2012年4月22日日曜日

5時間あれば1冊読める……?

そんなわけで、もう書店に並んでいたので、買ってきた。木村榮一『翻訳に遊ぶ』岩波書店、2012。

われわれ大学教員というのは、退職する際には最終講義というのを行い、そこでは多くの方がご自分の半生を振り返ったりするものだが、昨年だか一昨年だかに晴れて神戸市外国語大学学長の任を終えた木村センセイ、最終講義の書籍版とでも言えばいいだろうか。幼少のころからの本とのつき合い、文学との出会い、外国文学との出会いなどから語り起こし、自らの翻訳家人生を振り返っている。

われわれ同業者からしてみれば、鼓直とか高橋正武といった、木村にとっての先生たちとのつき合いの話しなどは興味深い(高橋正武が『西和小辞典』を手に自慢し、その後、「一生かかってこれ一冊なんだよね」とつぶやいた話〔33〕とか)。木村ファンならば、彼の個人的なエピソードなども嬉しいだろう(神戸市外語大なら新制大学で、新制大学といえば旧制高校だからと、角帽、詰め襟、下駄履きで、マントこそしないもののバンカラのスタイルで大学に通った話し〔28-29ss〕とか、机の前に落ち着いて座る時間の短さから、奥様にウルトラマンと呼ばれていること〔57〕とか)。そしてまた、後に稀代の名翻訳家と称えられることになる木村も、最初はひどくまずい訳をし、だいぶ悪戦苦闘した話〔64-70〕などは、若い人には励みになるだろうというもの。

しかしなんと言ってもこの本の真骨頂は、翻訳家・木村榮一の翻訳術のコツみたいなもの(普遍的な理論などはないと言っているので、あくまでも彼の流儀だ)が開陳される最後の6章くらいだろう。村上春樹や外山滋比古などを引きながら「名詞文脈」について述べる木村はオクタビオ・パスから、次の一文を引く。

"De la imitación de la naturaleza a su destrucción": tal podría ser el título de una historia del arte occidental. (「自然の模倣からその破壊へ」、もし西欧の芸術史にタイトルをつけるとすればこんな風になるだろう。)(153)

そしてこの後 " "内の「タイトル」にある2つの名詞の関係(imitación/naturalezaの関係、およびdestrucción / naturaleza)などの話を展開する。名詞のうちひとつは動詞化すべきではないか、とか、これらが動詞と主語の関係になるか、目的語の関係になるか、とか。ふむふむ。そうそう。よく突き当たる問題なのだよ、と思う。

が、同時に、待てよ、とも思う。ぼくにとっては後半が気になる。 "tal podría ser el título" だ。この過去未来形だ。「もし……タイトルをつけるとすればこんな風になるだろう」だ。いつかも書いた条件法の用法。意外なほど多くのものが見落としてしまうこの用法のことはすんなりクリアされているのだ。できればここも扱って欲しかったな。

「visión や verについて考えているうちに、ヨーロッパ人はおそらくぼくたちよりも映像的、というか視覚的な喚起力にすぐれているのではないだろうかと考えるようになった」(121)という第12章「ヴィジョンとイマジネーション」の章は、とりわけ、別の角度から議論に上せたいところではあるが、それはあくまで、「別の角度」の話。

今日はここまで。明日の準備をしなきゃ。

知性についてさらにもう少し考えた週末

偶然、こんなのを読んだ。(「こんなの」にリンク)長崎大学水産学部の天野雅男さんがご自分のサイトの一部に、合衆国の研究者の書いた大学院生への指南をまとめて掲載したもの。

よせばいいのに、こんなのを読んでいると、むらむらと創作意欲(創作、か?)が湧いてくる。上のテクストは主に理科系の視点だし、根本は合衆国の大学の文脈に沿うものだし、ここはひとつ、文化系、とりわけ人文科学の、ただもっぱら本を読むことが研究であるという人々に向けて:

1. 君は1日最低でも5時間を読書に、3時間を執筆に費やせますか? 

その覚悟があるかではありません。その意志があるかではありません。実際に費やせるか、あるいはもう費やしているか? です。できる者は歓迎です。明日にでも私の研究室に進学の相談に来てください。できない者は心を入れ替えてください。その覚悟をするか、でなければ研究者になるのをあきらめるか。

ネルソン・オソリオというラテンアメリカ研究者は教え子のミルラ・アルシビアデスに訊いたといいます。「あなたは1日何時間本を読みますか? 10時間ですか? 15時間ですか?」——これは一見、私の要求よりも多いように思われます。実際、多いのでしょう。が、オソリオはひとつ重要なことを忘れています。私たちの仕事は読むことだけでなく、書くことも含むということです。だから、彼の設問の「本を読む」ということが、確実にその3分の1くらいは書くことを意味しているのなら、私もオソリオに大いに見習いたいと思います。

私が読書5時間、執筆3時間と書いたのは、つまり、サラリーマンのように働きなさい、という意味です(どうせ修士論文や博士論文、本の執筆をする際には2倍の16時間、20時間と机に就くことを余儀なくされる。そうでないときでも最低8時間、という意味)。君たちよりも一足先に会社員になった人たちがオフィスで仕事をしているのと同じていどには読書と執筆に費やしなさい。つまり、君のやることは仕事なのです。君は労働をするのです。その覚悟を持ってください。単純労働でないぶんだけ、救われると思ってください。労働だということは……

2. 大学院に進学したら、もうその道のプロだとの自覚を持ってください。たとえば、外国語の本を輪読する授業などで、ろくに調べ物もせずに、教師に解決を求めるのはやめなさい。教師が学生よりも外国語運用能力に長けているとは限らないのですから。ましてや、信用できるかどうか定かでない他人の知性に自分の知性を委ねるなどという愚はやめなさい。

3. 私たちの仕事は読むことが基本ですが、中心は書くことにあります。発想の転換をしてください。本を読むことが勉強なのではなく、書くことが仕事なのです。読むことは書くことに仕える行為だと思うくらいの方がいいでしょう。だから、……

4. 大学院に進学したその日から、何らかの文章をどこかに発表することに心を砕いてください。学術論文なら、それに超したことはないのですが、どんな些細なものでもかまいません、書き、発表することです。学会会報の埋め草の書評欄でも何でも。何か依頼されて断るなんてことは、修士論文や博士論文が大詰めのときか、将来よほどの売れっ子になって本当に時間がないときだけに許される贅沢です。依頼があったら断らず、なくても常に機を窺っていてください。

5. 学術雑誌に投稿したら、たいていの場合、「訂正の上、掲載可」という判定になるでしょう。書き直せと言われた箇所を書き直すことをためらわないでください。

学会誌の審査の場合、よほどあくどい査読者でないかぎり、大抵は形式や手続き、論文としてのクリシェの不備、論理の不明確な箇所などを指摘するものです。君の論文の根本の主張に対して論争を吹っかけているわけではありません。書き直しを渋るのは、単なる知的怠惰です。書いたものへのこだわりなどではありません。君の独自性は書き直しを主張された箇所などにはありません。君が書き直しを示唆されたとすれば、それは単に君の推敲が足りなかっただけのことです。そんな箇所に対しては、ふたつ3つと次々に対案を出せるようにした方がプロらしいというものです。

少し話しをずらせば、こういうことです。私は上で3時間執筆をしろといいましたが、執筆の時間の大半は書き直しに費やされるものです。若いうちは特にそうです。

6. 学術論文の意味を間違えないでください。人文科学の学術論文は歴史研究(文学史、美術史、作家の伝記研究、等々)か解釈の作業に大別されます。解釈であっても、歴史の一部を形成することは間違いありません。つまり、論じる対象に対して、過去、誰が何を言ったかを踏まえることが必要になってきます。この予備作業を当然の前提としてください。多くの場合、不毛な作業ですが、これをおろそかにすると、後で君自身にツケが回ってきます。

7. 自分の論じる対象以外でも、周辺分野に関することなら、なんでもすべて読むつもりでいてください……といっても実際には何もかもすべてを読むことはできないのだから、せめて数行でもいいので目を通し、誰が何についてどんな立場で語っているのかくらいは知るように努めてください。後で君の興味が拡大したときや、あるいは晴れて大学の教師になって教壇に立ったときに、いつでも引き出せるようにしておいてください。これがとても役に立ちます。

8. 周囲の研究者(教師や仲間)に会った時には、だから、全部読んでいなくてもいいから、その人の最近の仕事の話に水を向けてください。論文や本に語られていなかった情報も引き出せるかもしれません。10ページの文章を書いたとすれば、その背後にはもう10ページ、あるいは20ページ分の、そこには入れられなかった原稿が隠れているはずだからです。

9. 友人知人の最近の研究にばかり水を向ける必要はないのですが、少なくとも仲間たちとは、こうして情報を交換して情熱を分かち合ってください。酒飲んでくだ巻いて愚痴を言い合っている、なんてつき合いは避けましょう。もちろん、たまには愚痴もいいのですが、そればかりではやがて辛くなります。

私たち研究者というのは、人文系の研究者というのは、知に取り憑かれた存在です。愚痴は愚かで病んだ知です。健全な方を向きましょう。

……うーむ。こう書いてくると、これ自体がぼくの愚痴みたいか? まさか! ぼくの学生は優れた方ばかりなので、この指南が愚痴の裏返しのはずはない。むしろ、経験則、というのかな……?

まあ、むしろ、自分自身への戒め、というべきかな? いまだに推敲なんか、指摘されてはじめて泣きながらやっているものな……

2012年4月21日土曜日

知性について考えた週末

こんなものをもらった。ペルー大使館からの招待状。それで行ってきた。昨日のことだ。日系ペルー人(セビーリャ在住)作家フェルナンド・イワサキの来日を記念しての晩餐会。

なかなか面白かった。大使はメニューをひとつひとつ読み上げ、食材などについて解説。アスパラガスはペルーの主要輸出産品なのだ、とか、そんなことだ。ゲストによる返礼の挨拶では、セビーリャ大学で歴史学の博士号を取った人物だけあって、メニューにでているあるつけ合わせの料理名の由来をその場で説いてみせた。アカデミアの辞書にはこのように定義されており、その記述は現在とだいぶ異なる、そうなった理由は云々、という話だ。『ペルーの宗教裁判』などという本を書いた人物だけのことはある。たいしたお方だ。

今日、21日はセルバンテス文化センターで、日本在住のベネズエラ人作家エドノディオ・キンテーロを聞き手にする形で、イワサキは日系ペルー人の3人の作家について話し、その3人を通じて自分のアイデンティティのことなどを話した。祖国patriaとは父親padreに由来するのだが、父というよりは子のいる場所を帰るべき場所、故郷とすると言っている、とも。

2012年4月16日月曜日

ノエシスなんだかノエマなんだかノマドなんだか

いつごろからだろう、「ノート/手帳をうまく使って夢を叶える!」みたいな、仕事の仕方についての自己啓発本が増えたような気がする。NHKではナントカという、やはり会社員たちの仕事の仕方を考える番組みたいなのが現れた。

そのこと自体は悪いことだとは思わない。むしろ慶賀すべき。人間の意識には対象を志向するもの(ノエマ)とその対象を意識する意識に意味を与えるもの(ノエシス)がある。何の仕事をするかと同時にどのように仕事をするかは重要な課題だ。

が、その、どのようにという意識はいわゆる自意識と混同されてしまいかねないので困ったもの。どのように仕事をするかと自己演出(本人の用語では「セルフブランディング」)を焦るあまり、言わずもがなのよけいなひと言を言ってしまい、一部に不評を買ったある人物が、たまたまその自己演出のための浮ついた表現が流行の言葉と合致してしまったがために、TVなどが取り上げることになってしまい、周囲は色めき立った。

そんなわけで、さして興味もなかったが、釣られてぼくも、日曜の夜(というのは、ぼくの意識の中では、TVが一番つまらなくなる時間)なのにその人物を取り上げたドキュメンタリー番組などを見てしまった。

まあ、ちぐはぐなのは仕方がない。どのように仕事をするかしか主張しない人間のことを、結局、何の仕事をしているのかわからない、と形容し続けるのだから。これでは賛否両論だ。要するに、文章書いたり講演したり、自己啓発の講座をひらいたりしているが、その原稿書きの仕事を家でもオフィスでもなくカフェでやってます、というだけのことなのだけど(そしてそのわりに本の1冊も出していないから、何をやっているかが見えない、というだけのこと)。そしてそれだったら、新しいライフスタイルでもなんでもないのだけどな。ぼくなどもそれを強いられることがあるし、ぼくの同業者で言えばたとえば東大のN先生など、喫茶店でしか仕事をしない、との噂……

そうは言いながら、TVも少しはそれなりの長所を発揮するもの。言葉で明確に表現してはいなかったけれども、この番組が描いてみせたのは、ある一流大学を出て大手出版社に務め、順風満帆だった若い女性が鬱病を患って退社、生きていくために生活を切り詰め、しかしそれを過剰な自己肯定の言葉によって演出したら、その言葉がたまたま流行に乗って(彼女自身が作り出した流行言葉ではない)注目を集めて仕事も順調になってきた、そして同じような自意識に悩む人を導くことによって救いを得られ(自身の開設した講座の受講生の言葉に涙していた。カタルシスを得たのだ)、さらには、自分を鬱病に追い込んだ会社からの依頼を受け(それが「夢だった」と語った)て解放された、というストーリーだった。

こういうストーリーなんだ、と明確に言えば、下手に浮ついた言葉で新しいライフスタイルであるかのように、昔ながらのフリーライターの仕事を、本人の戦略に乗って無反省に紹介するよりも、救われる人はもっとたくさんいたと思う。仕事のしすぎで鬱病を患い、そこから立ち直るのに四苦八苦している人々はたくさんいるし、とても切実な問題なのだ。

もうひとつ、彼女が隠蔽しきれなかった要素を映し出したTVは、しかし、そこを掘り下げなかったために、結局、語るべき何かを語りきれていないとの印象を与えた。わずか3段ばかりの棚に収まる数しか本は持たない、と自慢げに彼女が示したその本棚に、ネグリ/ハートの『帝国』とハンティントンの『文明の衝突』とが並んでいた、たとえば、そうした本のラインナップをきちんと分析することで、彼女が自ら明かそうとしない志向性(ノエマ的意識?)に少しは踏み込んでいけたと思うのだけどな。何と言っても人はどんな生き方をしている人か、だけでなく、どんな人か、でも他者を判断するのだから。

2012年4月7日土曜日

花冷えの4月

昨日は写真を載せた『ピエリア』の打ち上げで吉祥寺に。その前に井の頭公園に寄ったら、桜が咲いていた。花見ですでにできあがっている人々もいた。喧嘩している人もいた。花見の季節だ。

酔っ払って桜の木に吐いている者を見て、そういえば、サルトルの『嘔吐』を思い出す。

……というのは嘘。誰も吐いてはいなかった。ある授業に備えて芥川の「鼻」とゴーゴリの「鼻」、そしてサルトルの『嘔吐』(新訳  鈴木道彦訳、人文書院、2010)などを読み返したりしていた。

『嘔吐』など、高校生の時だか、もう卒業した後だかに読んで以来で、アントワーヌ・ロカンタンがとらわれた〈吐き気〉から解放される瞬間が音楽によってもたらされることなど、ほとんど忘れてしまっていたのだが、あるページを読んだ瞬間、いろいろなことが思い出された。ぼくに過去の記憶を取り戻させたページとは何かというと:

火曜日
書くことは何もない。存在した。(171)

ぼくがかつて読んだのは白井訳だったので、あるいは少し言葉遣いが違ったかもしれないが(「実存した」とか……?)、ともかく、ぼくはこの一文がえらく気に入って、似たようなことを自分の日記に書いたりしていたはずだ。そんなただ存在しただけの日々をまざまざとぼくは思い出していたのだった。

2012年4月6日金曜日

短絡にため息をつく

こんなのが回ってきた。東大の秋入学移行に反対する教員有志の会。

すばらしい。

大学についての議論がなされるとき、そこで語られる「大学」というのは、国立大学・理科系中心だ。われわれのごとく文化系・地域限定大学は例外。だから行われている議論に真剣に参加する必要も感じない。しかるに、主に理科系の先生方から、こうして声が上がってきていることは頼もしく、慶賀すべきことだと思う。

実際、9月入学を、その他の社会は変化しないままに大学だけで行おうなんてのは、愚だ。いろいろと「メリット」とかいうものが喧伝されているらしいが、これを本気で唱えているのだとすれば、その主導者は相当脳天気で軽薄な人間だと思う。外国の大学との差を埋めて人材交流をスムーズにだと? 世界のすぺての大学が9月始まりではないのだ。そして4月始まりの国と9月始まりの国の大学の人的交流をやりやすくするには、もっと他の手段がある。

大学の進行を学期(セメスター)単位に完全に移行すればいいだけのことだ。通年で学年進行を考えるやり方から脱出できずにいるから、こんな考え方が生まれるのだ。2年生の後期から1年間留学する、ではなく、第3セメスターが終わったところで留学し、戻って来たら第4セメスターからやり直す、と考えればいいだけのこと。大学は4年間在籍するのでなく、どんな取り方でもいいから8セメスター履修して規定の単位を取って卒業する、と。もちろん、進行に合わせて第何セメスターでは(までには)これこれの単位を履習のこと、というようなプランを学部、コースごとに明確にして、そのとおりに履修できない者が留年、もしくは退学になる、というやり方。

たとえばメキシコ国立自治大学(UNAM)は、現今の学期は2月に始まるのだが、どこの学部も卒業の要件はセメスター数で示している。9セメスター+社会奉仕+卒論、という具合に。

もろん、これを円滑に運用しようと思えば、教員の数はどの大学も今の2倍くらいは欲しくなるところ。それを言っちゃあおしまいだから、秋入学、なんて根拠薄弱なことを言い出すのだろうな。

日本の大学の教員の仕事は激務である。日本の大学の国際競争力が落ちているのだとすれば、一因はそこにもある。ま、これはいやな仕事ではないのだが、ぼくが最近、授業以外でやった仕事が、写真。東京外国語大学出版会の冊子『ピエリア』2012年春号だ。これの編集長として巻頭の「新入生へのメッセージ」を書いた。好きに生きていけ、と?

そんなことを書いていたら、ある委員の仕事をしろ、とのメール。

やれやれ。やってもいいけど、おれ、これ以上会議を入れる時間なんかあるのかな?

2012年4月2日月曜日

1940年代に思いを馳せる

朝から学長に呼び出され、もっと真面目に仕事しろとお叱りを受けた。

というのは嘘。辞令をもらってきただけだ。

で月曜日なのに今日は開館日だったので、東京国立近代美術館にジャクソン・ポロック展を見に行った。キャンパスメンバーズ会員ではないと言われ、通常料金で。おかしいなあ……

著作権上問題があるだろうか? どなたか教えていただきたい。問題があるなら、削除する。写真は、館内で買った絵はがきを撮ったもの。左が1939-41年の作品無題の構成(コンポジション)(ちなみに右は50年の代表作「インディアン・レッドの地の壁画」。今回の目玉だ。たぶん)。ピカソやらエルンスト(ロプロプ鳥)やらを思わせるモチーフに、どくろ、卵、蛇など、……何かに似ていないか? ウィフレード・ラムだ。ラムの『ジャングル』は、ちなみに、1943年。

さて、1944年、ポロックは「アメリカだけで成り立つ絵画」an isolated American painting など「ばかげている」absurd と発言している。「アメリカだけで成り立つ絵画」というのが、30年代には盛んに議論されたのだと。

同じころ、クレメント・グリーンバーグは「深くオリジナルな芸術はどれも最初は醜く見えるものだ」として「醜い」と言われた(らしい)この時代のポロック作品を擁護している。

同じころ、似たような絵(というのはあまりにも乱暴か?)を描いたラムは、40年代のうちに、実にアメリカ的(といっても、これはアメリカ合衆国〔のみ〕を意味してはいないが)として評価されたのだ。トーテムなどをトピックとして活用し、醜いと言われ、「孤立したアメリカ」isolated America などばからしいと切り捨てたポロックは、シケイロスなどの影響もあって、右の作品へと向かった。

うむ。ひとつの分岐点なのだ、1940年代。

2012年4月1日日曜日

四月馬鹿

あるサイトの広告リンクで「うわっ……この制服……ガチすぎ……?」なんてのがあった。小さな写真とリードがついていて、写真にはドレスだかブラジャーだかのストラップのようなものと素肌が露わになった肩までの中年男性の写真。

うーむ……

「ガチ」って何だろう? 

ぼくの知る限り、「ガチ」は「ガチンコ」の略。「ガチンコ」はもともと相撲用語だったのがプロレスなどの勝負ごとにも使われるようになって一般化した、「八百長」に対する「真剣勝負」を意味する隠語(どうでもいいけど、こうしたのが存在すること自体、八百長が当たり前であると言っているようなものだ、と思う)。ここ数年、とっくに一般化して隠語としての意味をなさなくなった「マジ」に代わって「本気」、「真剣」を意味する隠語として、勝負ごとの世界を超え、広まり、と同時に略されるようになった……とそこまではいい。

だが、いったい、「制服」が「ガチ」とはどういうことだ? 

などとの疑問が解けず、釣られてそのリンク先に行ってみたりするのだから、ぼくも相当にアホだ。行ってみたら、なんのことはない、エイプリル・フール(「四月馬鹿」という言葉、すっかり聞かなくなったな……)の記事で、あるウェディング会社が男女ともにウェディング・ドレスを制服にしちゃいました、という嘘。

なあんだ……

などと納得してはいけない。「ガチ」って、この場合の「ガチ」って、……どういう意味なんだ!?

ガチでわからない……