2013年8月30日金曜日

書かないメディアが書くことを書く。

ウォルター・サレス『オン・ザ・ロード』(フランス、ブラジル、2012)

うーん、ヴァルテル・サレスでなくていいのか? 

まあいい。ケルアックの小説に書かれていなくて、この映画に取り込まれた点は、サル・パラダイス(サム・ライリー)ことケルアックが、ディーン・モリアーティ(ギャレット・ヘドランド)ことニール・キャサディとの旅のことを書く存在である点が強調されていることだ。旅の途中サルはひたすら書いている。メモ帳もそれを買い足す金もなくなると、紙を拾ってそこに書きつける。ただひたすらに書きつけるのだ。

ただし、彼がそれをいざ小説にまとめようと思うと、タイプライターを前に書きあぐね、ただの一行も書けなかったりする。本を取り出し、ノートを見、そしてまた必要性を感じてメキシコに旅立ったりする。ノートを見ることが文章をまとめるのに役立たず、むしろ新たな旅を誘う。新たな取材へといざなう。

しかして、いざサルが霊感を得て書きだしたとき、それまでに体験した言葉がステレオ放送のように左右から前後から聞こえてきて、キーパンチングの音と溶け合ってひとつの音楽を構成する。やがて現実にBGMが流れてくる。この音楽=テクストの誕生の瞬間が貴重だ。

ぼくたちは誰も本を読むとき、文章を書くとき、頭の中に音楽を流す。が、内的な音楽はぼくたちの経験の音楽に過ぎない。ぼくたちの経験を凌駕する音楽を、外から与えてくれたら、ぼくらはそれに驚き、感動する。


帰りの電車の中で読み終わったのは、フアン・ホセ・サエール『孤児』寺尾隆吉訳(水声社、2013)。ぼくの中には読書中、ぼくだけの音楽が流れる。『孤児』は人喰いの話だ。人喰いについてはぼくは特別な音楽を持っている。だが、それを語り始めると長くなる。だから今は語りたくない。

2013年8月29日木曜日

昔を思い出す(映画的記憶の連鎖)

乙女座のぼくは50歳になった。もう大人だ。

大人だからいろいろなことを思い出す。

今日、試写をふたつ続けて見た。泣きそうになることばかり。

ホアキン・オリストレル『地中海式 人生のレシピ』(スペイン、2009)

主演はオリビア・モリーナ。あのアンヘラ・モリーナの娘だ。しかももう29歳(当時)だ。同じ試写会の場にいた知り合いの女性たちは、最初の数分、10代のころの設定には無理が、違和感が感じられたと言っていたが、ブニュエルの『欲望の曖昧な対象』を何度も見たぼくとしては、母の思い出に取り憑かれていた。チラシやポスターの写真では気づかないけれども、動いてみればこれがそっくりなのだ。

しかも、その違和感ある10代のころの話しなどすぐ終わる。さすがに『電話でアモーレ』(この邦題もいかがなものかと思うが)などのオリストレル監督だけあってテンポ良い作りだ。

天才的な料理人ソフィア(モリーナ)が堅実な不動産セールスマンに育ったトニ(パコ・レオン)と遊び人で金もある接客業のフランク(アルフォンソ・バッサベ)、2人の幼なじみと独特の関係を保ちながらシェフとして成長していく話。それを生まれる直前の娘が語る。

男2人に女ひとりの3人組だ。これまで数多く生み出されてきたパターンだ。どれが最初かは知らないが、少なくとも一番印象深く思い出されるのは、『突然炎の如く』だ、もちろん。そして、当然のことながら映画は、それへの目配せも忘れていない。

しかし、トリュフォーと違い、こちらはいささかも思弁的ではないのだ。ソフィアが夫トニと仕事仲間フランクと3人での関係を提唱し、それを続けていくのだが、もちろん、途中で怒鳴りあいがあったり嫉妬があったり、周囲の誹謗中傷があったりはするけれども、なんだかあっけらかんとしているのだ、この関係が。それもおそらく物語の語りのテンポのおかげだろうけれども。

そういえば、こういう関係をménage à trois というのだった。3P? …… そしてメナージュ・ア・トロワはボラーニョ『2666』第一部の学者たちのオブセッションなのだった。ボラーニョも思いだしたのだった。

2作目は:グスタボ・タレット『ブエノスアイレス恋愛事情』(アルゼンチン、スペイン、ドイツ、2011)

ピラール・ロベス・デ・アヤラがポルテ―ニョ風のしゃべり方を身につけ、いい。

ブエノスアイレスのおたがいにすぐ近くに住んでいる内向的な独り身の男女(ロペス・デ・アヤラとハビエル・ドロラス)の至近距離でのすれ違いを描いて身につまされる。

こちらは、オマージュを捧げる対象はウディ・アレン。パン・ダウンこそしないものの、ブエノスアイレスの林立するビルを映し出す冒頭は、『マンハッタン』や『ミッドナイト・イン・パリ』を想起させる。事実、2人はお互いに知らずして、同じ時間にTV放映されている『マンハッタン』のあのウディとマリエル・ヘミングウェイの別れのシーンで涙を流している。

仕事に使うマネキンを洗うピラールの手がなまめかしく、いい。精神科医と一度だけの関係を持った後、隣のピアノの音に腹を立ててマグカップを壁に投げつけ、それから泣く場面などは果たして身につまされているんだかピラールにほだされているんだか……

ボカ地区ともコリエンテス通りともコロン劇場とも無関係な(コロン劇場工事中という衝立の前は通るけど)ブエノスアイレス。


ブエノスアイレスでは独居者向けの狭いアパートは「靴箱」というのだそうだ。マルティン(ドロラス)の住む「靴箱」は40数平方メートル……それを独居者向けのアパートとしては広い方だと見なすほかない東京の住宅事情……ああ、いかん! ぼくはまた引っ越そうとしているのだ。

2013年8月14日水曜日

極限はどこにある

ホセ・ドノソ『境界なき土地』寺尾隆吉訳(水声社、2013)

訳者の寺尾隆吉が「あとがき」冒頭に、死後明らかになった作家本人の淫靡な性向の話題をほのめかし、その後、この小説のリプステインによる映画化作品にプイグが脚本家として加わったという話題などまで出しているので、われわれ読者はマヌエラという性倒錯者(いわゆる「おかま」)をめぐる過去と現在、ふたつの嬌態をクライマックスとしたこの小説の、クイアな世界にまず目を向けてしまうのかもしれない。

「ふたつの嬌態」のうち過去のものは、踊り子としてある娼館にやってきたマヌエラが男たちに愚弄され、傷つき、その隙を突かれてハポネサという娼婦と関係を持ってしまうという話。現在のものはそのマヌエラがパンチョという男と関係を持つのか、持たないのか? という話。

性の問題に関していうなら、マヌエラのクイアネスよりも、彼女を愚弄し、時には関係を持とうとさえする男たちのマチスモの方が怖い。それに乗じて彼女と関係を持ち、子をもうけ、娼館まで手に入れるハポネサの狡猾さが怖い。ハポネサは地元の有力者ドン・アレホと賭けをして、その娼館を自分のものとし、マヌエラを共同経営者とするのだ。ドン・アレホは代議士で、国道が通ろうとするこの町を投機の対象とするが、結局は電気ひとつ通すこともしない人物だ。が、パンチョは自分が彼の子だと言い張り、マヌエラとハポネサの娘ハポネシータも彼の子だと思っている。土地はすべて彼のもの、人はみな彼の子供という、ペドロ・パラモみたいな人物だ。そんな彼への借金による負い目とその精算の問題が、パンチョをマヌエラとも関係を持ちそうな勢いのひとりのオスに変えているようなのだ。

そうしたクイアネスとマチスモを表現しているが、造り自体は端正な小説だ。各章にひとつずつ新しい情報を導入したり、視点を変えたり、話法をあれこれ取り入れたり、ドン・アレホとパンチョの関係の処理も短編小説のようだったり、と。

何より、人里離れた一軒家、という典型的な場面設定が雰囲気をつくり出している。別荘とか、田舎の家とか、町はずれの娼館、といった、閉ざされた空間だ。電気の切断はこうした空間を切迫感ある場面へと変える(同じチリのアリエル・ドルフマン『死と乙女』など)。この町、エスタシオン・エル・オリーボは、そもそも電気が通っていないし、通る見込みもない場所だ。

こうした場所に外部から車の音やクラクション、馬のひづめの音、犬の吠え声などがもたらされたら、切迫感はいや増す。馬にしても車にしても、こうした外部からの音は性的強迫観念をも思わせるだろう(『死と乙女』もそうだ。そして馬ならばガルシア=ロルカだ)。これらの設定をして端正と言わざるを得ないのだ。


端正な放縦。あまりに端正すぎてどこから引用すればいいのかわからないぜ。

2013年8月10日土曜日

インディアン、嘘ついてもいいよ

ゴア・ヴァービンスキ『ローン・レンジャー』(アメリカ、2013)

何度か授業で扱ったジャームッシュの『デッドマン』のことをそろそろ本気で活字にしなければと思っていた矢先に、きっとその対としてチェックしておかなければならない作品に違いないと思われるものが現れた。それが、これ。だから観に行った。

なにしろ:

1) (米墨関係史をメキシコ側から眺めれば)悪名高いテキサス・レンジャーズの歴史性を背景に
2) 1930年代、大恐慌の真っ只中、戦争の用意期間に生み出されたヒーローで
3) スペイン語で「バカ」という意味の名を持つ従順な(「女性のよう」とドルフマンは皮肉った)先住民を従えた人物の

映画だとなれば、ましてや、

4) その従者トントを、あの名作『デッドマン』で素晴らしい主役を演じたジョニー・デップが演じる

となれば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の監督との息の合った組み合わせで、どれだけ自暴自棄に演じるか、楽しみではないか。

そりゃあね、いかにハリウッド映画とは言え、たとえディズニーの配給だとは言え、ナイーヴに白人はヒーローでござい、ってな調子には今では行くまい。先住民コマンチ族とのフロンティアを描いていても、彼らを悪人にするわけでもないし、かといって単なる善人というような存在にもしない。悪役の中にヘススという二言三言スペイン語をしゃべる者がいるが、それは飾りみたいなもの。結局のところ、悪は資本と富でした、それを求める人間の貪欲でした、という結果になるのは、皮肉というか、陳腐というか、ディズニーよ、お前が言うか?

それで、ローン・レンジャーというのはもともと、1930年代に続々と現れたバットマンやスーパーマンといったヒーローものの主人公と違い、昼間の顔というか素顔というか、正体というか、それを持たないものだった。だからアイデンティティの危機を感じない、苦悩しないヒーローだったのだ。そしてだからこそ他のヒーローと異なり、分裂気味になることがなかったので、逆に、皮肉なことに時代にとり残され、忘れ去られていった存在だったのだ(アリエル・ドルフマン『子どものメディアを読む』諸岡敏行訳、晶文社、1992)。「キモサベ」「ハイヨー、シルヴァー」「インディアン、嘘つかない」らの流行語だけを残して、ローン・レンジャーは忘れられた。

今回このヒーローが生き返ることになったのは、ローン・レンジャーのこうした特性をまるっきり否定することによってだった。正体は悩める新米判事兼テキサス・レンジャー、ジョン・リード(アーミー・ハマー)。トントは従順な馬鹿者などではなく、彼を最初は拒絶し、後に渋々と教え導き、時には喧嘩する存在だ。だから竿立ちになった馬にまたがってリードが「ハイヨー、シルヴァー」と叫ぶと、「そんなことするな」と戒めたりする。

さて、しかし、そんなわけで、ヒーローものというよりはテキサスという舞台設定に着目して徹底して西部劇であることを目指した『ローン・レンジャー』は、西部劇であるという意味において面白いものに仕上がっていると思う。

そしてなにより、『デッドマン』冒頭の西部劇の関節の外し方に対する目配せというか、応答というか、そうしたものが散見された。


と、ジャームッシュを引きあいに出せば、その規模の映画かと思われるかもしれないが、それはまったくそうではなくて、ともかくまあ、次から次へとスペクタクルを用意して実に2時間半以上も飽きさせないエンターテインメントではある。最近のスペクタクルものって、それにしても、長くなるばかりだな。

2013年8月9日金曜日

ああ! めんどくさ!……

6月中に献本をいただいていたのだが、7月もだいぶ遅くなってから電車内でちまちまと読み始めたので、今、読み終えた次第(という言い訳めいた言辞を、自分で書いておいて情けなく思う。しなければいいのだ、こんな言い訳)。

マリオ・ヂ・アンドラーヂ『マクナイーマ:つかみどころのない英雄』福嶋伸洋訳(松籟社、2013)。

〈創造するラテンアメリカ〉シリーズ第3弾だ。第2弾(というのは、アイラの『わたしの物語』拙訳だ)についで、ですます調で、かつひとをくったような話だ。原書は1928年。モデルニスモ真っ盛りのブラジルにおける、ひとつの頂点だ。

密林の奥で生まれ、生まれてから6年間は「ああ! めんどくさ!」以外ひと言も発しない奇妙な子として育ったマクナイーマは、母が死んで旅に出、森の母神シーと「じゃれあ」い、これを妻として、密林の皇帝になり、やがてサンパウロに出て、生涯の敵ヴェンセスラウ・ピエトラ・ピエトロと対峙し……と筋を追おうとすると、途中で、主人公とともに叫ばざるを得なくなるのだ「ああ! めんどくさ!」(これは作品中、何度も発される叫び)

実際、「つかみどころのない英雄」との副題は良く言ったもので、この小説において筋は二次的な問題だ。

「どっかに行け、疫病め!」
 そして兄さんたちのところにやってきました。
「もうぼくは小屋〔パピリ〕なんて作らないよ!」
 そしてレンガ石や屋根や金具を雲のようなサウーヴァ蟻の大群に変えると、それは三日間サンパウロを覆いました。
 ムカデはカンピーナスに落ちました。イモ虫はそこらへんに落ちました。ボールは運動場に落ちました。マアナペはコーヒー虫を生み出し、ジゲーは綿花を食べるピンクイモ虫を生み出し、マクナイーマはサッカーを生み出し、こうしてブラジルの三大害虫が生まれたのです。(64ページ。〔 〕内はルビ)

なんていう語りを小説のコードで読み解くことができるはずはないのだ。昔話のような、アレゴリーのようなこの語りは何かを思わせる。

同年に発表されたミゲル・アンヘル・アストゥリアスの『グアテマラ伝説集』だ、例えば。

 風に運ばれてきた三人は、小鳥のように果物を糧〔かて〕としていた。
 川を流れてきた三人は、魚のように星を糧としていた。
 風に運ばれてきた三人は森のなかで、時にはすべり動く蛇がかさかさと音をたてている落葉にもぐって、またある時には、高い枝に登り、栗鼠〔りす〕、鼻熊〔はなぐま〕、尾長猿〔おながざる〕、ミコレオン、イグアナ、そして洗い熊などの間で夜を過ごした。(「火山の伝説」『グアテマラ伝説集』牛島信明訳〔岩波文庫〕、42ページ)

な? 

アストゥリアスが『ポポル・ヴフ』の翻訳からこの語り口を獲得したように、アンドラーヂも先住民の語りからこの題材と語り口を獲得した。底本としてあるのは、福嶋さんの「あとがき」によると、コッホ=グリュンベルク『ロライーマからオリノコ川へ』(1917)だという。アストゥリアスの盟友カルペンティエールに、その後、『失われた足跡』を書かしめた書だ。


アンドラーヂの場合、先住民の語りを取り入れつつ現代的な風味を加え、かつ、マクナイーマにブラジル民衆の中に息づく悪者(とでも言えばいいのか? マランドラードというやつだ)の典型のような人格を造型してみせたことが特徴なのだろう。だから、だいぶ愛されているようなのだ、この英雄は。「健康〔サウーヂ〕はわずか、サウーヴァ蟻はたくさん、それがブラジルの害悪だ」(もうひとつのくり返される口癖)という、このサウダーヂの国で。

2013年8月1日木曜日

地獄の季節

ぼくらにとって7月末は地獄の季節だ。「かつては、私の記憶に狂いがなければ、私の生活は宴だった。ありとあらゆる人の心が開かれ、酒という酒が溢れ流れた宴だった」(宇佐美斉訳)だ。授業を力尽くで終わらせ、試験をつくり、試験をし、そのことで罵声を浴び(なぜだ?)、採点し、採点はまだ終わらず、ここぞとばかりに合宿に行ったり、そして打ちあげ、キックアウト、等々……しかし通常の仕事も続く……

7月下旬最大のイペントは、やはり、「『2666』ナイト第4回」。ゲストはいとうせいこうさん。

「第4部はダンサブルである」とのテーゼがひときわ心に残った。ぼくはつい最近、あるところにこのメガノベルの書評を書き、第4部は辛いけれども、がんばって読め、というような精神論的なアドバイスをしたのだが、ああ! もう少し早くこの言葉を聞いていれば……「第4部は踊りながら読め」と書けたのだけどな。

会場でこの10月から刊行の始まる「ボラーニョ・コレクション」全8巻のフライヤーをいただいた。巻末に訳者ではない人の解説を掲載する形式らしい。以下、( )内は 訳者/解説者

『売女の人殺し』(松本健二/若島正)
『鼻持ちならないガウチョ』(久野量一/青山南)
『通話』〔改訳〕(松本健二/いとうせいこう)
『アメリカ大陸のナチス文学』(野谷文昭/円城塔)
『はるかな星』(斎藤文子/鴻巣友季子)
『第三帝国』(柳原孝敦/都甲幸治)
『ムシュー・パン』(松本健二/いしいしんじ)
『チリ夜想曲』(野谷文昭/小野正嗣)

改訳がひとつ。短編集4作、中編3作、長編1作。松本訳3作(うち1冊は改訳)、野谷訳2作、久野、斎藤、柳原訳各1作ずつ。解説者にひらがなだけの名の人が2人。

以上が、このラインナップの特徴だ。

ふむ。楽しみ♪

ところで、配本はこの順番なのだろうか? 『売女の人殺し』は既に10月刊と明記されているし、『鼻持ちならないガウチョ』もやっているよ、と訳者はおっしゃっていた。『通話』は改訳。ということは、やはり、この順番に配本なんだろうな。『第三帝国』はまだまだ先だ。


あ、いや、……別に安心しているわけではなく……