2020年8月24日月曜日

小さい男だ

以前書いたように、僕は通常、Mac Book Air をそれより大きなディスプレイにつなぎ、Bluetooth でMagic Keyboard および Magic Trackpad を使って作業をしている。


が、最近、どうも仕事を怠けがちなのはこの配列のせいなのではないかと疑われることがあった。


へい。逃避です。


が、実際、ディスプレイから外して、Mac Book Air を Mac Book Air として使っているときの方が、仕事ははかどるようなのだ。いろいろと検証して改めて確認した次第。


キーボードのタッチはあきらかにMagic Keyboard の方が良い。ディスプレイだって大きい方がいいに決まっている。見やすいし、なにより、スピーカーも内蔵でそれがなかなかいいものだから、映像などは接続して見た方が遙かにいいに決まっている。でも、なんというのだろう? キーボードとディスプレイの角度や距離、バランスというか、そういうものを総合的に考えると、外付けのディスプレイは、それで作業するために身構えたり姿勢を変えたりしなければならないようで、そのために、仕事に没入するのが難しいようなのだ。


実際の物理的な説明は、僕の納得したとおりなのかどうかは知らないが、ともかく、つらつらと考えてみれば、たとえばボラーニョ『野生の探偵たち』の翻訳をしていた際、もっともはかどったのが非常勤先の大学の講師控え室だったことなども、単に環境の問題ではなく、ラップトップをラップトップとして使ったという、ツールの問題も作用しているのかもしれないと思う。


21インチ(だったと思う)の大画面を棄て、かくして13.3インチの小さなディスプレイに快適さを感じるようになってしまった。俺はスケールの小さな人間だ。


ディスプレイは端に寄せ、これからは映像を見るときだけ接続することにしようかと思う。

2020年8月9日日曜日

「さらばボルヘス、天才作家よ、嘘つきの老人よ」

Mario Varas Llosa, Medio siglo con Borges (Alfaguara, 2020).


バルガス=リョサはこれまで枕になりそうな、敷石になりそうな本をたくさん書いてきた。その彼が「半世紀」ものボルヘスとの関係を書くというのだから、それはそれは大部なのだろうと思ったら、わずか百ページ強だった。


……まあ、確かに、バルガス=リョサとボルヘスとは相容れないようだと僕も思う。バルガス=リョサがボルヘスについて書いた文章はそんなに多くはないのだろうと思う。


本書には63年と81年、二度にわたる対話、もしくはバルガス=リョサによるボルヘスへのインタヴューが掲載されている。それが思いのほか面白い。そしてまたその対話が二人の作家の決定的に相容れない性格と、それでも不思議と共通の作家への高い評価という点での一致をあぶり出している。


二人が一致して評価している作家というのはフロベールとコンラッドだ。バルガス=リョサがフロベール論を書き、コンラッドに深く関わる小説『ケルト人の夢』(たぶん、近々、邦訳が出るはず)を書いていることは周知のこと。ボルヘスはパリでの最初の対話(バルガス=リョサがラジオ・フランスの文化コーナーを担当していたころのものらしい)において、バルガス=リョサに対し、モンテーニュとフロベールからは影響を受けたと肯定し、かつ、「たぶん、誰よりもフロベール(の影響を強く受けた:引用者補足)と思う」(18)と言っている。さらに『ボヴァリー夫人』と『感情教育』のフロベールか、『サランボー』と『聖アントワーヌの誘惑』のフロベールかという質問に対しては第三のフロベールがいる。『ブーヴァールとペキュシェ』のフロベールだ、と応えている。


コンラッドに関しては、バルガス=リョサがボルヘスの家を訪ねて行ったインタヴューの際に水を向けている。その時はボルヘスはコンラッドに関しては多くを語らなかったけれども、その対話と同時に掲載されたらしいバルガス=リョサの文章「家中のボルヘス」で、コンラッドについては詩を書いているではないか、と指摘している。(この記事の表題はこの文章の中の一節)


しかし、やはり二人の気質の違いは顕著で、そのことはバルガス=リョサ自身も自覚しているのだろう。「彼は私の言うことを聞いているのだろうか? たまにしか聞いていないという印象だ。特定の対話者、目の前にいる血肉を備えた人物、でも彼にとっては陰に過ぎないかもしれない人物に向かってしゃべっているのではなく、抽象的でたくさんいる聴衆にしゃべっている(略)」(26-7)ようだとの戸惑いを見せている。


ボルヘスののらりくらりと冗談で交わす会話の方が好きな僕としては、バルガス=リョサがそう感じるのは彼が真面目すぎるからだと言いたくもなる。ブエノスアイレスのボルヘスの自宅での対話の冒頭、自身の本、および自身に関する本がないと不思議がるバルガス=リョサに対し、ボルヘスは言う。


JLB:最初に出たやつ(私についての本:引用者注)は読みましたよ。メンドーサで独裁制のころに出されたやつ。

MVLl: どの独裁制ですか、ボルヘスさん? というのも残念ながらいくつも……

JLB: あの独裁ですよ……その名は思い出したくない。(de cuyo nombre no quiero acordarme.)

MVLl: それに口に出したくもない。 (Ni mencionarlo)(30)


ボルヘスの「その名は思い出したくない(思い出せない)」はもちろんセルバンテスからの引用だ。バルガス=リョサだってそのことを充分知っているはずなのに、最後の1行を加える。無粋だな、と思うのだ。「独裁制」という言葉に引き摺られ、引用の遊びではなく、ボルヘスの独裁制への嫌悪感を読み取り、そこに共感するつもりで言葉を足しているのだ。


正直言ってこのふたつの対話以外の文章をまだちゃんと読んではいないのだが、対話は少なくとも、ボルヘスへの興味からみて面白い。相容れなさを前面に押し出して愚直に政治的なことなども質問するバルガス=リョサのインタヴュアーとしてのそれが手腕なのかもしれない。63年当時のパリでのボルヘスに対する熱狂もうかがい知れるし、2つ目の対話では最後にノスタルジーというキーワードを引き出している。


外語時代の教え子が1日に亡くなった。病気療養中だった。同期のある友人が彼女に会いたがっている、となぜかメッセンジャーのような役目を果たし、一段落ついたら3人で会おうと連絡し合ったのが3月17日のことだった。それが最後になった。悲しい。

2020年8月3日月曜日

マルジナリアは書物を個性化する

表題の言葉はウンベルト・エーコの言葉「下線は書物を個性化する」をもとにしている。『論文作法』だ(谷口勇訳、而立書房、1991。ただし、谷口は一貫して「エコ」と表記)。つまり線を引いて初めてその本は君の本になるということだ。論文の一次資料に関して線を引きまくれ、そして書き込みもしろ、と勧める箇所での一文。ということは書き込みも、当然のことながら、本を自分のものにする要素だ。


山本貴光『マルジナリアでつかまえて――書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020)はそんな下線や書き込み(マルジナリア)を扱った本。山本自身は漱石の『文学論』(岩波文庫版)から本への書き込みを始めたそうで、それが結実したのが、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房、2017)なのだそうだ。そんなわけで漱石のマルジナリアン(というのかどうか知らないが、山本はこの語を使っている)ぶりを紹介、フェルマー、石井桃子、ナボコフ、デリダ、等々、先人のマルジナリアを紹介していく。外国語学習における書き込みや漢文の訓読記号なども、そしてゲラでの校正もマルジナリアとみなす発想には膝を打つ。自身の書き込みのしかたなども披瀝する。


僕はある一時期、書き込みをしなかったことがある(世紀をまたぐころ。法政に勤めていた時代)が、基本的には大学に入ったころから書き込みはしている。ただし、法則性などはあまりなく、かつ、気まぐれだ。山本が彼の本の中で紹介しているような、ペンがなければ読めない、というほどの書き込みマニアではない。基本的には鉛筆で書き込む。モノクロ派だ。ただし、最近は外国文学などで人名をラインマーカーでマークしたりもする。消せるペンであるフリクションのラインマーカー版があるので、それを使う。基本的に鉛筆での書き込みなので、筆箱に入れたものとは別個、上着のポケットにたいていはシャープペンシルを忍ばせている。電車の中などで読むときに使えるように。ただし、盛夏、上着を着ないときには困る。


昨日、フーコー『言葉と物』の新版が旧版とは版組が異なるというTwitter上の指摘を見つけ、確かめるために手持ちの旧版を開いてみた。下線が引いてあり、書き込みがあった。古紙を付箋代わりに挟んだページもあった。


そうそう。おそらく、付箋もマルジナリアの一部と見ていい。僕はそういえばかつて、市販のポストイットなどは使っていなかった。古紙やノートの切れ端を挟んでいたのだ。書き込み以外にもメモを取ったりする。そのメモ用紙を挟む。今なら付箋とは別にメモ用紙を使うのだが、一時期、古紙を細長く切り、その裏にメモを書いたり、あるいはメモを書かずともそのまま付箋にしたりしていたのだった。


こんな感じだ。


一番上が『言葉と物』下はトドロフ『アメリカの征服』(後に『他者の記号学』のタイトルで邦訳された)。真ん中がルネ・ジラール『欲望の現象学』。『欲望の現象学』は表紙の厚紙を切り取ってカバーを中扉に貼りつけ、ペーパーバック風に加工した。こうしたことを何冊かの本に関してやった。たぶん、大学院生のころだったと思う。これもまた本を個性化するひとつの手段。

2020年8月2日日曜日

身につまされる

前回投稿の『ぶあいそうな手紙』以後観た映画は、エミリオ・エステベス『パブリック 図書館の奇跡』(USA、2018)、それに、Ricardo Franco, La buena estrella (1997) 。前者は寒波で図書館を避難場所にしているホームレスたちが、一晩そこに立てこもる話。監督でもあり主演でもあるエステベス演じる図書館員が人質を取って立てこもったと誤解されてしまう。後者は事故で生殖機能を失った男が、ある女とその妊娠中の子どもを受け入れ一緒に暮らすことになるが、そこにその子の父親かもしれない人物(女の孤児院での仲間でもある)が現れて奇妙な三人での共同生活が始まるという話。前者は劇場で、後者はセルバンテス文化センターのイベントで限定公開中だったものをオンラインで鑑賞。


読んだ本も何冊かあるのだが、ともかく、これ。


ティファンヌ・リヴィエール『博論日記』中條千晴訳(花伝社、2020)。バンド・デシネ、つまり、漫画だ。


中学の教師を辞めてカフカで博士論文を書くことにしたジャンヌの奮闘記。こうした時期を通過してきて、今は彼女の指導教員アレクサンドル・カルポみたいな存在になっている身としては身につまされる。日仏の事情の違いはあるけれども、微妙な差異を除けばほとんどの日本の博士論文準備中の者たちの共感を得ることができそうだ。特に文科系。


いや、特に文科系に限らないか? 終盤、いよいよ覚悟を決めて自主缶詰の準備にジャンヌが買いだめに行ったスーパーのレジ係の女性が、自身も古生物学博士であることをさりげなく言うシーンなどは、理科系も同じかと思わせる。が、一方、親戚の者たちのパーティーの席上で、ジャンヌは一向にみんなからの理解を得られないのだが、生物学で博士論文準備中のいとこの話には一同夢中になったりして、やはり、文科系博士課程学生の孤独が浮き彫りになることはなる。


博士課程に登録が決まった時の喜び、非常勤で初めて大学で教える緊張感と準備、学会発表で受ける沈黙の洗礼、論文にかかりきりになることによって生じる恋人との口論、等々、感情移入することだらけだ。(現在では、そうした学生を指導する身として、ついつい学生対応を怠けがちになる指導教員の後ろめたさが何よりも同感できる)


しかし、こうして漫画にしてみると、なんだかポップで、論文執筆の苦しさというかプレッシャーは軽減される。シャワーを浴びたり、朝、服を着る前の裸のままの姿でああでもないこうでもないと思い悩むジャンヌ、帰宅すると部屋着に着替えて肘掛け椅子に深く身を沈め、ただ読書するジャンヌ、風呂上がりで全裸のままメールの返事を書くカルポ先生、学会後のパーティーで話しについて行けず植物に姿を変えるジャンヌ(しまいには酔っ払う)、等々。なんだか可愛らしい。


博士論文を建築物にたとえたり、カルポが苦し紛れにショーペンハウアーの名を出したせいで読むことになったジャンヌの読書の過程をショーペンハウアーの絵と言葉に重ね、それ解釈しながら卑俗な妄想にふけるジャンヌの思考が描かれたりと、漫画ならではの処理も面白い(前の段落で書いた、ジャンヌが植物になるのも、そのひとつだ)。