2015年10月15日木曜日

独身者機械を夢見て


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SPINNING BARTHES 100歳のロラン・バルト」
明治大学大学院理工学研究科新領域創造専攻では、フランスの批評家ロラン・バルト (1915-1980) をめぐる公開シンポジウムを開催します。予約不要、参加無料。お誘い合わせの上、ぜひご参加ください。
【日時】2015年11月7日(土)12:20~17:30
【会場】明治大学中野キャンパス5階ホール
【主催】明治大学理工学研究科 新領域創造専攻
【フォーマット】ひとり15分のショート・プレゼンテーション。ロラン・バルトの著作1冊を選び、発表者自身の現在の立場から、自由に論じます。バルトが試みたさまざまな冒険を、現代に再生させるための道を探ります。
【発表者】(全15名)
上野俊哉 (和光大学) 
温又柔  (小説家)
倉石信乃 (明治大学)
鞍田崇  (明治大学)
小沼純一 (早稲田大学)
小林昌廣 (情報科学芸術大学院大学)
清水知子 (筑波大学)
陣野俊史 (文芸批評家)
管啓次郎 (明治大学)
谷口亜沙子(獨協大学)
根本美作子(明治大学)
波戸岡景太(明治大学)
林立騎  (演劇研究者)
松田法子 (京都府立大学)
柳原孝敦 (東京大学)
【時間進行】
12:00 開場
12:20 司会者による進行説明
12:30~13:45 セット1(5名)
14:00~15:15 セット2(5名)
15:45~17:00 セット3(5名)
17:00~17:30 オーディエンスとの対話
17:45 終了・撤収
【連絡先】明治大学理工学部批評理論研究室 管啓次郎 (044-934-7275)
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ぼくは『偶景』についてお話しする。

そのちょっと前にこんなのを出す。セサル・アイラ『文学会議』拙訳(新潮社)

これ、つまりこの作品集の表題作になっている作品「文学会議」は、「あとがき」には書かなかったけれども、語り手が明言しているように、独身者(の)機械のような小説だ。ここに「望外鏡」という、どういうものだかよくわからない機器が出てくる。それをデュシャンのいわゆる「独身者の機械」だと述べている。デュシャンの「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」では大ガラスの下半分が「独身者の機械」と題されている。これだと言うのだ。


この「独身者(の)機械」の概念をカフカから始まって色々なところに広げたのがミシェル・カルージュだ。カルージュ的「独身者機械」を広げていった先でロラン・バルトを読む……と、そんなことを上のシンポジウムでやるつもりはないが、今日は少しそんなことを考えていたのだった。

2015年10月14日水曜日

教え子を妻とするについて

ミシェル・ウエルベック『服従』大塚桃訳(河出書房新社、2015)

シャルリ・エブドの襲撃の日に発売だったことで話題になったウエルベックの新作。それがなぜ話題になるかというと、フランスが2020年、イスラーム勢力に政権の座を奪われるという近未来が描かれているからだ。主人公はパリ大学で文学を講じるユイスマンス研究家。同僚の夫で公安のような仕事をしていた人物の薦めに従い、大統領選挙直後、大学が閉鎖されたのを機にしばらく田舎に逃避していた。戻ってみると、パリ大学はアラブ資本の手に落ち、イスラム教徒ではない彼は職を解かれる。ただし、プレイヤード叢書のユイスマンス全集の仕事のオファーを受けたのを機に大学への復職を持ちかけられる、……という内容。

フランスがイスラム圏になるという内容がショッキングなのであり、そのことについては色々と語られるだろうから、ここは、ちょっと目先を変えて:

主人公兼語り手のフランソワは、既に述べたように大学教員だ。その彼にはミリアムという恋人がいた。学生だ。後半で、イスラム社会になったパリで大学教員に復帰したかつての仲間のなかには60くらいになって結婚したという人物がいた。イスラム的価値観を叩き込まれた若い女性だ。学生だ。

どうも大学教員が主人公の小説(や映画)には教え子との恋、もしくは教え子との関係が語られるものが多い。ウディ・アレンの何かの映画でも大学の創作家で教える人物(アレン本人)が教え子と関係を持っていた。この間訳し終えたフアン・ガブリエル・バスケスの『物が落ちる音』でも主人公兼語り手の法学部教師が教え子と関係を持ち、結婚した。クッツェーの『恥辱』は教え子と関係したことから身を持ち崩す主人公が痛々しい。

うーむ。俺はかれこれ20年近く大学教師をしているが、教え子との関係、うーむ、あんまりないなあ。聞かないなあ。ついこの間までほとんど女子大みたいな大学に勤め、同僚から「ハーレム」などとセクハラまがいの形容をされてはきたが、こうしたことにはことさら気を使ったつもりだし、何より、子供ほどの年齢だと思えば、そんなに教え子の女子学生に心惑わされることもなかったし、大人の女性との恋にむしろ夢中だったし……うーむ……

なんちゃって。

カトリックに帰依したユイスマンスの研究をしながらイスラムに帰依する気になる主人公の心境の変化の叙述が繊細だ。ここがいい加減だと鼻白むところだろう。でも、読み終えてからパラパラと前の方を捲ったら、既にこんな心境の吐露があった。

「(略)ぽくは多分、いいかげんなマッチョなんだ。実際のところ、女性が投票できるとか、男性と同じ学問をし、同じ職業に就くことがそれほどいい考えだと心から思ったことはない。今はみんな慣れっこになってるけど、本当のところ、それっていい考えなのかな」(35)

たぶん、これがミソ。

ツイッターの書き込みで誰かが、「村上春樹が村上龍のような小説を書いた感じ」というようなことを書いていた。大統領になるモハメド・ベン・アッベスについての情報がほとんど同僚の夫アラン・タヌールからのみ会話によってもたらされるという技法は、なるほど、村上春樹だ。


2015年10月12日月曜日

肛門性交の快楽

『エイゼンシュテイン・イン・グアナフアト』についての先ほどの書き込みには書き忘れたけれども、グリーナウェイをやはりどうしても見てしまうのは、彼に一種ポストコロニアルな視点があるから。セックスのシーンでのセリフが実に示唆に満ちている。

さて、連日のホモセクシュアルもの(?)だ。


ラ・ボカという海沿いの田舎町で集団生活をする神父たちのもとに、マティーアス・ラスカーノ神父(ホセ・ソーサ)が送り込まれる。マティーアスは自分はここにいる他の神父たちとは違うのだと主張する。どうもここは、主に男色や幼児虐待を疑われた聖職者たちが、その罪を悔悟するために住んでいるコロニーらしい。外界から遮断され、監視役の、これも訳ありらしいマザー・モニカ(アントニア・セヘーラ)が唯一の接触係だ。ことさらビダル神父(アルフレード・カストロ)の可愛がっているグレイハウンドのラヨを地元のドッグレースで走らせるのも彼女の役目だ。(神父たちは遠くから眺めるだけ)

さて、マティーアスがやって来てすぐ、この施設の門前にサンドーカン(ロベルト・ファリーアス)が現れ、大声でマティーアス神父の幼児虐待(虐待とは、性的、という意味だ)の過去を大声で暴き立てる。ピストルで威嚇するように言われて外に出たマティーアスは、威嚇するどころか、それで自殺してしまう。

この件について調査する目的で、教会からガルシア神父(マルセロ・アロンソ)がやって来るが、どうもこの施設を潰すのが目的らしい。

サンドーカンは地元に住みつき、漁師の手伝いを始める。この目障りな存在を懲らしめようとする陰謀が映画のクライマックスなのだが、その後、どんでん返しの結末に向かう。

サンドーカンはマティーアスを告発しようとしていたのではない。彼は神父が忘れられなかったのだ。彼とのアナル・セックス、オーラル・セックスが。精液を飲むことが天国へ至る道だと教えられ(聖体拝領みたいだ。聖餅と赤ワインでキリストの肉と血を受け入れるものだった儀式が白ワインに換わったのは、白ワインが精液のことだからだと言ったのはバタイユだったか?)、本当に天国にのぼる思いをしたというのだ。この感覚が、物語の展開の最後のどんでん返しを支える論理なのだと思う。


性に関する単語は、登場人物たちはほとんど通常の単語で発していたように思うのだが、字幕はことさら俗語風だったように思う。それが残念。最後の最後にビダル神父がひと言、"Concha su madre"と呟くのだが、これの爆発力が減じてしまいそうだ。

石造りのトンネルを抜けるとそこはグアナフアト


『メキシコ万歳』のロケに来たエイゼンシュテイン(エルマ・バック)がメキシコ中部の美しいコロニアル・スタイルの都市グアナフアトで過ごした1931年の死者の日直前の10日間を扱ったもの。

オープニングのエイゼンシュテインの旅のシークエンスはモノクロ映像で、時々スクリーンを3分割してエイゼンシュテイン自身の映像を挿入し、グリーナウェイのフッテージをエイゼンシュテインらしく見せる。映画人エイゼンシュテインがメキシコで如何に映画を撮ったか、というストーリーだろうと期待させる。

……が、映画撮影の場面は一切なく、むしろ違う主題を扱ったものであることは、クレジットが終わって一行がグアナフアトに到着し、歓待を受けるシークエンスから明らかだ。性的に奥手なエイゼンシュテインがガイド役の現地の青年パロミーノ(ルイス・アルベルティ)に導かれてホモセクシュアルに開眼していくという話だ。

性描写の過剰(一般映画としては、ホモセクシュアルを扱った映画としては)がグリーナウェイらしい。レストランからくすねてきたオイルをパロミーノがエイゼンシュテインの背中から尻にかけてのラインに垂らし、同じをオイルを使って自らのペニスをしごき、徐々に勃起させながら口説いていく場面は、このまま挿入の絵も見せるのではないかと期待(?)させる。さすがにポルノグラフィではないのでそんな映像はないのだが、そんなわけで、ハードコアではないかとの疑いすら抱く(実際はどうなのかは知らない)。このさじ加減が実にグリーナウェイらしい(とぼくは思う)。ヴィスコンティもアルモドーバルも撮り得なかった愛だ。

映画祭限定なのか、今回はモザイクやぼかしなし。下手にぼかされると、確かに、困るといった類の作品だ。


ちなみに、アップトン・シンクレアの妻やその弟など、出資者との確執(というか、出資者の無理解)から『メキシコ万歳』は完成を見なかったのだが、そうした事情が描かれ、彼が実際に残したフッテージが数多く挿入され、実際に残された彼自身の写真なども想起され、セリフ内でもエイゼンシュテインの業績についての言及がなされるなど、エイゼンシュテインとメキシコの関係をめぐる事実の外枠は踏まえられ、表現されている。ガイドとの関係などが事実に基づくものなのかどうかは、ぼくは知らない。フィクションだろうとは思うのだが、そんなことは、この際、どうでもいいのだろう。何より、グアナフアトが美しい。フエンテス『良心』の舞台。ぼくも好きな都市だ。

2015年10月11日日曜日

カレー三昧

日本イスパニヤ学会第61回大会@神田外語大学に行ってきた。海浜幕張が最寄りの駅なので、途中、舞浜を通る。3連休の初日、朝から舞浜を通る電車に乗ることの辛さ! 

ぼくはかつて舞浜の隣、新浦安にある大学にも非常勤で通っていたし、神田外語大にも何年か教えに行っていた。

で、勝手知ったる神田外語大なのだが、ぼくが教えに行っていた頃よりキャンパスも大学の中身も拡大しているのだ。こんな建物、かつてはなかった。

ぼくはイスパニヤ学会の理事で、この学会は、基本的に大会の分科会司会は理事が担当することになっている。土曜日は司会を担当したのだ。かつ、広報担当理事として「会報」の編集も引き受けている。昨日は無事「会報」が発行され会員の手に渡った日でもあった。会報の「編集後記」には、スペイン語圏からの翻訳がたくさん出ることはめでたいが、それが時代と他分野・多言語からの翻訳や周囲の期待という審判に耐えねばならないのだと考えると、身がすくむ、というようなことを書いた。これが決定版の翻訳にならざるを得ないと考えると、翻訳って緊張するだろう、と。


今日はこんなものが届いた。以前、クレジットカードのポイント交換でお願いしていたレトルトのカレー・セット。フライパンと同じポイント数を要するのだから高級なのだ。

2015年10月8日木曜日

待機の木曜日

いくつかの荷物を待っている。そして、別のあるものも待機している。

荷物のひとつが、これだった。掃除機。

いかに縮小経済を生きる、と言っても、何もかも買い控えていたのでは困る。生活に必要なものは必要なのだ。たとえば、掃除機は。

もう20年くらい日立のスティック型の掃除機を使っていたのだが、引っ越しの直前に壊れてしまった。ハンディ・クリーナーでごまかしていたのだが、さすがに背に腹は代えられない。ついに新たなのを買うことにした。

またしても日立にしたのは、ゴミを入れるパックがまだ余っているからではない。近頃ではサイクロン、ゴミパックなしのものが主流のようなのだ。かなり高級なもの(ビックカメラ価格で6万円前後)、そこそこ高級なもの(同3万円くらいのもの)、安価なもの(同1万円かそれ未満)があり、安価なものの中にはまだ紙パック式のもあるのだが、他はそうではないらしい。かなり高級なものなどは要らないかと思って中間帯のを物色していたら、これに当たった次第。


もうひとつ待機中なのは、ノーベル賞の結果。今日は文学賞の発表が予想される日。またしても、ある人が取ったらコメントをくれと言われているので、予定稿を準備して連絡を待っている。ただし、今日は夕方から飲みに出かけるので、居酒屋で仕事仲間たちと待機、というと、まるでこちらが何かの受賞を待っているみたいだ。