2023年10月1日日曜日

太さは悪か? あるいは細さは絶対善か?

9月はついにいちどもブログを更新しなかった。



中旬には集中講義を実施、その次の週にはとても久しぶりに相撲を観に行った。国技館に。



下旬にはかつての教え子たちに一月遅れの誕生日を祝ってもらった。みんな、ありがとう! (いただいた花)


最近は何巡目かのナイロン期に突入している。


どういうことか?


僕は弦楽器が好きだ。とりわけギターが好きだ。それも生ギター。生ギターでも鉄弦の音の方がいいと思う時期とナイロン弦(かつてのガット弦)の音が好きだと思う時期が交互にやって来る。そして今はナイロン弦を好む時期ということ。


鉄弦のギターといわゆるエレガットを持っていたのだが、ナイロン期に入った現在、そのエレガットの存在に疑問を感じ、比較的安価な「エレ(キ)」なしのガット・ギターすなわちナイロン弦のギター、俗にいうクラシック・ギターを新たに買ってみたのだ。



コルドバのc5


これが、実にいいのだ。やはりエレガットよりも純然たる生がいい。


長いブランクの後に、大人になってからギターを手に取ってみると、世はTAB譜の全盛期になっていた。便利なのでそれに頼っていたら、まったく譜読みができなくなった。暗算能力が衰えるのに似て、かつてはそんなに難しくない音符の配列ならば、何も考えずにギターのフレット上でのその音の位置に指が行ったのだが、今はかなり単純なものでもいちいち音階を読み上げ、弦を確認し、フレットを数えていかないとその音が出せない。これでは一曲覚えるのに恐ろしく時間がかかってしまう。


それで、今年に入ってからTABなしのクラシックの楽譜集を買い、易しい曲からレパートリーに入れるようにしてきた。こうして段階的にまた少しずつ音符になれようという算段だ。フリオ・サルバドール・サグレーラスの「マリア・ルイサ」(イ短調、つまりシャープやフラットがひとつもつかないので単純なのだ)やフランシスコ・タレガの「ラグリマス」(涙、だな)といったところをクリアし、この新たな友と同じタレガの「アデリータ」を練習しているわけだ。後半、転調後が今ひとつ運指ができず、苦労している。が、ともかく、これまで使っていたいわゆるエレガット(YAMAHAのNTX700。既に生産を中止しているやつだ)よりも張りがあって澄んだ響きのコルドバの音色に聞き惚れながら練習している。


そう。新学期が始まる前の最後の逃避なのだけどね……


タイトルは、こういうこと:ある種のエレガットは標準的なクラシックギターよりもネックが細いことと14フレットジョイント(通常は12フレット)でさらにはカッタウェイだったりしてハイポジションが弾きやすいことを売りにしている。まさにヤマハのNTXシリーズがそうだ。そうした造りによってエレキギターや鉄弦のギターから入った人にとっては弾きやすくなる、と。


が、ところで、今回買ったコルドバのギターはネック幅は52mmでNTXより4mmほど太い。が、僕の感覚では4mm程度の差で押さえづらくなったという印象はない。あるいはヤマハの方が押さえやすかったという印象もない。そもそも人生で最初に手に入れたのはクラシック・ギターだったという来歴もあるかもしれないが、少なくとも標準的青年男性ていどのサイズであるはずの僕の手にとっては、4mmの差など大して苦にはならないのだ。


……本当にこの4mmの差に泣き笑いする人が(かなり小柄な人は別として)いるのだろうか? 疑問に思うのである。

2023年8月2日水曜日

決断とか選択とか

外語時代の教え子が、母校がTVドラマのロケ地になっているとFBで投稿していたので、過去回のダイジェストと最新回を観てみた。なるほど、主人公が通っている大学は東京外語大府中キャンパスだ。主人公の福原遥が大学1年生にして妊娠、が、恋人とは引き離され、自身もキュレーターになりたいとの夢を諦めることもできないままもがくという話。子どもも夢も諦めない、と。


うーむ。さて、これは設定として成立しうるだろうか? 


教師になれる直前の大学生が、人工妊娠中絶が法で禁じられていた時代(1960年代)のフランスでリスクを冒して中絶に踏みきり、危機に陥るという『あのこと』(オードレイ・ディヴァン監督、フランス、2022、アナマリア・ヴァルトロメイなど)と対照的な設定といえばいいだろうか? 


美術教師であった母(ミムラ改め三村里江)を早く亡くし、離れて暮らす父・安田顕は妊娠の事実を知り、「堕ろせ!」と怒鳴る。学友たちは彼女の妊娠に気づいて悪意ある噂をソーシャル・メディアで流す……うーむ、ロケ地にされている大学では(僕の教え子の中には)、在学中に子を宿し(結婚したけど)、ちゃんと卒業し、他の学生同様に企業に就職した女子学生もいたけれども、今の時代、このドラマがどこまでリアリティを持つのだろうか?


1840というタイトルのこのドラマ(脚本は龍居由佳里と木村涼子)のもうひとつの重要なプロットがもうひとつの数字 40 に関わるもの。そのくらいの年齢の深田恭子が、こちらは美術関係の仕事で働く、福原遥にしてみれば憧れの人ではあるが、彼女は彼女で未婚、母の片平なぎさから結婚を急かされるという、これも今さら古くさい設定。うーむ、TVドラマはいつまで同じ歌を歌うのだろうか、と思わなくもないが、この二人がちょっとしたきっかけで関係を持ち、生活を共にするというところが唯一最大の活路なのだろう。


さっきTVerで観た最新の第4回では、悩んだ挙げ句に物わかりのよくなった父・安田顕が深田に謝罪し、娘とも和解を求めて会いに行き、子どもを堕ろせなどとは言わないから家に帰ってこいと諭すと、娘は「瞳子さんと住む」と主張、父は引き下がった。瞳子さんというのは深田の役名。なるほど、根源的な問題に、しかし、古色蒼然たる仕方で悩まされる赤の他人の二人が、恋愛でも親子愛でもない何かによって結ばれて共生するというアルモドバル的設定に流れ込んで行くのだ。


……と思ったらまたしても脱力したのは、安田顕が最後に出した条件、休学をすることというものに対し、娘・福原遥が涙ながらに反対したこと。うむ。そのロケ地になった大学では、学生は5年や6年かけて卒業することはごく当たり前のことで、休学にそこまでの抵抗を示すほどの障壁としての力はないのだけどな……


TVerだとこうして見逃した回を追いかけたりダイジェスト版を見たりできるから、これは便利! と言えば言いうるのだが、逆にこれだとどんなTV番組も観てしまう。観る気になれば。俺はそんな暇はないはずなんだけどな。いろいろと締め切りが……



最近お気に入りの新書サイズの面々。


ところで明日はオープンキャンパス。今年度、文学部の広報委員長を拝命した僕は模擬講義の司会をするのだ。


講義は社会心理学の村本由紀子さんによる「選択の自由、選択の不自由」と英語英米文学の新井潤美さんによる「小説を読む——ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』」。聴講されたし。

2023年7月17日月曜日

ボラーニョを語ってきたぞ

このところ、月に1本くらいしかブログを書かなくなってきた。いかんのだ。遺憾なのだ。


715日(土)にはインスティトゥト・セルバンテスで「ロベルト・ボラーニョ・トリビュート 野生の探偵の軌跡 2003-2023なる催しに出て来た。


第一部では星野智幸、大竹昭子のふたりがいかにボラーニョを読んだかという話をし、それを受けて僕が話題を振ってのトーク。大竹さんは「センシニ」を読んでボラーニョは信頼にたる作家だと思ったという話をし、星野さんは2666をメキシコ市はデルバジェのアパートに籠もって読んだという話とボルヘス「記憶の人フネス」を繋げて語った。


僕が大竹さんと星野さんの話を繋げるために、「センシニ」について補足説明した。作品中にわずかにひと言だけ「ヘルマン、きっと面識があるに違いない」と書いてあるところから、センシニと同様の経験をしたフアン・ヘルマンが思い出される造りになっていると、こうしてそこに描かれている国家の暴力の幅が広がるのだが、そんな背景を基にしながら文学賞ハンターなどという風変わりな仕事に身を捧げている人物であるセンシニを描くその描き方が記憶をユーモアに昇華させるというボラーニョのやり方なのだろうと、そんなことを言った。


その時僕はセンシニにもまたモデルとしての実在の作家がいるということをすっかり忘れていた。少なくとも、そのことは話さなかった。するとそれを補うように、第二部に登壇した野谷文昭さんがセンシニにもモデルがいる、アントニオ・ディ・ベネデットだ、と補足した。ありがたい。そしてそういえば――と帰宅後思い出したのだ――ベネデットはルクレシア・マルテルが映画化したZamaの原作者なのだった。本当は「ボラーニョの影響」を語る第一部ではそんな話にも持って行ければよかったのかもしれない。反省。結果として一部は大竹、星野のふたりがどのようにボラーニョを受けとめたかという話になった。


第二部には映画監督の小林達夫、野谷文昭、セルバンテスの文化担当官ハビエル・エルナンデスが登壇、さらにはスペインからラウタロ・ボラーニョがリモート参加した。ボラーニョの息子で、彼もまた映画監督だ。


小林さんがボラーニョの足跡をたどってスペインに行った話、ボラーニョの影響を受けていると思われる最近の映画作家の例などを話し、ハビエルがラウタロにインタヴュー、蔵書のことや子どもへの接し方、等々訊ね、ラウタロは照れながらそれに答えていた。野谷さんはガルシア=マルケスの息子、フアン・ルルフォの息子がそれぞれ映像作家になったがそんな事例の三つ目である君はどう思うかと訊ねて困らせていた。そしてボラーニョの詩「ラウタロへの詩二篇」を朗読した。


会場には韓国の作家パク・ソルメさんも来ていて、ボラーニョ好きである彼女にも質問したりした。彼女は秀逸なことを言った。こういう集まりに来るといつも思うことは、早く家に帰ってボラーニョを読みたいということだ、と。


とはいえ、その後2階で行われたワインとエンパナーダのカクテルに彼女は律儀に来ていたけれども。


おいしいワインとエンパナーダ。




……ちなみに、これは先日、池袋でみつけた生搾りオレンジジュースの自動販売機。


追記: ところで、トーク中、星野智幸さんが僕に「はらわたリアリズム」という訳語の選定のプロセスを質問した。「はらわたリアリズム」はRealismo visceral の訳。ボラーニョが実際にかかげていたのはインフラレアリスモinfrarrealismo という標語だったのだが、小説ではこれをそのように言い換えた。visceral vísceraの形容詞形。víscera は内蔵の意味だが、形容詞としては文字どおり腹のそこからの感情などに用いる。で、『野生の探偵たち』の書き出し部分は松本健二さんの担当部分なので、あれは松本さんが作った語。担当編集者の金子ちひろさんがどう思いますか? と不安そう(不満げ?)に訊いてきたので、僕はいいんじゃないでしょうか、と応えただけ、というようなことを申し上げた。


後で金子さんがおっしゃるには、松本さんがその訳語を訳に書きつける以前に斎藤文子さんが提案されているとのこと。言われてみれば、斎藤さんと話しながら、そんな訳になるのでしょうかね、と話し合った記憶があるような気もする(少しあやふや)。ともかく、僕が提案したものでないことは確か。もっとも、僕に訊ねられても同様の訳語にしただろうが。


金子さんが「不安そう(不満げ?)」に見えたとすればむしろ「はらわた」部分ではなく「リアリズム」の部分についてだとのこと。「インフラレアリスモ」ほ「レアリスモ」とスペイン語風の表記にするなら、「リアリズム」は「リアリズム」でいいのか? とのこと。


なるほど。


そんなわけで、その場で金子さんにご発言いただくことはしなかったので、訂正。以後、僕もその思い込みを訂正しなければ。

2023年6月18日日曜日

父の日のプレゼントは……

父の日のプレゼントにはMacBook Air 15インチなど所望するものである。


僕にプレゼントをあげるような子など、いないのだけど。つまり僕はひとの子の父ではないのだが。


佐藤友美は「原稿を書くスピードは、パソコンの画面サイズにゆるやかに比例します」と断言している(『書く仕事がしたい』CCメディアハウス、2021110)。


僕はふだん、MacBook Air 13インチを使っている。本当は家ではそれを27インチのディスプレイに接続しているので、15インチどころか、かなり大きな画面で書いているのである。だから佐藤の観測が正しいとしても、何もそれより小さな15インチ画面に心を動かされるいわれはないのだ。


が、家の中でも気分を変えるために座ったり(ふだんは立って書いている)、ディスプレイから外して文字どおりラップトップで(膝の上で)書いたりしている(こうすると案外仕事がはかどる)。そしてまた旅行や出先での仕事の際には、まさかディスプレイまで持ち歩くわけにはいかないので、そんなときには13インチのMacBook Air の画面で作業することになるわけだ。


さて、そんなわけで、外での、あるいは旅先での作業の際に、確かに、13インチよりは画面が大きい方がいいと思うことがある。とりわけ、翻訳をする場合には、こんなふうに


全画面表示を二分割して左に原文、右に訳文のファイルを置きながら作業をしている。かつては12インチのMacBook Air を持っていて、そのディスプレイのサイズがこの作業にちょうどいいと思ったこともあったのだが、最近は老眼が進んだのか、13インチでもやはりもう少し大きい方がいいよな、と思うことが多い。だから15インチのMacBook Air発売の報を聞いて欲しいと思ったのであった。


ところで、MacBook Airを大学へ持っていくことはあまりない。今では授業のプレゼンテーションはiPad mini で行っている。プロジェクターに投影したiPad mini PDF資料(ここに直接書き込む)やノートアプリ(黒板代わりに使う)を操作するのだ。パワーポイントなどはほとんど使わない。こんなふうに(これは小さな教室なので、プロジェクターではなく、部屋のモニターに接続している例)。



軽いし持ち運びが楽だからmini にしているのだが、これも作業面積という点で言えば、最近は小ささを感じる。iPadはその他にPDF資料を読んだり、最近ではとくにそれで校正をしたりしているので、miniは少し小ささを感じる。辞書アプリを使用する分には小さく感じることはないが、ウェブブラウジングだともう少し大きいのが欲しくなる。いちおう、古い型の11インチのiPad Airもあるにはあるのだが、手軽さではやはりminiにまさるものはないのだけどな……


おそらく、緊急度から言えば、iPadを大きいのを携行することに慣れ、しかる後に、次に旅行に出るときに15インチのMacBook Airを携えていくことにする、という順番がいいのだろうと思う。


一方、僕はまだ手書きのノートもとる。以前の投稿で、こんな



ノートを作成して授業に臨んでいるという話を書いた。これは上の写真の教室で行っている「原典を読む」という授業のもの。外国語解釈の授業でこんなちゃんとしたノートを作るのははじめてのことだ。だいたいは本に書き込むだけだったから。


ノートのストックはまだまだあるので、それを消化する目的もあって、他の授業でもこんなふうに



ノートを作ってみた。これまで授業のためのノートはいつものなんでも書くノート(コモンプレイス・ブック)に書いて、その後、ワープロ・ソフトなどに書き写してファイルとして保存していたのだが(講義の場合、それをプリントアウトして話をする)、毎回、その日の分のみを読むにはこれでいいのだが、通時的に(つまり以前の回の話とかを)簡単にめくって探すことができるという点で、やはり一冊のノートをそれ専用に充てると何かと使い勝手のいいものである。


ストックはまだまだある(無地のノートを使いたいと願う時期とやはり方眼だと思う時期とが交互にくるので、両方のタイプのストックがある)。しばらくはこの方針で行ってみよう。

2023年5月24日水曜日

鹿児島県章には島がない

YouTubeにこんな動画を薦められた


緑健児の半生を紹介するアニメだ。


緑健児は極真会館の第5回世界大会のチャンピオン。極真の分裂後は新極真会の代表を務めている。動画では鹿児島県の出身としている。そのことに間違いはない。もう少し正確に言うと、鹿児島県大島郡瀬戸内町の出身だ。


さて、その緑、第4回の世界大会後、一度は引退して奄美に戻るが、そこへ師・大山倍達(極真会館の創始者にして当時の総帥)が訪ねてきて、父親に向かって世界大会まで緑を空手に集中させる環境を作ってくれるよう懇願した。そのことは本人も折に触れて語っているし、間違いないのだろう。そのエピソードを問題の動画も紹介している(25秒くらいの位置)。


しかし、である。大山倍達がインド出張からそのまま飛んできた、ということを表現するように、飛行機の航路を示す曲線は、東京から鹿児島本土までしか到達していないのだ。そうでありながら字幕には「(総裁が)我が地元まで来て下さった」と謳っている。


繰り返すが、緑の「地元」とは鹿児島県大島郡瀬戸内町だ。奄美大島の南のはずれだ。曲線の到達点のさらに400キロ近く先にあるのだ(しかも当時はまだ東京からの直行便はなかったから、曲線は一度鹿児島でバウンドしてその先にもうひと飛びしなければならなかったはず)。


僕たちの小学校の中庭には池があった(今はもうないかもしれないが)。人工の、コンクリートで囲った池で、池の中には与論島から種子島屋久島までの列島と鹿児島県本土を象った石というか島(川中島ならぬ池中島)が配置されていた。僕たちはその池を眺め、中ほどにある自分たちの島を眺め、池全体を眺めて鹿児島県という自治体の範囲を漠然と理解していた。


しかるに、昭和42年(1967年)制定という県章は薩摩と大隅の2つの半島の真ん中に赤い○(桜島を意味する)がある形になっている(リンク)。ここには島がないのだ。奄美群島やトカラ列島はもちろん、近場の種子島屋久島、そして甑島すらそこには象られていないのだ。桜がある、との反論は成り立たない。それは単に火山なのだし、大隅半島からは地続きなのだし。その大隅半島のえぐれ・くぼみはしっかりと再現されているのに、ひとつの島もないのだ。県の中央部の者たちは僕たちが小学時代に池を見て育んだ空間認識を共有してはいないということなのだ。


県章とはそうした単純化を要求するものだ。と諦めることもできるだろう。しかし、別に県章が地形を象っている必要などはなにもない。鹿児島県とは、本土のみの地形を象った県章を制定することによって三度奄美をないがしろにした(一度目は琉球征伐の際、二度目は廃藩置県の際)自治体なのだ。


そうしたことを広く日本国民全員が知らなければならないと主張するつもりはない(多くの自治体にはそうしたくくりには回収できない地域間の差異や問題が存在するはずだ)。だが、せめて緑健児を語る者にはそうした差異に気を配るくらいの意識が欲しいものである。


ましてや緑健児は空手家である。空手はその発生は明らかではないものの、沖縄への中国の拳法の導入や、島津家(薩摩≒鹿児島)による支配の際の武器の禁止などが予想されている武術だ(リンク)。戦後すぐのころまで日本式の相撲よりは琉球相撲(沖縄相撲)が盛んであったと報告されている(昇曙夢『大奄美史』)瀬戸内で育ち、空手家になった緑健児に対し、「我が地元」が鹿児島本土ではあまりにも失礼というものだ。


ちなみに、今ではすっかり日本式の相撲が支配的になった瀬戸内からは、現在、明生という相撲取りが輩出された。


念のために言うと、この記事のタイトルは、もちろん、ポール・ギルロイの ‘There Ain’t No Black in the Union Jack’ をもじっている。


あ、ところで、動画に関してもうひとつ言いたいことが。緑健児がTVアニメの『空手バカ一代』を見て極真空手に憧れたという認識は、たぶん、間違い。緑は僕よりひとつ上だが、僕たちの世代ならば、そして奄美の人間ならば、リアルタイムでアニメは見られなかったはず。漫画ならば連載中に皆、貪るように読んだ。だから漫画で知ったに違いない。

2023年5月6日土曜日

今日も元気だメシがうまい

今月のはじめに飲み仲間が手伝っている(そこでアルバイトをはじめた)銀座の小料理屋に食事に行った。うまかった。そのとき土鍋で炊いた御飯の話がでた。いや。土鍋で炊いた御飯が出たのだが、その際に御飯を何で炊くかという話になった。で、僕は土鍋で炊いていたので、そのことを申し上げた。


しかし、それにはちょっとした嘘があった。その話をする少し前、4月末にそれまで使っていた土鍋にひびが入り、使えなくなっていたのだ。もともとごくたまにしか米は炊かないので、それでも良かったのだが、その話をし、その店で土鍋で炊いたおいしい御飯を食べたので、辻褄を合わせるために買ったのが、これだ。



1合炊きの土鍋。しかも電子レンジ対応で、おひつにもなる。つまり、炊いたのをそのままそこに保存し、その後、温めて食べることもできる。


それまで使っていた土鍋は3合は炊けそうな普通サイズで、それに2合の米を炊くと4-5杯分にはなる。それを取り分けて冷蔵または冷凍したりしていて、それが手間だったのだが、これならば楽そうだと思って買ったのだ。


そして事実、うまい。かつ、保存と温めが楽であった。温めなおしても、うまい。