2010年11月23日火曜日

辞書を引く話

翻訳が大詰めである。辞書を引いてばかりである。

我々、外国語学習者には奇妙な意地のようなものがあるのではないかと邪推する。語彙を増やすオブセッション、単語を覚えなければという強迫観念、そういったものから来る意地。知っている単語は辞書でなど引いてたまるものかという、辞書に対する対抗意識のようなもの。「我々」と書いたけれども、少なくとも20代のころのぼくにはそんなものがあった。妙に負けず嫌いな性格だし、当時は記憶力に関しては絶大な自信があったから。

そんなぼくのこと、意地を張って辞書を引かずにいて意味を取り違えたことも多かったのだろう。大学院時代、恩師からは、お前のような者は一字一句辞書を引かなければならないのだ、と諭されることになる。そして現在、結果として師の教えで一番残っているのはこれだろうと思う。

一方、ぼくが辞書を引くことはこうした子供じみた意地とは無縁で、必要なことなのだと悟ったのは、恩師の教えばかりによるのではない。他の授業の参考資料として読んだ一冊の本も、ぼくの翻意におおいに与っているだろうと思う。

Fernando Lázaro Carreter, Evaristo Correa Calderón, Cómo se comenta un texto literario (Madrid, Cátedra, 1974) 

ラサロ=カレテール、コレア=カルデロン、いずれ劣らぬ文献学の大家が、おそらくは大学学部生向けに書いた指導書『文学テクストにいかにコメントするか』。「文学史を学んだだけでは文学を学んだことにはなりません」というテーゼに始まり、個々のテクストにコメントする訓練を一から手ほどきした入門書だ。これのごく最初の方、テクストへのコメントの大前提たる「注意深い読み」の章で、次のように述べられているのだ。

 あるテクストにコメントするためにそれを研究する際に、まずやらなければならないこと、それは当然のことですが、そのテクストを注意深く読んで、それを知りつくすことです
 そのためには、テクストはゆっくりと読まなければなりません。そしてそこにあるすべての言葉を理解することです
 ということはつまり、テクストを説明する準備をするときには、絶対に、手もとにスペイン語辞典を置いておかなければならないということです。そして、意味がわからない単語があったり、中途半端にしか知らない単語があったら、それらのすべて、ひとつひとつを調べなければなりません。(26ページ。下線は原文のイタリック)

そしてロベ・デ・ベガのテクストを引き、このテクストで言えばわからない単語とは、たとえば、manso(おとなしい)、mayoral(現場監督)、decoro(慎み)、prenda(服、アイテム)、等々かもしれない、と例(今こうしてぼくも、辞書など引かずとも意味を添えることのできる単語の数々)を挙げる。

これはあくまでも外国人向けでなく、スペイン人に向けてスペイン語で、スペイン文献学の大家(書かれた時点ではまだそうではなかったかもしれないが)が書いた文章だ。ラサロ=カレテールらはこうして、辞書を引くことを諭しているのだ。

これを読んだときぼくは、一方で、ヨーロッパの大学も、こうしたことを教えなければならない程度に(アメリカ合衆国の大学などと大差なく)レベルが低いのだなと思った(だからといって日本の大学がレベルが高いと思っていたわけではない)けれども、他方では、奇妙な感動を覚えたものだ。そういえばスペインに留学していた友人は、つき合いのあった文献学専攻の大学院生が常に車の中にアカデミアの辞書を置き、何かあると引いていたとのエピソードを教えてくれた。辞書は知らない単語をぼくたち初学者に教えてくれるものではなく、ある程度知っている者たちでも常に利用することが望ましいツールなのだと悟ったのだ。そしてぼくたちは人間である限り、「ある程度知っている者」の範疇を超えることはできない。

辞書を引かなければ、たとえば上のprendaは、実はロペの時代には「担保」であり「最愛の人や物、たとえば息子」であったことなど知らないまま意味を取り違えてしまう。意味を取り違えた上でなされたテクストへのコメントは、それはそれで面白いものであり得るかもしれないが、とんでもなく的外れなことにもなりかねない。はたして我々はある個別の事象やら個別の単語のことを本当に知っているのか、と不安にさせる(異化する)のが文学テクストであるなら、ますますもって辞書を引かなければ不安だ。かくしてぼくは、たかだか1ページの文章を訳すのに、1日2日とかけてしまう。1日あれば読み終えるはずの本を訳すのに半年も1年もかけてしまう。

……と書いたら、仕事が遅いことの言い訳に響くか?