2012年5月30日水曜日

会議とデートの合間に映画

ウディ・アレン『ミッドナイト・イン・パリ』(スペイン、アメリカ、2011)

婚約者の父のビジネスに便乗してパリに来ているギル(オーウェン・ウィルソン)が、タイムスリップして彼の憧れの1920年代に行き、ヘミングウェイやフィッツジェラルド夫妻、ダリ、ピカソ、等々に会うというファンタジー。ハリウッドの脚本家でありながら小説を書くことを願い、婚約者の両親とソリの合わないギルが、ガートルード・スタインに原稿を読んでもらい、評価され、自分を取り戻していく。モディリアニやブラックと付き合っていて今はピカソの愛人となっているアドリアナ(マリオン・コティヤール)とは、恋に落ちるのだが、その彼女が理想と考える19世紀末、ベル・エポックのパリにふたりはさらにタイムスリップして……

この映画で何よりすばらしいのは出だしだ。たぶん、"Si tu vois ma maîre" という曲だと思うが、それが流れる2、3分の間、パリの異なる時間帯、異なる場所の情景を映し出すシークエンスは観客を引き込む。アドリアナはギルの小説原稿の書き出しにうっとりとするのだが、この映画自体がオープニングでぼくらをうっとりとさせる。

出だしは大事なのだ。

2012年5月26日土曜日

黒パン

去年のラテンビート映画祭での上映を見損なっていたが、一般公開を前に、見る機会を得た。アグスティー・ビジャロンガ『ブラック・ブレッド』(スペイン/フランス、2010)

スペイン内戦やその直後を舞台とし、子供を主役に据えた映画は日本でも比較的受け入れられてきた。これもそのひとつの新たなバージョンなのだが、なかなかに複雑な背景をしくんで面白い。

内戦後、アカ、すなわち共和派の父ファリオル(ルジェ・カザマジョ)がフランスに逃亡することになったので、親戚の家に預けられたアンドレウ(フランセスク・クルメ)が、実は父が逃げているのは政治的理由からではないかもしれないということを発見していく、と言えばいささかおおざっぱに過ぎるストーリーの紹介になるだろうか?

内戦による政治的対立、および子供の目から見た不可解な大人たちの過去、というテーマのみでなく、性的マイノリティーを許さないマチスモ的価値観、小村落内での村八分の仕組み、政治犯やマイノリティなどが隠れて住む村はずれの洞窟についての噂とそれがもたらす恐れ、サナトリウムの中に隔離された人間との交流とその存在が想起させる母の過去、貧困ゆえに節を曲げざるを得ない大人の事情、幼い女の子の性的虐待、淡い初恋、……などが取り入れられたストーリーは、かといって長過ぎない。子供が主人公なので、決断をして大人になるという物語には違いないのだが、その決断の後味の悪さが実に映画的で心地よい。最後の母フロレンシア(ノラ・ナバス)の告白は必ずしも必要なかったのではないかと思うのだけれども、それはまあ好みの問題。面白いことに変わりはない。

原題はPa negre。「黒パン」だ。パンの色の違いが階級差を表すのだという。黒パンしか食べるなと言われたアンドレウが、町の有力者マヌベンスさんの家で白パンに目を眩ませるシーンに反映されているこの価値観も、重要。ちなみにこの原題はカタルーニャ語で、セリフもほぼ全編カタルーニャ語によるもの。

2012年5月25日金曜日

復帰

突然のカルロス・フエンテスの訃報に触れ、そのことについて何か書こうと思ったが、ケチがついた。

ある人物からヤクザまがいの恫喝口調で言いがかりをつけられたので、何か書こうとしたら自身を勘違いしたその愚か者(こういう手合いは本当に手に負えない)を非難しそうだった。そんなこと、考えるだに不愉快だから何も書かずにおいた。これだけで済ませるので精一杯だ。

そうこうしている間に、もうすぐ次の翻訳が出そうだ。

昨日今日は、毎年の恒例行事、オリエンテーション旅行に行ってきた。スパリゾート・ハワイアンズだ。昔の常磐ハワイアンセンターだ。『フラガール』の温泉施設だ。ここには2006年、それこそ『フラガール』の封切り直前くらいに行ったが、今回は、震災後の復興のシンボルということで、行ってきた。前回と違い、ショウも見てきた。

やれやれ。ともかく、一番忙しい木・金が、授業なしですんだ。

2012年5月13日日曜日

「あと20年」の思想

ツイッター上でフォローしているある方(ぼくより少し年上)が「わたしの人生、あと20年くらいかな」と、ふとつぶやいておられた。

それで思い出したのだ、50代半ばのころの牛島信明先生のひとことを。酒を飲んで一緒に中央線の電車に乗っていたとき、「ぼくもあと20年ほどしか生きていられない」とおっしゃっていた。ライフワークということを考えるのだと。『ドン・キホーテ』の訳だけは仕上げておきたいのだと。

ほどなくして『ドン・キホーテ』新訳を完成させた先生は、しかし、それからやはりたいして時間をおかず、鬼籍に入られた。深夜の中央線車内で「あと20年」とつぶやいてから、10年も経っていなかった。

昨日読んだ由良君美も60そこそこで死んだのだった。ぼくより10歳上の福井千春さんは先日亡くなった。

ぼくもそろそろ、人生あと20年、という視点というか思想を持たなければならないのだろうな。先日、ある女子学生が「わたしがおばさんになっても……」と口にしたときに、ぼくは口ではそれは森高千里か、などと言っていたけれども、同時に頭の中では君がおばさんになるころにはぼくは死んでるかもね、と考えたものだけれども、そういう反射神経が働いたということは、ぼくももう立派にその思想を持っているということかな?

そういえば最近、生活をシンプルにしなければ、なんて考えているのは、意識せずして「あと20年」の準備を始めようとしているのだろうか?

実際には、20年どころか20日先も見えないのだけどな。ライフワーク、なんて考えも出て来ないな……ん? カルペンティエールかな? レイェスかな? いやいや、翻訳である必要はないのか。うーん……あれと、あれと……武田千香さんは幸せだ。15年かけて読んできたマシャードの翻訳が出たのだから……

それともあれか? こんな考えに浸るのは、39歳で死んでしまった男の文章の翻訳をもうすぐ出そうとしているからなのか?

2012年5月12日土曜日

連休は遠くなりにけり

最近の収穫。といって写す本の背景には再校に突入しているもうすぐ出る本などを置いているのだから、われながら、あざとい。

まず、ついに出た!

マシャード・ジ・アシス『ブラス・クーバスの死後の回想』武田千香訳、光文社古典新訳文庫、2012

めでたい。が、どうじに、光文社のこのピンクのシリーズは本当にピンクで十把一絡げにしている地域(英米、独、仏、露、伊以外)につめたい。この本なんて、原稿が手渡されたのはもう5年くらい前のはずだ(ぼくの渡したペレス=ガルドスなど、もう忘れられているのだろうな)。そのことを嘆くべきなのか、それでも出たことを言祝ぐべきなのか。その間に国際語学社というところから別の人の訳で出版されているから、本当に「新訳」になってしまった。タイトルに示されるとおり、ブラス・クーバスという死者が自分の人生を回想するという、19世紀の小説にはなかなか珍しいのじゃないかと思われるファンキーさを有した作品だ。

エトムント・フッサール『間主観性の現象学 その方法』浜渦辰二/山口一郎監訳、ちくま学芸文庫、2012

エドムンドでもエドムントでもなく、エトムント、だ。

由良君美『みみずく偏書記』ちくま文庫、2012

四方田犬彦の『先生とわたし』による回想を読むまで、あまりよく知らなかったのだ、由良君美のことは(たとえばソンタグ『反解釈』の翻訳は、ぼくが学生のころは見当たらず、まず英語で読んだ。その後、ちくま学芸文庫版で読んだのだが、これは大勢による共訳で、あまり由良の仕事との印象がない)。なかなか面白そうな人だとの印象。四方田の本の後で、それが後押ししたのか、1冊か2冊、復刊したものがあったように思う。今回は文庫になったので、買ってみた次第。解説はさすがに彼を「酒乱」とした四方田ではなく、富山太佳夫。ずいぶんと強く感化されたようである。

そんなダンディでかっこいい由良センセイの本の読み方や、読んだ本の話などが収められた1冊。70年代のものが多いから、やはり田舎の中学生・高校生だったぼくなどはよく知り得なかったのだろうな。

さて、センセイ、「斜め読みは、わたしは原則としてしない」そうである。しかし、モノグラフならば、「序と第一章を読み、目次に戻り、重要な展開部に当る数章に狙いをつけ、さて結論に飛び、脚注と書目に目を通せば、もう分かってしまう」そうである。こういう、あまり明かしたがらない手の内をさらっと明かしてしまうところなど、なかなか好意を抱かせる。極めつけは「あとはその部門の研究史上、画期的といえるかどうか、文体がめでたいか否かを自分で評価し、頭に入れておけば良い」(267ページ、下線は柳原)

さらに、由良センセイ、ノートやカードは取らないそうである。

知識として大脳を富ませてくれるというより、知識以前の漠たる形で意識下に沈む事柄の方が多い。そうでないと読書はどうも愉しくない。マイケル・オークショットが言っていたように、そもそも人文系の学問を、知識を蓄えるためにするのは邪道である。いかに多く学び多く忘れるかが正道である。逆説的に言えば、わたしは沢山忘れるために沢山読む。だからカードにして整頓などしない。(169ページ)

かっこいいのである。

……? こんなことをちまちまとブログに書きつけるぼくなどは、つまり、せこいのである。

2012年5月6日日曜日

ああ、連休が終わっていく……

最近、これまでのシェーファーのに換えてペンケースに収まっているシャーペン。ラミーのスクリブル。伊東屋で6,000円台だったのが、Amazonでは3,000円台で買えたので。

シャーペン一本に5,000円も6,000円も出すなんて信じられないという反応をたまにいただく。大工がいいノコギリに金を惜しまないように、料理人が包丁に金を惜しまないように、われわれがシャーペンに金使ってもいいじゃないか。何十万も何百万もするわけじゃないんだから。

ぼくはやはり太くてある程度の重みのある筆記具が手に馴染むようで、これなど、少し短いかと思わなくもないが、でも実に使いやすい。

本当はこの下に写っている辞書(Ignacio Bosque, REDES: Diccionario combinatorio del español contemporáneo, SM)をフルに駆使してアルゼンチンの新聞に向けた文章を書かなければならないのだけど、そのためのメモなど取っているうちに、それに使っているこのシャーペンを、なんとなく自慢したくなったので……

そう。逃避だ。去りゆく連休を惜しんでいるのだ。

2012年5月3日木曜日

R.I.P. 福井千春(1953-2012)

福井千春さんが亡くなったそうだ。『続 愛と剣』を福井さんたちと一緒に執筆した中央大学の渡邊浩司さんのブログに記事が載った。

渡邊さんの書いておられる、体の不調を訴えた「昨年の12月」、まさにぼくは福井さんにお目にかかったのだった。牛島先生の遺影に線香をあげに行ったときのことだ。福井さんは牛島先生の教え子というわけではない(長南実さんの教え子だ)のだが、先生の教え子たちで毎年、命日の前後に線香をあげに行くときにはたまに顔を見せることがあった。去年は久しぶりではあったが、そうした機会のひとつだった。牛島先生もガンの発見が遅れ、見つかったと思ったらあっという間に亡くなった。ちょっと前には福井さんの少し後輩(同期?)にあたる杉浦勉さんが、やはり病気の発覚後、すぐになくなった。福井さんもそうした人々と同様の道をたどったということだろうか? 

福井さんからは、それこそ渡邊さんたちと一緒にした仕事、中央大学人文科学研究所編『続 愛と剣 ——中世ロマニアの文学』(中央大学出版部、2006)をご恵贈賜ったのだった。彼はこのときはもうこの研究所の所長をしていただろうか? 少なくとも渡邊さんとともにこのプロジェクトを率いていたことは間違いない。言語/国民国家ごとに区切られた文学史の枠を超え、中世ヨーロッパの叙事詩などのトピックに切り込んだ興味深い論文集だ。タイトルにもあるとおり、中心をなすのは、剣。

福井さんは、ご自身の専門であり、翻訳もなされた『わがシッドの歌』についての考察(「シッドの剣」〔425-456〕)でトリを取っている。

 古来、いかなる文明であれ例外なく、その揺籃期に、一人の若者が何らかの邪な力に立ち向かい、夷狄や魔物との血なまぐさい抗争の果てに、去りゆくものへの悲しみと生あることの喜びを歌い上げた言語芸術を擁す。たいてい若者には出生の秘密があり、それを知らされないまま成長した青年はすぐれた剣を手に駿馬にまたがって立派な戦士となり、人を愛することを覚える。(425)


スペイン中世の叙事詩『わがシッドの歌』の主人公シッドの名剣コラーダとティソンについてを「抜かずの剣」であるがゆえに魔剣であり、むしろこの二振り剣こそがシッドに代わって物語の中心をなすのではないかと提起したものだ。

ああ、こんな楽しそうな話を展開しているひとが、ひとりいなくなった……

2012年5月2日水曜日

雨の5月

どういうわけか、今年に入って一月のブログ投稿数は8に収束しつつあるようだ。3月は9だったが、9というのはほとんど8だ。

忙しく、かついろいろなことがあり、消化し切れていないのだな。

ふと思い返してみたら、1995年度以降、持ちコマが10コマを切った年は外語に移ってきた2004年度と05年度しかないことに思い至った。専任の職のある人間とは到底思えないスケジュールだ。うち、スペイン語の初級は一コマだけ。あるいは講義といえども、すべての授業でできるだけ毎回、学生に何らかの作業を要求して、課題を与えてやってもらっている。そのチェックもしなければならないことを考えれば、本当に時間がないのだな。

時間がない、などと言いながら、連休の二日目には元教え子たちと会ったりしている。カンペールが泥だらけなのは暴れていたから……ではなく、そんなところに足を突っ込んだだけの話だ。

その後はひたすら、ゲラを見ている。そして原稿書きなどがある。つまり近々、2冊ほど本が出せるということだ。いずれも翻訳だけど。授業の準備などもしなければならないのだけどな……