアメリカ」という文章を寄稿している。クリス・マルケルはキューバ、ブラジル、チリ、などラテンアメリカの国々を題材にドキュメンタリーを撮っている。彼が製作に名を連ねた『チリの闘い』の監督パトリシオ・グスマンとの関係のこと、後に自身の作品の数に入れなかったけれども、だからといって忘れるにはあまりにも惜しい『キューバ・シ!』の描き得たもののことなどを書いている。


買ってね。

2014年11月14日金曜日

変化する色

Claveという辞書の初版に寄せた序文でガブリエル・ガルシア=マルケスは、ある日、amarilloを引き、そこに「レモンの色」と書いてあったので、「闇の中にとり残された」と書いている。コロンビアやメキシコ、キューバなど、彼の知る国々ではレモンは黄色ではない。緑色だ。むしろライムのような色だ。

そのClaveのamarilloの欄に「レモンの色」と定義があるのだから、皮肉なものだ。

ところで、今回のアカデミアの辞書改訂は、その黄色=レモン色に関して微妙な変化があった。limón(レモン)の定義は前の版では「常に黄色」だったのが、今回、「しばしば黄色」に書き換えられている。amarillo(黄色)の定義は「黄金やレモン、エニシダ、等々に似た色」だったのが、今回は「黄金か卵の黄身に似た色」と、レモンが抜けている。

もちろん、ガルシア=マルケスのみの功績ではないのかもしれないが、アカデミアはレモンが黄色だという立場を変えたのだ。


素晴らしい。

注) その後、こういう指摘をうけた。つまり上に書いたような定義の変化は既に22版においてなされているということだ。なるほど、そのとおり。ぼくはうっかり、手許にあった版を引いて、それが22版だと思い込んでいたのだが、実はそれ、21版だった。22版は今は手許にないのだった(どこに行ったのだろう? 実家か? 書庫か?)。

買ったばかりの23版を捲っていて、たまたまlimónの項目が目にとまり、そこでガルシア=マルケスの言葉を思い出し、読んでみると、あれ? と思い、手許にあった旧版(21版)を引いてみて、違いに気づいて、amarilloも違いを確認し、そして上の文章を書いたのだった。


不明と軽率を恥じる次第だ。ここで書いた記事は13年前のものと思っていただければ幸甚。

鼻腔を拡張するについて

内視鏡の検査に行ってきた。事前に採取された血液の検査結果はおおむね問題ないが、中性脂肪の値が少し高め、とのこと。

ああ、おれはもうすっかり肥満児なのか! 

……「児」ですらないか。肥満中年。

まず鼻に噴霧薬を入れられた。右の鼻の方が通りがよさそうだ。しばらくして右の鼻だけに麻酔。ゼリー状のものを少しずつ流し込む。それでまた時間を見る。洟垂れ小僧になった気分だ。

鼻からの内視鏡は、確かに、喉に詰まることもなく、スムーズに行くのだが、喉が人工的に広げられているという感覚は拭いがたい。よく見えるようにと胃に水を送って洗浄したりしながらの撮影なものだから、腹がふくれる感じがしてどうにもやるせない。何かを切り取る器具のようなものまで挿入されたので、色めいた。

特に問題はないとのこと。胃の中ほどが赤くなっていたので、万が一を考えて細胞を採取したのだとのこと。最悪の場合はこれが癌などのごく初期の徴候のこともありうるが、まあ見る限りそこまでではないでしょう、胃炎か何かでは、とのこと。

その後、神保町まで出張って買ってきた。Diccionario de la lengua española. スペイン王立アカデミーの辞書の第23版。箱入りだ。

これを買いに行く途中に、大学時代の先輩と出くわす。信山社から出てきたところで、

エウヘニオ・コセリウ『言語変化という問題 共時態、通時態、歴史』田中克彦訳(岩波文庫)

を買って出てきたところだという。今日出たばかりなのだ。コセリウが文庫になったのだぞ、ぜひ買え、とのことだったので、これも買ってきた。


内視鏡を入れ、細胞を採取した今日は胃にやさしいものを食べろと言われたので、赤門近くのそばや〈江川〉で昼食。そばが胃にやさしいのかどうか、実のところは知らない。ここのそばがうまいことは知っている。

2014年11月12日水曜日

遠回しにお叱りを受ける?

ヘタフェ・ネグロ延長戦?@セルバンテス文化センター

ヘタフェ・ネグロというのは暗黒小説フェスティヴァルの名前で、それの実行委員でもある作家ロレンソ・シルバと、イグナシオ・デル・バジェが逢坂剛と語り合うという催し。例の支倉常長400年を祝う年の延長で、つい最近閉幕したばかりの暗黒小説祭の延長、という触れ込み。今年の第7回ヘタフェ・ネグロは日本年で、角田光代がゲストとして呼ばれた由。

ロレンソ・シルバがスペインにおける暗黒小説の歴史や情勢をおさらいし、東野圭吾や吉田修一ら、最近の日本のこのジャンルの小説でスペイン語に翻訳されたものも含め、暗黒小説が読まれる理由を分析。デル・バジェが自分の作品について説明し、逢坂剛が互いの翻訳が少ないことを嘆いた。

逢坂が言うにはマヌエル・バスケス=モンタルバンとカルロス・ルイス=サフォンくらいしか日本語で読めるスペインのミステリはない、翻訳家も少ない、もう少しがんばれ、とのこと。実際には翻訳家がいるだけではどうしようもなく、出版社が動かねばならないと思うのだが……そしてまた、たとえばアルトゥーロ・ペレス=レベルテなどを含めたらもう少しは日本語に訳されているとは思うのだが……

暗黒小説Novela negraという語について質問が出て、それについて色々とぼくも考えるところがあったのだが、そこで時間切れ。


シルバとデル・バジェは今日は東大駒場キャンパスでお話しする。ぼくは授業があって聴きに行けない。残念。

2014年11月8日土曜日

あっちが開けばこっちが閉じる

OSX Yosemiteにアップグレードしてから、いつも使っているエディタにちょっとした不具合が生じるようになった。ツールバー上のアイコンで「保存」をクリックするとダウンしてしまうという不具合。他の方法で回避できるので、大して気にもならなかった。(たとえばぼくはこのブログをエディタで書いてからコピー&ペーストでブロガーの記事にしている)今朝、エディタのアップデートがあったので、その不具合は解消された。

……が! 

こんどはブログが開かなくなってしまった。SleipnirでもFireFoxでもSafariでもGoogle Chromeでも。唯一、オペラだけがブログを開くことができた。

うーむ……

仔細に検討してみたら、URLが微妙に変わっていたのだ。".jp"から".in"へと国が変わっていた。

……そうか。もうjpのドメインはないのだな。インドへ行ってしまったのだな。Googleは日本を見限ったのだな。見限ったのかな? 


うーむ……

2014年11月7日金曜日

歩けば何かが見つかる

そんなわけで、比較的近所にあった内視鏡検査のできる病院に行ってきた。行って血液検査やらをして、内視鏡については予約を取ったわけだ。

1年ちょっと前に越してきた今のアパートの最寄りの駅は、まあJR東日本の駅の中でももっとも寂れたものではあるまいかと思えるほどのものだ。駅前に商店街もなく、商店もほとんどなく……向こう側に渡っても八百屋がひとつあるくらいで……と思ったのだが、別の路線が通る線路を渡ってみると、意外なことに「○○銀座商店街」があったのだった。すべての銀座商店街同様、いかにも、本家の銀座には足もとにも及ばないのだが、まあそれでもぼくが住む側の周辺地帯よりは確かに商店が軒を連ねる商店街があったのだった。

喫茶店もいくつかあった。


うーむ、こんなことなっているとは……

2014年11月6日木曜日

病は検査から?

先日受診した胃の検診の結果が出てきて、噴門部のひだがちょっと変だから内視鏡で検査しろとのこと。

噴門部というのは食道と胃の接合部のあたり。食物を飲み込むときには開き、消化しているときには閉じて逆流を防ぐ箇所らしい。それがどんな場所であれ、健康診断で引っかかるのは初めての話だ。

やれやれ。自覚症状はなかったのだが、検査しろと言われると、なにやら具合が悪くなってくる。そういえばこのところ食が細っている気もする、などと考えすぎたりする。ぼくには心気症の気があると言われたことがある。心気症というのは自分が病気ではないかと気にしてしまう症候のことだが、まったく、そのとおりだ。検査しろと言われて、病気になった気分だ。

内視鏡の検査というのはこれで二度目なのだが、なんだか気が重い。

気が重い、と思っていたら、あまり引き受けたくない方の仕事が回ってきたりして、ますます重い。


やれやれ。