2020年7月20日月曜日

英題カタカナ表記でない題名の映画にほっとする


上のタイトルにリンクがある。映画の公式サイトだ。そこで見られるトレーラーを見ると、きっとあなたは頑固老人と気のいい若者の世代を超えた相互理解、場合によっては恋愛の物語だと思うことだろう。

ところが、そんなわけはないのだな。そんな単純ではない。主人公エルネスト(ホルヘ・ポラーニ)は半ば盲目だし、彼と仲良くなるビア(ガブリエラ・ポエステル)は手癖が悪い。エルネストはそんな彼女の悪癖を知りながら家の中に入れ、わざと金を目につくところに置き、手紙を読ませ、返事を代筆させる。ビアの怪しさを警告する家政婦のクリスティナ(アウレア・バプティスタ)をエルネストは解雇し、その支払いなどをするサン・パウロに住む息子ラミロ(ジュリオ・アンドラーヂ)に心配をかける。金持ちの老人が死を目前に控えて乱心、若い娘に手玉に取られ、遺族との相続争いが起きる、そうした類いの老人(ただし、エルネストには遺産はないと思う)のメンタリティを説明しているのか、と思いたくなる時もある。なかなかのくせもの。

が、あくまでもストーリーを最後にまとめるのは、手紙。そもそもウルグアイを捨てて(大統領官邸の写真家だったとのことだから、きっと政治亡命だ)ブラジル南部ポルト・アレグレに住むエルネストの許に舞い込んだ、故郷の旧友の死を知らせる、その妻からの手紙で物語は始まり、目が見えないのでそれをビアに代読してもらい、返事を書くという文通が彼らの関係を繋ぐのだ。隣に住むアルゼンチン人の友人ハビエル(ホルヘ・デリア)がウルグアイにはインターネットがないのかなどと憎まれ口というか冗談を言うのだが、この時代に手書きの手紙をやりとりするという、なんとも心躍る話だ。トレーラーの最後に「エルネストが最後に書いた手紙の宛先は……」というナレーションがあるが、それが、クライマックスのポイント。

エルネストは目がほとんど見えないという設定なので、オープニングからピントのぼけた映像を多用する。物語途中ではほとんど気づかないくらいだが、画面端の事物(本など)はピントがぼけている。最後のシークエンスまでそれは続く(つまり、最後のシークエンスはそうではないのだが、それがどんなだかは言わない)。こうした画面処理なので、たとえばハビエルの妻が死んだときの見せ方などがうまく活きてくる。

セリフはスペイン語とポルトガル語が入り交じる。エルネストのセリフなど、複文の前半はスペイン語だったのが、後半はポルトガル語になっている、なんてのもある(あったと思う。たぶん。僕にはそう聞こえた)。こうした言語状況も興味深いところ。さすが、伊達に英題カタカナ表記の安易なタイトルを回避していない。ちなみに原題は Aos olhos de Ernesto (エルネストの目から見て)。

りんごのパイ。食べかけ。記事内容との関連は特にない。

2020年7月19日日曜日

レヴィ=ストロースではない。リーヴァイ・ストラウス

ジャン!

……という始まり方も気恥ずかしいのだが、久々のリーヴァイス。502。僕はこの型がいちばん好きだ。

ハイティーンから30歳代のころまでは31インチを履いていたのだが、さすがに40を過ぎたころから少しきつくなり、32インチを履くようになった。40代も終わりにさしかかるころには33インチがぴったりくるようになったけれども、ここ数年、急激にウエストが太くなり、さらに2-3サイズ大きくしてもきついくらいになった。怖くなってその頃にはリーヴァイスからは目を背けてしまったのだが、去年からだいぶ贅肉を落としたこともあり、久しぶりに履いてみようと思ったのだ。サイズは無理すれば32インチでも入るくらいだったので、試着室で小躍りしたものだ。が、夏なのであまりぴったりでも暑苦しいだろうと思い、33インチにした。10年前くらいの体型に戻ったということか? 来年の今ごろにはもう2サイズ小さいものも履けるようにしたいと思うのである。そうなると30歳代のころにまで戻ることになる。それ以下はさすがに骨格などにもかかわることだし、望めないだろう。大相撲も始まったことだし、がんばる。

老化のもうひとつの症候としては大胸筋の上と下が分離しがちになることだが、これは別の話。

2020年7月17日金曜日

冬を待ちわびて

届いた! 

ちょっとピンボケで写したこれは何かというと、これだ:

ガス・ファンヒーター。

前に報告したように、ガス栓を開けたので、冬になる前に買ったのだ、ガス・ファンヒーター。

ずっと以前、これを使っていた。スイッチを入れたらあっという間に温かくなる。エアコンと違って低い位置を走る熱なので、暖かさが違う。とても気に入っていた。でも、その後しばらく床暖房のある部屋に住むことになり、ガス・ファンヒーターは手放した。床暖房はさらに温かく、これがあればエアコンはいらなかった。

で、床暖房のない部屋に引っ越した。冬はホット・カーペットを敷くことにした。でも、やはりカーベットだと邪魔くさい。ずぼらな僕にはあまり馴染まない。

ホット・カーペットを捨てたはいいが、では、冬の寒い時期、どうすればいいのだ? ガス会社の人に訊いたら栓をつけることは可能だとのことだったので、では久しぶりにガス・ファンヒーターに戻ってみようかと思ったのだ。

暖かい。暖まるのも早い。さすがだ。

早く冬にならないかな♪……

2020年7月15日水曜日

上半身裸の男たちと裸足の女

ペドロ・コスタ『ヴィタリナ』(ポルトガル、2019年)

試写会に呼んでいただいた。

僕はコスタはよく観ていると思ったのだが、実はそんなことなくて、『ヴァンダの部屋』(2000年/もう20年も前だったのか!)とオムニバス『ポルトガル、ここに誕生す』の中の一篇くらいしか観ていないようだ。本当はこの『ヴィタリナ』も前作『ホース・マネー』(2014年)らと関連づけて見た方がいいのかもしれないが、それはできない。

リスボンに暮らす旧植民地カーボ・ヴェルデからの移民労働者が死に、その妻ヴィタリナがやって来る。彼女は夫の部屋で葬儀後の喪のつとめを果たしながら周囲のカーボ・ヴェルデ人コミュニティの男たち、信仰を失ってしまった神父、若い労働者とその恋人(? 妻?)らと話し、夫のことを話す。

通常の移民という形態と異なり、ここでは男だけがあたかも出稼ぎのように家族を残して(かつての)メトロポリスに仕事に出るということ。ヴィタリナは1982年に結婚し、その後、何度か帰ってきては子どもを作った夫を40年近くも待っていたと、夫に語りかけるように言う。夫は結婚していながらいろいろな女の尻を追いかけ、パリにまでも行ったとのこと。カーボ・ヴェルデに大きな家を作っていながら、リスボンのこのスラムの家はあまりにもみすぼらしいなどと不平を言う。

つまりこれは、植民地から旧メトロポリスへの移民というだけでなく、単身赴任する男たちとそれへの妻の復讐の物語でもあるのだ。たとえばプア・ホワイトを描くケン・ローチとは違う切り口(植民地主義の遺制)に加え、男と女の問題という軸も加えているということだ。

だが、何よりもコスタの素晴らしいところは、映像だ。暗い夜道の葬列に始まって、ほとんどが暗闇の中に光が差し込む家や教会の中でのシーン。鮮やかな光と影のバロック絵画のようなコントラストの中にアフリカ系の住民たちが美しく浮かび上がる。ントニという若者と話すときのヴィタリナはちょうど鴨居や窓枠に囲まれて一幅の絵画のようだ。

フアン・パブロ・ビジャロボス『犬売ります』平田渡訳(水声社、2020)最近出た。

2020年7月14日火曜日

またセレーナ・ゴメスに会ってきた。

いつだったか、そう、『バードマン』の直後に『マジック・イン・ムーンライト』を観て、立て続けにエマ・ストーンに会った、と書いたことがあったが、今回もウディ・アレンがらみでひとりの女優を立て続けに観ることになった。今回はジャームッシュの直後、またセレーナ・ゴメスを観たという話。


ウディ・アレンには幼児虐待の嫌疑がかかっていて係争中だが、係争中なので、つまり、まだそれが事実だと認定されたわけではないので、上映される以上は観ておきたいもの。

ヤードリー・カレッジというところに通うニューヨーク出身の金持ちのボンボン、ギャツビー(ティモシー・シャラメ)が、ガールフレンドのアシュリー(エル・ファニング)に間接的に振り回されて雨のニューヨークをさまよう話。

大学新聞に憧れの映画監督ローランド・ボラード(リーヴ・シュレイバー)のインタヴューを掲載できることになったアシュリーとともにニューヨークにやって来たギャツビーだが、彼女が監督に気に入られ、脚本家のテッド・ダヴィドフ(ジュード・ロウ)、人気俳優フランシスコ・ベガ(ディエゴ・ルナ)と次々と知り合い、気に入られ、移動し、いつまで経っても再会できない。ギャツビーはギャツビーで高校時代の恋人の妹チャン(セレーナ・ゴメス)に再会し、アシュリーにはふられたと思い込み、行くつもりのなかった母主催のパーティーに行くことになり、……というようにすれ違いを繰り返す。

ウディ・アレンの映画を観るといつもチノパンツとツイードのジャケットを買いたくなる。ツイードはさすがに今は季節ではないけれども。シャラメがニューヨーク初日にはいていたチノパンに似たやつを僕がいつかはいていたとしたら、この衝動に抗しきれなかったものと思っていただきたい(ちなみに、履いていた靴は僕も持っているコンヴァースのジャック・パーセル。でも雨の日には履きたくない)。

上映パンフレットや公式サイトにはいつもエンドクレジット同様、挿入曲のリストをぜひ載せていただきたいと思うものだ。シャラメがゴメスの五番街の豪華なアパートでピアノを弾きながら歌う曲が、なんとも言えずおかしな歌詞で、それに似合わぬすてきなメロディで、それを聴きながら着替えるゴメスの表情と無言が、今回のハイライトのひとつだと思うのだが、その曲名、エンドクレジットでうまく確認できなかった。残念。
(※ その後、これは Chet Baker, "Everything Happens to Me" だと教えていただいた。感謝)

アシュリーはアリゾナ州のツーソンの出身ということになっている。これはわかる。ビートルズだ。ポールだ。"Get Back" だ。ジョジョがカリフォルニアのマリワナを求めて捨て去った家のあるところだ。
写真は薄曇りの東京。

2020年7月11日土曜日

赤いコンヴァーティブルのスマート


ジャームッシュがゾンビを撮った。様々なジャンルの関節を外してきたジャームッシュが、ゾンビ映画をどう扱うか、興味深い。

センターヴィルという小さな町でのゾンビ騒動。しかし、極地での実験で地軸がずれたことによる現象だそうで、ゾンビの出現やそれに先立つ昼夜のバランスの崩れは世界的なものだということが示唆される。警察署長のクリフ(ビル・マーレイ)と巡査のロニー(アダム・ドライバー)、ミンディ(クロエ・セヴィニー)が大量発生したゾンビたちに立ち向かうことになるのだが、彼らとは別に素晴らしい活躍を見せるのが、外国からやって来て葬儀屋の主人に収まったゼルダ(ティルダ・スウィントン)。居合いのようなものをたしなみ、首を切り落とせば動かなくなるゾンビをバッサバッサと切り捨てて爽快だ。

ジャンルとしてのゾンビ映画の枠をジャームッシュはメタフィクションの体裁をとることによって崩してみせる。かなり最初の方からその意図は明らかだ。スタージル・シンプソンによる書き下ろしの「デッド・ドント・ダイ」(もちろん、原題は映画のそれと同じく “The Dead Don’t Die” ちゃんと定冠詞がつく。「死人は死なない」)がカーラジオから流れると、聞き覚えがあるのはなぜだろうといぶかるクリフに対してロニーがあっさり応える。「テーマ曲だから」と。

葬儀屋ゼルダの正体が明かされるときがクライマックス。笑っちゃうんだな。椅子からずり落ちそうになる。ゾンビを扱うのなら、これくらいふざけなきゃという潔い姿勢だ。そしてこの直後にも俳優たちが俳優であることを暴露するような、メタフィクショナルな台詞が続き、映画は一気に終結に向かう。この結末もいい。

ゾンビたちがやっつけられる瞬間の映像処理がいい。犠牲者のひとりゾーイをセレーナ・ゴメスが演じているのだが、彼女のファンらしいジャームッシュが、しかしまたずいぶんむごい扱いをする(そういえば僕が観に行った映画館は『ミッドサマー』を観た映画館でもあり、そこではまだロングランが続いているのだが、あの映画の中ではビヨルン・アンドレセンにひどい扱いをしていた。あの扱いよりは少しポップ)。笑うしかない。

外枠全体をまとめるような役割を演じるのがトム・ウェイツ。その彼が墓場からメルヴィルの『白鯨』を拾い上げる箇所がある。そういえば『白鯨』って、どんな内容だっけ? と気になって、帰宅後、これまで探し続けているのだが、見当たらない。うーん、どうしたんだろう? いつもの欲しいときに本がみつからない症か? でもひょっとして、あの映画の中の『白鯨』は僕のものだったのではあるまいか? うーん……

2020年7月10日金曜日

フリオ・イグレシアスと肩パッド


怖い映画である。1982年のメキシコのロペス=ポルティーヨによる債務危機のころを背景に、それによって没落する家庭の主婦を描いた作品。マリア・グワダルーペ・ロアエサによる小説 Las niñas bien (1985)を原案とする。映画の原題もこれに同じ。ただし、パンフレットに文章を寄せた野谷文昭によれば、92年の小説 Compro, luego existo からも登場人物やエピソードを借りているらしい。「我買う、ゆえに我あり」だ。”niñas bien” は「良家の子女」などの意。ただし、もう少し多義的らしい。ラス・ローマスだかローマス・デ・チャプルテペックだか、ともかくメキシコ市西部の高級住宅街に住むソフィーア(イルセ・サラス)がメキシコの危機により没落する様子をゆっくり、執拗に描いた映画。妻たちのいわば社交界で花形だったソフィーアが夫の没落とともに疎まれるようになり、最初、軽蔑して仲間に入れたくないと思っていた証券ブローカーの妻アナ・パウラ(パウリーナ・ガイタン)と立場が逆転してしまう。

金持ちの妻たちの会話を、映画のパンフレットは「マウンティング」と表現する。なるほど、そういう側面はある。でも、それだけではない。ソフィーアがアナ・パウラを快く思わないのは、いわば、悪趣味というか、品がないと思うからだ。それが例えば言葉遣いにも表れるからだ。「ごゆっくり召し上がれ」”Buen provecho” に縮小辞をつけて “Buen provechito なんて言う。「世界中/誰もが」という成句を “todo mundo” と言ってしまう。だからソフィーアは “provechito” なんて言うなとたしなめたり、 “todo el mundo” だと訂正したりする。アナ・パウラはたぶん、悪趣味で無教養な者とみなされる。その悪趣味が席捲してしまう時代の到来に、ソフィーアは圧倒され、打ち負かされる。

1982年。時代は世界的に新自由主義経済政策を採用しはじめたころだ。経済が政治の統制から自由になろうとしている時代だ。グローバル化の入口に来たのだ。血筋がなくても、教養がなくても、金持ちになったものが威張ることができる、そんな時代が始まったのだ。

屈辱的な現実を受け入れた後のソフィーアの行動に、夫のフェルナンド(ファビオ・メディーナ)が顔をしかめるところで映画は終わる。僕らはソフィーアの気持ちもフェルナンドの気持ちもわからないではない。品格などというものを信奉する気はない。かといって下品さを受け入れるわけにもいかない。辛いのだ。怖いのだ。

映画の中でシンボリックな働きをしているのが、なんといっても、肩パッド。これに命をかけているかのような時代が、確かにあったのだ。そしてあるとき、確かに女たちは肩パッドを捨てたのだ。流行っている当時はいいと思ったことのないフリオ・イグレシアスの「人生を忘れて」が、絶妙なタイミングで流れてきて、良い。蒙を啓かれたものである。

昨日、経営破綻したとのニュースが流れたブルックス・ブラザーズのポロシャツ。日本店は独立でやっているので、当分大丈夫だとのこと。これを最近買ったのだが、この映画を観たことを報告する記事についでに出すのはふさわしいような気がする。


2020年7月8日水曜日

事後報告

5日(日)には台湾の淡江大学での第9回村上春樹国際シンポジウムで発表した。リモートでだけど。

僕の発表は以前書いた「羊男は豚のしっぽの夢を見るか?」の内容を紹介しつつ、村上春樹の「キャラクター小説」としての成り立ちを『海辺のカフカ』や『騎士団長殺し』について、上田秋成のテクストの利用と関係づけて確認した。

2日目のその日の基調講演は沼野充義さんで、彼はもうすぐ発売されるはずの短篇集『一人称単数』の既に雑誌に発表済みのものと、先ごろ単行本化された『猫を捨てる』を取り上げて、作品内作品を提示するための仕組みとしての一人称単数という話をしておられた。7日(火)の授業でオートフィクションについて話す予定だった僕にも大いに役立つ話。さっそく授業で引用した。

2020年7月4日土曜日

久しぶりの映画館

本当になんでアルモドバル映画は英題のカタカナ表記ばかりなのか? 『ペイン・アンド・グローリー』(スペイン、2019)

『欲望の法則』と『バッド・エデュケーション』とで三部作をなす作品とみなされているらしい。自伝三部作。過去と和解することによってスランプから立ち直る映画監督をびっしりひげを生やしたアントニオ・バンデラスが演じるのだから、なるほど、自伝的だ。

32年前の『風味』という作品のリマスター回顧上映に出るように依頼された映画監督のサルバドール(バンデラス)はまずこの映画が基で仲違いした主演俳優のアルベルト(アシエル・エチェアンディア)と和解する。ついでに彼が嗜んでいるヘロイン(これが不仲の始まりだったはずなのに)に手を出し、やめられなくなっていく。

ところが、言ってはならないことを言ったことによってアルベルトはサルバドールに腹を立て、また口をきかなくなる。サルバドールはアルベルトが気に入っているらしい短篇「中毒」を演劇として上演することを許可してまた和解。

「中毒」はかつて同棲していた恋人に語りかける形のテクストであったため、その上演を見た実際のかつての恋人フェデリコ(レオナルド・スバラーリャ)が会いに来る。過去の恋人との和解。

偶然見つけた絵が、少年時代にはじめて欲望に目覚めた日に描かれたものだった。それまで再三にわたって過去の回想シーンがあるのだが、その回想の中でバレンシアのパテルナにあるクエバ(洞窟型住居)に住んでいたサルバドール(アシエル・フローレス)はエドワルド(セサル・ビセンテ)という左官にその絵を描かれ、その日に自身の性の志向に気づいたのだった。それを「はじめての欲望」という新たなシナリオに仕上げるが、それはまた母ハシンタ(ペネロペ・クルス/フリエタ・セラーノ)との和解をも意味するものだった。

バンデラスが一度cabrónという単語を発音する。それは彼のいつもの言語にはないはずのものだが、フェデリコとともにメキシコで過ごしていたこともあると説明され、実際のフェデリコに会ったときにもふたたび発されるので、なるほど、と納得。ペネロペはアンダルシア風にしゃべっているように思ったのだが、それはどういうことだろう? クエバを見てアンダルシアだと思い込んだことが原因なのか? 

2020年7月2日木曜日

相変わらずの物欲まみれ

6月にちょっと日記が途切れたものだから、ためしに一月書かないことにしてみた。で、もう7月になったので、久しぶりに日々のご報告。

物欲まみれなのだ。この一ヶ月に購入したもの。

まずはこれ。

これだ。ガス栓を開けたのだ。冬はガスファンヒーターを使いたいので。

ついで、シャツをあつらえたのは、ちょっと前に報告したように『着せる女』を読んだから? ネクタイを締めるためのシャツはオーダーメイドで作ることにしているのだが、それは大抵、何かネクタイを締める用が控えているときだったのだが、今回は、特に用もないのに作ってみたのだ。非常勤先の大学の近くにも、勤務先の大学の近くにも、そして自宅の近くにもあるオーダーメイド・シャツの店〈コルテーゼ〉で。

そしてなんといっても、これ。エルゴヒューマン・プロ。オットマンつき。立って仕事をする時間が長いけれども、座ることもある。座るにはやはり座り心地の良い、疲れの少ないものにしたい。いろいろと見てこれがいちばん食指を動かされたので、買ってみた。

実はこれ、こんな風になる。これではわかりづらいか?

こうなるのだ。つまりは憧れのシェーズ・ロングのように寝転ぶための椅子となるのだ。楽ちん♡