読んでなくてもコメントしなければならない本もあるかもしれないが、読んでいてもそのことを隠さなければならない本もある。ただし、この場合の本というのは雑誌論文(あるいは雑誌以前の論文。論文原稿)も含むけれども。
読んだことを隠さなければならない本や論文がある。秘密の仕事にかかわるものだ。大学の教員がかかわる主な秘密の仕事は2つ。入試と人事。
人事の場合、○○の分野の研究者で▽▽が教えられる人、という要件が決定され、公募が始まると、数人からなる人事委員会が形成される。5人とか7人とか、そのくらいの人数だ。この委員会のメンバーで、応募してきた候補者の主要業績(とは論文や著書のこと)を読み、候補者を決める。最近では最終候補者の面接を行ったりすることも多い。こうして決定された候補者を教授会の審議にかけ、決定する。理事会の強い私立大学などだったら、さらに理事会の決定も重要なイベントになるかもしれない。単にシャンシャンと手打ちで終わりかもしれない。ともかく、だいたいにおいて、こんな手順で決定される。
つまり、人事委員になると、候補者の論文や著書を読むことになる。何しろ人事だ。何人、何十人(場合によっては何百人のときも)の応募者の中からひとりを選ぶ。つまり、残りの何十人もの就職の機会を奪うために、その人の書いたものを読む。いきおい、迂闊なことは口にできない。ぼくもこれまで、何度か人事にたずさわったことはある。法政時代には委員長を務めたこともある。1つのポストに何十人もの人々から,ひとりにつき3点くらいの業績が送られてくる。数十ページの論文もあれば数百ページの著書もある。分厚い博士論文もある。ひとりひとりの貴重な研究活動と夢が詰まったページだ。選考の結果選ばれたひとりならばいいけれども、選ばれなかった数十人のものを読みました、などと言ったら、そしてあろうことか、それを批判などした日には、まるでそれがその人が職に就けなかった理由であるかのように取られかねないじゃないか。とてもそれを読みましたなどとは言えない。
さて、必ずしも大学の教員でなくてもいいが、学会誌の査読などという仕事もある。これは秘密というか、匿名性が要求されるので、やはりなかなか口に出せない仕事。
どの学会もその会員が書いた論文を掲載する雑誌を持っている。雑誌に論文を掲載するには査読を受け、掲載可の許可をもらわなければならない。その査読をするのは同じ学会の会員だ。雑誌の編集委員や、その委員から委託を受けた人々だ。1つの論文につき2人とか3人の査読者で審査する。論文のできが良ければ問題ないが、できが悪ければ大幅に書き直しを迫ったり掲載不可と断じて載せなかったりする。何しろ人ひとりの研究活動の評価にかかわる問題だ。誰が査読したのかは秘密にされる。査読者は匿名の評価者となる。匿名だから、査読する側はその論文を読んだなどとは言えない。掲載されることになった論文なら、掲載後に読んだと言えばいい。でも掲載不可になった論文を読んだなどと言ったら、査読したことがばれてしまう。
何しろ、掲載されればその論文はその筆者の業績になるのだ。ぼくたちはそういった業績を積み重ねて、たとえば教員の職に応募したり、あるいは昇進のさいの審査にかけてもらったりする。ひとつひとつの論文が、つまり、その人の人生を左右しかねない。であれば、その論文が掲載されるかされないかは死活問題だ。掲載されないなら、それだけのものしか書けなかった、つまり業績として評価されるほどのものにならなかった、と割り切れる投稿者はいいのだが、人はなかなか自分に対してそんなに客観的にはなれない。ましてや人文科学だと、判断基準は曖昧だ(と思われがちだ。本当はそうでもないのだけど)。掲載不可にされたら、投稿者の側には遺恨が残る。学会誌の編集委員長のところには、ときに、脅迫めいた手紙や電話が来ることもある。あくまでも、たまにそういう話を聞く、ということ。都市伝説かもしれない。怖い話だ。
ぼくたちに読んでもそのことについて語れない本(や論文)がある。日本のどこかで、世界のどこかで、今ごろ、読んでも口に出せない本を読まねばならず、そのために読んでそのことを口に出さねばならない本を読めずにいる人がいる。必ず。だから彼・彼女らは、その本を読まずしてそれについて語る……というわけではないか?