2019年12月31日火曜日

困ってなくても映画を観よう


年末年始は映画に限る。

そんなわけで、昨日はケン・ローチ『家族を想うとき』(イギリス、フランス、ベルギー、2019を観てきた@シネマ・ロサ。

運送会社とフランチャイズ契約をし、名目上自営業として働くことになったリッキー(クリス・ヒッチェン)はバンをリースするよりも買った方が割安だとのアドヴァイスを受け、介護の仕事をする妻のアビー(デビー・ハニーウッド)の車を売って頭金を作る。夫は日に14時間の重労働に足を突っ込むことになり、妻は掛け持ち介護をバスで移動する羽目になりさらなる重労働を抱え込むことになる。ノーザン・ロックのサブプライム・ローン破綻問題で彼らも損失を被ったので、それを立て直して自宅が欲しいと思っているからだ。

ところが、そんな重労働だから、肝心の思春期の子どもたちとのコミュニケーションが取れない。長男セブ(リス・ストーン)は街中の壁に落書きしたり喧嘩したり万引きしたり、それより少し小さなライザ(ケイティ・プロクター)は父の荷物配達について行くかわいさも持ち合わせるが、最後にはかなりな問題行動を起こす。

住宅は買ったけれども、おかげで家族がまとまらないという話は、バブル期の日本にも何かあったような気がする。あれがやはり貧困問題の始まりだったのだろう。一方で今や貧困は豊かな装いをまとっていることも問題だ。

数年前にイヴァーノ・デ・マッテオ『幸せのバランス』(イタリア、フランス、2014というのを観た。離婚を機に生活の見積もりが狂い、知らぬ間に増えた借金に首が回らなくなり、車上生活に身をやつす公務員の話だ。車はあるのに貧しい。旅行に行くために貧しい、等々。現代的な生活のバランスが、表面的にはそうは見えない貧困を作り出していることをうまく描いた映画だ。その延長上にケン・ローチがいる。

セブは学校の宿題などをスマートフォンで受け取っている。イギリスの中等教育の現状を僕はよく知らないが、おそらく、それが通常なのだろう(日本だとアクティヴ・ラーニングという名の利権に直結する問題)。iPhone なしではろくな教育も受けられないのだ。豊かであらねばならない貧しさ。

貧しさ(労働というよりは地域性とギャンブル)の問題は今日観た『読まれなかった小説』にも共通する問題だが、それは明日、書くことにしよう。

映画を終えて池袋西口公園に行くと、こんな感じに変わっていた。

ところで、数日前には世田谷美術館で「奈良原一高のスペイン——約束の地」展も観てきたぞ。

2019年12月26日木曜日

困ったときは映画を観よう


昨日のこと。

届いた! バレリア・ルイセリ『俺の歯の話』松本健二訳(白水社)

しかし、これはメキシコ版とだいぶ異動のある英訳版を底本と定めて訳したものらしい。英語版の方がページ数も多い。つまり、写真左のスペイン語版(メキシコ版)で読んだ僕としては、その異動を確認しなければならない。NHKラジオのスペイン語講座テキストでの連載最終回をこの小説の話で締めようと思い、スペイン語版で読んだものをもとにまとめ、邦訳が出たら、たぶん語句の訂正程度で済むだろうと思い、準備していたのだ。ところが、そうはいかないらしいことが判明したという次第。

しかたがないから、映画を観てきた。もちろん、『スター・ウォーズ』だ。今回も監督はJJエイブラムズ。

3期・エピソード7-9の『スター・ウォーズ』はディズニーの配給なのだが、このところのディズニーはPCへの気配りというか、多様性の保証というか、そういう意識が強い。主人公は女の子になるし、有色人種なども多く(もともと多様なクリーチャーと多言語を用いた映画だったのだけど)、今回は(以前からそうだったのか?)さりげなくレズビアンのカップルをレジスタンス内に配置していたりする。前作・前々作の引用もある。あれはどうやったんだろう? 若きマーク・ハミルとキャリー・フィシャーの新たなシーン(映画内では回想にあたるけれども、以前の作品のフッテージを利用したわけではない)まである。合成であんなことまでできるということか? 

いかいにも怪しげで、実際、怪しい人物として今回存在感を発揮するのは、リチャード・E・グラントだ。ヒュー・グラントのお兄さんだ(というのは嘘だけど)。リチャード・E・グラント好きの僕としては嬉しい。

鑑賞後、ハンバーガーを食べながら『俺の歯の話』を読む。

話を戻して『俺の歯の話』。これは総統に……いや、相当に面白い。競売人の「俺」ことハイウェイことグスタボ・サンチェス・サンチェスが一人称で、その仕事を得、マリリン・モンローの歯を得て装着し、いろいろな歯を競売にかけ、装着していたマリリンの歯を息子に盗まれ、作家に出会うまでを語り、作家が今度は作家の側から彼の人生を語り直し、その後の人生(サミュエル・ピクウィックの歯を手に入れ、それを使って競売の語りを語る)を語り、……という話。登場人物が関係を取り結ぶ人物たちの多くが実在の作家や詩人の名をまとい、競売人の語りとして語られる話も何やら文学作品に言及したり、写真や地図への言及から成り立っていたりする。

2019年12月20日金曜日

猫に小判


実はiTunes改めApple Music がハイレゾ対応なのを知り、そういえばイヤフォンもハイレゾ対応だったと思いだし、それならと思ってこんなのを買ってみた。

Bluetooth 接続によるハイレゾイヤフォン用アンプ。モバイル用らしく、PCからの接続はできないがiPhone iPad からの音を飛ばして聞いてみる。だいたいあまり大音量を出すのがはばかられる夜中などに。(ふだんは、以前書いたようにステレオに音を飛ばして聴いている。そして僕は移動中はほとんど音楽を聴かない。街の音楽を聞き逃すからだ。あるいは後ろから僕をつけ狙って足音を忍ばせてくる敵をいち早く察知するためだ)

さすが、いい音だ! と感嘆符つきで驚くほど感動的な変化があるかどうかはわからない。

いや、

  ……いい音だとは
          
          ……思うのだけどね……

果たして僕はハイレゾ時代に生きることができるのだろうか? 僕の感覚はまだ新たに開かれる余地を残しているのか? 

2019年12月16日月曜日

Que en paz descansen


アンナ・カリーナが死んだ。

その前日には柴田駿の死の報が流れた。元フランス映画社の社主だ。アンナ・カリーナの紹介者と言えば言える人だ。

1993年にビクトル・エリセが『マルメロの陽光』のプロモーションで来日した際に、通訳として一週間ほど貼りついたことがある。もちろん、招待主は配給会社であり、配給会社とはフランス映画社だった。柴田さんと、当時まだ存命だった川喜多和子さん。

川喜多さんはもちろんのこと、朴訥な感じ……というか、日本語でしゃべるときの照れたような感じそのままにフランス語をしゃべる(エリセはフランス語がしゃべれるので、彼らはこの言語で会話していた)この人が僕が愛したゴダールやジャームッシュ、エリセらを紹介し、僕の映画趣味の形成を決定づけた人物だと思うと、なんだか不思議な気がした。外語大のフランス語学科の出身で、つまりいわば同窓の先輩ということになることもあり、優しくしていただいた。

蓮實重彦や映画記者などを招いてご自宅でパーティーを開いた時にも呼んでいただいた。広いリビングのすてきな家だった。その後すぐになくなった川喜多さんの追悼文で淀川長治が書いていたけれども、その自宅、まるでその種のパーティーのために作られたかのようだったのだ。夫婦が住むためというよりは。

数年前にフランス映画社は倒産したし、川喜多和子さんもエリセの来日の直後に亡くなった。誰かが柴田さんは「孤独に貧しく」亡くなったと書いていた。そうなのだろうか? あの広尾の家ももう手放していたのだろうか? 

柴田さんの訃報を聞いたおととい、14日はキューバのドキュメンタリー作家サンティアーゴ・アルバレスの上映会を観に行っていた。ゴダールらとも親好があった人だ。クリス・マルケルが彼のフッテージを大いに利用した作品を撮っている。実に面白い。ニクソンの写真に合わせてオペラを流すなど、傑作だ。その「ニクソンのドラマ」では題字のNixonxの文字が鍵十字になっているなど、カリグラフィーやグラフィックにも目を見張るべき箇所が満載だった。

こんなものをお土産にもらった。

2019年12月1日日曜日

付録 最終回


『テクストとしての都市 メキシコDF』7章 サン・アンヘルの章にはディエゴ・リベラの家の写真がなかった。

これだ。

そしてアトリエ内部。これは公開されている。

8章 セントロの章にはこれ、

ディエゴ・リベラの壁画『アラメダ公園の日曜午後の夢』

エピローグには本屋や図書館のことを書いた。

ガンディー本店とその2階のカフェ。

地下書店ソタノ。

コヨアカンのパルナソの跡地。外見はそのままだ。この中が書店だったのだ。

メヒコ図書館ホセ・バスコンセロス(通称シウダデーラ)のファサード。

内部の作家の蔵書コーナー。これは誰のものだっただろうか? モンシバイス? 

昨日は立教での授業の後、慶應日吉キャンパスにマリア・ヘスス・サモーラ=カルボさんの「161718世紀スペインおよびイスパノアメリカ文学における魔女、魔術、まじない」という講演を聴きに行った。

2019年11月25日月曜日

木のスピーカー


音楽は聴く。本を読むときなど、特に。で、最近はiTunes……じゃなかった Apple Music の定額支払いで聴き放題(「サブスク」などという略語は使いたくない)で聴くことが多い。手持ちのCDも多くはデジタル化してある。が、とりわけ愛着のあるものはいまだにCDを捨てきれないでいる。だからCDでも聴く。CDは卓上のラジカセ(言い方が古い?)で聴く。デジタル化したものはBluetoothでラジカセにつないで聴く。あるいは家で使っているモニターはスピーカーも悪くはないので、そのまま聴く。さして耳がいい方だとも思わないし、それほど不満はない。

が、もう何年も前のこと、ヴィクターがまだケンウッドに吸収される前、ある書店でのデモンストレーションでウッドコーンの一体型ステレオ(これだな。つまり、ラジカセのことだが)を聴き、ずいぶん感銘を受けた。結構な値段だったので買わなかったけれども、ウッドコーンのコンポなどには安いのがあるのを知り、今度買うときはあれにしようと思っていた。

で、そのラジカセ……卓上の一体型ステレオが少し調子悪くなってきたのを機に、買うことにしたのだ。ちょうど本が一冊出たところだし、自分へのご褒美として。

JVC ケンウッド EX-S5。一番小ぶりな奴で、TVラックにちょうど入るサイズ。

小さいけど、やはり、これまでに比べて格段にいい音だ。ウッドコーンはいいのだ。

が、ひとつ誤算が。CDのイジェクトボタンはリモコンにはなく、つまり、機器の上方にしかなく、僕の指では隙間に入らないので、少しチューナーを前に引き出さなければならないのだ。
……まあいいか。あくまでも Bluetooth が中心だし。


もうひとつの出費はこれ。以前買ったトモエリバーによるノートSEVEN SEAS CROSSFIELD と同じ会社によるSEVEN SEAS WRITER。カバーつき。

付録:第6章

『テクストとしての都市 メキシコDF』付録第三弾。

第6章 コヨアカン
コルテスの家。コヨアカン区庁舎
コルテスの愛人だったマリンチェの家。
こんなきれいな家が多いのだ。コヨアカンには。
この辺からコルテスの妻カタリーナの泣き声が聞こえてくるらしい。
フリーダ・カーロの「青い家」内部。
トロツキー記念館入り口。かつては隣の家の裏であったはず。
展示物のルーペ。向こうに銃も見える。
書斎の隅のベッド。
中庭にある墓碑。

2019年11月23日土曜日

付録:4章、5章

『テクストとしての都市 メキシコDF』補足の写真。

今日はまず第4章 テペヤクの章。
鶴見俊輔が指摘していた、ゆがんだ教会。左の教会は左に、右の教会は右に傾いているのだ。
現在の礼拝堂(傾いていない)が左。

第5章はあまり写真のない章だ。
メルセーの市場。
ちょっと近づきがたい小さなベシンダー。

2019年11月19日火曜日

付録:プロローグ

『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会、2019)には写真もふんだんに使われているのだが、もっといろいろと載せたい写真があったのだ。特別付録として、載せたかったけど載せなかった写真を、公開しよう。

プロローグのコンデサの写真:


こんな感じの街並みだ。

コリマ通り。フォント姉妹が住んでいるあたり。

ベリャ・エポカ内フォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社直営ロサリオ・カステリャーノス書店内部。







アルフォンソ・レイェス記念館内。ここの長机で僕は作家の手書きの文書を読んでいた。


右上は建物外部。

左は、今年2月、メキシコ乗り換えブエノスアイレス行きの乗り換えの空き時間を過ごした場所。だったと思う。4人でワインを4本空け、チップ10%、割り勘で4人ともクレジットカードで払った。

2019年11月16日土曜日

御礼


14日(木)には、かねてからの予告どおり、「メキシコから読むスペイン語文学の愉しみ」なる講演を行った。『テクストとしての都市 メキシコDF』に使った写真、使わなかった写真などを投影しながら、そこにゆかりの文学作品を朗読したりしたのだった。

実は前回の投稿以降もひとつ誤植が発見された。目次、エピローグのタイトルが

×書物と図書館

となっているが、正しくは、

○書店と図書館

であった。エピローグの実際のページには正しく表記されている。訂正願いたい。

昨日は上野公園に寄ったのだが、既に紅葉が始まっていた。

2019年11月11日月曜日

緊急連絡! (ちょっと大袈裟)


今日、1111日はポッキー・プリッツの日だ。

そして拙著『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会)の出版日。めでたい。

が、刷り上がったばかりの本をめくってみれば誤植が見つかるのはほぼ常に出版にまつわる悲劇。あんなに校正を重ね、何度もチェックしたはずなのに!……と悲しくなる瞬間。

今回も見つかってしまった。誤植。

今回の本には折り込みで、そしてページ途中にも地図がついている。可愛らしく、とても役に立つ素晴らしい地図だ。ところが、その地図内のスペイン語表記にミスが見つかってしまった。

折り込みの地図にある地名が、まず、2カ所間違えている。

×CONDEZA→ ○ CONDESA

×BENITO FUAREZ→ ○ BENITO JUAREZ

さらに26ページの地図の通りの名が間違えている。

×Alvard Obregon → ○Alvaro Obregon 

本当はObregon Obregón でなければならないのだけど、地図内はさすがにアクセント記号が出なかったらしく、これはしかたがない。ともかく、綴りが間違えているのだ。

加えて、文献一覧第3章の3冊目
×— 68, Prólogo Elena Poniatowska—        68, Prólogo de Elena Poniatowska—  
(下線分が訂正箇所)

斜体字にすべきものがなっていない例はほかにもあるのだが。

そんなわけで、本書を手に取られた方々は、これを参考にしていただきたい。

版元に郵送を頼んだ分はともかくとして、自分で送ったり渡したりするものには手書きで訂正を入れてある。著者サインの代わりだとうそぶいてみたのだが、さて……


あ、そうそう、このイベント(リンク)が迫っています。こちらも合わせてどうぞ。

2019年11月9日土曜日

乞 御高覧


117日(木)にはラテンビート映画祭が始まった。オープニングはホナス・トゥルエバ『8月のエバ』

8月の最初の2週間、ヴァカンスには出ず、マドリードに居残ることにした女優のエバは、もう女優をやめようと思っているけれども、どうすればいいのかわからず、漫然と日々を過ごす。自分探しに旅に出るのではなく留まるという選択。観光地を巡るバス(ツアーではない)に乗って目についたアジア系の観光客の後をついて行ったり、映画館で後ろに座った女性の話すチャクラについてのセッションを受けたり、……前評判としてエリック・ロメールのようだと聞いていたが、なるほど、ロメールだ。そしてロメールとは決定的に異なる要素もある。主演のイタソ・アラーナのインプロヴィゼーションによると思われる科白と振る舞い。これがロメールを彷彿させる。彼女の身のこなし。これは決定的にロメールとは異なる。

上映後、食事に入った新宿〈どん底〉にこんなサインが。これが見られるセクションに入るのは、初めてだったので、初めて気づいた。僕はこのサインがなされた日の前後に、このサインの主(クリスティーナ・オヨス)に会っているはず。

今日、119日(土)にはアレハンドロ・アメナーバル『戦争のさなかで』を見てきた。

内戦勃発直後から死ぬまでのミゲル・デ・ウナムーノ(カラ・エレハルデ)の苦悩が中心。共和国支持でありながら、共和国内の複雑な関係から不遇を託ち、ゆえに反乱軍支持と取られ、よってサラマンカ大学終身学長の身分に返り咲いた哲学者が、19361012日の「民族の日」(その後イスパニダーの日になる)の式典で追い詰められて渾身の演説を打つまでの話だ。反乱軍側の複雑な力関係から、優柔不断で情けなく見えるフランシスコ・フランコ(サンティ・プレゴ)が総統(カウディージョ)の地位に就く過程も描き、二人の揺れる人物のコントラストが面白い。この二人が直に面談した瞬間から、頼りなさげなフランコは決然たる独裁者に態度が変わったように見える。これもひとつの見所。ミリャン=アストライ(エドワルド・フェルナンデス)の悪役ぶりもいい。

フランコの墓が移設されたばかりだ。このことが話題になっていた時期が撮影時期に重なっていたに違いない。この時期にこうした映画を作るのだから、だいぶ議論の的になったのではあるまいか。


昨日、8日(金)にはついに本ができあがってきた。『テクストとしての都市 メキシコDF』(東京外国語大学出版会)。

すてきな装丁だ。

2019年11月2日土曜日

今日は死者の日


1231日のハロウィーンには悪名高い渋谷のすぐ近く、原宿のあたりまで行ったのだが、幸い、その辺りまでは害は及んでいなかった。通常の賑わいを見せる原宿だった。Fonda de la Madrugadaに行ったのだが、軒庇に印象的な店のロゴがなくなっていた。台風の影響だろうか?

昨日111日(金)は東大駒場キャンパスで総合文化研究科の武田将明さんが主催したシンポジウム「現代フィクションの可能性」を聴きに行った。18号館4階コラボレーションルーム1は満員の熱気だった。

山本貴光は条件分岐をアルゴリズムによって無限再生できるようにすればフィクションの銀河系が無限に膨張する、そうしたときにどのように人はそれに接触できるのかと問い、松永伸司は分析美学の立場からあくまでも理論の問題として、プログラミングそのものというよりはそれに与えるシミュレーションの指示こそが実体感や手応えを与えているのであり、それこそがフィクションであると定義した。久保昭博は自身の翻訳したジャン=マリー・シェフェール『なぜフィクションか?』を紹介するに物語論の歴史に位置づけながら、事実がフィクションなのだと断じた(少し用語は異なっているかもしれない)。

ただし、聞き違いでなければ、シェフェールはあくまでもリアリズム小説を措定しているとのこと。リアリズムでもなければゲームでもないフィクションを扱う身として、さて、どのように受け止めるか? 

今日は112日。死者の日のため立教のラテンアメリカ講座は休講だ。(死者の日だからではないのだけど)