2019年7月17日水曜日

ハッパを買いつけろとハッパをかけられ……


ファンキーな映画だ。

デニー・ブレックナー、アルフォンソ・ゲレーロ、マルコス・ヘッチ監督・脚本・製作『ハッパGoGo 大統領極秘指令』(ウルグアイ、アメリカ合衆国、2017

2014年、ウルグアイは世界ではじめてマリワナを合法化する。密輸業者を根絶やしにするのがその目的のひとつだ。合法化を受けてマリワナ入りブラウニーを売っていた薬局経営者のアルフレド(デニー・ブレックナー)は、しかし、密輸大麻を原料にしていて捕まり、入獄。当時の大統領ホセ・ムヒカ(本人が友情出演)から解放する代わりに合衆国に行って大麻を仕入れてこいとの命令を直々に受ける。ともに薬局を経営する母タルマ(タルマ・フリードレル)とともにコロラド州デンバーに向かう。大統領がオバマを訪ねてくる25日後までにトラック3台分の大麻を手に入れようとする。

コロラド州は合衆国内でマリワナが合法化されている数少ない州で、デンバーではカンビス・カップなどというフェスティバルをやっているのだ。フェスティバルで顔を売るけれども、大麻を調達することはできずに、今度はニューヨークに。ジャマイカ系の住民から買いつける約束は取りつけるが、今度は輸出の手はずを取りつけるのが難しいとわかる。大統領来訪直前のワシントンDCまで行って大使に掛け合ったりもする……

本物のホセ・ムヒカが出てくる。本物の彼の農園でアルフレドと話をするのだが、報酬だと示したのが多数の南瓜。抱えられるだけ持っていっていいぞなどというのだからおかしい。街で出会う人やフェスティバルに参加する人々の顔にモザイクが入っていてドキュメンタリー風を装うのも面白い。軍が大麻を栽培するはずだなどというやりとりも冗談が利いているが、軍人が「捧げ筒、構えて、発射(fuego)」の命令とともにマリワナに火をつけるカットを入れてふざけている。協力者として現れた警察のタト(グスタボ・オルモス)とタルマのエピソードなども笑ってしまう。

久々のActionの配給だが、今回はSmoke も協力。上映館 K’s Cinema(椅子が広くて快適♡)にはこの新聞式のフリーペーパー創刊号が置いてあった。

2019年7月10日水曜日

カタカタと響くキーパンチ


評判の藤井道人監督『新聞記者』を観てきた@角川シネマ有楽町

シム・ウンギョンという韓国人女優が主人公なのは、日本の女優たちに軒並み断られたからだと、もうひとりの主役松坂桃李が言っていた。断るほどのヤバい内容でもないと思うのだが。

あるいは、脇を固めていた西田尚美、本田翼あたりが、主役はさすがに、……だから脇に回して、などと譲歩(?)したのでは、と勘ぐったりしながら観ていたのだ。ふたりとも原案の著者・望月依塑子に似て、そしてシム・ウンギョンにも似てショートカットが印象的ではないか! 

そんな現実のモデルに重ね合わせたくなるのは、前半、実際の事件をモデルにするスキャンダルが次々と話題にのぼるからだ。けれども、映画の後半はあくまでも現実とは異なる(少なくともまだ明るみに出ていない)スキャンダルを解明するフィクション。この転換は賛否両論だろうなと思う。

後半、……というよりもクライマックスは、ふたりの主人公がスキャンダルを解明する過程ではなく、彼らの心理が追い詰められる過程の描写になる。だからスローモーションなども使われるのだが、個人的にはその使用は今ひとつ気に入らなかった。(でも、そういえば、女性記者の心理を追い詰めていくためにはあの設定が必要で、つまりは日本人女優に断られたからというよりは、むしろそれを狙ってのキャスティングだという考え方もできるかもしれない。本当のところは、知らない)

映画の最大の見所は内閣調査室を描いたことだろう。実際には関係者以外は立ち入ったはずのない部屋、ABの独裁を推進するために世論のコントロールすらしている秘密の部屋。これはもう想像力を駆使して描くしかない舞台なのだが、その室長を演じる田中哲司の悪役ぶりが光っていて、不気味。映画の最大の意図はその一点で達成されていると思う。

SONYデジタルペーパーのカバーを外してみた。

2019年7月1日月曜日

曖昧を楽しむ


立教のラテンアメリカ講座、スペイン語上級読解の授業で読んでいるのは:

Juan Gabriel Vásquez, Las reputaciones (Barcelona: Alfaguara, 2014)

一度に5ページばかりも読めば1年で読み切る計算だ。この作品に関しては安藤哲行さんが松籟社のウェブに紹介している(リンク)。

しかしまあ、僕なりのしかたで内容をまとめてみよう。新聞の戯画作家ハビエル・マヤリーノがその40年のキャリアを讃えられ、勲章というか栄誉賞をもらうことになった。その晩、別れた妻のマグダレーナがボゴタ郊外にあるマヤリーノの家にやって来て、ふたりはヨリが戻せそうだ。翌日、マグダレーナが次の日の昼食をともにする約束をして仕事に戻ると、今度は前日のパーティで知り合ったサマンタ・レアルがインタビューと称してやって来る。彼女がジャーナリストだというのは嘘で、実は前日の授賞式でうつされたマヤリーノの家を見て、見覚えがあることに気づいたから、確認にやって来たのだ。しかし彼女は、ここで何があったのかまったく覚えていなかった。マヤリーノは語って聞かせる。彼とマグダレーナが離婚したころ、人里離れたこの家に引っ越したマヤリーノは、引越祝いのパーティーを盛大に開いた。そこに娘ベアトリスの友人としてやって来たのがサマンタだった。二人はいたずらに酒を飲んで酔っ払って寝てしまう。その間にやって来た政治家アドルフォ・クエヤルが、どうもサマンタにいたずらをしたらしい。迎えに来た彼女の父が気づき、クエヤルに詰め寄る。マヤリーノはクエヤルの少女趣味をからかう戯画を発表。政治家は危機に立たされる。まったく記憶がないし、そんなことどうでもいいと言い張るサマンタは、しかし、肉体的には反応していて、記憶の不在に苦しんでいるらしい。ことの真相を確かめるべくマヤリーノはクエヤルの未亡人に会うことを勧める。

……と、安藤さんの紹介した箇所の少し先まで紹介したが、結末部分は書かないでおこう。これから読む人の興味を削がないためにだ。が、ところで、これを読みながら、一部の受講生が、マグダレーナは実は死んでいるのではないか、との疑問を抱いたようだ。教材決定に当たっては安藤さんの紹介を確認し、その後かなりの飛ばし読みで大体の内容を確かめて決定したし、授業の予習はまだ進んでいないので、読み飛ばした箇所にマグダレーナの死を匂わせる、あるいは明記した箇所があったらどうしようと思って、もう少し詳しく(飛ばさないように一言一句確かめながら)最後まで読んでみた。死んでいなかった。よかったよかった。

記憶のあやふやさが主題のひとつではあるだろう。だから認識が曖昧であることを記述する箇所がある。単語の選択などにも不確かさを印象づけるものがある。だから実在が疑われたのだろう。しかし、その点で焦点になるのはサマンタがトラウマとして抑圧し忘れてしまった性的虐待が本当になされたかどうか、そして、いかにも戯画らしい曖昧な表現であったとはいえ、状況証拠だけでクエヤルを攻撃したマヤリーノの記憶だ。さらに、そのように描いたことによって対象を追い詰めることになった戯画のジャーナリズムとしてのあり方の問題も、小説の要だろう。「過去のことだけを覚える記憶って、ずいぶん貧困」という『鏡の国のアリス』の白い女王の科白が結末を導く論理となる。

翻訳された3作(『密告者』『コスタグアナ秘史』『物が落ちる音』)や、この後に発表したLa forma de las ruinas(廃墟の形)などに比して(とりわけ最後のものに比して)短いけれども、文章は濃密(戯画作家としての視点と記憶の曖昧さを表現するための叙述の多義性)で、読解力は鍛えられる……のではないかな?