2018年12月12日水曜日

レビュー! ただしツールの


今年、秋学期の授業ではこれを読んだ。今日の授業で読み終えた。

Ricardo Piglia, Blanco nocturno (Barcelona, Anagrama, 2010).

ピグリアの『夜の標的』だ。ロムロ・ガジェーゴス賞受賞作だ。

が、これから書くことはこの小説についてではない。それを読むに際して使っていたツールについてだ。

既に報告したように、ちょっと前にソニーのデジタル・ペーパー DPT-RP1 というのを導入した。これだと本よりも気軽に持ち歩けるので、外出先でもするかもしれない予習のために、使ってみた。

本をコピーしてPDF化し、これをPC内のデジタル・ペーパー用ソフトに入れて情報を移行する。専用のスタイラスペンでそのファイル上に書き込みができる。デジタル・ペーパー自体の表示は白黒だが、ペンの色は青と赤から選べる。PDFファイルとしてこんな風に出力できる。

書き込みしながら文書を読むにはいい。もちろん、電子書籍同様、素早くめくるには適していないので、書き込みしながら読む予習のうちはいいのだが、授業でめくるには手こずる。

少なくともScanSnapで読み込んでPDF化したファイルには、適用されない機能があることが判明した。☆を書いておくとそれがしおり代わりになって、そのマークのある場所に飛ぶことができるのだが、これが読み込んだファイルだとできない。自分のPCのエディタやワードで作った文書をPDF化したものなら、もちろん、できる。

もうひとつ、喧伝されているすぐれた機能が、ファイルをみながらノートを取れるというもの。ノートも自動的に生成して、こんなPDFファイルとして読むことができる。

これの問題点は、参照元のファイルが小さくなるので、文字サイズによっては、見ながらメモというわけにはいかないことだろうか。それから、これはこのツールの問題点というよりは、読むファイルの性質の問題にもかかわってくるのだが、小説のように何日かかけて読む資料は、前に取ったメモを参照しながらのことも多くなるので、参照元のファイルが小さくなるこのサイドノートのあり方では、いささかもどかしい。

ファイルを見ながらノートを取れるという意味ではiPadのアプリFlexcilというのがあり、これはノートの位置を移動でき、参照元のファイルを小さくする必要がなく、少しばかりの利がある。Apple Pencil の方が書きやすい。なので、ノートテイキングにはこちらの方を選ぶ人が多いかも知れない。僕は、少なくとも小説を読む時には、メモはやはり外部化した方がいいかな、との観測を得ている。

ちなみに、デジタル・ペーパーのスタイラスペンもかなり書きやすい。ペン先を堅いのと柔らかいのから選ぶことができて、僕にしてみれば柔らかい方がより書きやすい。そして何より、圧倒的に読みやすい。自然に読める。それはメリット。授業や講演、学会発表などで読む原稿や、素早くめくる必要のないファイルなどは、これで読むのがいちばん。その他の用途は必要に応じてiPadなどと使い分けるといいのだろう。

2018年12月3日月曜日

今日も本を読んでみた(いつもだけど)


斎藤美奈子『日本の同時代小説』(岩波新書、2018は中村光夫の『日本の近代小説』や『日本の現代小説』の後継を目指した、一九六〇年代以降に発表された代表的小説のパノラマを描くガイドブック。私小説とプロレタリア小説の発展の先にタレント本などを配置して、そのまとめ方が鮮やかで、唸らされる。個々の作品の掘り下げた分析とまとまった引用がない(短い引用ならある)のは、ガイドブックである以上は仕方のないことだ。何より、挙げられた小説の多くは、たとえ読んではいなくても、概要は目に(耳に)したことのあるものが多いのだから、やはり、そのまとめ方の手並みに唸るというタイプの本なのだろう。

たとえば、『されどわれらが日々――』と『赤頭巾ちゃん気をつけて』がインテリがいかに生くべきかとの問題が潰えるのが六〇年代だとした議論に続けて、七〇年代を論じながら『青春の門・自立篇』を解説する斎藤は、次のようにまとめる。

 『青春の門・自立篇』の舞台は一九五五年、貧乏と格闘する一方、何人もの女の子と関係を持つ伊吹信介は、とても『されど、われらが日々――』と同じ時代の大学生とは思えません。朝から晩まで発情している『青葉繁れる』の高校生たちはふざけた連中ですが、四年前に出版された『赤頭巾ちゃん気をつけて』と並べて読むことで、はじめてその意図がクリアになる。タイトルに埋め込まれた「赤」と「青」の対比も含め、「男子高校生の考えていることなんて、一皮剝けば、みんなこんなもんだべ」という批評性、ないしは敵愾心がそこには込められている。ヤワなインテリが担ってきた明治以来の青春小説の伝統は、つまり、七〇年代にはとっくに過去の遺物と化しつつあったのです。(73-74ページ)

ふむ。そういえば、三浦雅士は「青春」が終わったのは一九七〇年だと言ったのだった。実際の「青春小説」は七〇年代にむしろ増殖するのだが、それはもう既に「青春」ではなくなった青春小説なのだな。

2018年12月2日日曜日

今日から君もポハピピンポボピア星人


鹿島茂が立ち上げた ALL REVIEWS というサイトがあって、このたび、僕もそこに参加することになったのだ。ついに僕も書評家デビュー! ……いや、実際は、僕はこれまでもけっこうな数の書評を書いてきたのだ。その一部がここで順次、公開されるはず。

どこにも書評は書いていないのだが、最近読んだのは、これ:

村田沙耶香『地球星人』(新潮社、2018

母親からは半ば虐待され、姉に虐げられ、塾の先生には性的に虐待される語り手・奈月が、自らを宇宙人(ポハピピンポボピア星人)と見なし、宇宙人との自認を分かち合うことのできるいとこ由宇と疑似結婚することによって辛い少女時代を乗り切ろうとする話……と思ったら、その23年後、セックスや人間の再生産システムに対する嫌悪感を分かち合う智臣との偽装結婚がそのシステム(彼らが「工場」と呼ぶもの)との軋轢を深めたため、奈月、智臣、由宇は3人で籠城、宇宙人として生きていく決心をする話に転化する。そして思いがけないカタストロフ。

この作家の家族と再生産システム(つまり、セックスの社会的管理なのだが)に対する嫌悪感が実に好もしく、つい読んでしまう。昨日はこんど千葉に引っ越すという教え子と忘年会だったのだが、千葉には「工場」やら人工妊娠の実験都市があるぞ(『消滅世界』)と話して盛り上がったのだった。