2016年4月30日土曜日

海辺の変化

島尾ミホの、こんな文章には心打たれる。

 南の島とはいっても年によっては、旧暦の霜月師走にもなると、沖の方では珊瑚礁に砕ける白波を北風がたかく吹きあげ、潮気をふくんだ冷たい風が島をすっぽり包み、山の木々は末枯れた姿になって、庭のパパイヤの木も葉をすっかり落とし、寒さにこごえた実は熟するのを待たずに、ひとつひとつ落ちて落葉の上で霰に打たれている日もあります。そして夜になると梟の淋しい啼き声といっしょに夜寒が襟もとから胸の辺りにしのびこみ、足の爪先や踵は、月の光を受けて小川の底に沈む小石の肌のように冷えてちぢかむのです。(『海辺の生と死』中公文庫、103ページ)

島尾ミホは島尾敏雄の妻だったから本を出したのではない。この描写力(と記憶力)とによってひとりの優れた作家だったのだ。亜熱帯の南の島の冬の寒さを知る者で、エッセイ「旅の人たち――支那手妻の曲芸者」の書き出しのこの段落に自身の幼少期を思い出さない者はいないと思う。「南東の亜熱帯性気候は四季の移り変わりもそれほどはっきりと区別がつきません。水稲も二期作で、正月に菫の花や朝顔の花が咲いたりします」(173 - 174ページ)との一文に描かれた現実と決して矛盾するわけではない島の冬だ。

とはいえ、1919年生まれの島尾ミホと1963年生まれの僕とでは生活のあり方はだいぶ異なっていたようだ。「支那手妻の曲芸者」は『海辺の生と死』第II部「旅の人たち」の2番目のエッセイだが、1番目の「沖縄芝居の役者衆」には、以下の説明がある。

 その頃奄美大島の港には、間遠に日本本土から蒸気船がやって来て、そちらからの客や積荷をおろし、こちらからは黒砂糖の樽や大島紬などを積み込んでは帰って行きましたが、その大島から海峡ひとつ隔てた私の故郷の加計呂麻島では、遠い処へ行くのにも丸木を刳り貫いた丸木舟か、板を接ぎ合わせて造った小さな板つけ船しかなく、それわ櫂で前搔きに漕いで行き来をしていました。それなのにそんな不自由な海の旅を重ねながらも、いろいろな旅人たちが、この南の島蔭の、入江奥の集落までも渡って来ては去って行くのでした。(89-90)

まず驚くべきは、「遠い処へいくのにも」だ。「も」。つまり、近いところ(例えば対岸の大島にある古仁屋の町)に行くには当然のごとく、船が小さな船が使われていた。多くの人の思い込みに反し、奄美大島は大きい。歩いて回れる島などではない。加計呂麻島と僕が育った島の北端では様子も異なる。僕らのところでは今ではもう残っていないけれども、古仁屋―加計呂麻島近辺ではいまだに小舟(といっても手漕ぎではなくモーターつきだが)による水上タクシーなどが行き交っている。1931年生まれの母から聞いたところでは、彼女の子供時代(終戦後間もなく、奄美が本土に復帰するころまで)、名瀬の街に行くのに船で行っていたとのこと。島にバスが走るのが1952年、復帰の前年だから、それまでは回路はひとつの日常的な移動手段だった。

もうひとつ驚くべきことは、そうした難儀をしながらも、「沖縄芝居」やら「支那手妻」、「曲芸師」、さらには「富山の薬売り」など、旅の人々が回ってきたということだ。僕が知っているのは富山の薬売りだけだ。でなければその他の行商人。少なくとも旅芸人たちは、1970年前後の島には、もう渡ってこなかった。映画興行ならばあった。風に揺れる映画もあるのだ。椎名誠(44年生まれ)の記憶だ。


『海辺の生と死』では島尾敏雄の特攻隊長だった時代のことを綴ったエッセイもある。第II部、「特攻隊長のころ」、「篚底の手紙」「その夜」の三編だ。これを島尾の小説の数々と比較して読んでみるのは一興。今度どこかでやってみよう。

2016年4月29日金曜日

わたしの怖い物語


演出の田中麻衣子さんがこれを劇化したいと言ってきた時には、大胆にどこか1章だけを切り取って大幅に脚色するのだろうなと勝手に想像していたのだが、むしろ原作の各章の中身を残しつつ、一部を統合したり組み替えたりしていた。音楽(国広和毅、ときどきナレーターにもなる)と語り(李千鶴、ときどきキャストにもなる)が複雑なレトリックを解きほぐすのに役立っていた。

刑務所にいる父親に会いに行って迷子になるエピソードでは、紗のカーテンをスクリーン代わりにイラストをプロジェクターで投影し、うまく処理していた。そしてまたそのイラストが秀逸。チラシの絵もてがけたゆーないとの作のようだ。

『わたしの物語』って、怖い話だったのね、というのが感想。いや、怖い話だってことはわかっていた。でも、僕が感じていた怖さはセサルの母への憎しみの中にあったのだけど、人が演じると結末が輪をかけて怖いことがわかったということ。


会場は満員だった。

2016年4月27日水曜日

バスケスを芥川賞作家と読んできた

先日告知したイベント、「J・G・バスケスを芥川賞作家と読む」に行ってきた。

まずは『コスタグアナ秘史』の久野量一さんが、ゴンブロヴィッチ『トランスアトランティック』(西成彦訳、国書刊行会)に寄せたピグリアの論文(ゴンブロヴィッチをアルゼンチン文学もしくはラテンアメリカ文学として読む)やピグリアその人の『人工呼吸』(ゴンブロヴィッチへの応答)に感心し、他の言語で書かれたラテンアメリカ文学という視点からコンラッド『ノストローモ』に気づき、その評伝を書いたバスケスを知り、彼の書いた『コスタグアナ秘史』に出会い、訳したことを語った。

僕は、まずは冒頭のエスコバールの領地から逃げだしたカバのニュース記事を配ってそれが事実なのだと伝え、麻薬文化との関係でコロンビアの殺し屋(シカリオ)を扱った作品や、メキシコのナルコ小説、ナルコ映画、USAの側からの麻薬問題を扱った映画などの話をし、テッド・デミ『ブロウ』(2001)の裏として読むのも一興だと結論づけた。

小野正嗣さんはサンフランシスコの書店で山積みになっていた『物が落ちる音』英訳と出会い、面白さに魅了されたこと、仏訳の『コスタグアナ秘史』は対照的に語りが行ったり来たりで難しく、途中で投げ出して邦訳の出版を待ったこと、邦訳で読んでみるとその複雑な語りに仕組まれた試みの面白みがわかって負けず劣らず気に入ったことなどを語った。


さすがに小野さんの人気か、思ったよりも人が来ていた。満杯だった。

2016年4月25日月曜日

出藍の誉れ

昨日は第2回翻訳大賞の授賞式に行ってきた。

パトリック・シャモワゾー『素晴らしきソリボ』関口涼子、パトリック・オノレ訳(河出書房新社)
キルメン・ウリベ『ムシェ 小さな英雄の物語』金子奈美訳(白水社)

が受賞。

クラウド・ファンディングによって資金を集め、インターネット上の推薦の数で上位のものと審査員の推薦による15冊から選ぶという翻訳に焦点を当てた賞。

選考経過の話、受賞作の話、授賞式、受賞者の言葉、受賞作品の受賞者による一部朗読、などと続いた。『ソリボ』の口上を読む関口涼子のパフォーマンスに圧倒された。『ムシェ』の方はキルメン自身の朗読がビデオで流れてから同じ部分の翻訳を金子奈美が読むという順で、それもまた大変良かった。

会場からの質問も受けつけ、その最後に小説家の星野智幸がクレオール語にしてもバスク語にしても歴史の重みを背負った少数言語であるわけだが、それを日本語に訳すに際して、どのような心持ちであるのかと訊ねた。関口さんは沖縄の語りを聴きながら訳したと答え、その一部が会場に流れた。金子さんはバスクの疎開児童に関する小説を訳し、それについて書いてもいる歴史家狩野美智子さんが長崎の被爆者であったこと、そしてまた日本の大学で最初にスペイン語を教えた田村すず子さんがアイヌ語学者であったことなどを紹介して会場を唸らせた。

その後のパーティでは、なぜか僕にも挨拶の機会が回ってきた(その経緯については、誰かと話していたので、全然わかっていない)ので、金子奈美に(バスク語ではないけど)最初にスペイン語を教えたのは僕であること、以後、僕はそのことを自慢に人生を過ごすことになることなどを述べた。


本当は、最初にスベイン語を僕が教えたわずか数年後、『野生の探偵たち』を翻訳している時には、彼女にはだいぶ誤訳などを指摘してもらったので、その教える教えられる関係は逆転したようなものなのだけどな。自慢くらいさせてくれよ、ってな心境だ。


あ、そうそう。セサル・アイラ『文学会議』拙訳(新潮社)もある程度の数の推薦を受けたのだけど、柴田元幸さんがオビの推薦文を書いているので、選考委員の関係する本は除外するというこの賞の規定に従い、選考対象から外されたとのこと(少なくとも僕はそういう話を聞いた。単なる思いやりかもしれないけれど)。推薦してくださった皆さん、ありがとうございます。もっとも、選考の対象になって、金子さんが受賞、僕は選外、ということになっても悔しかったかも。できのいい教え子に対する感情は複雑なのだ。ふふふ…… ひとりでも推薦してくれるか方がいたという事実だけで、充分報われた思いだ。

(※金子さんの受け答えに関しては、当初、記憶違いがあったので、訂正しました)

2016年4月23日土曜日

どうしちゃったんだろう? 2

これ、何と言うのだろう? この部分が壊れてしまった。

もう何十年になるだろうか? 腕時計を捨て、懐中時計をするようになった。手首が蒸れるのがいやだったからだ。これが第何代の懐中時計になるのかは、もう忘れてしまった。ともかく、懐中時計を使っているのだ。これをジーンズやチノパンのウォッチポケットに忍ばせている。

しかるに、鎖を衣服の端などにかけるフックの、その爪の部分がいつの間にか取れて、なくなってしまったのだ。昨日の朝、気づいた次第。

物は持ち主が浮気心をもった瞬間に、拗ねて壊れてしまう。ひょっとしたら、電波式のやつが欲しいなと思ったのがばれてしまったのかもしれない。

さて、その昨日は、僕は無関係だけれども、同僚たちが持っている「ロシア東欧の映画」という授業にパリ第3大学(ソルボンヌ・ヌーヴェル)のクリスティアン・フェイゲルソン先生を招き、メドヴェトキンとクリス・マルケルについての話(『幸福』や『最後のボルシェヴィキ』の一部を観ながら)を伺うというので、行ってきた。初期の『シベリアからの手紙』は英語字幕版がなかったので、これも一部だけ観た。

終わって近所で食事。

ところで、こんなこと、やります。


小野正嗣さんは『物が落ちる音』を英訳か仏訳で読んで面白いと言っていた方なので、お話を伺うのが楽しみなのだ。

2016年4月21日木曜日

どうしちゃったんだろう?

どうしたわけだ!? すっかりブログの更新を怠っていた。

3月には『第三帝国』の翻訳を終え、これから校正に入る。

4月の9(土)、10日(日)には第4回世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会があった。東大の本郷キャンパスで、僕はホスト役を務めることになった。いや、ホスト役のみではなく、第1分科会「南の文学」のコーディネーターを務めた。

第2回日本翻訳大賞では『素晴らしきソリボ』の関口涼子さんらと共に、キルメン・ウリベ『ムシェ』の金子奈美さんの受賞が決まった。

授業も始まっている。

僕はちゃんと生きているのだ。

そういえば、この間、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』藤井光訳(新潮社、2016)だって読んだ。

ディシエンブレという劇団に参加して地方を回るネルソンが被った不興を、彼と束の間関わりを持つことになったジャーナリストの「僕」が、事後、取材して再構成するという内容。ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』の形式だし、取材で取れた証言と、それに基づいて過去を再構成する語りが入り混じる仕方は、バルガス=リョサをも彷彿とさせる。いや、何もこの二人を思い出す必要もないのだが、こうした疑似・メタ・ドキュメンタリー的手法は、近年、多く見られるような気がして(バスケスの『物が落ちる音』などもそうだ)、こうした新しい世代がガルシア=マルケスから引き継いだものがあるとすれば、『百年の孤独』路線というよりは、『予告された殺人の記録』路線なのだよな、との思いを新たにしたのだった。

形式はそういうものではあるが、ネルソンの身に降りかかった不興を、最初から小出しにして読者の興味を繋ぐしかた巧だし、てっきりネルソンは殺されるか死ぬかするのだろうと思ったら、そうではないという、いわば「どんでん返し」のような結末に落ち着くのも、なかなか面白い。

ディシエンブレの座長ヘンリーは、かつて政治犯として投獄されたことがあり、獄中での友人・恋人ロヘリオの獄死を知らせるために、彼の故郷Tへ出向く口実として劇団は地方公演旅行に出かけるのだが、ヘンリーが政治犯と見なされたのも、カルペンティエールの短編を舞台化したことによってキューバとの繋がりを疑われたからだし、獄中でも演じられ、地方公演の出し物としても選ばれたディシエンブレの代表作『間抜けの大統領』という作品にはアレホという名の人物が登場する。そうした細部にも僕は喜ぶのだった。