2017年4月30日日曜日

連休を満喫してみた

連休初日の昨日はイリヤプラスカフェ@カスタム倉庫(入谷近くの古民家を改装したイリヤプラスカフェ2号店。名前のとおり倉庫をカスタムしたもので、こちらは田原町にある)で次のものを観てきた。

藍屋奈々子作・演出・出演『ここは宇宙の入り口です』(in企画)

「ひとりの星子」「月の子」からなる短篇連作。それを音楽で結びつける。岡田利規以後的な肉体性、というか、近代のリアリズムを基調とした動きを超えたところにある新たなリアリズムというか、まあカフェの2階のフロアでのパフォーマンスだからこそ可能になるのかもしれない間合いで展開するファンタジー。会場となったカフェを意識した舞台で、浅草界隈の名店に言及するなども。

(これを投稿しようとしているころ、今日の回を見た別の教え子が、「悲しいことが思い出せない」というフレーズに心打たれたとFacebookに書きこんでいた)

作者・演出家は、要するに教え子で、そのよしみで他の教え子も来ていたので、観劇後、上野のバニュルスで食事。ヤマハのギターなのにフェンダーのストラップをしていたのが気になったぞ、などと感想を言い合って過ごす。

翌日。つまり今日も今日とて仕事をしていたのだが、少し疲れたので、息抜きに職場近くの小石川後楽園へ。実は、初。ポール・マッカートニーのコンサートで入り待ちする人々を尻目に、隣の東京ドームから漏れてくるリハーサルの音なども気にせず、江戸太神楽の興行に拍手を送ったりしながらひとまわりした。


東大生たちよ、ここにも赤門があることを知っていたか? 


2017年4月29日土曜日

知的生活の方法……? 

この間死んだ渡部昇一みたいな表題を掲げてしまった。

たとえば何かの文章を書くことになったとする。そうすると僕はまずマックのデスクトップ上にそのためのフォルダを作る。〆切りとお題、制限があれば字数か枚数も書いてそれをフォルダ名とする。そこにその文章のための文献一覧表やメモを入れていく。

メモには2段階ある。

1)カード
2)パラグラフ

論文マニュアルなどではカードを取れと教える。1項目1枚で書誌情報やら引用やらメモやらを書いて行けと。ノートにその役割を持たせてもかまわないが、京大式カードというのがあるぞ、と。で、そのカードを並べ、めくり、並べ替えたりしているうちに論文はできる、と。

でも実は、それだけでは論文はできない。このカードと実際の論文の間にパラグラフ・ライティングというのがある。そう教えてくれる論文マニュアルもある。僕がいちばん感心したのは栩木伸明の『卒論を書こう』(三修社)

で、ある時から僕もカード(というかメモ)を取りっぱなしでなく、それをもとにひとつの段落を作ってファィルにしておくことにした。そうしてみると、実際、〆切り前の苦しみがなくなった。かなり減じた。

さて、もともと手書きか、せいぜいワープロソフト(清書用にしか役に立たない)を使っての執筆から開始した僕らにとって、常に悩ましいのは手作業だったものをいかにPC上での作業に移行するか、だ。

僕は今でも読書中は手書きでメモを取ることが多い。京大式カードではなく、大抵はモレスキンのノートに書くのだ。大きなテーマ(あるいはゼミの授業で読むもの)だったらそれ専用のノートを使う。ともかく、ノートだ。それに手書きで書く。そのノートに加えてワープロファイル(本当はこれにもいろいろ紆余曲折があったが、最近は、諦めて、もっぱらWord (for Mac)を使っている)で作ったパラグラフの二段構えで作業を進める。

しかし、ある時からメモ(カード)も電子化した方がいいだろうと考えるようになった。たとえばひとつの引用からすぐにパラグラフが書けるとは限らないのだから、ただ引用だけを書いておくようなメモ。つまり、カードだ。

ここで問題が生じる。僕は貧乏性だ。ただの一行の発想のメモや書誌情報のためにワープロソフトの1ページを丸々使うのは憚られる。書誌情報は最初から文献一覧を作るためにファイルを作るとしても、メモや引用は…… こんな人のためにデータベースソフトなどはあるし、過去、いくつかそれらを導入したことはあった。しかし、それらのメモからコピー&ペーストで文章に利用しようとしてもフォントやポイント数が違ったりして面倒だ。僕は手書きのノートからファイルに手入力するのは厭わないタイプだが(それでも手書きメモをスキャンするだけのこともある)、どうせPC上で処理するのなら、一度入力したものを実際の文に組み込むのにはコピー&ペーストでなければ意味はないと考えている。メモ(カード)と文書の書式は最初から統一していたい。だから下手に新たなソフトを導入するより、もうすべてWordでやってしまおうというのが、最近の考えだ。

で、ふと思いついたのだ。Wordは書式設定ができる。もともと文章も自分の好きなレイアウトに設定して使うのだから(A4 余白は上下30mm、左右25mm。フォントは日本語がヒラギノ明朝、欧文はTimes New Roman、ポイント数は12。40字×30行。400字詰め3枚相当)、ひとつカード用の書式を設定しておけばいいのだ。そうして作ったのが、これ。


実際の京大式カードはB6サイズなのだが、これは一応、A5横長のレイアウト。少しサイズは違うけれども、うむ、確かにカードっぽい。字数やマージンは異なるけれども、フォントとポイント数は文書の設定と同じなので、コピペも齟齬を生まない。短いメモでもこれなら良心の仮借を生まない。

2017年4月28日金曜日

ちょっと説明

先週の日曜日(4月23日)、第3回日本翻訳大賞の授賞式を見に行った翌月曜日、火曜日の授業の準備に

アレホ・カルペンティエール『方法異説』寺尾隆吉訳(水声社、2016)

を読んでいた。ん? と思う箇所がいくつかあったので原文と対照した。

夜だったし、腹を立てて次のようにツイートした。


まあこんな短い文だけで批判したのでは、また言いがかりをつけられそうなので、少し説明しよう。

なるべく主観は入れないつもりだ。この人物への主観的判断を綴れば3冊ぐらい本が書けそうだからだ。

写真に撮ったこのページで説明しよう。
これはひとつの例だ。たぶん最悪の例ではあろうが、ここまでではないにしても複数の疑問が生じる(誤訳がある)ページが一章だけで7-8ページあった。


まず、3行目から。

(我々は)溢れ出る雄弁やパトス、ロマン主義的虚勢を響かせた豪華絢爛な演説に心を奪われがちだ……私の弁論術(略)を直接揶揄したような彼の言葉に少々気分を害した――彼は気づくまい――私は、(略)

なぜ「我々」が派手な演説に「心を奪われ」る(強く惹きつけられる)ことが「私の弁論術」への揶揄になるのだろう? 原文はこうだ。

(...) somos harto aficionados a la elocuencia desbordada, al pathos, la pompa tribunalicia con resonancia de fanfarria romántica.... Ligeramente molesto--él no puede darse cuenta de ello-- por una apreciación que hiere directamente mi concepto de lo que debe ser la oratoria(...).
(我々は)溢れ出る雄弁術が、パトスが、ロマン主義のファンファーレのような響きのある絢爛豪華な演説がいやになるほど好きだ……彼はそんなことに気づくまいが、演説とはこうでなければという私の考えを直接傷つけるような価値判断だったので少しばかり鬱陶しく思い(略)
(できるだけ既訳に使われた言葉を使ってみた)

こんなやりとりがあって「私」こと大統領(「第一執政官」)はこの「著名学者」に反論するのだ。ルナンのある本を巡る評価だ。

「おぞましい!」有罪でも宣告するように著名学者は叫ぶ。この断章がフランス語学習者向けの文学マニュアルによく収録されていることを私が指摘すると、「世俗教育の忌まわしい帰結だ」と彼は断罪し(略)

? 「フランス語学習者向けの文学マニュアル」? どういう反論だ?

原文は

"Quelle horreur!", exclama el Ilustre Académico con gesto condenatorio. Le hago observar que ese trozo figura en muchos manuales de literatura destinados a los estudiantes franceses. "Abominación debida a la escuela laica", afirma el visitante,(...).
"Quelle horreur!·"(恐ろしい!)と〈高名なるアカデミー会員〉は叫び、地獄に落ちろという仕草をする。私は彼に、この断片がフランス人学生向けの多くの文学の教科書にも出てくるのだと教えてあげる。「世俗教育のせいでこんな忌々しいことに」と客は断言する。(略)

「フランス語学習者」ではない「フランス人学生」だ。つまり、ラテンアメリカでは正しくフランス文学が評価されていないと嘆いた「著名学者」(〈高名なるアカデミー会員〉)に対し、あなたがだめだと言っているフランス文学はフランスでも評価されているんですよ、と反論しているのだ。この反論の面白みが、上の訳ではわからない。

(ところで、フランス語学習者estudiantes de francésとフランス人学生estudiantes franceses の違いなどとても初歩的なことだが、他の翻訳にも共通する寺尾訳の特質は、こういう初歩的な間違いをよく犯すということだ。この2ページ先では「明晰ならざるものはフランスにあらず」というリヴァロールのあまりにも有名な文言 "Ce qui n'est pas clair n'est pas francais" を「明解さを欠くはフランスならず」と訳している!)

さて、今の引用に現れているように、カルペンティエールのテクストは多言語的なのだが、寺尾訳は発話がフランス語であることを明示せずにスペイン語の文章と同じように平坦に訳している。これはひとつの見識で、翻訳のひとつの方針ではあろうが、少なくともカルペンティエールらしさは減じるし、僕は好きになれない。

バロックの美学を前面に押し出したカルペンティエールのバロック的技法のひとつ、一般名詞の固有名詞化(大文字化)(Ilustre Académicoのことだ。僕が「〈高名なるアカデミー会員〉」と訳し寺尾が「著名学者」と訳したものだ)も平坦になっている。

さらに進もう。上の引用の直後、「著名学者」がルナンの文章prosaを称して:

「意味不明」――派手に呼びかけるばかりで、蘊蓄や女衒に頼り過ぎる(略)

女衒!? 何のことだ? なぜ娼婦の手配師がルナンの文章に関係するのだ? せめて衒学なら話はわかるが……原文は:

amphigourique --pretenciosa, vocativa, hinchada de erudición y pedantes helenismos.
amphigourique(支離滅裂)――気取った、呼びかけの調子で、蘊蓄と衒学的な古典ギリシヤ趣味でパンパンになった(散文)。
それから、以下はどうだろう?
だめだ。アメリカ大陸の人々が読むべきフランス文学は、まったく違う本、違う作品だ。そんなことでは、モーリス・バレスの『法の敵』が、わずか三ページの明解な散文でいかに見事に格調高い文体と秀でた知性を展開して――イエス崇拝を中心に――マルクス主義の誤謬を暴いているか、(略)決してわかりはすまい。

全体の論理は背理的なので間違いとは言わないが、原文は:

No. Las gentes de nuestros países deberían buscar el genio de la lengua francesa en otros libros, en otros textos. Descubrirían, entonces, la elegancia de estilo, la prestancia, la soberana inteligencia con que el Maurice Barrés de L'ennemi des lois podía mostrarnos, en tres páginas claras, las falacias y errores del marxismo --centrado en el Culto del Vientre--, (...).
そうではないのだ。我々(アメリカ)諸国の人々はもっと違う本、違うテクストにフランス語のエスプリを求めなければならないのだ。そうすれば『諸法の敵』のモーリス・バレスの上品な文体、気品、最上の知性を発見できるのだ。彼はそうした手並みでもって、明晰に書かれた3ページにおいて、〈腹への信仰〉に偏ったマルクス主義の虚偽と誤謬を我々に証明して見せている。

僕は今のところ、vientre(腹)が「イエス」を表しているかもと考えるにたる論拠を見出し切れていない。「人はパンのみにて生きるにあらず」は有名な聖書のことばで、これを裏返したような、「人はパンのみで生きる」と言わんばかりの唯物論がマルクス主義だと見なされているのだから、〈腹への信仰〉とはそうした考えのことではないだろうか? 

以上は、わずか10行以内に出会った首を傾げたくなる訳の数々だ。その他に、こういうことも書いた。




この直後に展開される『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」についての評価にある「半音階の進行」progresión cromáticaが訳されていなかったりして、音楽評論家カルペンティエールの書く小説にしてはなんだか音楽の蘊蓄がちぐはぐだ(第2章では「ホルンを逆さにして唾を抜く」であるはずのものが「楽器を半回転させて」と楽器名を無視したり……)。ワグナーを愛しかつカルペンティエールを愛する人がこれを読むかも、と考えて怖くならないのだろうか?

ふう。疲れた。 

あ、もちろん、寺尾訳でもストーリーが原作と異なるというほどの大きな間違いはないと思うし、なかなか工夫を凝らしてよくやっていると思える箇所だってある。でもこうした細部がいちいち首を傾げたくなるのが彼の訳の特徴。訳だけでなく「手本」の意味の「かがみ(鑑)」を「鏡」と書いたり(『別荘』に二度あった。『方法異説』でも少なくとも一度みつけた)、「最期の瞬間」と書いたり(同語反復だ)、万能で無意味の接続辞「なか」を多用したりと、日本語だって怪しい。ふたつ3つに言い換えられた男根を意味する隠語をどれもただ「性器」とだけ訳したり(味気ない。カマトトだ。これは『別荘』での話)。そんなだから、面白みが削がれるのだ。読むためのドライヴが減じる。原作はもっと面白いのに。

2017年4月21日金曜日

戦後を待ちわびて

「戦後文学が読みたいぞ」という文章を書いた直後に新聞で北村総一朗がお膝元・昴で新藤兼人の『ふくろう』(2003)を脚色して舞台にかけているという記事(北村のインタヴュー)を読んだものだから、これは見てみようと思い立って見てきたのだ。

はまだ久米明が生きているころ、今はなき三百人劇場に何度か見に行ったくらいではなかろうか? 『セールスマンの死』で知られる昴/久米明の組み合わせだが、テレンス・ラティガンらの他の翻訳ものもやっていて、楽しかった。三百人劇場は、他に、1985年、メキシコ時代のルイス・ブニュエル特集を組んだりと、映画の記憶もある。

今回の会場・大山Pit昴は三百人劇場に比べるとぐっと小さな、百人も入らないくらいの地下の典型的な小劇場だ。

新藤兼人の『ふくろう』は大竹しのぶと伊藤歩による快作というか奇作(こんな言葉、あるのか?)というか、なんとも不思議な映画で、ともかく、1980年頃までは戦後だったぞ、と改めて思い出させてくれる作品であった。北村はそれをかなり忠実に舞台に再現し(もともと、部屋の中だけで展開するシチュエーショナル・サスペンス(こんな言葉、あるのか?)なので、舞台向きだ)ていた。

満州からの引き揚げ者で故郷もなくして東北の入植地に入植していたユミエ(服部幸子)が、すっかり入植者がいなくなり、娘のエミコ(立花香織)と二人だけになってしまった。そこで近所のダムの建設現場や電気会社工事人など、訪ねてくる男たちを相手に売春しては金を巻き上げ、毒入りの酒を飲ませては殺し、入植地の空き家の庭に埋めるということを繰り返す、という話だ。男たちは死ぬ瞬間、鶏のようなうめき声をあげ、最後にはひと言、不思議な言葉を残す。それが奇妙なおかしみを産み出して、テーマのシリアスさをやわらげている。

珍しく若い客もある程度いて、後ろに3人の女性のグループがいたので、幕間が楽しかった。聞く気はなくても彼女たちの話(感想を言い合っている)が聞こえてきたからだ。どうやら殺される男たちの1人がこのグループの誰かの知人らしく、「あのパンツ一丁になってた人? あの人やばいね」などと話していたのだ。裸の立花香織に服部幸子が水浴びをさせるシーンがあって(映画ではホースで盛大に水をかけていたように思う)、それをすだれ越しに見せたのだが、彼女たち、「あれ、どうなってるんだろうね? ヌーブラ?」「ニップレスみたいなのしてるのかな?」「後ろだとわからないけどね、前の人なんか、おおっ、てなったのかな?」「意外に仕組みがわかってがっかりしたりして?」なんて語り合っていた。


なんだか楽しそうだった。僕もなんだか楽しくなった。

2017年4月19日水曜日

引き返せない4月

先日、実に濃厚なメンバーと読んできた。

滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋、2016)

ある人物の通夜に集った親類(故人の子とその子たち)の様子をなめらかに移動する複数の視線で描いたもの。

特に大きな物語が生起するわけではないが、語り口と語りの妙によって楽しく読ませる一篇だ。

語り口、というのは、視点人物によって多少変化するが、おそらく最も中心となる人物・知花(故人の3番目の子、次女多恵の娘)のそれが、いかにも2015年の時点で17歳の高校生らしいもので、とりわけ面白い。通常の引きこもりとはいささか趣を異にする引きこもりの兄・義之との関係が微妙で、それを「やばい」だの「エロい」だのという言葉でしか表すことができないとしながらも、その関係を説明する様々な出来事を想起し、あるいは捏造していく過程が面白い。

こうしたことについて数時間、みんなでああでもないこうでもないと語ったのだった。

ところで、最近、こんなものを机の上に置いてみた。

まあ、なんということはないCDプレイヤーだ。これまで机とは違う場所に置いていたのだが、その場所であまり使わないことに気づいたから。

そしてまた、Bluetoothつきなので、iPadからの(Macからのでもいいが)音楽を聴くスピーカーにもなる。本当は、Bluetoothのスピーカーだけでもいいのではないかと思ったのだが、ともかく、遊んでいる機器が一台あるのだから、それを有効に使ってみた。


遅れ馳せながら定額で音楽聴き放題のサービスを利用し始めた。月額980円なら月に1枚CDを買う者でも元は取れるとの観測からだ。ただし、このサービスに提供されていない楽曲、CDなどはあるわけだから、そういうのを手に入れようとすると、当然、それはまた別の支出になるわけだが。

2017年4月4日火曜日

メキシコの仇を東京で

パブロ・ラライン『ジャッキー――ファースト・レディ最後の使命』(アメリカ、チリ、フランス、2016)

アカデミー賞ノミネートだの、公式サイトに謳う「知られざるジャッキーの真実に迫る感動作」だのの文句を見る限り、僕がまず間違いなく見なかっただろう映画なのだが、何と言ってもパブロ・ララインなのだし、まさか「感動作」なはずはあるまい、そう思って見に行った。それから、メキシコで見る予定が時間を勘違いして見られなかったので、仕切り直しの意味もあって。

副題に「最後の使命」とあって、この「使命」というのはナタリー・ポートマン演じるジャクリーン・ケネディの台詞から取ったものだけれども、その台詞というのはIt's my jobだかbuisnessだか、そんな単語を採用しているところで、それを松浦美奈の字幕が「使命」と訳しているわけだ。配給会社と監督や脚本との意図の違いが鮮明に現れるところ。

ジャクリーン・ケネディの話とくれば、夫の暗殺の瞬間だとか、華々しくファースト・レディになったころ、あるいはしばらくしてギリシヤの富豪と結婚しジャクリーン・オナシスになったことなど、いくつかのポイントが考えられるけれども、これは暗殺直後から葬儀を出すまでに焦点を当てたもの。

夫の死後1週間して訪ねて来たジャーナリスト(ビリー・クラダップ)との会話を通じて特に暗殺後数日の日々をジャクリーンその人が回想するというストーリー。役作りでかなり体重を落としたのだろうポートマンの首筋辺りが痛ましい。が、最初から記者に懐疑的な彼女はメモをチェックして発言を変えたり削除させたりして、かなり神経質に自己演出している。この自己演出こそが夫ケネディの国葬張りの大々的な葬列を可能にしたといのうが、この映画の極めて単純で悪意に満ちた主張だ。

暗殺直後の機内で大統領に就任するリンドン・ジョンソンの良く知られた写真を再現し、その隣で複雑な表情を見せるジャッキー。霊柩車内で運転手や看護婦にジェイムズ・ガーフィールドやウィリアム・マッキンリーを知っているかと訊ね、要するに過去暗殺された合衆国大統領で知られているのはエイブラハム・リンカーンだけであることを確認すると、同乗するロバート・ケネディ(ピーター・サースガード)にリンカーンの葬儀に関する文献を届けさせるように命じるジャッキー。そうした細部が彼女の下心というか野心を照らし出す。

もちろん、目の前で夫を射殺されたのだから気丈で立派に振る舞ってなどいられない。狼狽えもしようし、理性を失いもしよう。それを正直に(といってもこれらが事実かどうかは僕は知らないけれども、少なくともおかしくなるのが正直な人間の心理だろう)描き出すところが、悪意だと言っているのだ。

ところで、最近はタイトル・クレジットをストーリーが終わった後に出すのが流行りなのだろうか? よく見るような気がする。この作品もそうだった。


池袋HUMAXはひとつのシートにつきちゃんとふたつの肘掛けが確保されていた。HUMAXってどこもそうだっけ? 

2017年4月2日日曜日

新たな年が始まる

もう4月だ。4月は僕らにとっての新年だ。
肩書きから二水の文字が一文字抜け、身軽になるのだか肩の荷が重くなるのだか、ともかく、いろいろと変化があるので、僕自身も無理矢理変化をつけてみた。

iPhone7 を導入し、それに合わせてモバイルSuicaを導入。ちゃんと使えるのだから面白い。

ちなみに、これはそのiPhone7 で撮った写真。珈琲サイフォン(株)の字が見えると思う。珈琲サイフォン株式會社の建物で、ここでは豆も挽き売りしているらしい。最近知って訪ねて来たのだが、さすがに日曜日は休みだった。

珈琲サイフォン社というのは、いわゆるコーノの珈琲器具の会社。僕が生まれて初めて使ったミルはここの製品だった。

最近、以前紹介したフレンチプレス一辺倒なのもどうかと思い、ここの、つまりコーノのドリッパーを導入してみたのだ。

これも僕の変化のひとつ。

一番普及しているカリタ式と違い、円錐状で、溝が下半分にしかないというドリッパー。台形状のカリタ式よりもコクと深みのある味が出るし、フレンチ・プレスよりはあっさりしている。一説にはネルドリップに近い味だとか。もちろん、ネルではなくペーパーフィルターを使うので、後片付けなどは楽。


週があけるといよいよ新学期だ(といっても本郷キャンパスの場合、学部1年生がいないので、少し落ち着いているのだが)。