2018年8月29日水曜日

地獄とは他者である


タイトルにあるサルトルの有名な台詞は『出口なし』(1943)のクライマックスの一文だ。

シス・カンパニーによるその『出口なし』(演出・上演台本 小川絵梨子)@新国立劇場小劇場 を観てきたのが26日(日)のこと。

27日にはBSで『アリスのままで』(2014)を観た。

武田珂代子『太平洋戦争日本語諜報戦――言語官の活躍と試練』(ちくま新書、2018)はタイトル通り、太平洋戦争で米側、日本側で言語官、すなわち、場合によっては諜報部員として働いた日系アメリカ人二世の話に始まり、それぞれの国が大学などを通じてどのようにその要員を訓練し動員したかという検証をする。通訳・翻訳論が単なる言語の問題ではなく、国際関係、戦争論、植民地主義などの問題であることを明確に示してくれる。

2018年8月23日木曜日

間を生きる人々



柴崎友香『公園へ行かないか? 火曜日に』(新潮社、2018)に興味深い一節がある。

アイオワ大学のIWPに参加した柴崎さんは自分がいちばん英語ができないと思っていたという。

しかし、わたしにはまったく別の言葉に聞こえる人同士でも、皆、支障なさそうに会話していたから、主にはよたしのヒアリング能力と語彙力の問題だった。帰国する間際になってやっと、みんながほかの誰もの話す英語を全て理解しているわけではない、とはわかったのだが。(14)

最後の留保の一文が素晴らしい。

英語に限らず、外国語習得にまつわるいくつかの神話のひとつに、突然訪れる理解の時、というのがある。たとえば現地で、その言語で生活を始めた当初は、周囲の人が何を言っているかぜんぜんわからなかったけれども、あるとき突然、理解できるようになった、というやつだ。これをナイーヴに信じると、漫然と過ごしていれば、そのうち啓示の時のように理解が訪れる、その時人はその外国語を、誰のどんな発話であれ100%理解できるようになる、と思ってしまいかねない。

しかし、実際のところはそんなことはなくて、外国語にはあくまでも理解不能な部分が生じてしまいがちだ。かなり上達した人でも、その言語の母語話者同士の話す、文脈依存の高い、かつ俗語などに満ちた会話に取り残されてしまう時に感じる疎外感を吐露する。そこまでいかずとも、英語やスペイン語のように広域で話されている言語は、たとえば、スペインのスペイン語なら理解できるけれども、キューバのそれはちょっと……なんてことも生じる。発話者によってわかりやすい人とわかりにくい人がいる……

僕の感覚で言えば、読み返したり辞書に当たったりしなくても、一回読んだだけですぐにわかる文章は、発話されてもわかる。そうでないものは部分的にしかわからない。

外国語学習者としては、あくまでも100%理解することを目指すべきなのだろうけれども、一方で、100%は理解できないという諦念を持っていたほうがいい。その何%かの理解できたポイントを出発点として対話を始めればいいのだ。

あらゆる言語が翻訳可能なものとして並列されるべきだというのが多言語主義・多文化主義だ。これは新自由主義との相性がよい(新自由主義と多文化主義の相性についてはいろいろな人が触れているが、最近のものでは久保田竜子『英語教育幻想』〔ちくま新書、2018〕)。これに対抗して、ワルテル・ミニョーロは翻訳可能性を前提としない多言語状況を「間文化性」と呼んでいる。僕らはこうした間文化的な状況下で他者との関係を築かざるを得ない。

こうした、多言語の間のいくつもある階梯を生き、移動する場所が空港であり、国際線の機内である。温又柔『空港時光』(河出書房新社、2018)はそこに目をつけ、台湾―成田間の飛行機に乗る人々の機内や空港でのストーリーをつむいでいる。

この本は、短篇集とエッセイでできていて、写真ではわからないが、短篇集部分とエッセイ部分では紙質が異なり、色も異なっている。段階があるのだ。

下のサルトル戯曲集は、今度、シス・カンパニーによる『出口なし』を観る予定なので、久しぶりに取り出してきたのだ。壁の間で生きる人々の話。というか、壁に挟まれて生きる人々だが。

2018年8月22日水曜日

文学的な、ありまに文学的な


本当は「大人の女も成長する」というタイトルにしようかと思ったのだが(昨日からの続きで)、いささか内容との乖離が過ぎるので、やめた。

カレン・シャフナザーロフ『アンナ・カレーニナ』(ロシア、2017)

試写会で観てきた。

長い小説を映画化する場合、ストーリーが大幅に削られる場合がある。三世代の物語が二世代に縮められたり(『嵐が丘』、『精霊たちの家』、等々)、主要プロットのひとつが削られたりする。それは時間調整のためであったり、そこに監督(や脚本)の特色を出す書き換えの戦略だったりする。

何しろ『アンナ・カレーニナ』だ。何度も映画化されている作品だ。いろいろ工夫は必要だろう。今回はリョーヴィンとキチイの恋のプロットをすっかり削り落とし、アンナとカレーニンおよびヴロンスキーの三角関係のみに絞っている。

のみに絞っているのだが……もうひとつ工夫がある。今回、シャフナザーロフ版『アンナ・カレーニナ』は、日露戦争中の満州戦線でアンナの息子セルゲイとヴロンスキーが出会い、前者が後者から彼とアンナとの恋の顛末を聞くというプロットを付け加えているのだ。プロットというか、それは外枠だ。

小説と映画(や他の物語形式の芸術)を分かつ要素の一つは、伝聞形式にある。と言ってもいいのじゃないかと僕は思っている。『カルメン』はメリメ本人と思われる学者が、スペイン旅行でホセと出会い、そのホセから自分とカルメンの恋の話を聞かされる。ところが、ビゼーのオペラはこうした伝聞の外枠を外して人口に膾炙した。以後の『カルメン』の多くは、このビゼー版のヴァリエーションになる。かろうじてビセンテ・アランダ版(2002)年がその外枠を戻した。

しかるに、今回、シャフナザーロフ版『アンナ・カレーニナ』は、そんな、映画的というよりは小説的伝聞の要素を作って独自性を出している。いわば、文学的なのだ。

そういえばこの映画には副題があって、「ヴロンスキーの物語」という。負け戦たる日露戦争と社交界の恋の対比が強調される。

2018年8月21日火曜日

少女たちは成長する



バルセロナに住んでいた少女のフリーダ(ライア・アルティガス)が母の死を機に叔父夫婦の田舎の家に引き取られ、そこで疎外感を感じながら成長する話。いとこのアナ(パウラ・ロブレス)への意地悪、叔母(叔父の妻)マルガ(ブルーナ・クッシ)への反抗など。手を焼き、いったんは投げ出そうとするマルガが、それでも優しくしてくれるところなど、大人は偉いな、と思ってしまう程度に、僕は大人よりなのだろう。

が、フリーダが家庭菜園からレタスを取ってくるように言われ、間違えてキャベツを持って行くエピソードがあったのだが、僕はそこで一気に少女に肩入れすることになる。僕もかつて、近所のおじさんにある場所からおがくずを取ってくるように言われ、間違えて別物を持って行ったことがある。そのときの疎外感は50年近く経った今も忘れていない。

この映画を見る数日前には、iTunesでレンタルが始まった行定勲『リバーズ・エッジ』(2018)を観た。周知のごとく、岡崎京子の漫画を映画化したものだ。

ドラッグ、DV、同性愛、売春、等々、少女若草はるな(二階堂ふみ)の成長の物語にここまで様々なサインを詰め込まなければならないかというほどに盛りだくさんだったのだが、それが過剰にならないためには、80年代的 “普通” のかわいい女の子・田島かんな(森川葵)が最大の狂気を発することが必要だったのだろう。一番の鍵だった。

2018年8月16日木曜日

買い物とか映画とか


もう何度も言っているように、普段はモレスキンのノートを使っているが、そればかりでは飽きるので、たまに別の製品を使う。すると困ったことがある。モレスキンにはあるものが他のノートになかったりするからだ。たとえばポケット。

で、他のノートを使うときに、ポケットなどのついたカバーでもあればいいのだがと思っていたときに見つけたのが、これ。

さっそく取り寄せてみた。こんな風に差し込んで使う。

最近は、こんなトートバッグに入れて持ち歩いている。

やはり以前書いたように、革製品をリュックとして使っていると、大汗をかくと色落ちする。服が台無しになる。夏は手持ちかショルダーにするのだが、ショルダーだと重い。それにこれだけでも色落ちすることがある。それで、容量があって手持ちのトートバッグを探していたら、いつものHerzの姉妹店のような存在なのかな? Organの製品としてこんなトートができた。それで、買ってみた。

ヘルツのものより軽い革を使っているので、当然、軽い。大きさもちょうどいい。

ルン♪

ルン♪ などと言いながらおととい観てきたのが、ルーシー・ウォーカー『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ☆アディオス』。

前作の中心的なメンバー、コンパイ・セグンド、ルベン・ゴンサーレス、イブライム・フェレールを欠く今、前作およびアルバムのレコーディングのころは若手だったフアン・デ・マルコスとニック・ゴールドが当時を振り返り、かつ、ヴェンダーズの撮った『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』よりももう少し緻密にメンバーたちの消息を歴史化してみせていた。つまり、革命との関係のことだ。

彼らがもういないのかと思うと、泣けた。

アルバム、および前作に使われた曲を中心にフィーチャーしていたので、いっしょに歌った。声には出さなかったけれども。

Dos gardenias para ti,
Con ellas quiero decir:
Te quiero, te adoro, mi vida…


2018年8月8日水曜日

双子に魅されて



元モデルのクロエ(マリーヌ・ヴァクト)が原因不明の腹痛を抱え、精神科医にかかる。その医者ポール(ジェレミー・レニエ)と、診察終了後恋仲になって同居を始める。すると街中でポールに瓜二つの人物を見かけ、怪しんで調べたところやはり精神科医のルイであった。嘘をついて彼の診察を受け始め、実はポールとルイは双子の兄弟であることがわかった。ルイは診察も性格も利き手までポールとは正反対で(いわゆるミラー・ツイン)、弟への敵意をむき出しにする。ポールは姓を母親のものに変えていて、双子の兄がいることすら話そうとしない。疑心暗鬼に陥り、かつ、ルイの診察の名を借りた性的な脅迫に屈し、腹痛が再発する。

ミステリというわけではないが、いわゆる「ネタバレ」をしたら非難されそうな展開なので、ストーリーについてはこれ以上は語らない。カタストロフが収束し、ハッピーエンディングを迎えるかと思われるころ、男がタバコをくわえるシーンがある。それが解釈の二重性を生むところ。あるいは、その後の濡れ場もそうか? 前半部でルイが語る三毛猫についての蘊蓄が、実は物語の説明となっているのだが、そのことの科学的信憑性についてはよくわからない。

ジョイス・キャロル・オーツLives of the twins から自由に着想を得たと書いてあるのだが、これは短篇集のタイトルだろうか? 邦訳では『とうもろこしの乙女』にも双子を巡る短篇が収録されているらしいが……はて? 事前の調査を怠っていたのだった。というか、事前には知らずに行ったのだが。

2018年8月6日月曜日

狭苦しさの中でこそ観るべき劇がある


小劇場で劇を観るのは、あまり居心地のいい体験ではない。シートが前後も左右も狭いからだ。フォワイエも狭い(もしくはない)ところも多いから、この炎天下を歩いてきた人々が外で吸収した熱をそのまま持ち込む。人いきれが強くなる。汗かきで、人並みより少しばかり肩幅があるくせに人との接触に敏感なものだから人混みでは肩をすぼめる僕にとっては、不快なことこの上ない。

もちろん、こうした狭苦しい思いが、観劇の体験の一部を形成する必要不可欠な要素だと言うこともできる。ましてや、昨日観に行ったのが関東大震災後の朝鮮人虐殺を扱った作品となれば、ますます必要な要素なのかもしれない。震災後の被災者のような決して充分ではない避難場所での生活を疑似体験しているのだと思えばいいのかもしれない。

その劇というのは、燐光群の『九月、東京の路上で』@下北沢ザ・スズナリだ。タイトルからわかるとおり、加藤直樹の同名の書を基にしている。登場人物たちが加藤の本を読みながら95年前を追体験し、虐殺現場のひとつとなった千歳烏山の神社に鎮魂の椎の木を植えようとする物語だ。

もうひとつのプロットは、先日起こった、現役自衛官による野党議員罵倒事件。それの後日譚(これはフィクションなのだろう)が神社に植樹しようとする人々と交錯し、ラストは我々観客までもが逃げ場のない閉所に追い込まれることになる。震災の避難民の苦しさではない。確実になぶり殺しにされるだろう人の苦しさを味わうことになるのだ。苦しい。辛い。やられた。

千秋楽にぎりぎり観ることができたのだが、僕のような駆け込みが多かったのか、満員であった。


その前日まで、恒例の現代文芸論研究室夏月宿に行っていたのだ@伊豆高原。