2010年11月8日月曜日

追い立てられている

こんな夢を見た。

ふたつ前の夢(いつ見たのだったろうか?)で、ぼくには子供が託された。独りで住んでいるぼくのところに、かつての恋人だか現在の恋人だか、妻だか、元妻だか、あるいは同僚だかの女性が、生まれて間もない赤ん坊を託していった。この子はぼくたちの快楽の代償なのだから、喜んで引き受けようじゃないか、と言ったかどうかは覚えていない。そもそもそれがぼくの子だと言われたかどうかも確かではない。なにしろ夢の話だし、前々回の夢だ。

前回の夢で、色々とゴタゴタがあって、ぼくはその赤ん坊をちょっとの間、押し入れに入れておかねばならず、そうした。そして、そこに放置し、何日かが経った……らしい。細かいことは不確かだ。何しろ夢の話だし、前回の夢だ。

で、今回、ぼくはそのことを激しく後悔している。赤ん坊のおむつも替えなきゃいけないだろうし、何しろ放置したきり何日か(何日だろう?)経過しているのだから、無事に生きているかどうかも心配だ。心配なのだけど、怖くもある。怖いから目を背けたい。ぼくは押し入れを開けて見るより先に、ベビーカーや哺乳びん、おむつなどを求めて外に出た。

ぼくのアパートはよく似たふた棟からなっていて、仮にぼくが住む棟をA棟とするなら、B棟の管理人室周辺に、ぼくはいた。倉庫があって、そこにベビーカーがあるはずだった。入口に知り合いの女性たちがたむろしていた。女性たちがしかける世間話の罠を潜り抜け、ドアを空けた。倉庫だと思ったら管理人室だった。ベビーカーは? と問うと、隣の棟ですよ、との答え。夢の中でも、現実の世界でもそうだが、ぼくはこうして常に余計な迂回をしている。A棟に戻る最中、ぼくは自らを呪詛し、赤ん坊を気遣った。そんなことなら、最初から押し入れを空けてみればいいのだ。でもそうはしなかった。そして今、押し入れまでの道はあまりにも遠い。

赤ん坊が無事だったかどうかは知らない。何しろ夢の話だし、夢はそこで覚めたのだし。

夢は記録を残すなどしていると、望みさえすればその続きやあるいは同じような始まり方をする夢を見ることができる。赤ん坊は気になるけれども、ぼくはこの続きを見たいと望むのだろうか?

そもそもこれは、赤ん坊の生死に関する夢ですらないのだろう。さらに、こんな夢を見たのは、前日、次のような一節を読んだことと関連があるのかどうかもわからない。

……スーダンのヌエル族では、男性が独身のまま、あるいは子供を残さずに死んだ場合、近親者がその男性の所有していた牛の群の一部を用いて妻をめとることが認められています。(C・レヴィ=ストロース『レヴィ=ストロース講義:現代世界と人類学』川田順造、渡辺公三訳、平凡社ライブラリー、2005、90ページ)