2012年8月30日木曜日

驚異を産み出す組み合わせ


ちょっと前にラモン・デル・バリェ=インクラン『夏のソナタ』吉田彩子訳、西和書林、1986を手に取り、奥付のあたりを眺めていたら、吉田さんがフアン・バレーラ『ペピータ・ヒメネス』を訳したと書いてあった。

知らなかった。1874年刊、19世紀スペインの代表的書簡体恋愛小説のこの作品が日本語に翻訳されているなんて! 

探したらすぐに見つかった。

『キリスト教文学の世界18 バレーラ ボルヘス』、主婦の友社、1978

フアン・バレーラとボルヘスが、しかも「キリスト教文学の世界」(「キリスト教世界の文学」ではなく)というシリーズの一環として出版されていたなんて。吉田彩子訳の『ペピータ・ヒメネス』と、鼓直訳の『伝奇集』。しかも、この『伝奇集』の解説を田中小実昌が書いているのだ! 

これはもう「解剖台の上でミシンとこうもり傘が出会う」くらいの驚異ではないか? 

神学生ルイス・デ・バルガスがおじの司祭に宛てて送った、寡婦ペピータへの思いからなる手紙と、その後の顛末を語った補遺からなる、いかにもな19世紀恋愛小説だ。神学生はやたらと恋をするのだ。

第一通の3月22日は、久しぶりに故郷に帰ってきたルイスの感慨から始まる。

 ここを離れたのはほんの子供の頃で、今大人になって帰ってきてみると、記憶の中にあった様々なものがとても奇妙な感じです。すべてが私が覚えていたより小さく、ずっとずっと小さく、しかし又はるかに美しく、みえます。(20ページ)

恋愛は久しぶりに故郷に帰ってきたもののこうした眼差しによって可能になる。ホルヘ・イサークス『マリーア』(1867)がそうだった。新たな目で眺め返された故郷に美しいあの人が現れるのだ。

2012年8月25日土曜日

消えゆく村を語る


フリオ・リャマサーレス『無声映画のシーン』木村榮一訳(ヴィレッジブックス、2012)

今日手に入れたばかりだ。手に入れたばかりの本は、まず、はしがきやあとがきに目を通し、ぱらぱらとめくってどんな本か見当をつける。そこまでしかやっていないのだ。

装丁が美しい。

「日本語版への序文」では、昨年の震災についての見舞いの言葉があり、世紀の変わり目のころ、スペイン北部の鉱業セクターがグローバル化により大打撃を受け、廃村と化したところがある、と続く。レオンのそんな鉱業地帯で育った自分の記憶が、初期の作品(『黄色い雨』など)に反映されていたが、『無声映画のシーン』では、記憶そのものがプロットなのだと説明する。

 この小説がスペインで出版されたとき、ある批評家が、これは回想録のような作品であって、小説としての条件を満たしていないと断じた。しかし、実をいうとこの作品は紛れもなくフィクションとしての小説なのである。(4ページ)

 実にこんなタイプの短編集のようである。映画のタイトルやそれをもじったようなタイトル(「遠い地平線」「アメリカの夜」「月世界旅行」等々)のひとつひとつで、映画や映画館に絡めて幼時の記憶を(あるいは変形された記憶を)語るという趣向の模様。

 実をいうとあの年まで、フランコについての噂をほとんど聞いたことがなかった。学校にある写真や本の中で毎日のようにその姿は見ていたし、ラジオを通してしょっちゅう名前を耳にしていたが、その男が誰なのか、つまりどういう人間なのか分からなかったので、まったく興味がなかった。その後、映画が始まる前に上映されるニュース映画《NO-DO》(ノード)で彼の姿を目にしたが、大仰な身振りをしながらせかせか歩き回っている映像を見て、チャルロットか、デブとヤセのコンビのような俳優なんだろうが、それにしても面白くもなんともないと思っていた。(「ストライキ(成人向け映画)」172ページ。太字は原文。( )内はルビ。訳注を省略。チャルロットはチャップリンのこと、「デブとヤセのコンビ」はローレル&ハーディのこと)

な? 読みたくなるだろう?

2012年8月23日木曜日

ミラグロスは常にそこにいた、あるいはアダプテーションの理論


そう。『パライソ・トラベル』シモン・ブランドの手によって映画化されている(2008)。脚本にはフランコ自身も携わっている。ぼくは以前、それを見ていたのだった。それを見返してみた。

細かい違いはいくらもある。マーロン(アルデマール・コレーア)とレイナ(アンヘリカ・ブランドン)が最初にたどり着いたのはクイーンズでなくブルックリンになっていたり、最後にマーロンがレイナを訪ねていく先がマイアミでなくアトランタだったり。レイナの母親が既にマーロンの知り合いだったというサプライズも小説にはない要素だ(さて、誰でしょう?)。小説の最後の1ページの心の流れをセリフにして、かつ、説明過剰な最後のプロットをつけ加えたことなどは、映画であることを考えれば、まああり得ることかとも思う。

ぼくとしては最も気になった差は、2人の人物の扱い。まずはマーロンが一時身を寄せる人物ロジャー・ペーナことロヘリオ・ペーニャ。この人物がスペイン語らしい名を捨ててロジャー・ペーナを名乗るにいたった経緯は映画では語られない。ホメロスやウェルギリウスを引用する教養豊かな背景は消え、そのかわり、cama(ベッド)やputa(娼婦)などの語の前でどもり、いかがわしい写真を撮ったりして、なかなか面白いキャラクターに仕上がっていた。共同プロデューサーでもあるジョン・レギサモ(レグイサモとして知られていると思う)が演じると、さらに面白い。万引きを働くシーンでは、つられてマーロンまでどもってみせるのだから、一場がコミカルに仕上がる。

そしてもうひとり、扱いの違う人物はミラグロス(アナ・デ・ラ・レゲーラ)。マーロンに好意を寄せ、彼の物語の聞き手となるこの人物は、小説では日曜日のコロンビア人たちのお祭りで出会うのだが、映画では〈祖国コロンビア〉の隣でCDを売っていて、最初からマーロンと面識を得るのだった。結末にかかわることもあるので、その他の違いは詳しくは言えないが、個人的にも探し求められるレイナよりもこっちの方が魅力的に感じた。ぼくならレイナのことなんか忘れて、ミラグロスと結ばれる。

あ、
  もちろん、
       個人の好みの問題ですが……

しかも、フィクションの人物というよりは女優に対する好みの問題……

尾籠な話……なのか?


ホルヘ・フランコ『パライソ・トラベル』田村さと子訳、河出書房新社、2012

『ロサリオの鋏』に続き、フランコ2冊目の翻訳だ。恋人のレイナの主導で不法にニューヨークにやって来たマーロンが、ちょっとしたことで右も左もわからないこの都会でレイナとはぐれることになり、浮浪者のような生活の末に行き着いたコロンビア系のレストランの人々に助けられて立ち直り、そこで知り合った人々を相手に、はぐれた恋人とのことを語って聞かせる、という形式。最終的には恋人がマイアミにいることがわかり、彼女に会いに行く途中のグレイハウンドのバス内も語りの場になっている。

ビザの出ない2人、および他の人々からひとりにつき5000ドルもの大金を受け取って合衆国に不法入国させるブローカーがパライソ・トラベル。コロンビアでレイナとマーロンが金を作るまでと、大変な旅を重ねてグワテマラ、メキシコ、合衆国と陸伝いに入っていく旅が半分、身分証もなくニューヨークのクイーンズで、レストランのトイレ掃除などをして生きていくマーロンの苦労話が半分。

レストランの仲間、ねぐらを提供してくれた人、グレイハウンドで隣に座った乗客、マーロンに思いを寄せる女性などを聞き手に語られるマーロンの語りは語りの場所が行ったり来たりして、それに合わせて語られる場面も行ったり来たり。テンポか良くて読者を飽きさせない。

こういう南北アメリカの(インターコンティネンタル)移動の話は、むしろ映画が得意にしてきたのだったな、と思う。『闇の列車、光の旅』、『そして、ひと粒のひかり』。特に後者はコロンビアから麻薬の密売人としてニューヨークに移動する女性たちの話なので、旅の前後について多くを思わせる。陸路の旅というと、前者、ということ。

『そして、ひと粒のひかり』は、麻薬を入れた蚕ほどの大きさのビニールの袋を、何十個も飲み込んで胃に蓄えて移動し、着いた先でひり出し、売人たちに渡すという運びやたちの話。主人公マリーアは連れて行かれた郊外のホテルの浴室で、取り出したその麻薬の袋を丁寧に洗い、匂いまで嗅いで確認して渡すのだが、そこまでの気遣いをしない友人は、組織から逃げるさいにその麻薬を持ちだしてそこに固執する。この対比が印象的な映画だった。体内に隠れていたものは秘密だからこそ貴重なのだ。排泄物と黄金が同一である次第だ。フロイトを思い出す。

で、そんなことを考えていたせいか、『パライソ・トラベル』でもレストラン〈祖国コロンビア〉のトイレ掃除をすることとなったマーロンが吐く糞尿にまつわる悪態が実に印象的。

僕が最初に考えたのは、糞を食らうだけでなく糞の掃除をするために、この国に残っている価値があるかどうかということだった。(116ページ)

『そして、ひと粒のひかり』でも、主人公が逃亡の先に、頼っていった人物はクイーンズに住んでいた。そこの花屋では、主人公がコロンビアで出荷していたものを思わせる薔薇が売られていた。『パライソ・トラベル』の主人公マーロンは、恋人レイナが嫌悪したであろう民族衣装風の制服に身をつつみ、クイーンズのレストラン〈祖国コロンビア〉のウェイターになる。

トランスアトランティックな、アメリカ―ヨーロッパの移動の軸も重要なのだが、インターコンティネンタルな、南北のアメリカの移動も取り上げられていいトピックだ。ヨーロッパの人々はかつて黄金を求めてアメリカに渡ったものだが、南米の人々は北へ渡って黄金を排泄する。

2012年8月20日月曜日

原初のイメージをたどり直すこと


友人がFacebook上で土屋鞄製作所のページに「いいね!」ボタンを圧していて、そのページの存在を知ることとなった。そこに記入者の「両親が結婚したころから使っている」というミルの写真が載っていた。


一気に時間が逆戻りした。ぼくもかつてこれを愛用していたのだ。ぼくはこの写真で久しぶりにこれを見るまで、ぼくがコーヒーを飲み始めたのは実家に同居していた母方のおじの影響だと思い込んでいた。レストランのオーナーシェフになりたいのでその軍資金集めのためにと実家(そこはつまり彼の実家でもあったわけだ)に住んで近所のコンクリートブロック製造会社で働いていたものの、金を貯めるどころか、いかにも時代がかったステレオセットと流行り物なのでいまでは廃れたし、そもそもサイズが違うので着られないタンス一棹分の服、それに少しばかりの借金を残して失踪した、浪費癖のあるらしいおじ。ぼくがだいぶいろいろな特性を引き継いでいるおじ。ぼくにとって新しいものは何もかもおじから来ているとの意識があったので、そう思い込んでいたのだろう。

そうではなく、コーヒーをわが家に持ち込んだのは兄だった。この写真を見た瞬間、そう思い出したのだった。コーノ製のミルとハリオのサイフォン。一緒に買ってきたモカの豆をこのミルに入れてカリカリと挽き、ねじ込み式の下部を開けて挽き立ての粉を見たときに立ちのぼった香り、それとはまた異質の、サイフォンの上のフラスコにお湯が登って行ってその粉を包み込んだときの芳香。そういったものを一気に思い出した。

そんな思い出話とともに語りたくなるのがビクトル・エリセ『ラ・モルト・ルージュ』(2006)。アッバス・キアロスタミとのビデオ往復書簡展(ポンピドゥー・センターおよびCCCB――バルセローナ現代文化センター)で公開された30分ばかりの短編だ。今回、宮岡秀行のプロデュースしたドキュメンタリー『リュク・フェラーリ』とともにUPLINKで上映された。昨日と、それから30日にもう一度ある。

ぼくはかつて『ビクトル・エリセDVD-BOX』(紀伊國屋書店、2008)に収録された『ミツバチのささやき』のリーフレットの解説で、エリセの「近年」の文章に触れながら、子供が初めて触れるスクリーン体験、光に照らされたスクリーンに陶然と見入る体験の重要さを説く彼の文章を具現化したのがこの『ミツバチのささやき』なのだという趣旨のことを書いた。つまり、この映画はエリセ自身の初めての映画体験を大きく反映した、自伝的作品のようなものなのだと言いたかったのだ。

そこでほのめかした「近年」の「文章」のひとつはこの『ラ・モルト・ルージュ』におけるヴォイス・オフによる語り。彼が育ったサン・セバスティアン、ドノスティアの街にある映画館での初めての映像体験を綴っている。1946年に見た、ロイ・ウィリアム・ニール監督によるシャーロック・ホームズものの『緋色の爪』(日本語のデータベースでは見当たらない。戦争が関係しているのだろう。ニールの作品は35年公開のものまでしかない)だ。それの舞台となっている架空のカナダの都市がラ・モルト・ルージュ。エリセは子供のころの映像体験、つまり、見た映画そのものと、それを見たときの周囲の人々の様子、自分自身の様子を語り、かつ、架空の街であるラ・モルト・ルージュ、あまり情報もないニール監督や舞台の街についてのその後知り得た情報(記憶の修正)を語っている。

『ミツバチのささやき』が高度に自伝的な映画であるということがわかると同時に、原初の体験とその忘却、勘違い、などについて考えさせられて感慨深い。

ところで、ニール監督によるシャーロック・ホームズものは、今では『シャーロック・ホームズ コレクターズBOX』として入手可能だ。ひょとして『緋色の爪』La garra escarlata というのは『闇夜の恐怖』だろうか? 

2012年8月17日金曜日

狂気の形


写真前面は、グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム』種村季弘訳、平凡社ライブラリー、2012

だが、その奥にある小説を読んだという話。

オラシオ・カステジャーノス・モヤ『無分別』細野豊訳、白水社、2012

カステジャーノス、2作目の翻訳だ。

長く続いた内戦が先住民虐殺に転じたグワテマラとおぼしき場所(明記はされない)で、その記録文書の千五百枚もの原稿を校閲、校正する仕事を引き受けた「わたし」が、見知らぬその街で知り合った若い女と関係を持とうとしてみたり、その思いを遂げたり、謝礼の未払いに怒ったりしているうちに被害妄想を抱き、やがて精神を病んでいく(ととられる)過程。

150ページ強の短い小説なのだが、報告書原稿に書かれている惨たらしい暴力の記述を仲立ちとして、「わたし」の妄想や現実の行為(ファティマという女性とのセックス)が眺められ、狂気を呈していくその進行のしかたは面白い。「おれの精神は正常ではない、と書かれた文章にわたしは黄色いマーカーで線を引き、手帳に書き写しさえした」(7ページ。太字は原文)という冒頭が活きている。

ロドリゴ・レイ=ロサが来日して東大の駒場で講演したときに、やはりグワテマラの軍による弾圧の記録を整理しているとして、それを読み上げていった。質疑応答の段になって、若い女性が、「わたしはそんなものを読み上げられて不快に感じます」とのコメントを言った。そのことを思い出した。

そのときは、貴重な質疑応答の時間を、そんな的外れなコメントで潰すその女性を、愚かだと思いもしたが、そうではないのだ。人はたやすくテクスト内の行為の当事者とそれを書く(語る)者、そしてあまつさえそれを読む者とを混同してしまうということの格好の証左だったのだ、彼女は。とりわけテクストに書かれたものが耐えがたい現実であった場合、人は語り手を忘れ、場合によっては読者を忘れる。人を殺したのはレイ=ロサではない。それを書き残したのもレイ=ロサではない。それを読み上げたのがレイ=ロサだ。この三者には三者それぞれの思惑があって、異なる行為をしている。でも読み上げられたのが聞くに堪えない凄惨な暴力の証言であった場合、それを読み上げた者こそが当事者に思えることがある。

カステジャーノスの小説の「わたし」は、こうして暴力に巻き込まれる当事者を自認するにいたったということだろう。これは『ドン・キホーテ』の狂気なのだ。

2012年8月15日水曜日

クローンが街にやって来る


César Aira, El congreso de la literatura (Barcelona, Random House Mondadori, 2012)

メキシコ以外の世界に向けての版、と謳っているけれども、つまり、以前(1997)、小さな出版社から出されたものが、大手で再版されて出回るものだということ。だと思う。「メキシコ以外」というのは、メキシコではEraがアイラの作品は出しているので、これもこの社の版があるか、もしくは、これから出るのだろう。

マクートの糸という自然現象を解明した〈マッドサイエンティスト〉こと私(セサル)は、クローン製造に乗り出し、試作人物の制御に困って、天才のクローンを作らねばと思い立つ。天才というので思いついたのはカルロス・フエンテス。そこで、フエンテスの細胞を盗むために、ベネズエラのメリダで開かれる作家会議にやって来る。首尾良く細胞を盗み出したはいいが、……という話。

ふだんは「ネタバレ」をタブー視するなど愚かなことだと考えているぼくも、さすがにこれは結末は書けない。ともかく、変なものが出てくるのだ。奇妙なものの出現がもたらす驚きにおいて、これは『ゴーストバスターズ』のマシュマロマンに匹敵する。とにかく、おかしいのだ。

クローンを扱うSF(?)でありながら、文学会議のオープニングで「私」の書いたアダムとイブの不倫をテーマにした戯曲が、学生劇団によって上演されるなど、どうしても小説を何かの隠喩またはアレゴリーとして読んでしまいたくなる、われわれ読者の宿痾に対し、小憎らしい挑発がしかけられているところが悔しい。極めつきは以下の一節。

クローン製造器が人間と服の境目を認識するなど、どうすればできるというのだ? やつにとってはどれも同じことだ。何もかもひっくるめて「カルロス・フエンテス」なのだ。つまるところ、文学会議に出席している批評家や先生方にとっても大差ない事態が生じるはずだ。彼らだって人間とその人の書いた本との境目はどこにあるかと問われれば、答に窮したに違いないのだ。彼らにしてみれば、本も人もひっくるめて「カルロス・フエンテス」なのだから。(102)

うーむ。そうなのだよ。そうなのだが、だからって、こんな展開になるかね? という話。

2012年8月9日木曜日

阿部先生に小説の読み方を教わる


ぼくも日ごろ、小説を訳したり授業で読んだりしているわけだが、ときどき、どうにも読めない小説というのがある。スペイン語だと読めるのだけど、翻訳だと読めないとか、その逆とか、……あるいは読んだのだけどすっかり忘れてしまったものとか……だから、

阿部公彦『小説的思考のススメ――「気になる部分」だらけの日本文学』、東京大学出版会、2012

に、「小説とは本来、読めないものなのです」(iiページ。下線は原文の傍点)なんてあると、ついついそう言ってもらえると助かる! と思って手に取ってしまうのだ。「小説を手に取って迷ったりひるんだりしても、それはあなたのせいではありません。小説のせいです」と言われれば、ますます勇気づけられる。勇気づけられたところで、「小説には読み方がある」(viii)と囁かれたら、買ってしまうでしょ?

が、買ってみて続きを読むと、「小説のルールというのはたとえば語学のルールのように暗記すればいいというものではありません。作品によって、どのあたりを読むべきかの勘所は異なる。私たちがするのは、ルールを探しながら読むということです」(viii)と書かれている。なーんだ、やっぱりそうだったのか。ちっ、だまされたぜ。

まあ、小説という壮大な嘘にだまされるのが好きなぼくとしては、このくらいのだまされ方では腹は立たないわけだが。そして、第1章、太宰治の『斜陽』を読む段に入っていくと、「まず何よりも気をつけたいのは、文章を一字一句読むということです」(5)と明言されていて、どうやらこれが唯一、公式化しうるルールのようだと気づくわけだ。一字一句読む。「簡単なようですが、これが意外と難しいのです」(6)。そうなのだよな。日本語訳を読んでもうまく読めないけれども、スペイン語だと読める、なんてことがあるのは、スペイン語だと一字一句読まざるを得ないからなのだ。そしてまた時には、とりわけストーリーに没入しているときには、ちゃんと読んでなかったりするものな。

で、阿部さんはテクストを「一字一句読」みながら、つまり、テクストの分析をしながら、太宰の文体が表現する語り手=主人公和子の貴族性ゆえの読みやすさを解説する。そして、その余裕が破綻する瞬間を捉えて刺激的だ。「心地よさをつくりあげたうえでそれを破ること。それを壊すこと。それがなければ小説は小説にはならない」(18)とまで言われた瞬間には、目から鱗が落ちるという次第。

この太宰から始まって漱石の『明暗』会話と地の文の齟齬を分析、辻原登、よしもとばなな、絲山秋子、吉田修一、志賀直哉、佐伯一麦、大江健三郎、古井由吉、小島信夫を読んでいくのだった。「大江にとっての真実は、定点としてそれと指差されるようなものではなくて、いつどこから語りかけてくるかわからないような不意打ちの訪れとしてとらえられています」(169)なんて指摘には、それこそ不意打ちされたものだ。

2012年8月8日水曜日

ハバナの一週間


VA『セブン・デイズ・イン・ハバナ』(フランス、スペイン、2012)

を昨日、観てきた。その後、飲みに行ったので、今日、記す次第。このところ秘密の仕事に関係した本などばかり読んでいるので、気分転換だ。

7人のシネアストが、それぞれ一本の短編を撮り、月曜日、火曜日、……というように割り振ったオムニバス映画。順にベニシオ・デル・トロ、パブロ・トラペーロ、フリオ・メデム、エリア・スレイマン、ガスパル・ノエ、フワン・カルロス・タビーオ、ローラン・カンテ。

スクリプト・コーディネーターをレオナルド・パドゥーラが務めている。脚本を直接書いたエピソードもあれば、スーパーバイズしたエピソードもあるということだろうか。そのおかげで、エピソード間の繋がりができている。水曜日の主役セシリア(メルビス・エステベス)が土曜日には一家の娘として現れる、という具合。あるいは月曜日に女装姿で出てきたゲイのラモンシート(アンドロス・ペルゴリーア)が、土曜日にも、今度はスッピンで出て、そこにあったカツラをかぶって鏡を見、「ベニシオ・デル・トロの撮影の時にもこんなカツラをつけたかった」(だったか、……うろ覚え)とつぶやいたりする。

フリオ・メデムが撮った水曜日「セシリアの誘惑」はシリロ・ビジャベルデ『セシリア・バルデス』を下敷きにしている、などというコンセプトも、パドゥーラがかかわっているからこそなのだろう。ちなみに、月曜と土曜に出てくるゲイのラモンシートを演じるペルゴリーアは、ホルヘ・ペルゴリーアの息子。ホルヘは『苺とチョコレート』のあのホルヘで、これが土曜日の中心人物のひとり。つまりここで親子が共演しているわけだ。

メデムの「セシリア」など、面白かった。『セシリア・バルデス』を下敷きにしたと銘打つに充分な官能性を備えたカメラ・ワークだった。が、その次の木曜日、エリア・スレイマン「初心者の日記」は、パンフレットのサラーム海上のコメントや、その他ウェブ上で目についたレビューなどを目にする限り、誤解されていような気がする。ぼくはこのエピソードを、とても興奮しながら見たのだった。

エリア・スレイマン本人が、ある人物にインタビューを申し込んだのだけど、演説が終わってからだと言われ、手持ちぶさたにまかせてハバナの街をあちこち見て回る、という話だ。何度かホテルの部屋に帰ってみるものの、演説は一向に終わらない。終わったかと思ったら、聴衆の求めに応じてまた話し始める。動物園は職員のみが行き来し、物言わぬ外国人観光客をうさんくさそうに眺めるだけ、ヘミングウェイの通った、フローズン・ダイキリ発祥の店ラ・フロリディータも、昼間なので何組かの観光客がいるばかり……街中にも演説の声は流れてくる……

これはつまり、ガルシア=マルケスがカストロを評した文章が下敷きになっているのだ。革命直後、朝から始まった演説が、仕事を終えるころになっても続いていて、ガルシア=マルケスたちは、そしてハバナのみんなも、仕事をしながら一日中カストロの演説を聴いていた、という話。映画内のTVに映るカストロは、革命直後の、若かりしころの彼ではない。その演説にしてもガルシア=マルケスの経験した最長記録の演説ではないだろう。が、それを彷彿とさせるカストロの演説、仕事をしながら、あるいはそれを放り出して聞き耳を立てるハバナの人々、それを物言わぬスレイマンが観察している、そんな話だ。

スレイマンがこのガルシア=マルケスのテクストを読んでいたかどうかは知らない。しかし、脚本のパドゥーラならば読んでいてもおかしくはないし、あるいは彼自身、同様の経験をしてきたはずだ。今ではもう聴けなくなったはずのカストロの雄弁、その間のハバナの街の様子を、この街をまったく知らない物言わぬ人物の目を通して描いて、実に感慨深いエピソードなのだ、木曜日は。

2012年8月2日木曜日

スキャンダラス


『文藝年鑑』に今年も書かなければならないので、できるだけ新刊に目を通すことにしている。Juan Villoro, Arrecifeやフエンテスの死後の新作、バルガス=リョサなども目を通さなきゃな、と思っているところ。
Santiago Roncagliolo, El amante uruguayo: Una historia real (Alcalá la Real, Alcalá, 2012)

若くしてベストセラー作家になったし、父親は大臣だし、なにかとスキャンダラスな本を書いて物議を醸すので、良くも悪くも目立つロンカリオーロ。今年1月に初版が出て早くも増刷りのあるこの本は、ウルグワイの作家エンリケ・アモリンとフェデリコ・ガルシア=ロルカの関係、ロルカ亡き後のピカソやネルーダとの確執を扱ってなにやらスキャンダルの匂いが芬々。

1953年、アモリンの住むサルト(アルゼンチン国境の街だ)でロルカ記念碑の除幕式があった。マルガリータ・シルグも参列し、『血の婚礼』も上演されたというこの式を語るプロローグから始まっている。

秘密の業務で読まねばならないものなどに阻まれがちなのが口惜しい。オリンピックなんかみている場合ではないのだな。

ところで、本の表紙の写真の人物だというのに、ぼくのiPhoneのカメラはロルカとアモリンに焦点を合わせる。優秀? だ……