2014年10月31日金曜日

一種の催促……?

立て続けだなあ。すごいな。

都甲幸治『生き延びるための世界文学 21世紀の24冊』(新潮社、2014)

このあいだ『狂喜の読み屋』(共和国、2014)を出したばかりだと思ったら、また新しい1冊が出ている。

『新潮』連載の「世界同時文学を読む」2年分の書評というか、本の紹介と3つばかりのエッセイ、それにジュノ・ディアスの短編「モンストロ」(久保尚美と共訳)を収めた1冊。

サンティアゴ・ロンカリオーロ(都甲さんはロンカグリオーロと表記)を中心に、『グランタ』が評価するスペイン語圏の若手注目株を扱った章など、色々な人に読んでいただきたいな。ぼくら(というのは、スペイン語圏をフィールドとする者、ということ)がこれいいよ、と言ったくらいではなかなか企画通してくれないものな。

末尾についたディアスの短編は、当初、ゾンビものかとの予想を抱かせる。ハイチで人の顔が黒くなるという奇妙な伝染病が生じる話から始まるのだ。それにかかった者たちは群れたがり、他の者たちから引き離すとおかしくなってしまうという。ところが、ハイチの隣のドミニカ共和国に、合衆国で大学(名門ブラウン大学)に通う語り手が、母の病気見舞いに戻ってくるという2つのプロットが始まると、一気にジュノ・ディアスのお馴染みの世界になる。語り手=主人公は超大金持ちの学友アレックスとつるみ、フランスに憧れ国を出たがっている美人のミスティをどうにかものにしようと口説いている。

ところが、そんなことをしているうちに、ハイチでは例の病気の感染者たちが大変なことになり、軍隊が出動し、やがて……と話が急展開する。うーむ、これは今翻訳中のある作品を彷彿させるぞ。


……と、そういえば、早く翻訳、しなくっちゃ。都甲さんに返礼の献本をしなければ。

2014年10月30日木曜日

まとめて事後報告(4)

色々なことに追い立てられ、ほとんどブログのことを忘れたまま放置してしまった。ぼくを追い立てていたのは書類仕事やら原稿やらだったわけだが、その間、いくつかイベントに参加した。

14日(火)には『スガラムルディの魔女』公開記念イベントでアレックス・デ・ラ・イグレシアと妻のカロリーナ・バング(今回の映画に出演している)のトークショウに出かけた。「祖母は本物の狂人だったけど、病院には入れずに自宅で一緒に暮らしていた。あるとき市長が家に来ていたんだけど、祖母は裸で私を殺すな、と叫んでばかりいるものだから、抑えつけるのに苦労した。そうしたことも後から振り返ればなんだかおかしい」というような話をしていた。

もちろん、準備として見て行ったさ、今回同時上映の『刺さった男』(2012)。

失業した広告マンのロベルト(ホセ・モタ)が遺跡発掘現場で高所から落ち、頭に鉄骨が刺さってしまい、大騒ぎになる話。特異な立場にある自らを、この機に乗じて商品化しようと企む展開が、頭に刺さった鉄骨以上に痛いのだった。

25日(土)には沖縄の高校生たちをお招きして模擬授業と大学、および文学部、あるいは現代文芸論研究室の説明をした。沖縄のいくつかの高校の生徒たちが大挙して東大や一橋、外語大(文系コースの場合)などを訪れる、という、そんな企画。

が、何といっても最大のイベントは:Actualidad de Octavio Paz

パスの生誕百周年の年だ。メキシコから詩人のアルマンド・ゴンサーレス=トーレスとフリアン・ヘルベルトを招き、パスについて語っていただいた。28日(火)のこと。

色々と面白い指摘があったけれども、ヘルベルトの指摘したポイントは考えさせられる。パスは自分のよく知らない言語の翻訳にこそ力を入れていた、と言う話。いつもはしかつめらしい態度のパスが、インドでコルターサルや現地の人々と楽しそうに踊っている動画を流しつつ、そうした相矛盾する態度にポエジーを見出す発言だった。


しかし、よく通じていない言語をこそ翻訳する、という指摘は、翻訳論の文脈に置いても面白いかもしれない。たとえば古代ギリシヤのテクストをいくつか訳しているアルフォンソ・レイェスに関して、実はギリシヤ語はそれほどできなかった、という事実が「脱神話化」として語られた。それはつまり、よく知らない言語を訳しているという批判でありえたはずだ。が、よく知らない言語をこそ訳すところに詩的誠実さを見るというのは、そうした翻訳と外国語習得をめぐる神話を逆の側から脱神話化する視点ではないのか?

2014年10月13日月曜日

黄色と緑の互換性について

ラテンビート映画祭で見てきた。アルベルト・アルベロ『解放者ボリバル』(ベネズエラ、スペイン、2013)

今をときめくグスタボ・ドゥダメルが音楽を担当する解放者の伝記映画。

これだけ劇的な人物の半生をいろいろと盛り込もうとするのだから、大変だ。さして英雄然としない、単なる金持ちのボンボンだった青年時代、妻マリア・テレサを失って失意のうちに過ごす時代、恩師シモン・ロドリゲスにさとされ、目覚めるパリ、ミランダ将軍との関係……等々。

たぶん、ハリウッドの超大作ほどの人数は動員していないのだけど、撮影用ヘリコプターなどを多用したカメラワークでかなりの大がかりなスペクタクルに作り上げ、見せてている。

実際にはボリーバルについての映画を撮るのなら、時期を小さく絞っても濃密な話が作れるのではないかという印象。

少し傍系の話を。前半、グアバの実が印象的に使われる。シモン(エドガル・ラミーレス)がスペインで得た妻マリア・テレサ(マリア・バルベルデ)に食べさせる、官能のシーン。彼女が黄熱病にかかってから食べさせるシーン、最初にカラカスを陥落してしばらくぶりに家に戻って来たボリーバルが、彼女の死んだベッドにグアバを一個置くシーン。それらで使われているグアバは、黄色い。が、ぼくの知る、ぼくの育った家の裏庭になっていたグアバ(ばんじろう、というのが和名)は緑色なのだ!

緑/黄の対照といえば、レモンがある。アメリカ大陸のスペイン語圏でいうlimónはむしろライムに似て、我々の認識する黄色い果物ではない。そのことはガルシア=マルケスもある辞書の定義について語りながら触れている。


ボリーバルは死んだ妻のベッドに黄色いレモンならぬグアバを置いていく。いろいろと想像させられる。

大阪から戻ってきた〔事後報告〔3〕〕

土・日と 日本イスパニヤ学会第60回大会@大阪大学箕面キャンパス に出席してきたのだ。箕面キャンパスとは、つまり、旧大阪外大だ。

ぼくは理事なので初日午前中の理事会から出席。そして初日の午後のセッションと二日目の午前のセッション、2回も司会を務める羽目に! やれやれ。おかげで他の分科会で行われている他の発表を聞けなかったりもしたが、反面、1940年代スペインでヒッチコックの『レベッカ』がヒットしたことなど、面白いお話も聞けたのだった。

50回大会の記念講演は作家のルイス・ゴイティソロだったが、今回はイグナシオ・ボスケ。ぼくもお世話になっているREDESという辞書の編纂などで知られる泰斗。妻のフアナ・ヒルを伴い。初日には夫の講演、二日目には妻の専門領域音声学の知見を発音教育に活かそう、というワークショップが行われた。

ぼくは、そういえば、講読の授業なのに、学生の発音(リズムやイントネーションらを含めて、ということ)を矯正することに夢中になっているとのこと。学生たちやかつての学生たちは、授業中、何十分も発音の練習をさせられた、と回顧する。ヒル先生の話から判断するなら、そうした態度は悪くはないのだろうけれども、もう少しデリケートなやり方でやらねばならないようだ。ふむふむ。

初日の夜は懇親会が開かれるのが通常で、それに出席したのだが、二次会には最寄りの駅前のビル内に、中学時代の友人が店長を務める居酒屋があったので(そのことを最近、知ったのだが)、そこに行ったのだった。ごちそうさま。


(写真は梅田のビルHEP FIVEにある観覧車)

2014年10月10日金曜日

事後報告(2)

そんなわけで、昨日はノーベル文学賞の発表微だったのだ。パトリック・モディアノに決まったのだ。特にこうした賞に興味はないのだが、何人かラテンアメリカの作家たちがノミネートされているという情報があり、その人たちが受賞したらコメントを、と言われて準備したりしているので、結果発表を注視しないではいられない。

で、そうした職業上の興味以上に、他部門のノーベル賞にだって興味ないのだが、今回の物理学賞にはとても複雑な思いを抱かずにはいられない。

1. たいていの国のメディアはアメリカ合衆国の市民権を獲得している中村修二をアメリカ人としているのだが、日本のメディアはあくまでも日本人扱い。まあこれはいつものことだ。

2. 青色発光ダイオードを実用化したこの人は、勤務先の日亜化学に発明の対価を求めて訴訟を起こし、勝訴、控訴されると和解に持ち込んだ。そして(順番は前後するかもしれないけれど)UCサンタバーバラに招かれて行った。この辺の経緯は、リアルタイムでいろいろと報じられていたはずだ。

3.それなのにメディアはそのことを忘れたかのように、「日本には研究の自由がない」という中村さんの言葉を再生産する。彼の言う「研究の自由」は、いささか複雑な話だと思う。こんな証言もあることだし。一方で、今年8月、会社員の取得した特許は会社のものに属するという法律が作られたことも忘れてしまっているかのようだ。中村さんは逆手に利用されて、こうした悪法のきっかけを作ってしまった人なのだ。

4.その中村さん、どこかのインタビューに答え、「基礎研究にだけ与えられる賞だと思っていたので、応用科学である私にいただけて嬉しい」と発言していた。これは、ノーベル賞にとっても大きな一歩なのかもしれない。ますます基礎研究の肩身が狭くなるのかもしれない。他のふたり、国籍の点でも日本人であるふたりの行った基礎研究にこそ注目が注がれた方がいいと思うのだ、大学人としては。そのことを大切に思う人が言う「日本には研究の自由がない」と中村さんの発話とは、ちょっと違うことなのだけどな。それを認識しなければ。

で、ともかく、そんな中村さんを迎え入れたUCサンタバーバラのような体制ができる環境から、日本の大学はますます遠ざかっていくのだろうな、というのが悲しい直感。


今日はこれから大阪だ。

2014年10月8日水曜日

事後報告

立教大学でやってきた。10月4日(土)、「ガルシア=マルケスを読む――ガルシア=マルケス受容の来し方行く末」。思ったより聴衆がいて、当初借りていたより大きな教室に移動しての2時間。

ぼくは「ガルシア=マルケスは誰が読んでいたのか――1983年、日本」と題して、83年(前後)に『百年の孤独』を取り込んで気づかれた例と気づかれなかった例を比べて作家たちの『百年の孤独』理解の差を問うた。

気づかれた例とは寺山修司『さらば箱舟』。気づかれなかった例は伊井直行『草のかんむり』。

ここでも何度か書いたとおり、『草のかんむり』は『百年の孤独』を上手く採り入れた小説だ。その採り入れ方、その基にある『百年の孤独』理解を寺山修司による理解との対比で考察したのだった。

こういう話をした以上は、文章化してどこかに発表しておこうと思っている。

ちなみに、1983年というのはガルシア=マルケスがノーベル賞を獲った翌年。


ノーベル文学賞の発表は、もうすぐだ。

2014年10月1日水曜日

授業が始まった

授業が始まった。

やれやれ。

前に告知したように、こんな催しでガルシア=マルケスの受容について話す。1983年、日本についてだ。あるふたつの『百年の孤独』の取り込みの形と、それが気づかれたのと気づかれなかったのとの差を考える。

そんなわけで、そのひとつは寺山修司の『さらば、箱舟』で、それを見返したりしているのだが、言いたいことがたくさん出てきて困る。

ある小説との対比で、その差は奈辺にあるか、などと問いかけたいのだ。寺山の例はとてもわかりやすい取り込みだけれども、その取り込み方はだいぶもうひとつの例と違うのではないか、と思うのだな。

さて、ところでぼくはそれら一篇の小説と一本の映画を、『百年の孤独』以前に知ったのだった。これらを『百年の孤独』の取り込みとして論じるためには、ぼくの記憶にひとつの転倒を加えなければならないのだ。

今日、非常勤先の早稲田大学で、19世紀の作品から見ていこうとして教材をコピーしながら、ふと思った。なぜぼくはこんな風にお行儀良く文学史風に時代を下っていくのだろう? ぼくらはだいたい、現代のものから馴染んで、時代を遡り、古典を愉しむようになるんじゃないのか? 


来年はちょっと逆向き文学史観というのを展開してみようかと思う。