2015年6月19日金曜日

わが心のマリア

ボルヘス未亡人マリア・コダマさんが来日した機を捉え、講演をお願いした。タイトルは「ボルヘスの記憶」。

今回は通訳をつけて開催。80人くらい入る教室がかなりいっぱいになった。

不眠と盲目による闇、闇の中での記憶の存在を結びつけ、短編「記憶の人フネス」を「自伝的」作品として分析したりと、示唆に富む本格的なボルヘス論。充実したひとときであった。写真は会場からの質問に耳を傾けるマリア・コダマ。

まだ会場が暖まらないうちに、1枚1枚の葉っぱを記憶し、一瞬一瞬を記憶するフネスがある1日の思い出を語るのにまるまる1日を要するというのは、笑っちゃうんですよね、ってなことを発言したら、いささかもおかしいことではない、深刻なことなのだ、とたしなめられた。うむ。笑うというのは絶望の笑いというか、不条理の笑いというか、そういうもののつもりだったのだが、舌足らずであったようだ。

終わって医学部棟13階、スカイツリーを正面に臨むレストラン、カポ・ペリカーノで食事。

2015年6月15日月曜日

事後報告ばかりだ

6月10日(水) フランス文学の野崎歓さんがコーディネーターを務めるリレー講義「翻訳の創造性」で3回、授業を担当せねばならない。その第1回の授業が、この日だった。セルバンテス『ドン・キホーテ』がアラビア語からの翻訳との体裁をとっていることを巡り、なおかつ、そのアラビア語草稿がトレードで見つかったとされていることをめぐり、スペインと翻訳の歴史の問題について語った。

6月12日(金) NHKラジオ第2で「英語で読む村上春樹」という番組がある。今、思いついてツイッターで検索してみたら、そんなもの、日本語で読めばいいではないか、とのつぶやきがひとつふたつあった。そういうことを言う人には、ぜひ、「翻訳の創造性」、受講してもらいたいものだと思う。翻訳論は、理論の最前線にあるのだ。

さて、その「英語で読む村上春樹」には、かつて、1年目の年、テキストのための特集で参加したことがある。で、今回は、本編の放送の方に呼んでいただいて、この日、お話しした。放送日は未定だが、「TVピープル」の中で主人公=語り手がガルシア=マルケスの小説を読んでいるという一文があるので、ガボと春樹の関係などをしゃべってきたのだった。

終わってNHK勤務の友人(年少の友人。まあ、要するに教え子だ)と待ち合わせ、ささやかな打ちあげのようなことをやった。月-金で早朝の仕事をしている彼女は、1週間の仕事を終えて解放感に包まれ、ぼくは慣れない仕事を終えた解放感に包まれ、晴れやかなふたりであった。

もう社会人生活も5年目だか6年目だかになるその方は輝いて見えた。だいぶ立派に見えた。体もひとまわり大きくなったようだった。ねえ、君、ひょっとして背が伸びたのか? と訊ねてみたら、ヒールが高いのだとの答え。

……なるほど。

6月13日(土) ボルヘス会記念大会というやつでボルヘス未亡人マリア・コダマの話を聴きに行った。詩人の新井高子さんによる詩の朗読およびブエノスアイレスでの世界詩大会への参加報告、高橋睦郎さんの話に続いて、「ボルヘスと俳句」という話をしてくださった。ボルヘスが残した17句の俳句を日本の俳句と比較しながら分析したお話し。

マリア・コダマさんの講演会は東大でもやります。18日(木)東大本郷 法文1号館214教室。タイトルは「ボルヘスの記憶」。

コダマさんと個人的に話している時間はなく、その日はその後、大学時代の友人たちとの集まりに出かけて行った。


こんなものを食べた。

2015年6月5日金曜日

先行く者の孤独

まあ、あたらしい器具を買うと別の新しい器具を買わねばならなくなる。

MacBook Retinaを買ったはいいが、誰もが知っているように、USB-Cのポートが1個あるのみのマシンなので、色々と不具合が生じる。

アップル純正の(USB-C HDMI USB-A)のアダプタや(USB-C VGA USB-A)のそれはある。が、なぜかthunderboltがない。

ぼくは通常、Thunderboltディスプレイに繋いで作業をしている。これが使えなくなったのだ。

まあこんなものが進行中だというのだから、待っていよう。これのmini display というのはthunderboltと規格が同じだ。

で、もうひとつの問題がケース。これまでMacBook Airを入れていたケースでは、さすがに新しいマシンにはブカブカだ。近くの電気店などでもこれに対応するものはまだ売っていないようだ。

でも、ネットショッピングでは見つけることができた。

こんなやつ。


こんな風に収まる。

2015年6月1日月曜日

事後報告(2)

むふふ……

MacBookAir13型の上に乗る新MacBook Retina12型。

これだけ小さく、軽いけれども、ディスプレイはMacBookAir11型よりもはるかに大きく感じる。キーボードの手触りが今ひとつ、という人もいるようだが、ぼくには逆に心地いい。

Macはちょっと前からデータの転送が自動でできるので、助かる。アカウントなどもそのまま引き継ぐことが可能だ。が、これが時間がかかるのが玉に瑕。

画面には「データを転送中です/Ethernetケーブルを使えばより速く転送できます」と出て来る。

ずっこける。

そのケーブルのジャックを取り外したのはどこのどいつだ! と叫びたくなる。

ひと晩経ってまだ終わらなかったので、しかたがないから本当にethernetケーブルを使った。すぐに終わった。

やれやれ。

で、日曜日から使えることになったのだが、学会の時、教室の電源を借りて少し仕事をしたのだが、なぜかバッテリー使用モードになっていた。なぜだろう?

月曜日になってもまだ電源アダプタから電気が来ていないようだった。バッテリ残量がみるみる減っていく。

やれやれ。

アダプタの不具合だった。AppleStore銀座店で取り替えてもらった。


やれやれ……

事後報告

5月の最後の土日は専修大学で過ごした。日本ラテンアメリカ学会第36回定期大会だったのだ。

本当は、さすがに仕事がたくさんあったので今回は行かずにおこうと思ったのだが、ある発表に対するディスカッサントをやるようにと頼まれたので、行くこととなった。

日本ラテンアメリカ学会では、去年からだったか、その前だったか、ともかく、ある時期から個々の発表に討論者をあてがうことにし、かつ、発表者には事前にペーパーを提出させて会員が閲覧できるようにした。質疑応答の段になって静まり返らないように、との配慮だ。で、今年、ぼくはある発表に対する討論者になった次第。

二日目にはアルゼンチンのラ・プラタ大学からホセ・アミコラさんを迎え、俳句とその翻訳についてのパネルがあったので、結局、二日目も行ったのだった。

そして何より、収穫は、これ。

ロベルト・ボラーニョ『アメリカ大陸のナチ文学』野谷文昭訳(白水社)

後ほど献本、送りますよ、と言われたのだが、うむ、ありがたくいただくが、授業で使っていることもあり、そのために一冊よけいに欲しいので、といって自費(正確には研究費)で買ったのだった。

むふふ。楽しみ♪


といっても、既に読んだ作品だし(そもそも白水社に『ナチ文学』の翻訳を提唱するために資料を作ったのはぼくだった)、今も授業で読んでいるわけだが、日本語ではまだ読んでいないので……