2020年12月31日木曜日

今日で2020年が終わるだなんて、とりあえずは信じないでおこう

こんなものを買った。


丸いまな板。この方がスペースを有効活用できるような気がして。


六本木に行ってきた。「ジョン&ヨーコ ダブルファンタジー展」@ソニーミュージック六本木ミュージアム。

出会いのきっかけとなったヨーコの作品や


「ベッドイン」で “Give Peace A Chance” を作ったときのベッドとギター、


その他さまざまなテクストやビデオなど。


巽孝之さんはジョンが自身の政治運動や発言を “phony” と表現していて、それが『ライ麦畑でつかまえて』のキーワードで、それゆえに殺されることになったのだと、同じ展示を見て伝えている。さすがだ。僕にそこまでの観察眼を期待しないでくれ。



帰りに久々にキャンティに寄った。写真はそのこととは特に関係ない。

2020年12月28日月曜日

今月は映画の話が多い

情報が解禁になった。〈現代アートハウス入門〉という企画で小田香さんとお話をすることになった。


2月1日(月)のことだ。アントニオ・レイスとマルガリーダ・コルデイロ監督『トラス・オス・モンテス』(ポルトガル、1976)を観て、それについて話す。アートハウスつまりミニシアターでかかった現在では古典といっていい作品を上映し、それについて映画監督たちが(時にはゲストとともに)語るという7夜連続の企画。その第3夜に僕は登壇するという次第。第1夜『ミツバチのささやき』第4夜『緑の光線』などもいくらでも話したい対象の作品ではあるが、ともかく、第3夜だ。アントニオ・レイスのドキュメンタリー的手法に影響を受けたのがペドロ・コスタ。そのコスタの教えをタル・ベーラの映画学校で学んでいるときに受けたのが小田香さんだ。僕は小田さんの映画『セノーテ』のパンフレットにちょっとした文章を書いた縁がある。コスタについても、以前告知のごとく、『ユリイカ』コスタ特集に書いたのだった。


ところで、蓮實重彦『見るレッスン――映画史特別講義』(光文社新書、2020)ではドキュメンタリーを撮れる監督に優れた作り手がいることが指摘されている。そして、現在の日本が第三の全盛期にあるとする蓮實は濱口隆介などのその傾向を高く評価している。加えて、世界に伍する優れたドキュメンタリー作家として小森はるかとともに小田香の名を挙げている。ふたりは「日本の宝」なのだそうだ。


そんな「宝」と僕はちゃんと話すことができるのだろうか? 


まあいいや『トラス・オス・モンテス』というのはポルトガル北部、スペインとの国境地帯でこの辺は400年もの長きに亘って追放ユダヤ人たちが住んでいた地区で、つまりは、ブニュエルの『ラス・ウルデス/糧なき土地』(1932)の地の裏に当たる場所だ。そんな話をしようではないか。そして、それ以上に、小田さんの話を伺おうではないか。

2020年12月27日日曜日

愛おしいぞ

2日前のことではあるが、届いた!


西崎憲編『kaze no tanbun 移動図書館の子どもたち』(柏書房、2021)。


僕はここに「高倉の書庫/砂の図書館」という「短文」を掲載している(125-40ページ)。以前、やはり西崎憲さんの編集する『文学ムックたべるのがおそい』7号に「儀志直始末記」という短篇小説を発表した。そこでは盲目となる自らの運命と折り合いをつけるためにボルヘスになることを決意した伊地知孝行という人物を作り出したのだが、実はそう決意する前から彼はボルヘス的な環境に生きていたのだという話……なのか? 基本的には僕が小学生のころに読んでいた学研の〈中学生の本棚〉シリーズをめぐる思い出を島尾ミホでまとめたもの、という方がわかりやすい説明かもしれない。


しかし、それにしても、執筆陣が豪華で、自分が恥ずかしいくらいである。編者の西崎憲も書いているが、その他には我妻俊樹、円城塔、大前粟生、勝山海百合、木下古栗、古谷田奈月、斎藤真理子、乗金顕斗、伴名練、藤野可織、星野智幸、松永美穂、水原涼、宮内悠介、そして、僕だ。な? 気後れするだろ?


星野さん(「おぼえ屋ふねす続々々々々」! ボルヘスの笑える要素をうまい具合に引き出していて面白い)と僕とでゾーン〈ボルヘス〉を形成する。そこに勝山さんが加わってゾーン〈スペイン語〉が成り立つ(彼女の作品はタイトルが作品内の謎への解答になっている)。何しろタイトルが「チョコラテ・ベルガ」だからだ。 “Chocolate belga” だな。ほかにもおもしろい作品ばかりだ。松永さんはアンナ・ゼーガーズとその子供、そして宮本百合子を重ね、そこに「自分」を重ねる文章。ゼーガーズだ! 


装丁も可愛らしいし、タイトルに合わせて図書貸し出しカードのような栞がついていて、それがまた可愛らしい。そしてその裏には執筆者のうちの誰かの短詩が印刷されている。僕のは自分の作品の前口上みたいなものだ。



2020年12月14日月曜日

映画三昧、といってもいいかな?

昨日は予告通りラテンビート映画祭でダビッド・マルティン・デ・ロス・サントス『マリアの旅』を見た。これもすばらしかった。


そして今日、セリーヌ・シアマ『燃ゆる女の肖像』(フランス、2019を見てきた。カンヌの脚本賞とクィア・パルム受賞作。


結婚を前に姉が死んだ(たぶん、自殺した)ために、修道院を出て、どこかの孤島の城で身代わりの結婚に備える娘エロイーズ(アデル・エネル)の肖像画(見合い画?)を描きに来たマリアンヌ(ノエミ・メルラン)は、エロイーズが前任者に描かれることを拒否したので、単に散歩の同行者を装ってこっそりと描いて欲しいと依頼される。マリアンヌはチラチラと彼女を見ては夜、記憶に頼って細部を描き留め、そこから全体を再構成する。そうやって描いた絵を、しかし、まずは素性を明かしてエロイーズに見せてから渡したいと言ったためにエロイーズ本人に否定され、もう一度描き直すことにする。母(ヴァレリア・ゴリノ)がしばらくパリに行っているので、戻ってくるまでの5日間で完成させることというのが条件だ。今や堂々とモデルとしてエロイーズにポーズを取らせて描くマリアンヌは、欲望を抑えられない(視点は一貫してマリアンヌにある)。2人は関係を持ち、愛し合いながら絵を完成させていく。


かくして絵は完成するのだが、絵の完成は別れをも意味する……


何よりも自分の名前で創作できなかった時代の女性画家の創作をめぐる作品だ。それが絵であるから、そこには見る見られるの関係が入り込んでくる。見られる対象であるエロイーズは最初衣服にくるまれた後ろ姿でしかない。やがてフードがズレおち、走る彼女のふくらはぎが覗き、ちらちらと斜め後ろからの顔が見え、そしてやっと振り向いたその顔がはっきりと見える(振り向くことはこの映画の重要なモチーフでもある)。こうして顔が露わになった後も、しばらくはマリアンヌによって窃視された横顔しか見えなかったりして、巧みな視点操作が行われる。こうした窃視は恋に落ちた者の落ち着きなさを表していると同時に、その執拗さはねっとりとした欲望の表現でもあるように見える。官能的、と言えばいいのかな? 


一方で、いったんは仕上げた絵をモデルが拒否するなど、作家とモデルの関係をも描く芸術家映画の要素ももちろん持ち合わせている。親が不在の間に羽目を外す子どもたちの物語も映画ではよく描かれるが、母が留守にしている間に2人は関係を持つのだから、このタイプの変種とも言える。振り返ることはこの作品の重要なモチーフだと上で書いたが、エロイーズがマリアンヌと使用人のソフィ(ルアナ・バイラミ)に読んで聞かせるオルフェウスの物語も別れの物語を盛り上げる。いろいろな要素が詰め込まれた作品だ。最後には「コウルリッジの花」(ボルヘスの同名のエッセイ参照)のモチーフまで示して小憎らしい。


そして何より、最後のヴィヴァルディ「夏」(『四季』)の演奏が胸を打つ。そこでのアデル・エネルが外語時代のある教え子(母親がドイツ人だったかな?)によく似ているので感慨もひとしおなのだ。


写真はイメージ。

2020年12月13日日曜日

映画三昧、ともいかない

ラテンビート映画祭が開催中である。今年はオープニングの1本を除き、オンライン配信でやっている。今日まで。オンライン配信だから全部観られるだろうと思っていたが、案外忙しなく、今のところ3本しか観られていない。今日、駆け込みでもう1本くらいは観ようと思う。


観たのは、『モラル・オーダー』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ベネズエラ』、『息子の面影』だ。真ん中のやつはクラウドファンディングの見返りに無料で鑑賞。


マリア・デ・メデイロスが20歳ばかり年下のしかも元使用人と不倫する話! と喧伝されているかもしれない『モラル・オーダー』は、実際には自分の親の築いたものである大新聞社を夫に乗っ取られようとして戦った女性の実話を基にした物語。


マラカイボ湖畔の水上の集落に取材したドキュメンタリーである2本目は、明らかにこのところの政治の不安定が原因である石油問題が絡んでいるのに、それでも政権を支持し信じる村の顔役然とした女性と、半政府派の学校教師の対立を描きつつ、それすらもが馬鹿らしくなるような村の凋落と退廃を非情に描いている。


『息子の面影』は国境越えの不法労働移民の問題かと思いきや実はその途中で遭遇する危険性のある麻薬カルテルを中心とした組織による収奪と人間狩りの問題でもある現代メキシコを描く、しかし、ロードムーヴィーの趣を持ったもの。途中、これは現代版『ペドロ・パラモ』か! と思わせる箇所あり、レイガダスを想起させるような幻想的かつ恐怖の場面ありで実に面白い。傑作だ。



ところで、ソニーのデジタルペーパーを使っている。PDFリーダーとしてのこの器機は、読みやすく書き込みもしやすく助かるのだが、いかんせん、ページめくりが素早くできない。高速でページを送りながら読むべき箇所を探さなければならない大部の文書を読むには辛い。その点ではiPadでAdobeリーダーやPDF Expertを使って読む方がいい。気づいたら、ソニーのもの以外にもたとえば中国のメーカーの電子ペーバーがたくさん出ているのだが、どれも良さそうに見えるそれらの商品のレビューを探しても、この点について触れたものはあまりない。かろうじて富士通のQuadernoに関してAmazonのユーザーレビューでページ送りが遅いのがいけないとの指摘があるくらいだ。


この点がよければ迷わず新たな器機を導入したいと思うのだが、それがわからない限りは導入には踏み切れない。これが改善されていなければ、現在のソニーのデジタルペーパーとiPadの体制でなんら問題はないからだ。


うーむ。どなたか、ご教示を請う。


ニューヨーク本店がこのたびのコロナ禍で破産したと聞き、東京店、というか日本法人は大丈夫だとの報に安心はしたものの、潰れて欲しくないので、支援。というわけではないが、ブルックスのセーター。久しぶりにセーターを新調したのだ。

2020年12月6日日曜日

映画監督気分

前回書いたように、ヨーロッパ系の人はミニマリストを自称していてもソファやカウチは持っている。それらはミニマルな家の要素という考えだろう。日本のミニマリストたちはソファなど持っていないことが多い。


僕もどちらかというとソファはミニマルな要素だと考えていた節がある。


が、つらつらと思い返すに、ソファでは特にくつろいだという意識はないのだった。1人がけの肘掛け椅子(これすらも1人がけのソファと称する者はいるにしても)で充分。


今の家に越してきてから、以前の家に置いていた肘掛け椅子が少し大きく感じた(レイアウトの問題)。それで小さめの2人がけのソファにしてみたのだった。が、やはり今ひとつなのである。やっぱり2人がけがいいかもよとアドヴァイスをくれた人が隣に座りに来るわけでもなし、やはり肘掛け椅子がいいのだ。


が、かつてのそれはもう処分した後だった……


そこで、取りだしてきたのが、ディレクターズ・チェア。これが僕は案外好きだ。これまで臨時の椅子としてしか使わなかったこれを、改めてソファの代わりに置いてみた。



なかなかいいじゃないか。本当はサブの机はダイニング・テーブルにもなるものがいいとは思うのだが、この間取りではそう贅沢は言えない。

2020年12月1日火曜日

プチ・ミニマリスト

4月に引っ越しをするに際してYouTube でルームツアーのようなことをやっている人の動画をたくさん見たわけだが、そういう動画の中にはミニマリストを誇るものも少なからずあった。ミニマリスムとLOHAS≒無印系が隆盛のようである。


余談だが、日本語で発信しているミニマリストと英語やスペイン語などで発信してるミニマリストには決定的な違いがあるようだ。後者はそうはいってもほぼ必ずソファもしくはカウチを部屋に置いている。カウチを必要最小限と見るか否か。そこには大きな溝があるように思う。


さて、ともかく、そんなわけで思ったことは僕は本(やDVD、CD)はそれなりに持っている方ではあるが、その他の生活必需品についてはだいぶミニマリストなのだということ。ほぼ毎日料理をするのだが、炊飯器もないし、鍋などフライパンと雪平鍋代わりにも使える深いパンだけだ。あ、スキレットもあった。そうそう、土鍋も。人はこうして自らを発見するのだろう。

こんなのを使っていた。左手。メンズビオレの洗顔フォームは、泡になって出てきて、ひげそりにも使えるというもの。が、そろそろ中身を補充しなければという時期になってふと気づいた。石鹸も最近は泡のものにしているのだった。右のやつだ。ひょっとしてこれで事足りるのではなかろうか? 試しに使ってみたら、確かに、これで支障はなかった。ふむ。では注ぎ足すのはやめようではないか。こうしてまたひとつミニマリストになっていく。

そういえば、同じくメンズビオレのこんなやつも少し前に導入したのだった。シャンプーも洗顔も身体を洗うのもこれひとつで事足りるというやつ。ミニマリストだ。僕としては単に縮小経済を生きているだけなのだが。

2020年11月26日木曜日

みのやが懐かしい

ちょっと前、大塚駅近くのとんかつ屋に入った。一年ほど前にできたのだろうか? かなり新しいとんかつ屋。その名前が気になっていた。美濃屋。



丼に入った豚肉の細切れとキャベツだけのシンプルな豚汁が出てきた。(写真はない)


それで確信した。


よく見ると店内には雑誌掲載の記事が貼ってある。「老舗の三代目が独立して開店」と紹介されている。やはりそうだった。これはあの東十条の〈みのや〉の末裔ということだ。


……とはいえ、僕はその東十条の〈みのや〉には2回くらいしか行ったことがない。僕がより馴染んでいるのはその弟がやっているという西ヶ原の〈みのや〉だ。つまり僕が通っていたころの外語大のすぐ近くにあった店だ。僕は大学の反対側に住んでいたので、ここのヘビーユーザーではなかったけれども、なんだか行くと必ず知り合いの学生がいたような記憶がある。あくまでも捏造された記憶かもしれないけれども。



で、なつかしくなってその西ヶ原の〈みのや〉にも行ってみた。食後の散歩のついでになので、中には入らなかったけれども、まだ健在であった。



写真を拡大したら中のメニューが見える。安い!


今度、腹が減ったときに行ってみよう。久しぶりに。

2020年11月23日月曜日

アナ・トレントが懐かしい

フェリックス・ビスカレット監督『サウラ家の人々』(スペイン、2017)@K’s Cinema


原題はLos Saura ではない。Saura(s) だ。つまり、サウラ家の人々(のみ)の意でなくサウラの複数の作品、ということか? 


サウラは正式ではないジェラルディン・チャップリンとのものを含めると4度の結婚をし7人の子をもうけている。ジェラルディンとの子シェーンはアメリカ合衆国在住で、これに出ることはできなかったのだが、映画はその他の6人の子どもたち(と現在の妻エウラリア・ラモン)との会話からサウラの過去についての話を引き出そうと意図するもの。サウラ自身は過去を語りたくないと言い、なかなか監督のビスカレットの思いどおりにはいかない。


そこで用意されたのが、自宅のアトリエではないスタジオにパネルを立てて光と影のコントラスを捉え、そのパネルに過去の映画の断片や写真を投影し、話のきっかけにするという手法。これ自体がヴィトリオ・ストラーロ的というか、彼を用いてサウラが撮った『フラメンコ』、『タンゴ』『ゴヤ』『ドン・ジョヴァンニ』らを彷彿とさせて素晴らしい。サウラの過去を映し出すにうってつけだ。


スタジオのパネルに投影するものばかりでなく、観客には過去の作品の断片がふんだんに引用され呈示される。いちばん多かったのが『カラスの飼育』であるところが泣ける。


今回の上映にあわせ、K’s Cinema では過去作品の回顧上映もやっており、今日はこの作品の前にはまさにこの『カラスの飼育』(1975)をやっていたのだ。ロビーで開場を待っていると、映写室から挿入歌にしてエンディングの ジャネットの“Porque te vas” (1974)が流れてきた。泣いた。ちなみに、これ、 "¿Por qué te vas?" だと思っている人もいるようだが、疑問ではない。理由説明だ。(リンク)


ちなみに、東京中がマノエル・デ・オリヴェイラの『繻子の靴』8時間一挙上映を観に行っていたという噂の昨日、僕はサウラの『フラメンコ』を観ていたのであった。訳あって、僕もサウラ祭。



写真はイメージ。

2020年11月22日日曜日

逃避だとも


こんなふうに部屋のレイアウトを変えてみた。これまで背中合わせにふたつの机を置く形だったが、垂直に配置してみた。結果、だいぶ使い勝手が良くなったし、書斎が書斎としてより落ち着く感じになった。

あまり長くない文章ではあるが、そのゲラを久しぶりに紙で見ている。雑誌などのゲラは今ではほとんどPDFファイルで操作しているので、紙は長い本などでない限りめったに使わなくなっているのだ。


活字になるのが楽しみ♡

サブの机が単なる物置として雑然と使われていたので、少し片付けてみた。

新たに書斎から区切られたリビング・スペースでおすまし。


いずれ、この部屋の本棚は奥行きの薄いものにして、今のやつはまだ余裕のある書庫に移動させようかと思う。そうしたらほんの少しだけ部屋が広くなるはずだ。

2020年11月21日土曜日

終日オンライン

昨日、耐えきれずここでちょっとばかり食事してきた。新橋の街はコロナ禍などよそのことのように賑わっていて、これじゃあ終息はしないなと思った。自分のことは棚に上げて。


今朝は1、2限、立教のラテンアメリカ講座の授業。


ベルナルド・アチャガ『アコーディオン弾きの息子』金子奈美訳(新潮社、2020)が面白かったので、訳者・金子奈美のオンラインでのトークを聴いたのだった。


金子奈美は出版した翻訳作品は3作目なのだが、3作目にしてはじめて翻訳者として自らの言葉で話す機会を得たとのこと。つまりこれまでは作者の通訳という形でしか翻訳書関連のイベントを行ってこなかったのだという。うーむ、ただでさえ影である翻訳者なのだから、翻訳が出たときくらいはしゃべらせて欲しいものである。彼女は1時間では足りないぞとばかりにアチャガ作品への愛を語り、テクストへの思いを語り、でもそのわりになるべく作者とありま接触しないことにしているとの翻訳姿勢を語った。


『アコーディオン弾きの息子』はカリフォルニアの牧場で50歳くらいで死んだダビが書いた故郷の日々との回想を、幼なじみの作家ヨシェバがリライトするという形式の一人称小説(二重の)。舞台は『オババコアック』と同じ架空の町オババ。スペイン内戦で父はフランコ派として町の「アカ」たちを殺したかもしれず、母方の叔父は反フランコ派のバスク民族派という家庭に育ったダビは父に反発しつつも父の跡継ぎとしてアコーディオンを弾いたりしているのだが、やがて、大学に進学するとある夏の日々のできごとのおかげでバスク独立派の活動員として地下に潜ることになるという話。500ページ超の小説だが、最後の100ページ足らずで重要なできごとが起こる。こうした重要なテーマを甘酸っぱい青春の物語が貫いている。


夜はラテンビート映画祭でマリオ・バロッソ監督『モラル・オーダー』(ポルトガル、2020)をオンライン配信鑑賞。マリア・デ・メデイロスが主演の映画だ。新聞社の創業者の娘が、その社を売ろうとするわ浮気はするわの夫に反発して26歳年下の元運転手と駆け落ち(偽装誘拐)をして逆に罠にはめられた形になり、精神病院や刑務所やらに収監され、戦う話。

2020年11月18日水曜日

金ならない! 

新しいMac Book Air, Pro, Mac mini が発売になったという


今の環境で充分満足しているので、特に買い換える気はなかったのだが、早くもあがったYouTube でのレビューの数々を、否応なしに見てしまうことになる。……で、迷った。


Intel と訣別して新しく開発されたM1チップとかいうもののおかげで、格段と良くなったという。


ふむふむ。まあ、それもいいだろう……


が、まだそれ対応のソフトは少なく、ものによっては使えないかもしれない。


あ、やっぱり待った方がいいのだね……


が、そんな未対応アプリのために Rosetta がある、と。


……なんと! では、あれも使えるのだろうか? マリア・モリネールの『スペイン語用辞典』PC版。


以前、このブログでも書いたが、マリア・モリネールの辞書をインストールしていた。が、Macで使うにはこのRosettaが必要だった。しかるに、Rosettaはあるとき(どのOSの時点だったか、判然と覚えていない)から使えなくなった。この辞書もまったく使えていない。


しかし、Rosettaがまた使えるということはこれが復活するということなのだろうか? だとすれば欲しいぞ。キーボードも打ちやすくなったということだし。


で、実際に新MacBook Air(もしくはPro)を買うかどうかは別にして、OSは既に、いつの間にか Big Sur(僕はこれをスールと発音すべきだと思う)に換わり、それに合わせていくつかのアプリはアップグレードした。それで、気づいたらPagesの使い勝手が良くなっているように思う。縦書きも簡単にレイアウトできるようになったし。


従来、Pagesはほとんど使っていない。しかし、MS Word は重いので、自分で文章を書くときはやはりもう使っていない。 iText Pro というやつでリッチテキストファイルを作っている。軽いし、使いやすい。縦書きもできる。


僕はページのレイアウトはあらかじめ作ってその状態で書きたいというタイプだ。縦書きのつもりで書く文章は縦書きで見ながら書きたい。だからiText Proでもそうする。だからテキストファイルよりはリッチテキストファイルで作成するのだ。


一方、原稿などをテキストファイルでと言われることもある。いったんリッチテキストにしたものをテキストファイルにするのはワンタッチではできない。それが簡単にできるのがPages。これはWordに書き出すのもワンタッチでできる。


うーむ、これからはもっぱらPagesを使用すべきだろうか? そして新しいMacBook Air を買うべきだろうか? うーむ、そんな金はないぞ……


写真イメージ。

2020年11月12日木曜日

占拠された壁たち


先日、通勤途中にこんな壁を見つけ、写真を撮り、昨日、instagram に載せた。これもひとつの壁画だ、と。

ちょっと前にはこんなのも見た。


で、街をうろついてみれば、実は案外壁は蔦に覆われている。果たしてそれが蔦なのかどうかは知らないが、ともかく、覆われている。

こんなのとか。

こんなのとか。

そして案外、それらの原初の形はこんな感じなのかもしれない。

2020年11月11日水曜日

これでも僕には立派な大工仕事

さて、前回(と言ってももう10日も前だが)書いたように、ガス・ファンヒーターを導入した。しかし、どうにも困ったことがあった。


ガス栓は流しの側、コンセントは反対側の壁面。これではどちらかに足を引っかけてしまいそうだ。古いアパートなもので、現在の生活のことまで頭が回っていない。いろいろと不便があるのだ。


で、6メートルの延長コードを入手し、壁と天井伝いに流しの側に電源を回してみた。


するとコーヒー関連の器具(ポットとミル)も流しのところに置けるようになった。快適だ。


先日、沖田修一監督『おらおらでひとりいぐも』を観に行った。東北弁の脳内ジャズを青木崇高、濱田岳、宮藤官九郎らの人格化した存在が奏でていた。

2020年11月1日日曜日

寒い朝

一日の大半を過ごす机のすぐ上にエアコンがある。そろそろ寒くて朝晩は暖房をつける時期だ。が、そんな位置関係なので、暖房に当たると苦しくてしかたがない。真下だから。


おお、そういえば、あれを用意したではないか!


ガス・ファンヒーター。


着火。ボッ! 暖かい。


今日は、第5回はじめての海外文学スペシャル。


はじめての海外文学フェアは今年、6回目。スペシャルが5回目なのだ。さすがに今年はオンラインで。


既にYouTubeで見ることができる(リンク)。


トークセッションで本を何冊ぐらい読むのかとの質問があった。そういえば、本に「冊」という単位はないということを書いた人がいた。管啓次郎だが。そのことを後になってから思いついた。言えばよかったと、後悔しても始まらない。イベントは終わった後なのだから。


管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』(左右社、2009)について当時書いたこと(リンク)。


その他、本を読むことのについて書いたこと(の一部)(リンク)


ちなみに、昨日は第6回現代文芸論研究発表会だった。秋草俊一郎さんを迎えて『「世界文学」はつくられる 1827-2020』(東京大学出版会、2020)についてのセッションもあった。

2020年10月31日土曜日

やっぱりX-E 3 が好き


Fujifilm X-E 3 である。数年前に導入し、気に入っている。名著『テクストとしての都市 メキシコDF』掲載の写真の何分の一かはこれで撮影した。センサーはAPS-Cなのだが、フジは頑としてフルサイズ・センサーのミラーレスを作らない方針のようだ。さしたる本格派でもない僕には、充分だ。


一眼レフ風の真ん中に山のあるタイプのカメラも持っていたが、僕はやはり、一般的に言ってもレンジファインダー式の、上がフラットなものが好きなようだ。車もセダンは好まないから、よほど出っ張ったものが嫌いなのだろうと思う。ともかく、そんなわけで、結局、これで充分と改めて確認し、これのみで行こうと思った次第。

こんなレンズをつけてみたのが正解であった。七工匠(7 artisans)の35mm(35mm換算で53mm相当)f1.4、MFのレンズ。これがなかなかいい。

こんな感じ。加えて逆光でいい具合にゴーストがでて、まるで古いレンズのようだ。

こんなのとか、

こんなのとか。


レンズ交換式のとは別にいわゆるコンデジも持っていて、これもかつてはCanon Powershotシリーズを愛用していたのだが、いつの間にかフジのX 70 に換わっている(自分で換えたのだが)。

うーむ、なんだかフジの回し者のようだ。

2020年10月26日月曜日

次の日曜日の遠出



わざとらしくこんな画像を載せてみる。



前の週の日曜に兄が死に、母が上京し、金曜に通夜、土曜に葬儀があった。


ここでは書くことがはばかられる宗教問題や、書くと長くなるので省く人間関係もあり、人の死は残された者の心痛の種でもあるのだ。いろいろあって、母を送って一泊で地元に帰ることになった。日曜日に行って、月曜日に戻った。


空港の待合室での収穫。



文(かざり)潮光(英吉)『奄美大島民謠大觀 復刻版』(南島文化研究社、1933/文秀人、1983)。


これに復刻版があるとは知らなかった。しかも復刻自体がかなり前のことで、それでもまだ空港の売店で買えるなんて! 僕はかつてこれの原版を都立図書館の目録に見つけてそれを参照した。以前発表した短篇小説「儀志直始末記」(『たべるのがおそい』Vol.7)の主要な発想源のひとつだ。



次は、みき。


神酒ではない。どのような言葉の由来かは知らない。米とサツマイモのデンプンとでつくる飲み物で、そういえばオルチャタみたいなものだ。もう少しドロドロした飲み物。これが意外と好き。



これはふねやき。「ケンムンのおやつ」だと(『奄美大島民謡大観』風に言えば、ふねは「船」のように発音されては困る。「ケンムン」のケはけでもないしきでもない。ンにいたっては存在すら疑われる。「ばけもの」では断じてない。「日本文字にはない發音である」〔13ページ〕)。黒糖の菓子なのだが、僕が認識しているふねやきよりははるかにパウンドケーキ風である。芭蕉(ばしゃ)……つまりモンキーバナナの葉が敷いてあって、歯触りを除けば、つまり風味と味は、なるほど、ふねやきだ。焼きたてですと言われて買ったのだ。うまい。



この菓子に敷かれた芭蕉の木(個体としては別物)。子どものころはこれに立派な実がなった。



廃墟風の我が家。上の芭蕉の木が向こうに見える。