2016年11月27日日曜日

ギターは美しい

昨日のこと、ここに行ってきた。

杉並公会堂。

渡辺香津美「ギター・ルネッサンス」

同名のアコースティック・ギター・ソロのアルバムをシリーズVまで出している渡辺香津美が村治奏一(第1部)、戸田恵子(第2部)をゲストに招いてのコンサート。ビートルズのナンバーから始めた。「アクロス・ザ・ユニヴァース」はそのアルバムのひとつ収められていたと思うのだが、続いて弾いた「カム・トゥゲザー」はなかったのではあるまいか? 常々この曲は歌そのものよりもベースのフレーズやリズム(ギターのカッティング)に魅力があるのではないかと思っていたのだが、こうして渡辺香津美の手にかかると、やはりこのためにある曲なのだと確信を新たにする。村治奏一を招いての「フール・オン・ザ・ヒル」は渡辺が鉄弦のままで村治のナイロン弦と交互に(コーラスごとにということではない)主旋律を奏でるものだから、たとえばレオ・ブローウェル/鈴木一郎のデュオとはずいぶんと趣を異にする。鉄弦の金属音とナイロン弦の澄んだ音色とのコントラスト。

そうしたコントラストがさらに強調されていたのは、「リベルタンゴ」だ。渡辺のギターのシャリシャリとした金属音が、時にカスタネットの響きにも聞こえた。

そういえば村治奏一はソロで「フェリシダーヂ」を演奏して、これも聴き応えがあったのだが、荻窪に来るまでの電車の中で、ヴィニシウス・ヂ・モライス『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』福嶋伸洋訳(松籟社、2016)を読み終えたのだった。あ、つまり、「フェリシダーヂ」は映画『黒いオルフェ』のテーマ曲で、『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』は原作。そういう連想だ。

ただし、この戯曲はオルフェウスの神話を下敷きに、韻文で書かれた抽象性の高い作品。丘に住むギターの名手オルフェウが死んだ婚約者ユリディスをおって冥府におり、戻って後には発狂するという話。使用する曲を指定するなどして、ボサノヴァの産みの親のひとりであるモライスが、その新しい波をプロモートしているようにも読める。映画版の黒人表象のエキゾチズムを嫌ったというが、戯曲は、なるほど、神話と音楽とが鳴り響くのみだ。

訳者福嶋伸洋によるあとがきが充実している。

さて、第2部のゲストは戸田恵子で、この元アイドルにして女優、かつ声優もこなす人が、実はジャズ・シンガーでもあったということを僕は不覚にも知らなかったので、喜ばしい驚きであった。アンコールで出てきた時には、「わたしがいちばんうまく歌える歌です」などと言ったから、まさか、と思ったが、しばらくイントロを聴いていると、やはり違うだろう、と不思議な安堵を覚えたものの、実はまったくそのとおりで、つまり、「アンパンマン」のテーマだったのだ! 盛り上がった。

アンコールと言えば、村治奏一は「ロマンセ」と「アルハンブラの思い出」という実にスタンダード過ぎる曲をやったのだが、渡辺香津美がレオ・ブローウェルを思い出させるようなフレーズを含む伴奏で音に厚みを与えて素晴らしかった。最後は「ヘイ・ジュード」で締めた。

コンサートを終えるともう暗くなっていた。


夜は広尾のメキシコ料理サルシータで友人たちと楽しく過ごした。

2016年11月24日木曜日

理想のプロポーション

坂手洋二作・演出『天使も嘘をつく』燐光群@座・高円寺

燐光群での客演が3度目となる竹下景子が馬淵英里何を従えて出てきて両手を広げた瞬間、僕の頭にふたつのことが去来した。

1) 竹下景子が20代デビュー直後でアイドル的な人気の頂点にあったころ、女性雑誌だか化粧品会社だかが実施したアンケートで理想のプロポーションとされた数値に一番近かったのが山口百恵と竹下景子だったというのが、彼女自身が出演していたクイズ番組(クイズ・ダービー)で出されたことがあった気がする。

で、その数値は今どきの20代女性と比べれば小柄な方だとは思うが、それにしても竹下景子はまるで20代のころのようにほっそりとしたままだ、と驚いたのだ。松坂○○だとこうはいかないな、などと……

と、同時に、当時の理想の数値の割には脚が長いな、などと変なことまで考えた。

2) で、アイドル的な人気のあった竹下景子だが、20代の彼女が一番よかったのは『青春の門』ではなく、やはり『ブルー・クリスマス』だよな、とも。

『ブルー・クリスマス』を思いだしのは、雪が降っていたからだろうか? 雪→ホワイト・クリスマス→ブルー・クリスマス……

そんなことを考えていたら、大西孝洋演じる映画館主タイラがシナリオの雑誌などにはわけあって映画化に至らなかったシナリオが掲載されることがあり、それがもとで映画化が叶った例もある。大島渚の『少年』とか倉本聰の『ブルー・クリスマス』とか、と言った。

坂手洋二はこの『ブルー・クリスマス』→竹下景子のラインを評価している人物だと思う。何しろ竹下景子演じる映画監督クリモトヒロコは「冷戦期アメリカB級映画における田舎町の恐怖」(うろ覚え)というテーマが専門(『遊星からの物体X』、『ボディ・スナッチャー』、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』など。「ロメロ監督は絶対です!」という台詞があった。同じくうろ覚え)で本当は劇映画を撮りたいと思っていたけれどもドキュメンタリーを撮ることになった人物という役柄だ。

そのヒロコがかつて撮ったある島のメガソーラー発電所をについてのドキュメンタリー映画を、同様のメガソーラーの計画が進行中の沖縄のある架空の島で上映し、ついでのそのあたりでの映画のプランも練ろうとしていたのだが、実はメガソーラー計画をカモフラージュにして自衛隊基地を作ろうとしているのじゃないかとの疑惑が浮上する。メガソーラー反対派の市民は基地反対の活動をするために、ヒロコの幻の映画『天使も噓をつく』の製作を実行する委員会という姿をカムフラージュにして基地反対運動を展開するという内容。やがて計画がレーザー基地建設という具体性を見せてくる……

サブプロットは馬淵英里何演じる反対派のサユリの離婚と、元夫に親権を取られてしまった娘との関係、そしてまた彼女がヒロコの幻の映画に主演する予定だった女優(そして上映されたドキュメンタリーのプレゼンター役)マナ(故人)によく似ているという話。

もちろん、高江のヘリパットなど現実の沖縄の問題の隠喩に違いない劇だが、社会問題と映画製作を絡めるという設定においてイシアル・ボジャインの『雨さえも』などをも思い出させる。

また、市長の川中健次郎を檻の中に入れ、他の出演者が鉄格子状のパネルを前に置いたりかざしたり回したりしつつ防衛省の野望とその植民地主義的態度を批判する言辞を連ねていくシーンがあるのだが、演出家が日ごろ行っているような政治批判を、こうして舞台に乗せて台詞としてしゃべらせるだけで劇は成立するのだという格好の例だ。僕が外語時代にある企画のために坂手さんにコンタクトを取った頃、ちょうど彼の演出で燐光群が演じていたデイヴィッド・ヘアーの『ザ・パワー・オブ・イエス』について彼が言っていたことを思い出した。調べたことを舞台に上げるだけでいいのだ、と。


それにしても、いや、ほんと、竹下景子は最後も手を広げて舞台に仁王立ちになるのだが、僕は自分の腹が恥ずかしくなったな。最初、風邪気味なのか少し声が元気がないなと思ったのだが、そのうちに調子が出てきて、よかったよかった。

2016年11月23日水曜日

中途半端なミーハー

今の家に引っ越してきてすぐのころ、住宅街なのに行列の絶えないラーメン屋がすぐ近所にあることに気づいた。僕はラーメンにはぜんぜん執着はないし、行列のできる飲食店など蔑みの対象でしかないから、黙って前を通り過ぎるだけだった。

ほどなく、そこがミシュランでラーメン屋として初の星を獲得したことを知った。すぐにTVカメラなどが周囲を賑わすようになり、整理券制度が始まり、その整理券も朝の早い時間になくなる始末となった。外国人観光客がキョロキョロと探し回る姿も日常茶飯事になった。

繰り返すが、ラーメンにも行列にも興味はない。だから気にもならなかったのだが、僕はまた中途半端なミーハーでもある。少しはどんな味なんだろうという興味もある。

そこへ、生麺式のインスタントでこの店の味の商品が出たのを知った。たまたまスーパーを冷やかしていたら見つけたのだ。で、色気を出して買ってみた次第。

もちろん、店ではこれに具材などが乗るのだろう。トリュフを使ったものだと聞いたような気もする。僕はこの後で茹でたキャベツとネギをたっぷり入れたわけだが、ともかく、そんなわけで、その店の味そのものではないはずだが、食べてみたのだ。

うむ。美味。

これがあれだけの長蛇の列に値するとみるかどうかは、また別問題。何しろ僕は行列のできる店がいやなのだ。


でもまあ、ともかく、うまいことはうまい。

2016年11月20日日曜日

世界は陰謀に満ちている

ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』中山エツコ訳(河出書房新社、2016)

エーコの遺作で、彼の死のニュースが流れたころにはもう予告が打たれていたように記憶する。

舞台は1992年、まだ携帯電話も存在しない(少なくとも普及していない)時代のミラノ。ある有力者の肝いりで作られる日刊紙『ドマーニ』のパイロット版(ヌメロ・ゼロ)作成チームのチーフ、シメイに、その様子を後に本にするためのゴーストライターになってほしいと頼まれた語り手兼主人公のコロンナが、仮の編集部の校閲デスクとして参加する。パイロット版はあくまでも事件をリアルタイムで取り扱う必要がないのだからと、ちょっと前の事件などを基に記事を作って紙面を構成、12号まで発行しようとしているのだが、1992年のイタリアではいろいろな政治スキャンダルが起こったようで、それら現実のスキャンダルについて、メディアがどう見せるかという談義をしながらのメディア批判になっている小説。

記者のひとりブラッガドーチョが、ムッソリーニが生きていて、1970年、彼を頭目にしてクーデタがもう少しで起きそうだったが、その瞬間に彼は死んだのだとの情報を得てコロンナに話す。このクーデタ未遂事件に関する情報がもとになって小説後半ではスピーディーに話が展開する。「ネタバレ」なんてものを嫌がる人には話さない方がいいだろうから、どんな展開かは書かないでおく。エーコの小説ではいちばん短いものだと思うけれども、現実の92年のイタリアと照らし合わせてみればその濃度がわかるだろうと思う。

僕は小説を読むとき、そこに書かれている傍系の情報(どうでもいいこと)がとても気になってしまう。それら、気になって取ったメモの一部は、以下のようなもの。

洗濯物を窓の外に干すのはナポリ。
イタリアの売春防止法は1958年。(日本もそのころではなかったか?)
ムッソリーニの身長は166cm。(思ったより高い)
その息子ヴィットリオは映画脚本家。長年ブエノスアイレスで過ごした。(本当か?) 

等々。


こういうことって気になるでしょう? 

2016年11月18日金曜日

月とボラーニョ


つい2、3日前にスーパームーンなどと騒いでいたと思ったら、もうこんなに影ができている。月って意外と早く欠ける。朝、洗濯物を干しながら眺めた月。

ボラーニョの新刊。Roberto Bolaño, El espíritu de la ciencia-ficción (Barcelona: Alfaguara, 2016).『SFの精神』

クリストフェル・ドミンゲスが前書きを書いている(「文学へのイニシエーションの小説であるばかりでなく、性や恋愛へのイニシエーションの小説でもある〔略〕ロベルト・ボラーニョの篚がいつまでも閉じないことを望む」等々)。末尾には「ブラーナス、1984」と。

DFだったころのメキシコ市、というか、1970年代のDFで、屋根裏部屋に暮らす二人の若き詩人が好きなSF作家にひたすら手紙を書き送る、という話らしい。

そして特筆すべきは巻末付録。この『SFの精神』の創作ノートの一部が24ページにわたって写真で掲載されている。


僕のノートとボラーニョのノートの差。

2016年11月13日日曜日

久々の週末

前回、ドルチェ・グストを研究室に置いたことを書いた。

そのとき書き忘れていたが、実は最近はステンレス・フィルターも使っている。これがペーパー・フィルターとは全く異なる味で驚く。色が違う。ねっとりとコクが出る。粉末がカップに残り、それを飲むと苦いので、飲み方に気をつけなければ。

昨日は新国立劇場の研修生終了公演『ロミオとジュリエット』(田中麻衣子演出)に行ってきた。田村将一の演じるロミオが若く、世紀の恋も若気の至りの軽薄な恋だということがよくわかった。シェイクスピアの優れた言葉遊び(あるいは河合祥一郎による訳の妙か?)も楽しかった。やはり古典はいいのだ。

3週ほど前に護国寺に行ったことを書いた。そのとき本当は僕はここを目指していたのだ。

東京教育大跡地、すなわち教育の森公園。

大学の敷地だと考えれば、現在の筑波大に比べれば確かに狭い。が、充分に広い都心のこの閑静な場を手放したのは、筑波大のために嘆くべき事実だと思う。残念だな。


こどもフェアみたいなことをやっていた。

2016年11月11日金曜日

大きな一歩……?

僕にも矜恃というものがあって、こんなものを見せるのは恥ずかしい(と言いながら見せている)。

子供の頃からコーヒーを淹れてきた。

最初はサイフォンだった。香りが何ものにも代えがたい。

高校に入ると寮住まいだったので、サイフォンのような大がかりなものは使えなかったので、ドリッパーにペーパーフィルターで淹れた。

いわゆるエスプレッソはあまり好きではないが、好きでないのは焙煎が深すぎるからであって、中煎りにした豆をエスプレッソで淹れると美味しいと知ってからはエスプレッソ・マシンもある。

そんな風にしてコーヒーを飲んできた。手で淹れると一回ごとに当たり外れはあるが、それがまた楽しくて、ともかく自分で淹れている。

研究室にもずっとドリッパーを置いていた。

そんなコーヒー生活にまさか変化が訪れるとは。

大学の研究室は毎日訪れるとは限らない。長期休暇の時期だとましてや足が遠くなる。豆(さすがにミルまで置く気はないから、挽いた粉というのが正しい)を長く放置して古くしてしまうこともある。

これを打開する道は2つだ。ミルを研究室に置くか、冒頭にあるようなマシンで既成のパックに入ったコーヒーを作ること。

ミルを置いても、長期休暇中には豆そのものが古くなる。結局、ふたつめがいちばん妥当な選択肢ではないか。

そう思って買ってしまった。ネスカフェ〈ドルチェ・グスト〉。

こんなパックを使う。

問題は、あくまでもお仕着せの味しか味わえないということだな。ブレンドやエスプレッソ、等々。あくまでもストレート・コーヒーを、今日はグワテマラで、……などと選んだりはできないということだ。ネスエフェがグワテマラ……等々を商品化してくれない限り。


まあいいや、意外に美味しいし。今日(もう昨日だが)なんざ朝から秘密の仕事、昼は教授会、夜の仕事に備えて研究室で過ごす時間も長かったので、3杯も飲んじまったぜ。

2016年11月10日木曜日

また記録を怠ってしまった。

11月5日(土)には「第1回現代文芸論研究報告会」というのをやった。僕は開会の挨拶をした。発表5人にそれぞれコメンテーターがついて、充実した研究発表だった。〆には蜂飼耳さんの講演。漢詩の読み下し文と翻訳と、自身の訳さた『堤中納言物語』とその訳文を示され、言葉を置き換えることについてお話しいただいた。

6日(日)には「人生に、文学を。」第1回オープン講座というのをやった。僕はその第1部で村山由佳さんと彼女の作品を巡ってモラル・ハラスメントの話をした。受講者からの質問……というか意見がなかなか面白かった。それぞれにモラル・ハラスメント(やそれに類するもの)に苛まれた経験を語ってくださったりした。

第2部は阿部公彦さんと西村賢太さんのトーク。僕は別室でモニターで見ていたが、時々、音がよく聞こえなかったのが残念。だいぶ盛り上がっていた。

そして今週もひたすら授業。ただし、金曜は補講期間のために休講。来週も金曜は学祭で休講。2週連続おやすみだ。

ヤタ!


……

2016年11月3日木曜日

土日などない

週末が潰れるから、今日は休みだ。

まあ、単なる祝日なのだが。日本国憲法が公布された日で、その前は紀元節、つまり明治天皇の誕生日で、「文化」の日などと名乗ってはいるが、そんなわけで「明治の日」に改めようなどという不穏な動きがあるとも報じられている日。

太陽の照り返しを受けて何かが近づいてきている感じがわかるだろうか?

この直後、ゴジラが現れたのだった。

……なんちゃって。

これは誰でしょう?

コンラッドだ。

今度、『コスタグアナ秘史』の書評を書かなければならないので、念のため。英語のAnnoted版をKindleで持っているのだが、まあ、念のため。たまたま大学の図書館(当然だが)と近所の区立図書館にあることがわかったので、休日の今日は大学よりも区の図書館だろうと思って借りてきた次第。

今週の土曜日は「第1回現代文芸論研究報告会」というのをやります。蜂飼耳さんの講演もあり。

そして、日曜日は、既に何度か告知している「人生に、文学を。」の第1回オープン講座。村山由佳さんの司会をする。


どれも来てね。