2020年2月26日水曜日

失ったものと得たもの


比較的よく歩く。時には大学までも歩いて通勤する。

今日は入試の2日目だった。病み上がりだというのに、いや、病み上がりだからこそ、混雑を避け、そしてcovid-19を避け、歩いて行った。もう少しで大学に着きそうだというところで血の気が引いた。

時計を忘れた! 

今日の業務には時計が欠かせないのだ。皆で時刻合わせをするほど、時計を持参することが必要とされるのだ。で、まだギリギリ間に合いそうだったので、タクシーを拾って我が家との間を1往復。時計を回収してきた。

途中、慌ててどこかで手袋を落としてしまった。

開始前、事務の人に予備の時計を借りる同僚がひとりふたり……なんだ、借りられるんじゃないか! 

疲労困憊、帰宅したら到着していた。


日々、大量の書類を必要とする。今ではPDF化して保存したりするが、それでも一定期間は持っていなければならない書類も数多くある。紙のままで持ち歩かなければならない書類もある。そんなときに重宝するのがこれ。こんな感じの複数のファイルをこのケースに挟んで紙束を揃えるときのように背をトントンと机に打ちつけると、……

製本したようになり、開くことができる。

すごいだろ? 

2020年2月19日水曜日

師の自伝に触れる


清水透『インディオの村通い40年 〈いのち〉みつめて』(岩波ブックレット、2020)

これはちょうど去年の今ごろ、『東京新聞』に連載されていた同名のコラムを加筆の上でまとめたものだ。僕は『東京新聞』を講読しているので読んでいたのだが、こうして一冊にまとめられると、切れ切れに読むよりも繋がりがわかりやすくなっていい。

メキシコ南部のマヤ系インディオの村に通い、その村の住民についてリカルド・ポサスが書いたエスノグラフィー『フアン・ペレス・ホローテ』の翻訳とそのフアンの息子ロレンソに自らが取材したエスノグラフィーとを併せて『コーラを聖なる水に変えた人々』を出版し、その後、そこから歴史記述の見直しに取りかかった『エル・チチョンの怒り』、ロレンソの孫の国境を越えての出稼ぎ旅を追った「砂漠を越えたマヤの旅」(『オルタナティヴの歴史学』所収)といった自分の仕事を仕上げるに当たってのフィールドワークの思い出と、そこで感じたこと、その間に自分の身の回りに起こったことなどを簡潔にまとめ、これからの展望でまとめている。

愛娘・真帆さんの病気のころは、僕は清水先生と一対一で授業を受けていて、その辛そうな日々を知っているだけに涙なしでは読めない。でも、彼女が亡くなった後、家族のそれぞれが抱く記憶のズレからマヤのインディオ社会に思いを馳せ、自身の研究の基盤はあくまでもこうした個人の思いと、それを支えるいのちであることを表明し、後半のこれからの展望に繋げる。読者としても清水先生のこれからが楽しみなのである。

ところで、少し話はずれるが、研究対象とのラポール形成の難しさを説いた前半で、「ではどのような道があり得るのか。/「限りなく寄り添う」というひと言が思い浮かぶ」(17ページ)と態度表明している。愚かな宰相が「寄り添う」の意味をすっかり変えてしまった現在、この語の本来の意味を取り戻さねばな、などと思うのだった。

買ってみた。

東レのトレビーノ浄水ポット。ずっとペットボトルのミネラルウォーターを冷蔵庫に入れていたのだが、こまめに買い足すのがなんだか馬鹿らしくなり、評判のいいこのブツを。

こうして冷蔵庫に入れて、出かけるときにはそれを先日報告した水筒(※)に入れ替えて持っていく。水分補給はこれで安心だ。

※ ブログでは報告していないのだった。インスタグラムのこれ(リンク)。あるいは上の写真に写り込んでいるあの黒いもののことだ。

2020年2月3日月曜日

(Im)possible Dream (Quest)


『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』(スペイン、ベルギー、フランス、イギリス、ポルトガル、2018)

かつてテリー・ギリアムが『ドン・キホーテ』を撮ろうとして挫折したさまを扱ったドキュメンタリー『ロスト・イン・ラ・マンチャ』を観、そのドキュメンタリーというか変形メイキングは面白いものの、ギリアムが考えている『ドン・キホーテ』はあまり面白くなさそうだなと思った記憶がある。正確にはどんなものを想像したのか知らないけれども。

で、あまり期待せずに見に行ったのだが、これが実に面白かった。

ラ・マンチャ地方で『ドン・キホーテ』をベースにしたCMを撮影中のトビー(アダム・ドライバー)が、その先の進行に悩んでいたところ、偶然、学生時代の卒業制作に撮った自身の『ドン・キホーテ』のDVDを見つける。そこで主人公のキホーテを演じた靴職人ハビエル(ジョナサン・プライス)を訪ねていったところ、彼は自身をドン・キホーテだと思い込み、姪(たぶん)に監禁されていた。ハビエルはトビーをサンチョ・パンサと認識し、いろいろとゴタゴタがあって、かくしてドン・キホーテの新たな旅が始まった。

つまり、原題を The Man Who Killed Don Quixote というこの映画は、外の枠組みはもちろん現代の映画監督が引きずり込まれるゴタゴタではあるのだが、彼が引きずり込まれるそのゴタゴタした世界は『ドン・キホーテ』後編の世界なのである。もちろん、風車のエピソードなどの前編のエピソードも取り込まれてはいるが、銀月の騎士は出てくるし、既に『ドン・キホーテ』前編を読んでいる公爵夫人に似た存在、木馬クラビレーニョの冒険などが主に使われている。そしてドン・キホーテは最後に正気に戻る。

つまり一種メタフィクション的な構造を持つ後編だからこそ、現代と過去、映画の世界と文学の世界を交錯させるのに適しているのだ。ドン・キホーテ主従が出会った「公爵夫人」(原作の公爵夫人に当たる人物)一行は、トビーを探していたスポンサーの情婦(ということだと思う。オルガ・キュリレンコだ)が、ロシアのウォトカ王アレクセイ(ジョルディ・モリャ)の城で開かれる聖週間の仮装パーティーに向か途中だったという具合だ。

そのせいか、だいぶ前半、アダム・ドライバーがバイクを駆ってカスティーリャの台地を疾走するロングショットは、数々のマカロニウエスタンやペドロ・アルモドバルの映画(たとえば『トーク・トゥ・ハー』)を思い出さないではいられない。

トビー役は当初、ジョニー・デップが予定されていたのだが、アダム・ドライバーでよかったんじゃないかな。


池袋に巨人=風車を見た。焼却炉の煙突だけど。光が面白い。

2020年2月2日日曜日

ウツウツと鬱小説を読む


ミシェル・ウエルベック『セロトニン』関口涼子訳(河出書房新社、2019)

こんな風に並べて、既にスピン(栞紐)をかけて最初に読むぞとの構えを見せていたのに、時間がかかったのは、時間をかけていたのではない。授業や〆切の原稿に追われて他を優先していたので半分くらいまで読んだところで中断していたのだ(結局、『シンコ・エスキーナス』の方を先に読んだ)。それで、今日、残りを読んだ次第。

ウエルベックにはどうしても社会の風潮を先取りしているという評価がつきまとうもので、今回もジレ・ジョーヌの先取りなどと言われたのだが、やはりその点はあまり強調する必要もないかなと思う。これは、言ってしまえば鬱小説だ。タイトルの「セロトニン」が、そもそも抗鬱剤キャプトリクスというものによって分泌が増加する物質の名なのだそうだ。

鬱小説というのだから、とうぜん、自殺の小説でもある。主人公=語り手フロラン=クロードの両親は、夫の病気が発覚し、ふたり一緒に自殺(心中)する。牛乳の値段についての政策に抗議する酪農集団で英雄のように振る舞った学生時代からの友人エムリックは武装蜂起の際に自殺する。抗鬱剤を飲む語り手は、しかし、突然、自殺ではなく、殺人に向かったりするのだが(これが大きな転換点。少しハラハラ)……

ウエルベック作品で重要な位置を占める性も、今回は鬱、もしくは抗鬱剤に起因する問題になってくる。副作用でほとんど不能となった語り手が恋人ユズを捨て、昔の恋人カミーユのことを思い出し、家出し、エムリックに会いに行くが、彼は妻に逃げられていた。話は一気にコンスタントにセックスする可能性を奪われた、少しばかり時代遅れな男たちふたりの物語の様相を呈してくる。ふたりは一緒に音楽を聴くのだが、一方でフロラン=クロードが武器を供与されるのもエムリックからである。

そんなに長い時期ではないけれども、抗鬱剤を飲んでいた僕としては、身につまされるというか、辛いことばかりなのだった。こんなに辛いのになぜ読んじゃうんだろう? 面白いんだな、きっと。