2022年9月22日木曜日

黒い弦に替えたのは……♪

今日問題にしたいのは、



これだ。


鉄弦とナイロン弦のギターを一本ずつ持っている。ナイロン弦のものは、そうは言ってもカッタウェイの入ったいわゆるエレガットではあるが。ともかく、それらを時々思い出したように引っ張り出してきてつま弾くくらいのことをやっていたのだが、最近では机の近くにおいて仕事に行き詰まったり疲れたりした時の気分転換に弾いている。つまり、少しだけ手にする頻度が増えた。仕事と気分転換では後者の方が楽しいから、気分転換の合間に仕事をするなんてこともある。


久しぶりにレパートリーを増やすことも考えた。そこでふと気づいた。


楽譜が読めなくなっている。


いちばん頻繁にギターを弾いていた中学生の頃は、楽譜が「読める」とまでは言わずとも、アルペジオやフィンガーピッキングの音は楽譜を見ながらたどっていったので、ある程度の勘は身についていたように記憶する。当時はTAB譜などないのが普通だった。


高校時代の寮生活でギターを持ち込めなかったので、そこでほとんどギターのことは考えなくなった。とはいえ、卒業後、しばらくの間は増やしたレパートリーはやはり楽譜を読んで練習したものだ。


大学に職を得て少し余裕も出たので思い出したように買ったギターとそのための楽譜類にはTAB譜がついているのが当たり前になっていた。20世紀の末におそらくTAB譜は標準となったのだ。


確かに楽ではあるし、僕もそれで何曲かは身につけたはずだ。


が、あらためて振り返ってみると、楽譜を見ていないと忘れたりしたときの再現性が格段に低くなって困る。やはりTAB譜などではなく楽譜を見て覚えた方がはるかにいい。TAB譜は、なんというか、外国語辞書の発音記号代わりに掲載されるカタカナ表記のようなもので、現実的には使いものにならないのだ。


で、どうにか楽譜を読みながら勘を取り戻していこうと言う気になっている。そうやってタレガの「ラグリマ」とかフリオ・サルバドール・サグレーラスの「マリア・ルイサ」といった比較的易しい曲を練習していた(そして少し、ほんの少しだけ勘が戻った……かも)。


そういうときにはやはりナイロン弦を使いたくなるもの。愛用のエレガットが活躍していた。


そのナイロン弦の張り替えの際に試してみたのが、上記写真。タダリオD’Addarioのその名も「ナイロンフォーク」。


鉄弦は弦の先にエンドボールと呼ばれるものがあり、これをピンで突き刺してブリッジの穴に埋めて固定する。簡単にできる。一方、ナイロン弦はエンドボールがなく、端を巻き付けるようにしてブリッジに固定する。弦交換は慣れないと面倒だ。慣れても面倒だ。


それで、上記のような、写真のような、エンドボールつきナイロン弦があることを知り、手に入れてみたのだ。


そしたら、1-3の高音弦3本が黒いものであった。このことは知らずに買ったのだが、意外な喜び。


昔、少年時代、日本在住のフランス人ギタリスト・クロード・チアリのギターに黒い弦が張ってあるのをTVでみてあれは何だろうと思った記憶がある。通常の白いナイロン弦ではない黒い弦。それが欲しいと思ったりもしたのだが(当時もナイロン弦と鉄弦を持っていた)、ついぞ手に入れることはなかった。それが今、思いがけない形で手に入ったのだ。


しかも、この弦の音が、心なしか通常のそれとは違い、より透明な感じがして、いいのだ。


これは頻繁に使うことになりそうだ。

2022年9月17日土曜日

月が出た!

フェデリコ・ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』田尻陽一訳、杉原邦生演出、木村達成、須賀健太、早見あかりほか@シアターコクーン


大手ホリプロが、今、シアターコクーンで『血の婚礼』をやるというのは驚きではあるのだが、まあ、ともかく行ってみた。若いアイドル級の俳優たちだし、花婿の母親役は安蘭けいだしで、客のほとんどは女性であった。


僕の頭の中には最悪の改編の事例として、2007年のTBSとアトリエ・ダンカンによる上演がある。白井晃演出。音楽に渡辺香津美を起用したのはファンとしては嬉しいが、レオナルドと花嫁が逃げた後の森のシーンでは月と乞食という配役を廃して、その代わり「死」という新たな人物を登場させたりして、台なしであった。こうした改編はきっとある種のわかりやすさを模索した結果だったのだろうけれども、詩がそれだけで悲劇なのだということを忘れさせる。


そんな事例を思いだしたものだから、怖い物見たさのようなところもあったのだが、結果的に、このホリプロ版は、そうしたキャストの手入れをすることなく(レオナルドの妻の母親は削除されていたが)、ちゃんと月も乞食も出していて、良かった。しかもこの月、声が良いと思ったら安蘭けいが二役で演じているのであった。レオナルドと花嫁の韻文の台詞によるやり取りには、生演奏の音楽——ギター、チェロ、パーカッション——に合わせているのでダンスに見える動きを取り入れていて、これも良かった(白井版における森山未來の腰の据わっていない疑似フラメンコ的な踊りと違って、良かった)。男ふたりの殺し合い(原作では「叫び声が聞こえる」とのト書きで処理している場面だ)に殺陣を取り入れて、これがこの版が模索して得た「わかりやすさ」だったのだろう。


パネルのようなものを組み合わせて作った壁を一枚ずつ押し倒していくセットの仕組みも面白かった。


ちなみに、僕が演出した時には、ふたりが逃げた瞬間に壁を壊すという演出を試みたのだった。1985年のこと。



9月は名古屋で集中講義をし、アルモドバル『パラレル・マザーズ』の試写を観た。写真は名古屋のホテルにて。