2013年3月30日土曜日

失ったもの/得たもの


付箋をなくしてしまった。こんなこと初めてだ。

おかしい。ぼくは持ち歩くものはなくしたためしがない。財布とか鍵とか、そんなものはなくさないのだ。家の中に置いたものはなくすけど。

ノマドなのだな、根っからの。

それはともかく、近所の量販店で見つけたのは、いつもより太いこんな付箋。しばらくは調子が狂いそうだ。

一方、ヨドバシカメラのポイントが溜まってそれで買ったのは、下の土台。

こんな風に使うのだ。iPadなどを載せて。映っているのはiPadのソフト、『西和中辞典』。どうかこんな初歩的な単語を引いてるんだ、などと思わないでいただきたい。初歩的な単語ほどくりかえし引かなければならないのだよ。


ところで、付箋に話を戻そう。先日、あるトークイベントで、越川芳明さんが、ボラーニョ『2666』を電車の中でも読んだと言っていた。しかもメモを取りながら、と。

もちろん、ぼくだって電車の中で本を読むことはある。でもメモは取らない。ジャケットなど着るときには鉛筆などを胸ポケットか内側のペンポケットに挿しているが、なかなかメモは取れない。そもそもノートは? あるいは本に直接書き込むのか? そして、付箋は? 

みんな、これらの装備はどうしているのだろう? ノート、鉛筆、付箋などを、電車内での読書の際にはどうしているのだろう? いちいち鞄から取り出すのだろうか? そんなことが気になってしかたがないのだった。

2013年3月28日木曜日

ご挨拶


昨日は卒業式だった。その後謝恩会に呼んでいただいた。こんなきれいな花束をいただいた。

どうもありがとう。でも、何か言わなきゃいけないの? 参ったな。何も言うことなんかないよ。卒業式なんてこうやって送り出す者と送り出される者が掛け合いで何か言っている間に自然と涙を出させる、って形式にしてつくり上げたものなんだからさ、だから俺は卒業式、嫌いなんだよ。高校の卒業式でだって泣かなかったって、後から友人に追求されたんだ。そんな人間なんだ。大学の卒業式? ますます泣くわけないじゃん。そもそも出てないし。寝坊して出られなかったんだ。だから何も言うことはないさ。

でもね、ぼくは1984年に大学に入って、ちょうどその20年後に外語で勤め始め、その同じ年に入った学生の大半が卒業した、その数日後に入ってきたのが、ここにいる大半の学生なんだ。まあ、つまり、君たちは今年の卒業生は5年かけて卒業する者が多いということだが、心配するな、ぼくだって卒業するのに5年かかかった。当時のスペインやメキシコの大学に倣ってさ。それはともかく、そんなわけで、君たちが卒業するってことは、つまり、二回り目の区切りが終わる、そんな感じなんだ。そのことはめでたいと思う。その点にかけて感慨深くもある。

それでぼくらはもうめったには会えなくなるのだろうが、そんな区切りの学年である君たちと、しばらくの間、同じ時間を共有したことは消しがたい事実だ。ぼくはこの事実を忘れないだろうし、君たちにも憶えていてほしいんだ。村上春樹『ノルウェイの森』の直子は「僕」に「私のことを憶えていてほしいの」と懇願するんだが、ぼくは少し変えてこう懇願したいんだ。ぼくたちが共に過ごしたという事実を憶えていて欲しい、と。

……てなことを返礼にしゃべった。記憶を基に再構成しているし、そもそももう酔っ払っていたので、本当にこんなことをしゃべったのかどうか、定かではない。ぼくはもう昨日のことすら忘れ始めている。悲しい……

2013年3月25日月曜日

承前。村上春樹の翻訳についての仮説1


でも考えてみたら、村上春樹はノートで書いたものは小説ではないと言っている。昨日の引用。『風の歌を聴け』の一節。まさにそのタイプライターで書いたかもしれない一節。そこには「僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ」(強調は柳原)と書かれていた。

タイプライターで書かれるはずだったものは小説で、ノートに書いたもの(手書きのもの)は小説ではない。そして村上春樹はノートに手書きで翻訳をしたのだ。つまり、創作と翻訳とを隔てるものは機械で書く(書かれるべき)かノートに書くか。

メディアが変わると人間の認識は変わる。ヴァルター・ベンヤミン(「技術的複製可能性の時代の芸術作品」)が予言し、フリードリヒ・キットラーが固めた(という言いかたは、村上春樹の真似だ)。タイプライターで書くことは、書くと同時に見ることを必要としなくなる。タイプライターは盲目性のための機械だ。当初のタイピストは盲人が多かった。ニーチェは盲目になるに従い、晩年、タイプライターを使うようになった(『グラモフォン、フィルム、タイプライター』)。

手書きとタイピングの間には深い淵が横たわっている。村上春樹はその淵の両側に創作と翻訳を置いた。創作はあくまでも彼岸であるのだが(結局、『風の歌を聴け』がタイプライターで書かれたのは途中までだった)。結局彼は『ノルウェイの森』までを手書きで書く。その後ワープロを導入し、さらにはパワーブックを買っている。今でもマックユーザーのはずだ。少なくとも1997年まではそうだった。

さて、人は最先端の一歩手前を愛する。少なくともそんな人がいる。少し昔、第2列への偏愛。鋼鉄が最先端の時代に軟鉄で作られたエッフェル塔を愛するようなものだ(松浦寿輝『エッフェル塔試論』)。モダニズムの心性だ。ぼくにもそういう傾向はあるのだが、たぶん、村上春樹も、そうだ。一歩手前を愛し、最先端に憧れるのだ。手書きに愛着を持ち、タイプライターに憧れる。

村上春樹にとっての翻訳とは、そんなものなのかもしれない。――仮説1。

2013年3月24日日曜日

告知とか、思いつきとか


『毎日新聞』読書欄「今週の本棚」に「この3冊」という欄がある。そこにこんな記事を書いた。

この欄のすばらしいところは、和田誠のイラストつきだということだ。和田誠がぼくを描いてくれたのだ。すごいだろ? さすがにこのイラストは、Web上では見られないんだぜ。

話は変わるが、村上春樹がどこかで小説を書くより翻訳をしたかったと語ったことがあったはずだ。そう思って探したら、あった。柴田元幸『翻訳教室』(新書館、2006)でゲストとして招かれて話したときのこと。彼はこう言ったのだ。

最初に『風の歌を聴け』という小説を書いて「群像」新人賞をとって何がうれしかったかというと、これで翻訳が思う存分できるということでした。だからすぐにフィッツジェラルドを訳したんですよ。(151ページ)

小説家としてデビュして、さあ、小説書くぞ、ではなく、さあ翻訳するぞ、と思ったというのだから、そりゃあもう、翻訳が創作に先立つと言っているのだろう。

このことを確認したぼくが、しかし、今回気になったのは、この少し前に書いてあること。

どうして翻訳をするようになったかというと、やはり好きだったから家でずっとやってたんですよ。英語の本を読んで、これを日本語にしたらどういう風になるんだろうと思って、左に横書きの本を置き、右にノートを置いて、どんどん日本語に直して書き込んでいきましたね。そういう作業が生まれつき好きだったみたいです。(151ページ)

ぼくはつまり、わざわざ「左に横書きの本を置き、右にノートを置いて」と描写する、この小説家ならでは(?)の表現にいささかひっかかりを感じるのだ。

村上春樹とノートといえば、確かに、彼を読み始めのころ、印象づけられた一節が『風の歌を聴け』にはあった。

 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートのまん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの……僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。
 僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い淵が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただのノートだ。教訓なら少しはあるかもしれない。(『風の歌を聴け』講談社文庫、12ページ)

ただ、得たものと失ったもののリストを作ったとは言わず、わざわざ「ノートのまん中に1本の線を引き」、その左右にリストを作った、と書くところに、ぼくはこの作家の独特さを嗅ぎ取ったのだと思う。

実際、村上春樹(の語り)には、行動の細部にこだわるところがある。細部というか、形式というか、道具というか……

たとえば、同じ『翻訳教室』で披瀝された次のようなエピソード:

ヘミングウェイがタイプライターを持って、戦争で砲弾が飛びかう中で記事を書いていたというのを読んで、羨ましいな、と思ってました。僕らの頃は日本語のタイプライターなんてなかったから。だから僕、『風の歌を聴け』という小説を書いたとき、なんとかタイプライターで書きたかったから、最初英文で書いたの。(164-165ページ)

『風の歌を聴け』の最初の部分は英語で書かれたということはよく知られたエピソードだ。この直後に、柴田元幸が言っているように、それは、日本語の文体を脱したかったからだとの意味づけをされて紹介される。が、それが「実際はただタイプライターで書きたかっただけで(笑)」(165)といなされてしまうのだ。

形から、道具から、細部から整える。村上春樹自身がそういう人であるらしく、そのことが語りに影響しているのだろう。そしてそれが彼の世界を構成するのに役立っている。同時に、彼のその細部の整え方を考えると、『風の歌を聴け』や『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『1Q84』さえも、が書くことをめぐる考察のように思えてしまう。書くことについてアレゴリー的に、隠喩的に考察した文章のように。
てなことを考えながら、近所の公園を散歩していた。花見客が多かった。

2013年3月22日金曜日

希望のつくりかた


燐光群『カウラの班長会議』作・演出 坂手洋二(@下北沢ザ・スズナリ)

オーストラリアのカウラ収容所というと、太平洋戦争末期、ここに捕虜として囚われていた日本兵が集団脱走を企て、殺害され、成功した者たちも多くは自害するという事件があった。長く伏せられていたことらしいが、戦後だいぶたってからは解明され、研究され、いろいろと論じられてきた。80年代にはこれを題材にした映画(だったかTVドラマだったか)もオーストラリアで製作されている。捕虜たちのリーダーだった南忠男という人物(ではないかもしれない。あるいは架空の存在?)を演じたのが、それまで鳴かず飛ばずだった若き石田純一。彼の出世作だ。

今回の燐光群の劇は、この脱走、惨殺、自決の前夜の捕虜たちの一班の様子を描いたもの。日本人捕虜が増えすぎて収容所が手狭になったので、下士官を除く兵士たちを他の収容所に移送しようとしたところ、それを軍の解体の陰謀として受け取った兵士たちが、反発して脱走・襲撃に発展したらしい。この決定にいたる過程を、映画専門学校の学生たちが卒業制作のようなものとして映画化を試みるというのがストーリーの外枠。スタッフの中に福島のドキュメンタリーを撮りかけの者が混じっていることによって、カウラの事件が俄然現代的意味づけをされることになる。

ぼくは以前、ある劇を観て、今は戦時中だとの想像力が支配的になっているのか、と感じたことがあった。坂手洋二はその先を言って、今我々が戦争末期の時代にいるのだと主張しているというわけだ。大本営発表(情報操作)、意志決定システム、体面意識……何もかもがカウラと福島が似ていると示しているかのようだ。

歴史を変えることはできないけれども、これが映画の撮影であるという前提を利用して、可能世界としてのハッピーエンディングを探ろうとする展開も用意し、希望を探ろうとするのが、坂手さんの誠意と、ひとまずは言えるのだろう。

でも、ところで、これが映画学校の学生たちの製作する映画であるというストーリーから、作ることをめぐるメタフィクション的要素も生まれてくる。大切なのはこちらの方だとぼくは思う。先生の木野(円城寺あや)と脚本が採用されて監督をすることになった学生の川口ありす(田中結佳)との、おおむね、次のようなやりとり:

あなた、その脚本、何回書き直した?
今のが8稿です。
(略)
あと5、6回は書き直さなきゃいけなくなるわね。

ワークショップ形式、といえばいいのか? スタッフひとりひとりが、それぞれひとりの捕虜を作り出すというやり方で進めるこの映画学校の生徒たちの創作方法、それはそのまま劇を作る作り方であり、脚本を書く書き方だ。推敲し、やり直し、細部を練っては練り直し……

内容をハッピーエンディングにするとかしないとかいうことでなく、こうした終わりなき製作過程を生きること。それがむしろ希望であるということなのかもしれない。

2013年3月19日火曜日

でも言いたくて言えないことは……


わが家にはアイロン台がある。捨てずに持ってきてしまった。小さなアイロンもある。アイロン台を捨てなかったのは、それがそこにあることに最後まで気づかず、引っ越し屋に運ばれてしまったからだ。道理で、学生に笑いながら「アイロンかけましょうよ」と言われるわけだ。

村上春樹の小説の主人公じゃあるまいし、アイロンがけなんて、そんなにこまめにはできない。

逆にわが家にはかつてバーミックスがあったのに、今はなくなっている。類似品みたいなものが残っているだけだ。

ランチョン・マットが2組だか3組だかある。買った記憶もないのに。

この間売却したコンパクト・コンポはいつの間にかメーカーが変わっていた。

なぜだ?

そんなことを考えるたびに、ぼくは坂口安吾を思い出す。安吾のどのテクストだったかは……まだ本の荷ほどきが終わっていないので、探しようがない。探し出したとしても、言わない。

あーあ。

2013年3月17日日曜日

本当に言いたかったのは


文章って、書いているうちにどんどんずれていく。前の書き込みで言いたかったことは、あんなことではなかった。生活についてのもっと本質的かつ重要な話であったのだ。

ここ10年ばかりぼくが享受していて、今回の引っ越しで失ったものは、15平方メートル分の面積を除けば、以下の3点。

床暖房
宅配ボックス
浴室乾燥機

床暖房はリヴィングのみのものだが、これのおかげで、冬はエアコンをほとんど使わなかった。わずかに寝室を暖めるために1時間ほど使うことがあった程度だ。リヴィング横の(実質的にはその延長として使っていたけれども、構造としては別個の)部屋も、暖かだった。そこがぼくの書斎だった。

宅配ボックスがあるおかげで、受け取り損ねた荷物を再配達してもらったり取りに行ったりすることはなかった。こういうことって、重なると意外に面倒だ。

浴室乾燥機のあるおかげで天気を気にせずに洗濯ができた。

こうした快適さをぼくは失った。

……が、それらは、結局は生活にとっては非本質的な、些細なことなのだ。なくてもやっていけるものなのだ。

でもそれだからこそ……

……いや、本当に、たいしたことでは……ない……

と思う。

2013年3月16日土曜日

解決しなければならない問題の数々


ともかく、引っ越したのだ。

久しぶりの都区内。とは言え環八の外側なので、もうぎりぎり郊外と言っていいだろう。これまでより狭い部屋だ。

狭い部屋でいいと思ったのだ。むしろ狭い部屋の方がぼくには向いていると。で、15平方メートルばかりも狭いところにした。

そのために多くのものを捨てた。断捨離、などという語がひところはやったが、まあ、それだ。そういえばTEDでも誰かがそんな感じのことを主張していた。本はPDFに、音楽や映像はデジタル化して、捨ててしまえ、と。そうすれば40数平米(だったか?)のところで充分住める、と。

そういった提案にほだされたわけではないが、ええ、断って捨てて離して、荷物半分くらいになって、住んでいますとも、40ちょっと。

でも部屋の形やサイズが変わることによって、どうしてもそこに合わせるために買い換えなければならない家具などもあって、ため息がでるばかりだ。

一方、引っ越しにかまけている間に、仕事上ではさまざまな問題が積み上がっていて、だいぶ飽和状態に近づいている。

やれやれ。

……そういえば今度、ぼくに「やれやれ」という表現を吹き込んだ人物についての仕事もするのだった。

そして、仕事と言えば、4月からNHKの「テレビでスペイン語」テキストに連載が始まる。「恋愛小説を読む」。ホルヘ・イサークス『マリーア』(1867)の訳と解説だ。

2013年3月13日水曜日

メンドーサ来たる!


エドワルド・メンドーサ、とぼくなら表記するところだが、エドゥアルド・メンドサEduardo Mendoza が4月に来日する。スペインの作家などが常にそうするように、セルバンテス文化センターで講演会を開くのだが、今回は、外語でもイベントをすることになった。通訳なしの対話集会みたいなものだ。

「エドゥアルド・メンドサを迎えて:都市、言語、文学」 ポスターはこちらをクリックしてダウンロード。

『奇蹟の都市』という小説の翻訳があるのみだが、スペインで人気も高い大物作家だ。ぜひ。

実は引っ越しの最中で、その間にいろいろ業務上の問題が起こったりして、大わらわなのだが、そのことについては、また、いずれ。

2013年3月6日水曜日

Muere Chávez


ベネズエラのウーゴ・チャベスが死んだ。

親チャベスでなければ反チャベスと見なされるような二元論がいやで、あまりチャベスに関することは話したくない。

チャベスは反米勢力の旗手と見なされていた。それは間違いない。貧困層に手厚い政策で支持を得ていた。それも間違いない。USAの後ろ盾を受けた新自由主義勢力から反発を浴び、政権を転覆させられたことがある。というのも、部分的には正しい。ではどちらにつくか、……という話になるのがおかしい。

チャベスがいったんクー・デタに倒れた2002年ころ、中産階級の一部がとてつもない恐怖に支配されていたということだけは、知っておいていいと思う。下に向けての平準化が行われ、つまり自分たちも貧民層になるのではないか、との強い恐れだ。

ぼくらが今、経験しようとしていることは、おそらく、同種の恐れだ。貧民層に没落していくのじゃないかとの中産階級の恐れ。グローバル化がもたらすものと反対勢力がもたらすものが同じ恐れだとしたら、行き場がない。

もちろん、没落した先で手厚くもてなされるか切り捨てられるかの違いがそこにはあるだろう。そう考えると、将来どちらを支持すべきかは明らかかもしれない。が、落ちていく者の恐怖はすべての思考を鈍らせる。皆怖がっている。ぼくも、何だか怖い。

2013年3月4日月曜日

lingua franca


昨日、

日本学術振興会助成 平成24年度国際研究集会 グローバル化時代の世界文学と日本文学――新たなカノンを求めて――」@東京大学 山上会館

というのに参加してきた。パネルB1「イスパノアメリカ文学へのアプローチ」というやつでパネリストを務めてきたわけだ。今日もプログラムは続いているのだが、大学では大切な教授会があるので、さすがにサボることはできない。

昨日は基調講演が3つ、パネルが4つの日程。リービ英雄に柴田元幸、それにミハル・アイヴァス(『もうひとつの街』阿部賢一訳、河出書房新社、のあのアイヴァスだ)の基調講演を聴き、三者三様の英語、リングワ・フランカとしての英語に思いを馳せる。もうひとつのリングワ・フランカであるスペイン語でぼくは発表したのだが(タイトルは "Revisión del latinoamericanismo" )、ぼくの参加したパネルでもふたりはスペイン語、ふたりは英語、という勢力図。

聴衆として参加したパネルB-2「越境と混成」ではイスラエルのロシア語文学、カリブ・クレオール文化、ポーランドのイディッシュ文学、多和田葉子のドイツ語日本語混成について、それぞれ英語での発表があった。

楽しいひとときでした。

で、ぼくは「ラテンアメリカ主義再考」という話をしたわけで、しかしそれは、実際にはもっと細かく、アルベルト・フゲ『ミッシング(ある調査)』(2009)についての話をしたのだが、「ラテンアメリカ主義再考」というようなテーマでは、6月にもう一度人前で話すことになると思う。もう少し敷衍した、学問論的な話を。

大変だ……

2013年3月1日金曜日

Glorieta Gloriosa


glorietaとスペイン語の辞書で引けば、「あずまや」という訳が出てくるかもしれない。実際、あずまやのことだ。が、高度にモータライズされた現在、glorietaと言えばトラフィック・サークルのことだ。

全スペイン語圏でそうなのかは知らない。少なくともメキシコではそうだ。トラフィック・サークル。

いちばん有名なのはパリの凱旋門のあれだろうか? 四差路といわず、6つ、7つ、8つの道路が行き交う交差点で、車が円を描きながら自らの出て行く道に向かう、あれ。右側通行の場合、左隣の道に入りたかったら、ぐるっとほぼ一周回って入っていく。

別にそれがいいとは思わないが、なんだか不思議なシステムで、妙に惹かれるものがある、トラフィック・サークル。東京やその他の日本の都市では見た記憶がない。

が、そのトラフィック・サークルがすぐ身近にあることに、最近気づいた。

多磨霊園内の通路だ。ぼくはそこを最近、自転車で通っている。

定期券が切れてから、このところ、晴れた日は自転車で大学に行っている。中学以来の自転車通学。意外に好きなのだ。40分ばかりも必死にこいで大学まで行く。

中学生のころ、俺も男の子だな、と思ったのは、自転車をこぎながら、歌を歌ったり、バイクや、あろうことか車の真似してぶるるん、などと(頭の中で)唱えながら、気分はF1パイロットで飛ばしていたからだ。事実はF!に比べれば蟻みたいなスピードだったわけだが。

で、大人になって16年も自動車通勤をしていて、それをやめ、自転車で多磨霊園のトラフィック・サークルを、たかだか右折するために大回りして270度の転換で入ったりしながら、相変わらず車にでも乗っているつもりでこいでいるのだから、恥ずかしい。

もはや「男の子」ではなく、ガキだ。

ぼくはあと半年で50になる……