2015年4月25日土曜日

インマ・クエスタに会いたくて

ベニト・サンブラノ『スリーピング・ボイス』原作:ドゥルセ・チャコン(スペイン、2011)

マキ(共和派の敗残兵)の妻で、妊娠中に投獄されたオルテンシア(インマ・クエスタ)を姉に持つペピータ(マリア・レオン)がマドリードに上京し、姉が手伝いをしていた家に泊めてもらって、別の家に奉公に出る。その家は、夫が共和派の元医者で、今は身分を剝奪され会計士などやっていて、妻はフランコ派、父親や兄弟もフランコ派の軍人という、複雑な家庭。一方でオルテンシアに面会に行くペピータはマキとの接触役を頼まれ、面倒に巻き込まれる。

映画内で目立つのは識字能力に対する意識というか、扱いだ。字の読めるペピータは評価され、オルテンシアもそれゆえに裁判官に驚きの目で見られる。囚人仲間の中には字を覚えるのに四苦八苦しているのもいる。

スペインだけが識字率が低かったわけではないにしても、スペインの場合、内戦で敗れた共和国は、内戦前、識字率を高めるべく教育に力を入れていた。ゆえに教師といえば共和派との意識があるのだろうか? オルテンシアとともに裁かれた女囚には歴史の先生がいた。オルテンシア自身、教師になりたかったとのセリフを発する。『蝶の舌』も子供と共和派の教師の話だった。一方で刑務所の監守にも教師だったけれどもそれでは子供を養っていけず、監守をしているという人物がいた。フランコは教師を冷遇したのか? と気にしたくもなる。

教師(教育)とその結果としての識字能力(識字率)。これが『スリーピング・ボイス』の基底にある声。眠れる声。


これはAction Inc.の10周年を記念して、同社が配給してきた作品を一挙上映するという映画祭「ラテン! ラテン! ラテン!」の一環。シリーズ中の唯一の新作として毎日、決まった時間に上映されているのがこの作品だ。今日はぼくは、この『スリーピング・ボイス』の次に上映された映画『ルイーサ』の後の時間、Action 代表の比嘉セツさんとトークショウに臨んだのだった。うまく話せたかなあ……? 

2015年4月23日木曜日

エマ・ストーンに会いたくて

ついこの間『バードマン』で娘役のエマ・ストーンにやられ、ついつい見に行った、別のエマ・ストーン(というのは半分冗談。彼女が出ていなくてもきっと見に行ったはず)。

ウディ・アレン『マジック・イン・ムーンライト』(アメリカ、イギリス、2014)

オープニングのBGMは "You do something to me".  1928年ベルリンから幕が開く。中国人に扮し演技をする(『春の祭典』、『ボレロ』などをBGMに)手品師スタンリー(コリン・ファース)のもとに友人のハワード(サイモン・マクバーニー)が訪ねてくる。プロヴァンスに住むハワードのおばヴァネッサ(アイリーン・アトキンス)の隣人の家に取り入るアメリカ人霊媒師ソフィ(エマ・ストーン)の化けの皮を剥いで欲しいと頼むのだった。

今回に限り「英国紳士」という語を使いたくなる、アイロニカルなイギリス人のハワードは懐疑心たっぷりにソフィアに近づくのだが、過去を言い当てられたり、交霊会での心霊現象を目の当たりにしたりして、動揺する。ソフィアは周囲が眉根をひそめるようなハワードの皮肉の対象となりながらも、最初から彼に好意的なようだ。

イリュージョンと交霊会(séanceと呼ばれる。映画や演劇の一回のセッションの意だ)。19世紀末にヨーロッパで流行ったふたつのまやかし("She is a visionary and a vision"というセリフがある。ちなみにこの"vision"は「美人」だ)の対決だ。ひとつはタネがあることを誰もが知っていて、もうひとつはタネがないからこそ驚異だとされるセッション。霊媒師の噓とマジシャンの理性の化かし合い。恋の物語につきものの理性と感情の背反に揺れ動き、その論理がストーリーの展開(転回)を支えている。アレン特有の知性への根本的懐疑が顔を覗かせる。


ふたりが雨宿りして天文台に忍び込む場面がある。夜になり、雨があがり、屋根を開いたときに、細長いスリットから見える三日月。この瞬間がマジック。というのがタイトルの意味。

2015年4月20日月曜日

語りの妙

クリスティナ・ベイカー・クライン『孤児列車』田栗美奈子訳(作品社、2015)

2011年、里親と折が合わず反抗的なモリーが、本を盗んだことに対する罰として社会奉仕をしなければならなくなる。行った先はボーイフレンドの祖母のヴィヴィアン、91歳。彼女の荷物整理を50時間に渡って手伝わなければならなくなる。

一方、学校の授業の課題で気乗りしないながらヴィヴィアンに彼女の移動、持っていくことにしたものと置いていったものについてのインタヴューを敢行し、レポートにまとめることになる。

小説の半分強は、1929年に始まるヴィヴィアンの物語だ。2011年のモリーとヴィヴィアンの話と29年に始まるヴィヴィアンの半生が、均等ではないが交互に語られる形式だ。アイルランド移民として合衆国に渡ったけれども、火事で家族を失ったニーヴが、「孤児列車」と呼ばれるものに乗せられ、多くの孤児たちとともに里親探しのツアーに出る。里親と言っても、慈悲心から孤児を引き取って子供として育てようという人ばかりでなく、ニーヴのようにもうすぐ10歳になろうかという大きな子供は、むしろ働き手としてしか必要とされず、バーン夫妻の縫製工場で織子としてこき使われ、ついでに名前はドロシーと変えられ、不況(大恐慌だ)で工場が危なくなると手放され、今度は子守役としてグロート夫妻に雇われ、虐待されて家を飛び出し、……という人生を辿ることになる。

とても重い内容の話なのだが、2011年の現在、モリーはゴスロリ・ファションに身を固め、ピアスをいくつもあけ、インターネットでヴィヴィアンの人生の関係者を探し、そのくせ『ジェイン・エア』が読みたくて図書館から盗みを働き、……といった人物設定のおかげで、細部がとても楽しい。ニーヴ/ドロシー/ヴィヴィアンも子供の頃に縫い物をならったおかげで縫製工場にもらわれることもあり、描写がファショナブルだ。ちゃんと風呂にも入れてもらえず、ノミがついたりして坊主頭にされたりと、彼女は劣悪な環境で生きているのだけれども、服などにとても気を使っているような描写が光る。

 バーン夫人は生地がたくさん置かれたコーナーにわたしを連れていき、安い生地の棚を指す。わたしは青とグレーの木綿のチェックと、優美な緑色のプリントと、ピンク色のペイズリーを選ぶ。バーン夫人は、最初の二つにはうなずいたが、三つ目には顔をしかめる。「おやまあ、赤毛には合わないわ」そう言ってブルーのシャンブレー織りの生地を引っぱりだす。
「わたしの頭にあるのは、控えめな服なの。フリルも最低限におさえて、質素で地味に。ギャザースカートがいいわね。仕事のときは、その上にエプロンをつければいいわ。エプロンはほかにも持っているの?」(130-131)


こういうのがとてもチャーミングに感じられる。ニーヴと母親の関係のこと、モリーの出自のことなどがだいぶ経ってから明かされるその語りもうまいのであった。

2015年4月18日土曜日

消えたアルムターシム、あるいは迷宮作家ボルヘスを求めて

「原典を読む」という全学部向けの授業で、今年はボルヘスの『伝奇集』を読むことにした。使用している版は、今おそらく最も簡単に手に入るAlianza社のポケット版。これはEmecéの全集版とほぼ異同はない。

が、実は、困ったことに現存する2つの日本語訳(鼓直訳、岩波文庫版と篠田一士訳、集英社版、この2つの間には、これから話す意味での異同はない)とはいささか違う箇所が存在する。

1)『伝奇集』は「八岐の園」と「工匠集」からなる。「八岐の園」に所収の短編は翻訳では8編。Alianza版(および全集版、以下同)は7編。第2短編「アルムターシムを求めて」El acercamiento a Almotásim が削除されているのだ。

2) 第一短編「トレーン・ウクバール、オルビス・テルティウス」はビオイ=カサーレスの持っていた百科事典に出ていた「ウクバール」という国がボルヘスの持っていた同じ百科事典には存在しなかったので、ではウクバールという国を作ってしまおう、として仲間たちでウクバールについての記述を作る、という話。その百科事典のUps-で終わる巻は、ボルヘス手持ちのものは46巻。ビオイが持って来たものも46巻。が、Alianza版は前者が46巻、後者が26巻。

3)「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」には、「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」という有名なフレーズが出てくる。これがこの百科事典の記述からの引用だとされる。ビオイが自分の百科事典を携えて来たときには、最初のビオイの引用が、実は英語でなされたことを示すように、英語で繰り返される。「交合と鏡はいまわしい」と。2つの名詞の順番が入れ替わっていることなどはAlianza版でも翻訳版でも同じ。が、その後の百科事典からの引用で、実際は「鏡と父姓はいまわしい」だったことがわかる。その際に引かれる「原語」は、Alianza版ではhateful、翻訳では「アボミナブル」とルビがふってある。Alianza版(および全集版)は、それまで英語でもスペイン語でもabominableを使っていた「いまわしい」の語をここで言い換えているのだ。

ちなみに、ぼくの家にあるもうひとつの版、Seix Barral版(1983、これはEmecéの56年版を基にしたもの)では、2)の百科事典の巻数は、ボルヘスのものが47巻、ビオイのものは46巻。3)のabominableはhatefulに書き換えられていない。

……うーむ。ボルヘス、なかなかの策士だ。わかりきったことだけど。ぼくら読者は版の違いの迷宮に引きずり込まれ、こうしてテクストクリティークという出口(迷宮には必ず出口があるのだ……そうだ)に導かれて行くのだ。


ちなみに、消えた「アルムターシムを求めて」、鼓訳でも篠田訳でも訳者のあとがき(解説)で名をあげられている。消えた作品としてではない。鼓は「神の探求」として重要視し、篠田はこれを読めばボルヘスとチェスタトンの関係が一目瞭然だとして。そんな大切な作品を(しかも邦題は「……を求めて」だ。探求だ)隠してしまうなんざ、ますますいたずら好きな迷宮作家だと思い知らされるぜ。

2015年4月13日月曜日

私たちは19世紀に生きているのではない

シャウル・シュワルツ『皆殺しのバラッド――メキシコ麻薬戦争の光と闇』(アメリカ、メキシコ、2013)

ぼくの勘違いでなければ、この映画について日本で言われていることの大半は、メキシコ(のみ)の麻薬戦争の文脈と、でなければナルコ・コリードと呼ばれる音楽のことのみに尽きているように思う。果たしてそうなのか? この語り方は一種、ミスリードしていないか? トレイラーでも公式サイトでもこの映画を構成するもうひとつの重要な極を隠していないか?

焦点の当たる人物はふたり、リチ・ソトとエドガル・キンテーロ(字幕ではエドガー・キンテロ)。

リチ・ソトはフワレス市で警察の犯罪捜査課に勤める34歳の男。フワレス市はロベルト・ボラーニョ『2666』の舞台サンタ・テレサのモデルとなった国境の都市。アメリカ合衆国テキサス州エル・パソとはフェンスを隔てて向かい合っている。エル・パソは合衆国一安全な都市だ。フワレス市はボラーニョの小説では連続女性暴行殺人事件の舞台だったけれど、今では麻薬戦争の最前線。麻薬カルテル同士の抗争が市民・警官などを巻き込み、凄惨を極める。2010年には年間の殺人事件が3,000件を超えた。

警官のリチは家族と暮らす独身だが、恋人はいる。家族から心配され、恋人からはUSAに行こうと誘われながらも愛する故郷フワレスに留まっている。警官仲間が殺され、脅迫され、でなければ無力感たっぷりに麻薬マフィアたちに譲歩したりしている。

もうひとりの焦点人物エドガル・キンテーロはLA在住。LAというのはラテンアメリカではない。ロサンジェルスだ。ナルコ・コリードという歌を歌うグループ〈ブカーナス・デ・クリアカン、シナロア〉のヴォーカリスト。麻薬カルテルのボスやチンピラなどアンチヒーローの仕事や人生を歌にして儲かっている。ナルコ・コリードはMovimiento Alterado(alteradoは昂揚して変質した、というような意味。アルタード・ステーツの「アルタード」だ)というムーヴメントに乗って大流行、今やラップを追い越す勢いなのだという。LA、エル・パソ、アトランタ、シアトルなどにツアーに回る。

そう。つまり、この映画はUSA/メキシコの対比を扱っているのだ。エドガルたちはメキシコの麻薬を吸い、麻薬王たちを謳いあげ、実際のメキシコを知りたいとメキシコに憧れて(そのくせ行くのは最前線ではなく、そもそもの発祥地シナロア州クリアカン)いる。

両国の対比だけでなく、映画はまた相互干渉をも扱っている。共犯関係と言えばいいか……エドガルたちの歌はメキシコでも流行り、歌われ、楽しまれ、ナルコたちを鼓舞し、若者たちの憧れを使嗾している。この対称と干渉が麻薬戦争の根本問題の縮図であることは言うまでもないだろう。スティーヴン・ソダーバーグ『トラフィック』(2000)などは国境を跨いだ麻薬問題を既に扱っているけれども、そうした先行する作品に比して『皆殺しのバラッド』は、ただ経済、社会、厚生上の問題のみでなく、コリードの流行という文化的な次元での国境問題を扱っている点で見どころがある。Narco cultura (麻薬 文化)という原題は伊達ではない。

コリードというのは、『皆殺しのバラッド』の邦題のとおり、イギリスで言うバラッドに相当するものに起源を持つ。スベイン中世のロマンセと呼ばれる短詩だ。叙事詩が変形してできた、詩であり音楽であり娯楽でありニュースであったものだ。この民衆詩がだいぶ長い命脈を保つのだが、一方で高尚な文学としての詩にも採り入れられ、文学史を活性化してきた。ロマンセはスペイン内戦のプロパガンダ雑誌などでも盛んに詠まれた。

このロマンセが新大陸に渡り、たとえばキューバではアフリカのコール・&・リスポンスの形式のリフレインと混ざってソンの原型ができ、デシマ、グワヒーラなどの詩=音楽に流れて行った。メキシコではそれがコリードとなった。

メキシコ革命のコリードなどは盛んに歌われ、まだラジオ放送以前の社会でニュース・メディアとして機能した。面白いのが、テキサス。アメリカ合衆国に併合されてから、メキシコ系住民たちが国境警備隊、いわゆるテキサス・レンジャーズにバンバン殺されていたのを背景に、単なるニュースとしてのコリードでなく、反体制というか、アンチヒーローのコリードができる。代表的なのが「グレゴリオ・コルテスのコリード」。テキサス・レンジャーズに家族を殺されてしまったから、こっちが殺してやった、という歌。これを研究したアメリコ・パレーデスは合衆国におけるチカーノ(メキシコ系住民)文化研究の礎を築いた。

さて、既にニュース・メディアである必要のないコリードが、しかし、形式としてはアンチヒーローの活躍を歌うものとして脚光を浴び、もはや街の広場などでなくクラブなどで歌われ、商業化され、成功を収めているというのだ。そしてそれが麻薬戦争の当事者、国境の向こう側のメキシコ人たちと何とも言えぬ共犯関係を結んでいる。複雑な話だ。


複雑な話なので、これ以上の考察には踏み込まないけれども、ともかく、『皆殺しのバラッド』はメキシコの悲惨を描いたドキュメンタリーではない。国境の両側の現実を描いている。ミスリードされてはならない。字幕に出る地名表示をいちいち確認し、意識しながら話を追うことだ。これをメキシコ(のみ)の問題だと考えたら、この極めて21世紀的問題を19世紀的問題に戻してしまうことになる。

2015年4月11日土曜日

『バードマン』についての補足

昨日、『バードマン』についてのレビューを書いて上げたのだが、そこに書き忘れた点がある。

1つは、この映画の真骨頂はカメラワークにあるということだ。カメラワークというべきなのか、編集と言うべきなのか……切れ目なく話が展開し、バックステージの複雑な通路を行き来し、目まぐるしい。目まぐるしいし飽きない。アカデミー賞の撮影賞も獲っているはずだか、これが評価されたのだろう。

2点目。アントニオ・サンチェスによるドラムスがとても印象的だ。怒って壁を殴りながら廊下を歩くエドワード・ノートンのリズムに合わせたり、バックステージで舞台上のBGMとして叩いてるかの体裁で映画内に登場したり(もちろんそれは映画のBGMにもなっているという複雑な結構)……

Facebookにリンクを貼るときにサンチェスのドラムスが印象的だったと書いたら、映画のBGMについての著作もある小沼純一さんが、もうすぐブルーノート東京に来るよ、と教えてくださった。


もうすぐって、本当にすぐだ! 火曜日。行けるかなあ……

2015年4月10日金曜日

A・G・I でいいんじゃないか?

誰かが「アレハンドロ・G・イニャリトゥ」って表記には違和感あるなと言っていたが、何のことはない、クレジットにそうあるのだった。

アレハンドロ・ゴサンレス=イニャリトゥ『バードマン――あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(アメリカ合衆国、2014)

ゴンサレス=イニャリトゥというと、『アモーレス・ペロス』や『バベル』などの、複数のストーリーが並行して語られ、その間に繋がりができてくるという映画が印象的だったけれども、これはむしろ、脚本を書いていたギジェルモ・アリアガの真骨頂と言うべきなのだろう。『バードマン』のプロットは1つだ。そしてそれはおそろしくわかりやすい。

かつて『バードマン』というコミック原作の映画のヒーローとして有名になったリーガン・トムソン(マイケル・キートン)が再起を期し、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るときに我々の語ること』を脚色した舞台の演出、主演をはろうとしてがんばるが、バードマンの声が常に頭の中で鳴り響き、彼に違う道を歩ませようとする、というもの。

離婚した妻との間の子サム(エマ・ストーン)は薬物か何かで入院してリハビリした経験があり、そんな彼女をリーガンは付き人にして更生させようとしている。共演者のローラ(アンドレア・ライズブロー)は子供ができたと言い出すし、事故で下りることになった俳優の代役でやってきた人気者マイク(エドワード・ノートン)はなにやら破天荒だし、彼は彼でこの作品で賭けに出ているようだし、マイクを連れてきた共演者レズリー(ナオミ・ワッツ)もこれがブロードウェイ・デビュー作で意気込んでいるし……それぞれの思惑が絡み合い、この単純なストーリーを面白くしている。

(もちろん、バードマンの声は幻聴・幻覚で、リーガンは一種の抑鬱症に苛まれているのだと理解することは可能だ。そして、そう理解すれば、ストーリーは最後まで語らずとも、結末は見えている。が、これはあくまでも( )内の注に留めておこう)

何しろマイケル・キートンだ。自身、『バードマン』ならぬ『バットマン』で一世を風靡した俳優だ。監督と同年のぼくからすれば、もうそれだけで泣けてくる。いろいろな俳優の名を出し、「ファラ・フォーセットはマイケル・ジャクソンと同じ日に死んだんだ。イカレた話じゃないか」なんてセリフを用意し、数多く挙げたハリウッド関係者の少なくともひとり(ぼくが気づいたのは、ひとり)をカメオ出演させ。これでファンの心は持って行かれたのだろうな。アカデミー賞は伊達ではないのだな。ラストも、これまでG・I 風に救いのない終わり方をするかと思いきや、ハリウッド的などんでん返しとハッピーエンディングに歩み寄っているとあれば、完璧だ。


でも、しかし、これはアレハンドロの本意なのだろうか? 無知がもたらす予期せぬ奇跡(無知の思いがけない美点)とはこれのことなのか? なるほど、このサブタイトルの曖昧さが監督の主張なのかもしれない。

2015年4月5日日曜日

田舎者ほど悪い、と漱石(作品の登場人物)は言った

 ぼくは常々ベニート・ペレス=ガルドスのあまり長くない小説(『フォルトゥナータとハシンタ』のように長大なものもあるので)はとても面白いし、もっとたくさん訳されて然るべきではないかと思っている。だからぼく自身、ブニュエルの映画の原作になった『トリスターナ』を訳してもいる(編集者との間に生じた誤解というか理解不足から、日の目を見ないでいるけれども)。だから、『ドニャ・ペルフェクタ』が出たことは自分のことのように嬉しい。

ベニート・ペレス=ガルドス『ドニャ・ペルフェクタ――完璧な婦人』大楠栄三訳(現代企画室、2015)

これがめっぽう面白いのだ。マドリードからオルバホッサという架空の田舎町にホセ・レイ(またはヘベ・レイ)という若い土木技師がやって来る。父の妹ドニャ・ペルフェクタの娘ロサリオを嫁にするためにだ。親同士がそう取り決めたのだ。

ところが、ペルフェクタの家に出入りし、彼女たちを精神的に指導する聴罪司祭イノセンシオの吹っかける信仰についての議論に、つい調子に乗って皮肉な科学者の立場から答えてしまったところからボタンの掛け違いが始まり、田舎町でペペ・レイは村八分に追い詰められる。勤めている役所からまで免職される始末。ロサリオはどうやらぺぺを愛してくれているようなので、それを頼りに、彼はいささかの意趣返しを目論む。やがて明らかになるのは、ペルフェクタの本心とイノセンシオの野心(姪の息子ハシントをロサリオと……)。等々、等々。

「一見するといい人間だが、実はそうではない人々」(315ページ)が、とりわけ田舎者たちが、苛立たしいまでに自分勝手な論理を楯に行き違い、憎み合い、権謀術数を巡らせ……これだけ読者を不快にする物語はメロドラマと呼ぶ以外にはない。そしてメロドラマは面白い。

リアリズムの大家とされるガルドスだけれども、彼の短めの長編が面白いと言ったのは、19世紀リアリズムという通念を裏切るようなところがあるからだ。だいたい、Doña Perfectaという名前自体(邦訳では副題に示してあるが)、「完璧」なのだし、視点・視覚の操作も面白い。最後は物語の説明を手紙に任せてしまったりもするし、飽きさせない趣向が凝らしてある。


そんな趣向に加え、訳者・大楠栄三は登場人物の言い換え(ホセ・レイが「技師」とか「数学者」とか「甥」とか言い換えられるわけだが、その言い換え)にルビを施して固有名を明らかにし、読者をわかりやすく導く。賛否両論は出るかもしれないが、面白い試みではある。