2013年5月29日水曜日

自らを振り返る

26(日)には『2666』ナイト第2弾、佐々木敦VS野谷文昭@原宿Bibliothèqueに行ってきた。稀代のビブリオフィロ佐々木さんがビブリオフィロたるボラーニョのもたらす情動について語った。ボラーニョの文章には接続詞が極端に少ないとの野谷さんの指摘にはっとした。ひょっとしてぼくは余計な接続詞をおぎなって訳文を作ってしまっていないだろうか、と『野生の探偵たち』が気になった。

そんな自分の過去の訳業を、振り返りたくなりつつも振り返っていないのは、別の仕事を振り返らなければならないからだ。

6月1日(土)2日(日)と開催される日本ラテンアメリカ学会第34回大会@獨協大学で、二日目恒例のシンポジウムにパネルとして参加する。シンポジウムのタイトルは「ラテンアメリカ研究の射程」、ぼくの基調報告のタイトルは「ラテンアメリカ主義再考」。

『野生の探偵たち』(2010)以前、『ラテンアメリカ主義のレトリック』(2007)を振り返るというもの。振り返る、というよりは、そのとき課題として放置し、考慮に入れずにいた問題を、ここで考えようというわけだ。ちょっと前からのここでの記事も、少しだけその準備に侵食されている。


ちなみに、ぼくは現在、この学会の理事でもある。いやなこった。

2013年5月21日火曜日

「フランシスナカグロベーコン」も今は昔……


その昔、ポスターの最終校正を電話で伝えたとき、印刷用語としてのナカグロ(「・」)が伝わらず、「フランシスナカグロベーコン展」のポスターが出回ったのはもう30年くらい前の話。その時には存在しなかった新たな三幅対など数点を携えて、どうどうたるフランシス・ベーコン展。立派なものでした。

ぼくの頭には「フランシス・ベーコン」の名とともに常に「・」が浮かぶのだが、ベーコンの絵は異形と奇形、偏執と動きの他にも、確かに印象的な「・」が打たれていた。たとえば「自画像のための習作」(1976)などだ。

穴と動き、こそがベーコンだ。今回面白かった試みのひとつは、土方巽の舞踏「疱瘡譚」とそれにまつわる舞踏譜(そんなのがあるのだね)や、ペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスによる映像インスタレーション「重訳/絶筆、未完の肖像(フランシス・ベーコン)/人物像を描き込む人物像(テイク2)」などが展示されていたこと。

ベーコンの描線を表現するには、あのように動くべきなのだ、と、そういいたくなるのもわかる。

人がたくさんいた。火曜の昼だというのに。

所蔵展では、ジャクソン・ポロックの時には展示されていなかった(と思う)アンリ・ルソーやブラックが出ていた。ルソーの「第22回アンデパンダン展」は近代美術館の宝だ。

2013年5月18日土曜日

そして間文化性ということを考える


ひとつ仕事を終えてから、本を買い、シャツを買い、そして行ってきた:

ウンプテンプ・カンパニー第13回公演『メメント・モリ――長すぎる髪をもつ少女の伝説――』台本・演出:長谷トオル、音楽:神田晋一郎、美術:荒田良

これはガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』(1994 邦訳、旦敬介訳、新潮社、1996 / 2007)を脚色したもの。

12歳の少女、シエルバ・マリーアがある日、狂犬に噛まれ、修道院に収容される話だ。狂犬病か悪魔憑きか、その彼女に対応すべく遣わされてきた修道士カエターノが恋に落ちる。とても簡単にまとめるならば、そんな恋の話だ。

が、それだけではない。それだけですむはずがないじゃないか。

とりわけ原作『愛その他の悪霊について』で印象的な要素は音楽と、そして、異なる論理(とでも言えばいいのか?)の存在だ。

シエルバ・マリーアの父、カサルドゥエロ侯爵の家の隣には精神病院があり、そこからしょっちゅう音楽が流れてくるのだ。しかるに、これを脚色した『メメント・モリ』は音楽劇だ。今回も神田晋一郎の音楽と生演奏つきで、役者たちは歌を歌った。スチール・ドラム風の打楽器が時折混じるピアノの演奏と、それに合わせた歌が、時にコミカルなリズムを与えて劇にアクセントをつけていた。劇のフレームの外の音楽がある以上、フレームの中に音を生じさせる必要もない。音楽と物語とのこの関係の差異(フレームの内か外か)が原作小説と脚色した劇との最大の差。

もうひとつの要素。『愛その他の悪霊について』で印象深いのはシエルバ・マリーアが黒人奴隷に育てられ、その世界に親しんでいたということだ。『百年の孤独』のレベーカがスペイン語を話せなかったように、ガルシア=マルケスの小説には何人か、白人クリオーリョの文化とは相容れない世界に育った人物が出てくる。とりわけシエルバ・マリーアは、修道士カエターノのキリスト教的価値観やヨーロッパ的教養、クリオーリョのカサルドゥエロ侯爵の世界観と齟齬をきたして印象に残る人物だ。

――と、そこまでの記憶はなかったのだ、ぼくはこの小説に関して。たぶん。これを脚色した劇『メメント・モリ』こそがぼくにそのことを思い出させたのだ。おそらく。黒人奴隷的世界観がクリオーリョ社会との間に軋轢を引き起こすことを思い出させるこの劇は、登場人物の多くを独白によるナレーターとしても起用し、多数の声をも響かせ、多数の他者の共存と拮抗をあぶり出して面白い。

ちょうどその前に行っていた仕事というのが、Walter Mignolo, The Idea of Latin America (Blackwell, 2005)などを引きながら、ラテンアメリカ主義的な解釈からカルペンティエールやガルシア=マルケスを解放し、たとえばアフロカリビアン文化との観点から読み直すことが必要だ、と説くための準備だったので、同時性に軽い興奮を覚えながら見ていたというわけ。

2013年5月6日月曜日

行き交う人と連鎖する文化


今日も光を捉えてきたぜ。今日は石神井公園ではなく、善福寺公園。

青木深『めぐりあうものたちの群像:戦後日本の米軍基地と音楽1945-1958』(大月書店、2013)

をめくっていたら、アメリコ・パレーデスが進駐軍の通信隊員記者として来日し、そこで出会った日系ウルグアイ人女性と結婚したこと、メキシコの「ジプシーの嘆き」が日本語で歌われていることに驚いたことなどが紹介されていて、軽い興奮を覚えた。Ramón Saldívarのパレーデス研究などによるところも大きいのだろうが、このパートの前に挿入された思い出話によると、青木は偶然サンディエゴの博物館で見たコリード展とそこにあったパレーデスの『ピストルを手に携えて』(1958)を見つけ出し、これと進駐軍のリストにあったパレーデスなる人物とのかかわりを探る気になったらしい。この本は一橋に出された博士論文が基になっているというから、マイク・モラスキーの指導を受けた人なのだろう、青木さんは。面白い。

実に興味深い。あのアメリコ・パレーデスが日本に来ていたなんて。

「グレゴリオ・コルテスのコリード」と呼ばれる民衆詩(コリード)群を研究して、テキサスの国境警備隊(テキサス・レンジャー)の横暴への恐怖と反感とを読み取り、チカーノ(メキシコ系アメリカ人)研究の一大メルクマールとなった『ピストルを手に携えて』With His Pistol in His Hand はこの分野の古典だ。副題を A Border Ballad and Its Hero という。英語の文脈にとってわかりやすく、border balladとしているが、それが、コリード。そしてまたballadとするに格好なことだが、これは中世スペインで叙事詩が断片化して生まれた民衆詩ロマンセromance(だから、まさに、バラードなのだが)の新大陸版変種のひとつなのだということだ。パレーデスの研究はそうした歴史的展開をも含むものだった。ロマンセが境界地域の緊張を背景に産出されたように、コリードも境界地帯の緊張を背景に持つ。「グレゴリオ・コルテスのコリード」とはそうしたものだ、と。

『ピストルを手に携えて』にはそのコリードの歌い方をも書かれていた。胸を張って顔を大きく反らせ、口を大きく開けて高らかに歌うのだ、と。「近頃のパチューコども風ではなく」と。(パチューコというのは、特に1940年代カリフォルニアあたりのチカーノの不良集団のこと。オクタビオ・パスのメキシコ人論『孤独の迷宮』は、この集団のメンタリティの分析から始まっている)

ぼくは以前、ルイス・バルデス『ズート・スーツ』の少なくとも映画版(1981)の狂言回し「パチューコ」(エドワード・ジェイムズ・オルモス)の姿勢が、この記述に端を発するのではないかとの予想を話したことがある。授業でも一度か二度、扱っているはずだ。バルデスがこの原作戯曲(1978)を仕上げるためにコリードの研究などをしたことは知られている話なのだし、と。

バルデスの戯曲=映画の舞台となったのは1940年代のカリフォルニア。1941年、実際の冤罪事件が基になっている。日米開戦の年だ。当時流行っていたズート・スーツは特にチカーノたちの専売特許というわけでもないが(たとえばキャブ・キャロウェイのような黒人も着た)、このチカーノ、特にパチューコたちのファッションは、メキシコのカウンター・カルチャーの走りともなった。とホセ・アグスティンは書いている。

ズート・スーツというのは、幅広で裾だけぎゅっと締まったボトムズにダブダブで長い上着のスーツのこと。この上下をボンタンに特攻服と読み替え、「ヤンキー」ファッションと称したのは30数年後の日本の不良(パチューコ)たちだった。彼らは「ローライダー」よろしく「シャコタン」にした車に乗っていたっけ……

連鎖するのだね、文化は。

2013年5月5日日曜日

人はコーヒーのためにのみ生きるのではない


ちょっと前にアントニオ・ロペス展などに行ったせいか、石神井公園に散歩に行っても、水面の光を捉えたくなってしまう。

なんちゃって。

スターバックスに「ミディアム・ロースト」を名乗る豆が売っていた。250グラムで。

常々言っているように、ぼくは深煎りの豆というのが嫌いだ。ある種の豆の酸味を消し、苦みだけを際立たせるからだ。エスプレッソだって深煎りではない豆で淹れた方が美味しい。エスプレッソを深煎りにするのは、輸送に時間がかかっていた時代に、鮮度をごまかすために採った方策にすぎない。それだけのことなのだ。

で、「アメリカン」などと揶揄されるほど薄いコーヒーを飲んでいた人々が、イタリア式のエスプレッソに出会って驚き、濃さと深さを取り違え、その真似をして、しかしその実、そこから展開したバリエーション(フラペチーノだなんたらだ、など……けっ! 邪道だぜ)でポピュラリティーを獲得した、といった態のスターバックスなど、片腹痛い存在なのだった。

……ま、たまには使うけどね。

でもまあ、そのスターバックスの所業だ。もっと疑ってかかるべきだった。おお、そうか、ミディアム・ローストか。中煎りか。コロンビアがあるではないか。買ってみよう。と買ってしまったのだ。

やれやれ。しかしこれは、もう立派な深煎りだと思うな。そんな代物だった。コロンビアをこんなに深く煎っちゃいけない。台無しだ。

とはいえ、縮小経済を生きる身だ。そう簡単には捨てられない。悩ましい話だ。

2013年5月4日土曜日

30年後の続編


ご恵贈いただいた。

増谷英樹、富永智津子、清水透『21世紀歴史学の創造⑥ オルタナティヴの歴史学』(有志舎、2013)

3人の著者が薄めの著作ぐらいの長さの論文を書き、それにこのシリーズ(「21世紀歴史学の創造」)の主体だろうか? 研究会「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」のメンバーと思われる人々による座談会が付された一巻。

第3部の執筆者・清水透さんからいただいたのだ。さっそく、彼の書いた:「砂漠を越えたマヤの民――揺らぐコロニアル・フロンティア」(pp.201-290)を。

リカルド・ポサスの古典的民族誌『フアン・ペレス・ホローテ』の翻訳とそこで語られていたマヤ先住民フアンの息子ロレンソへの聞き語りをまとめ、ふたつをひとつにして『コーラを聖なる水に変えた人々』(現代企画室、1984)として出したのが、ぼくが大学1年生だったころの清水先生だ。ぼくはその本を読み、サークルのガリ版刷りの機関誌に書評を書いた。そんな思い出話を、そういえば、最近、東京外国語大学出版会のPR誌『ピエリア』に書いたのだった。今回の論文(本人の呼び方にしたがって「作品」と言おう)は、その『コーラ』の続編とも呼ぶべきものだ。ロレンソの孫フアニートの話なのだから(フアニートの父、ロレンソの息子は早く死んだ)。

フアニートが、村の役職を不当と感じ、加えてある詐欺まがいの出資話で借金を背負い、仕方なしに、ポジェーロと呼ばれるブローカーを介してアメリカ合衆国に不法入国、ニューヨークのスタテン島で親戚を頼って仕事を得、家族に送金するという話だ。国境を越えてから行方がわからなくなったフアニートを探す話から始まり、行方を突き止めた後に何度か通って彼の話を聞き、そしてまた彼の義理の弟ロセンドや従兄弟の友人アグスティンら、三様の不法移民労働の話を聞き(ロセンドはアトランタ、アグスティンはタンパ、とそれぞれ働きに行った場所が異なる。そしてまた2人は、既に故郷に戻っている)、彼らの経験を再構成しつつ、その間のメキシコや合衆国の社会の変化を見直してもいる。

フアン・ペレス・ホローテや息子のロレンソの村は、メキシコ南部チアパス州のチャムーラというところだ。清水氏はそこにもう30年以上、毎年のように出かけて行ってはフィールドワークをしている。聞き取り調査を基礎にして、先住民村落から歴史を捉え返すという試みをしてきた人だ。『コーラ』の後には、プロテスタントの導入などによる村落の変化をたどった『エル・チチョンの怒り』(東京大学出版会、1988)などを出している。これがチャムーラの姿に関する『コーラ』の続編だったとするなら、今回の「砂漠を越えたマヤの民」は、ペレス家の一家の物語という意味での続編だ。ソノラ砂漠を越えて苦労して合衆国に職を見出すフアニートやロセンドの語りは、キャリー・ジョージ・フクナガ『闇の列車、光の旅』(アメリカ、メキシコ、2009)などの映画やホルヘ・フランコ『パライソ・トラベル』田村さと子訳(河出書房新社、2012)(国は違うけれども)らの物語を想起させる。巻末の討論で南塚信吾に「ノンフィクションの私小説」(348)と規定される語りの選択の妙味だ。

もちろん、こうした不法移民労働が問題になるのは、言うところのグローバリゼーションとの関係もある。実際、チアパス州は、『エル・チチョンの怒り』の少し後から、サパティスタの蜂起によって一気にグローバル化とそれに対抗する勢力のフロンティアとして前景化された場所だ。グローバル化をもたらした新自由主義経済は社会変化の大きな要因のひとつだ。「新自由主義による農業の破綻は、村人から出稼ぎ先を奪い、食料を奪い、生存維持をも危うくする深刻な事態をもたらした」(218)のだ。

植民地主義が先住民村落にもたらしたものは、カトリックの教会を基盤とする統治システムであり、植民地期には、支配される側の世界観に、うまい具合にもうひとつの権威としての王の存在を組み込んだ。独立によってその王が共和国大統領に取って代わったものの、基本的には同じ構造が維持される。1910年からのメキシコ革命でも変わらない。こうした植民地の遺制ともいいうる社会構造とそれがもたらす人々の意識が、「液状化」し、人の流動が激しくなったのが新自由主義以後の社会変化の結果なのだという。人々の共同体に対する認識が変わっていくのだ。

グローバル化がもたらす痛みや貧困、悲惨、新興勢力(ここでは、ポジェーロ)の成金化、などを描きつつ、しかし、変化する共同体に対するインタビュー対象の意識を捉え、「『五百年』にわたる植民地性から解放されつつある彼らには、自己再編の新たな道がようやく開かれはじめたといえるのである」(287)と結ぶ清水さんの希望には、確かに「オルタナティヴの歴史学」を模索する者の意気込みが感じられる。悲惨をもたらすグローバル化は、うまくすれば植民地主義からの解放かもしれない。

2013年5月1日水曜日

写真はデフォルメする


大学でいくつか仕事を仕上げ、行ってきた。


もちろん、ビクトル・エリセ『マルメロの陽光』(1992)でマルメロを描いていた、あの画家のことだ。「グラン・ビア」という、文字どおりマドリードの目抜き通りグラン・ビーアを描いた絵などで知られる(ザ・ミュージアムのページにはこの絵が掲載されている)。エリセは来日時、ロペスが(ジャスパー・ジョーンズらの)スーパー・リアリズムと比較されるのだなどといっていた。いかにも、実に写真を切り取ったようなリアルな筆致で有名。入場券になった「マリアの肖像」にしても、「グラン・ビア」にしても、写真かと見まがうほどだ。

が、ぼくはそれと意識してロペスの絵を見るのは初めてだと思うが(長崎県美術館に行ったときには「フランシスコ・カレテロ」は展示されていなかったと思う)、何と言うのだろう、特にマドリードを描いた一連の大きな絵など、息を呑むほどに写真的なのだが、近づいてみると、紛うかたなき油絵の筆致。なんだかその質感というか手触りというか、それがはぐらかされるのだ。

たぶん、このマジックこそがロペスの面白み。今回の展示品では「死んだ犬」(1963)や「眠る女(夢)」(1963)、奇しくもぼくが生まれた年に描かれたこの2点に集約される、不思議な現実感覚が驚きだ。

私が実際のモデルを前にしているとき、もし私が何かを描かなくてはならなくて、その写真を与えられたとしたら、そのプロポーションを写すのに、私は三〇分で済ませてしまうでしょう。私にとって最初はとても簡単なのです。私にとって難しいのは、光を当て、大きさを決めることです。まさしくそれは、写真が決して私に与えてくれないものなのです。(略)私が言いたいのは、写真を撮っても、写真はデフォルメするということです。写真はデフォルメします。経験から分かったのです。写真をこうして置くと、物が動き始める。(『アントニオ・ロペス――創造の軌跡』木下亮訳、中央公論新社、2013、144、145)

写真はデフォルメするのだ。絵とは異なる形で現実をデフォルメする。遠近法と光、色彩によってその現実を克服しようとしているロペスは、とても不思議な感覚を見る者にもたらす。