2010年3月30日火曜日

身もだえする


チーズまんじゅう(これが絶品)やらかりんとうやら、いろいろとお土産をいただいた。ワインやサフランも。せっかくサフランをいただいたのだから、パエーリャでも作ろう。そのうち。

瀧本佳容子「アメリカ『発見』前夜のスペイン文学」は昨日挙げた『ラテンアメリカ 出会いのかたち』に所収のテクスト。ここで瀧本さんはスペイン留学中の話を書いてらっしゃる。マドリード・コンプルテンセ大学大学院の雰囲気とその変化も大いに気になるところだが、一度目の留学の際に聴講したという学外講義の話が何よりも身もだえするほどうらやましい。

王立アカデミーと名誉教授自由学校で講義を受けたというのだ。後者では『スペイン語の歴史』のラファエル・ラペサの講義に出たと。学生やかつての彼の学生だったような年配の人などが出席していて、一度など、質問も出ないくらいずっと彼の話を聞いていたいとみんなが思っていたのだと。何とも唸らせる話だ。

フランスにはコレージュ・ド・フランスという、大学とは異なる一般人向けの学びの場がある。フーコーなど、フランスの名高い知識人の多くは、ここの教授だった(ミーハーなぼくは、この前で記念写真を撮ったことがある)。コレージュを手本に、メキシコにはコレヒオ・ナシオナルというのができた。大学院中心の教育研究機関コレヒオ・デ・メヒコと同じく、アルフォンソ・レイェスがその設立に尽力したのだが、実はぼくはこのコレヒオ・ナシオナルについて多くを知らない。なんとも恥ずかしい。で、この名誉教授自由学校というのは、大学教授に定年制が導入されて以後、サンタンデール銀行などが出資してできた学びの場だというのだ。そこでラペサが、お付きの人に支えられながらも登壇し、しかしかくしゃくとして最新の知見を披露する講義を行ったというのだ。瀧本さんはその現場に立ち会った。ああ! 

確かに、若いころのぼくは、大学でも授業なんてほとんど出なかったし、偉い学者の話などたいして聞きたいとも思わなかった。それは多くの場合、日本の知識人が、面白いものを書く人でも話がへただったりしたからだ。少なくとも若いころのわずかな経験では、そのような観測を得たからだ。たぶん、話の面白い人だってたくさんいるだろうとは思うのだけど。まあともかく、大学の先生などは話が下手だな、と思う人が多かった。下手でなくとも、もどかしいなと思っていた。これではひとりで読む方が速いなと。

話の下手な人、少なくとも上手くなろうという意志の感じられない人、聞く者の気持ちを考えずに話す人への嫌悪感は相変わらずあるが、でも誰かの話を聞くことというのは、話の内容などとは無関係に、ある種のパフォーマンスへの参加として面白いし、重要なことだと思う。だから誰それのいつの話をどこそこで聞いた、などという話を聞くと、嫉妬を感じてしまう。ましてや、誰でも自由に、無料でその人の話を聞ける場があるということにはうらやましさを感じる。

2010年3月29日月曜日

これを何と呼べばいいのだろう?

ポストに見いだし献本は:

清水透・横山和加子・大久保教宏編著『ラテンアメリカ 出会いのかたち』(慶應義塾大学出版会、2010)

先日定年退職した編者清水透氏の周囲に集った、慶應義塾のスペイン語スタッフ(兼ラテンアメリカ研究者+スペイン研究者)たちが、自らのラテンアメリカ研究とのかかわりを語ったもの。フィールド派の歴史学者たる清水氏自身のスタンスを借りた14名の語る主体とのかかわりにおけるラテンアメリカ。

散歩がてら近所の書店で買ったのは、

マルカム・ラウリー『火山の下』斎藤兆史監訳、渡辺暁、山崎暁子共訳(白水社、2010)

1930年代のメキシコ、クエラナバカを舞台にした傑作小説の新訳。リベラの絵の表紙が美しい。まさに小説が展開するその名も「死者の日」を扱った絵。

ところで、パラパラとめくって最後まで達したら、なんと、次に出るぼくのかかわる本の予告が打たれているではないか。ああ、いよいよなんだな。その前に「あとがき」の校正をしなきゃ。

と思ったら、何だか赤ペンが進まない。はて……?

翻訳の校正なら、まさにそれにさいなまれていたのだった。勝手知ったものだ。編集者が鉛筆で指摘した箇所に気を配りながら、原文を見て、ときには原文から離れて、日本語を声に出して読んで、よりよい表現を探し、あるいは間違いを正し、……

うーむ。しかしここには「原文」がない。困った、翻訳でないものの校正ってどうやるんだっけ? 

別に初めての経験でもない。これまで数百ページ分も自分の書いた文章の校正をやってきているはずなんだけどなあ……。この仕事が終わった後も、休む間もなく次の著書(140ページくらい)の校正が始まるはずなんだけどなあ……。おかしいなあ……。

怒濤のような翻訳の校正の後に、翻訳でないものの校正のしかたを忘れたようになる。この現象を、人は何と呼べばいいのだろう?

2010年3月27日土曜日

卒業式

昨日は卒業式だった。いわば平の教員である身としては式に参加する義理などないのだが、今回は代理で出なければならず、出てきた。

外語の卒業式は生涯一度のこととして参加する身にはとても見物かもしれない。二度以上参加する身には苦痛だ。

1専攻語につきひとりの代表が卒業証書を受け取る。その際、専攻の卒業生数と代表学生の名前を読み上げる教員が、専攻語で短めのスピーチをする。日本語も含め26もの言語によるおめでとうが聞けるということ。これが大変だ。あらかじめスピーチは1分くらいにと言われるのだけど、それで済むはずもなく、ひとり3分、5分、7分と延びていく。都合、延々2時間ばかりの(大半は理解できない言語による)スピーチが繰り広げられることになる。

なんでも、今年退職されるドイツ語の先生が始めたことらしい。最初は「欧米第一課程ドイツ語専攻、卒業生60名、代表、●●」とやればそれでよかったらしい。ところがその先生、ドイツ語でスピーチを始めたというのだ。慌てたのはフランス語以下の24専攻語の先生たち(順番は英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、……となるので)。調子を合わせねばならないのかと思ったのか、それとも対抗意識か、それぞれの言語でスピーチをしたという。これが好評で、翌年からおきまりの儀式として定着したのだとか。

だいたいはネイティヴ・スピーカーの先生たちにやってもらう。ところが今年、スペイン語は専任のスペイン人の先生の入れ替わりの時期で、お願いすることができず、専攻語代表の先生は出張でスペインに行っている、新人が2人、図書館長として前に出ていなければならない人、などという陣容なので、仕方なくぼくがこの呼び込みの役を務めることになったという次第。それでボウタイなどを締めて行ってきたのだ。

スピーチ内容は、また後日。今日はこれからカンヅメだ。

2010年3月25日木曜日

眠い!

この2日、ベッドに横たわっていない。机上で仕事しながらうつらうつらする以上の睡眠を取っていない。

だというのに、今日は会議で、朝もはやくから大学に。ポストに見いだした献本が:

Gregory Zambrano, El horizonte de las palabras: la literatura hispanoamericana en perspectiva japonesa (Tokyo: Instituto Cervantes Tokio, 2009)

友人のグレゴリー・サンブラーノが、日本のイスパニスタ、ラテンアメリカ文学者にインタビューしたもの。不肖わたくしめもイタビューいただいているというしだい。年長では鼓直さんくらいからはじまって、40歳前後の人までのインタビュー集だ。

ありがとう、グレゴリー。

明日は卒業式♪

2010年3月23日火曜日

いただきました♪


よくオンライショッピングで利用するスペインの書店、Casa del Libro 。先日そこに注文したものが今日届き、その中に入っていたバッグ。以前、違う形状の緑色のものをもらったことがある。今回は肩から提げられるようになっている。

2010年3月22日月曜日

本の日の贈り物

4月の23日(金)は本の日。そんな日に、こんなイベント、やります。

ぼくが現在、周囲の人々に対して不義理をしているとしたら、この準備に忙殺されているんだと思ってくれ。

2010年3月20日土曜日

面はゆいとはこのことだ

教授会で配布されたのが、Globe Voice 第1号。いくつかあった広報誌を統合して新たに作った広報誌。ここに研究者紹介のページがあり、ぼくの紹介記事が掲載された。酒井啓子、星泉というスターに挟まれ、2ページものスペースを使って。教授会が終わってぞろぞろと帰る際に、何人かの同僚にからかわれた。

何だか恥ずかしい。

ぼくはこの冊子の企画を立てる委員を務めていて、案が上がってきたときに断るのもはばかれたという次第。

書かれていることはともかく、レイェス全集の写真や、ぼくがベネズエラで取っていたノートを撮影した写真が掲載されていて、プロの手でこうして写真に撮られると、何だか立派なもののように見えるから不思議だ。

2010年3月18日木曜日

感無量とはこのことだ

2年前の同じく3月18日にも同様のことを書いた。だが、今日は感慨ひとしおだ。通知がやってきた。日本学生支援機構からの通知だ。大学院修士課程での奨学金を完済したというのだ! 既に高校の分と大学学部の分の返済は済んでいる。博士課程の分は返済免除措置になるのを待っているところ(あと7年大学に勤務すれば免除)、したがって、事実上、この独立行政法人への債務はなくなった。ボーナスごとに数万円差し引かれることもなくなる(この借金での、という意味。他の借金は別の話)。

昼食の買い物に出て、帰ってきてポストにこれを見いだし、食事しながら開けてみてその事実を知り、食事中ぼくは涙に暮れた……というのは、誇張。でも、本当に、体調が悪ければ泣いてもおかしくないくらいの感慨にとらわれた。

2010年3月17日水曜日

眠りながら読む

昨夜、眠りながら読んだのが、

スティーグ・ビョークマン編著『ウディ オン アレン――全自作を語る』大森さわこ訳(キネマ旬報社、1995)

編著者によるシネアストへのロング・インタビューだ。ここでインタビュアーのビョークマンが『セプテンバー』(1987)のことを、アレンの「最高傑作の一本だと思います」(208)と述べていたことに不思議と感動してしまった。アレン自身はもっとも納得が行っているのは『カイロの紫のバラ』(1985)だと。

ぼくはやはりウディ・アレンの映画といえば『カメレオンマン』(1983)にとどめを刺すと思っているし、その次に優れているのは『カイロの紫のバラ』だとは思う。でもぼくがウディ・アレンに興味を持ち始めたのは『インテリア』(1978)からで、この作品や『セプテンバー』にも深い愛着を抱いている。いずれも母と娘の裏エディプス的(?)関係を扱ったものだけど、そのテーマが問題なのではなく、作品の持つ雰囲気として、この2作はいい。ひょっとしてアレンはこの問題を扱うときにもっともスタイリッシュになるのではないだろうか。『インテリア』の最後、姉妹が斜めに並んで窓の外を眺めるカットなんて、ぞくぞくするのだけどな。

そんなことを考えていると眠れなくなった。今日は寝不足だ。でも会議日だ。

2010年3月15日月曜日

疲れた目に世界は怖く、美しい

ぼくにも家族があって、その構成員のひとりが一番下の孫娘の小学校卒業のお祝いに上京したので、孫の親の家に泊まる代わりに送り迎えはぼくの担当ということになり、空港まで車に乗って迎えに行ったのだが(それが土曜日の話)、とてつもなく目が疲れた。眼球を取り出して裏にびっしりと張り付いた神経を1本1本やさしくマッサージしたいくらい疲れた。目が疲れると、なれているはずの車の運転が、いつもより少し怖く感じられた。

目がもう一段階悪くなろうとしているのか、それとも単なる寝不足だろうか? ビタミン不足? 疲労?

ぼくもスーパーで買い物をする。我が家のすぐ隣には業界最大手だか以前最大手だったかのスーパーマーケットがあって、雨が降ってもぬれずに行けるので、よく利用する。食品などを買って払いを済ませ、品物をプラスティックバッグに入れながら、疲れた目を癒すべく遠くを眺めていた。

何しろ疲れた目を癒すのだから、ただ眺めていただけだ。だから最初、それが何を意味するかわからなかった。

昨日がその日だったというのに、ホワイトデーのプレゼントコーナーと書いてあったように見えた。特設展示場の期間限定の展示物だ。ともかく、その方面に目をやっていた。

最初何だかわからなかったものが、だんだんと意味ある物体に変じてきた。箱に入った何やらよくわからないいろいろな商品に混じって、下半身、というか、臀部、そけい部というか、つまり尻だけのマネキンに女性ものと思われる下着が穿かせてあった。それが2体。1体にはニットのかわいらしいというか、あまり色気のないもの、もう1体にはレースの赤い、まあ何というか、大人向けのもの。

今さらそんなもので赤面するほど純情でもないし、欲情するほどフェティッシュでもない(若くもない、と言うべき?)、近くに行って確かめるほど厚かましくもない。それが本当にホワイトデーのプレゼント用お勧め商品として展示してあったとして、プレゼントに下着を贈るというそんな風潮に眉根を顰めるほどのモラル(?)も持ち合わせていない。やりたければいくらでもやれ。好きにしろ。ぼく自身は極度にシャイな人間だから、決してそんなプレゼントを贈ったりはしないだろうけど。

でも、それがこの大手スーパーの、食品売り場正面の展示スペースに、堂々と自身の存在を主張して置かれていることには、まだなんだか違和感のようなものを感じてしまう。しかも1日遅れだというのに、あの堂々たる居直りっぷり! 

きっと目が疲れてるんだな。何かを見間違えているんだ(でも、何を? どんな欲望があればそんな見間違えが起こるというのだ?)。目薬が切れかけていたから、それも買って帰ろう。問題の展示場の、2階への吹き抜けとエスカレーターを挟んだ逆の側にはちょうど薬局がある。

スーパーから帰って、数日分のポテトサラダを作り置きし、土曜日に母から土産にもらったコブシメ烏賊の味噌漬けと里芋を切り、小松菜の味噌汁を作ったはいいが、……はて、……ぼくの目が必要としているビタミンEだかBだかは、これらから摂取できるのか?

2010年3月12日金曜日

半日で終わった

後期日程入試。1科目だけなので、午前中で終わった。ただし、ぼくたちは午前で終わりではなく、午後は会議がいくつかあった。

共通一次世代で国立大学が一校しか受けられなかったぼくたちの時代と違い、今は二校受けられる。ただし、かつての一期校、二期校時代でもないので、1つの大学の2次試験を2回受けることができる(何年か前には後期日程入試を廃止する大学が出たはずなので、そこは一度だけ)。そのせいか、前期後期単一校併願という事態が起きる。そしてそうした併願者のうち、前期で合格した受験生が後期試験を受けないということもある。したがって、後期日程入試は欠席者が多い。定員が少なくて出願者の倍率は10倍を超えるけれども、そんなわけで、実質倍率はもっと小さくなる。ぼくが担当した教室でも、半分まではいかないが、けっこうな数の欠席者はいた。

電波式の目覚まし時計を持って行ったが、時計合わせのために表示された時間よりも数秒はやかった。電波時計といえども常に同一の時間を刻むとは限らないのだと知った。普段使っている懐中時計を取り出したら、秒針の進み方がおかしかった。2秒ずつしか進まないのだ。電池が切れかかっている。帰宅後、近所の時計屋で電池を取り替えた。

2010年3月11日木曜日

もう一踏ん張り

ぼくもこれまで何冊か本を出してきた。著書や訳書など。作っている最中に嬉しくなる瞬間というのがいくつかあって、そのうちの1つが本の装丁が決まるときだ。シリーズものである程度枠が決められているものはともかく、たとえば『春の祭典』の編集者が、マグナムからこれを取ってきたと言って、キューバ革命軍がサンタ・クララ市で撮影した写真を見せたときなどは、涙が出そうになった。『ラテンアメリカ主義のレトリック』のデザインを見せてもらったときの興奮は、どこかウェブ上に残されているはずだ。

次の翻訳にこれを使おうかと思うとの連絡を受け、若いアーティストの絵を見た今日は、そんなわけで、幸せだ。

もうすぐだ。でもその前に校正に精を出さなければならない。

今日、気分転換に逆立ちしようとして、できなくなっていたことに気づき、愕然とした。力が衰えたというよりは、バランスの取り方を忘れていたのだ。おれもヤキが回ったな。

……壁の助けを借りた。

明日は後期日程入試。またしても監督に立たなければならない。受験生たちももう一踏ん張り。

前期日程の発表は昨日だったのだろうか? 会議と会議の合間にメールを受け取った。去年4月に、東大に落ちて外語のスペイン語に入学したはいいが、後期には休学して勉強し直し、再受験した学生が、どうやら受かったらしいと、別の1年生からの連絡を受けた。そのうちお祝いしましょ、と。

東大が再受験してまで行く価値のある大学かどうか、ぼくは知らない。外語が東大をあきらめてまで居残る価値のある大学かどうかも知らない。大学なんて、学生として在籍するにはどこでもいいと思う。受験勉強は不毛なことも多いと思うから、それに貴重な時間を費やす気になれる人の気持ちはわからないと同時に、敬意に値すると思う。不毛なことが多くても、知的刺激も多かろうから、悪いことばかりではないとは思う。

でもこうして、自分たちが居残ることを決心した大学に見切りをつけ、違う大学に行くことになった人物を祝ってやろうと言える人間は貴重だと思うし、その人たちとの関係を断ち切って、新たな環境に飛び込もうとする人物の心境は、どんなものだろうか? ……ま、今生の別れじゃあるまいし。それに二大学ぶんの友人ができるのだ。たぶん。贅沢なのだ。

「やっぱり勉強したくて」とその学生は、ぼくに休学を告げに来たときに言ったのだった。彼女が何を「勉強」したがっていたのか、ぼくは知らない。悲しむべきはわれわれなのかもしれない。高校生や入りたての大学生が思い描く「勉強」なんて、たいていの場合、間違えているに決まってる。彼/彼女は、その学問がどんな学問なのか、まだ知らないからだ。それがどのように彼/彼女の人生を変えうるか、本当には知らないからだ。「●●になりたい、そのためには△△を勉強したい」と考えて、その見通しが本当に正しかったとすれば、それは奇跡だ。でなければ、その高校生は確かにとても優秀なのかも。ぼくたちは入ったばかりの、たいていは間違えたヴィジョンを持った青年たちに、その方向に行かなくてもいいんだよ、ひょっとしたら君たちの行きたい方向は、ここかもしれないんだよ、と教えて差し上げなければならない。高校生上がりの大学1年生たちの世界観を覆すことができないとすれば、ぼくたちは敗北したことになる。

東大に入った学生というのは、ぼくが顧問を務めるサークルのメンバーだ。だから挨拶に来てくれたのだろう(休学届けの書類に判を押してもらうためではなかった)。それは嬉しい。だが、ぼくはそのとき、敗北感に歯ぎしりしていたのだ。

ぼくは歯ぎしりができないのだけど。

2010年3月10日水曜日

1958

会議と会議があったので、大学に行った。帰ったら届いていたのが、ぼくの出身小学校の「創立130周年記念誌」。

「130周年」というのは中途半端な感じがしないでもないが、考えてみたら、「創立100周年」はもう30年も前だから、ぼくが高校生のころということになる。「110周年」でも、まだ学生だ。「120周年」もあったのかもしれないが、忘れた。で、「130周年」の今回、その記念式典の様子や、準備にいたるあれこれ、会計報告、現在の小学校の発行する連絡帳(?)などを載せた冊子を作ってこうして配布してきたという次第だ。

そういえば、何周年かの記念の寄付を募る郵便が来たので、体調がよかったからその日のうちにオンラインバンキングで些少ながら寄付したのだった。ぼくは多額の寄付をして地元に銅像を建ててもらおうと夢見るような野心家でもないが、さりとて学校なんざ忘れたね、といつまでも偽悪者をきどるタイプでもない(たぶん、120周年くらいまでそのタイプだったかも……)。今では大学とはいえ、仮にも学校関係者。将来、ぼくの勤める大学に入ってくる人物が輩出されないとも限らないじゃないか。ましてや今回、寄付を募る会計担当が、ぼくの同期の地域の郵便局長とあっては、少しくらいなら寄付したっていいじゃないか、と、その程度のノリで、その程度の額を寄付した。

でもなあ、まさかそれで寄付者一覧表の第10番目にぼくの名が載るなんてなあ、ちょっと参ったな。これじゃあまるで最多額寄付者か何かみたいじゃないか。そんなことまで望まない程度には、まだちょっと偽悪者なんだよな。

それはともかく、明治30年以降の名簿で確認できる限りの卒業生の一覧もあった。卒業生の合計が、表題の数字。1958人。130年もの歴史を誇る学校の総卒業生数としては、なんともかわいらしい数字だ。

明治も20世紀に入ってからは、卒業生の数はわりと多い。大正、昭和の戦争直後くらいまでは20人代は普通で、30数名、多ければ50数名のときもあった(15年戦争というのは、こうした田舎の学校ですら見て取れるような人口爆発の結果だったのだろうな)。祖母の卒業した明治40年(1907)の27名、母の卒業した昭和18年(1943)3月の19名は、前後では少ない方だ。

いわゆる「団塊の世代」の出現による増は、この学校では見られなかったようだ。昭和も40年代に入るころには漸減、ぼくの生まれた翌年、昭和39年の31名以後、20名を超すことすらまれになっている。

ぼくの兄の代、つまり2つ上が13名、そのさらに1つ上が11名。でもその2学年を挟む2つの学年は9名と8名。ぼくの代が11名で、その後、7名、7名、7名と続く。ぼくより4年後輩、昭和55年卒業がやっと10名を数えたきりで、以後、毎年卒業生は一桁だ。0名の年が3回。1名という年はないが、2名なら何度かある。

これが僻地と呼ばれる地域の、小学校の現状だろうな。もちろん、2つの学年が1つの教室に学ぶ、複式学級というやつだ。ぼくの落ち着きのなさはそこではぐくまれた。

2010年3月9日火曜日

身の毛がよだつ

昨日、ディズニーのある歌のスペイン語版で "no me interesa tener novios" (恋人つくるのなんて興味ないわ)という歌詞があるが、なぜ "tener novios" と「恋人」novio が複数形なのだ? 恋人がいるだのいないだのなら "tener novio" と単数形でいいのではないか? などという疑問に突き当たり、ネットで "tener novios" や "tener novio" がどのくらいの頻度でどのように使われているのか、検索してみた。

よせばいいのに、"La 'idol' japonesa no puede tener novio" (日本のアイドルは恋人を持てない)という例文を見いだし、そのサイトへ行ってしまった。

写真が載っていた。歩道に突っ伏す女性の写真だった。「即死だった」との文字が刷り込まれていた。1986年に所属するレコード会社の屋上から飛び降り自殺したあるアイドルが、飛び降りた直後の写真だ。血が帯のようになってある一方向に流れていて、別の方向にはよく判別できない何かが散乱していた。

どういうわけか、ぼくはしばらくその写真を、うまく認識できないままにぼんやりと眺めていたのだった。それがその写真だとわかってしまった後には、呪縛に囚われたようにそこから目が離せなくなった。

記憶がよみがえってくる。そのアイドル歌手を、ある友人が愛でていた。無機質なところがいい、と。そういえば彼女が飛び降りた写真というのがどこかの写真誌に掲載されて物議を醸したんじゃなかっただろうか。特に興味があったわけではないので、噂としてだけだけど、そんなことを聞いたような気がする。かなり年上の妻子ある俳優に横恋慕したのが原因ではないかとささやかれたんだったっけか。

そんなことを思い出しながらも、写真から目が離せないでいた。我に返ったときには肋骨のあたりに圧迫感を感じた。肋間神経痛だ。その晩はもう何もできなくなった。寝た。

睡眠は体の不調をリセットしてくれる。目覚めたときには元気になっていた。助かった。夢の中でぼくは、仕事に追い立てられているのに、断り切れない飲み会に誘われ、立ち往生していた。このジレンマからも解放されたから、二重の意味で助かった。忙しいからこんな夢を見るんだな、きっと。睡眠は夢で記憶を整理する。

今日は雨なのか雪なのか、みぞれなのか、なんだか冷たそうな液体が降っていた。やがて雪に変わるものだ。寒い。神経病みのぼくにはつらい?

だが幸い、ぼくは寒くなると神経が痛むというタイプの神経病みではない。別に体調に不具合はない。

4月に参加するあるイベントの予告で、ぼくの名前が間違えて書かれているのを見つけた。よくある間違いだ。よくあるからこそ許し難い間違いだ。何かが体の中で、体の芯のあたりで、震えた。

また肋骨が圧迫された。

寒さのせいではない。たぶん。

2010年3月7日日曜日

3本め

博士後期課程の論文指導(学生がどこかに発表した論文を読み、論評し、指導するということ)とか会議とか、あるいは最終講義とか、業務はつきない。

なかなか終わらない校正の作業。これを始めてから既に3本めの赤ペン。1本めは途中から使った。しかし、家にいないときは別のペン(ペンケースに入れて持ち運んでいるペンや研究室のペン)を使うのだから、丸ごと2本使ったようなものだろう。

目がしょぼしょぼだ。

2010年3月4日木曜日

曜日で生きる

今日は楽しいひな祭り♪ なんて歌ってる間に4日になった。

今日は会議日。会議のようなもの、昼食、仕事、会議、仕事……

昨日来ちゃったよ。間違えて。と同僚のひとりがおっしゃる。昨日は水曜日。通常なら会議日だ。授業がなくなると、会議は水曜日にあるという約束事が崩れる。気をつけないと、会議は水曜にあるものだとの固定観念にとらわれて(あるいは惰性にとらわれて)、間違えてしまう。

逆に、会議を終えてこうして帰宅してみると、今日が水曜日だとの錯覚にとらわれる。夕刊の日付が1日進んでいるのかと思う。


もう使わなくなって数年経ったこのバッグを、ふたたび使うようになっている。ゲラを持ち運ぶから、それが入るサイズのものにしているというわけ。ゲラはいわゆるB4くらいのサイズで出てくる。このバッグはそれが入る。しかし、日常のサイズとしてはこれはちょっと大きい。デザインも機能も嫌いではなかったけど、持ってるこちらが無様になるほど大きかったのであまり使わなくなり、現在使っているようなA4サイズくらいの鞄に取って代わられた。それが今、同じ理由から復活することとなった。つまりその大きさだからこそ。毒は薬でもあるのだ。

本当はこんなものでも欲しかったのだけど、物欲に身をゆだねてばかりだといつか後ろめたさを抑えきれなくなるような気がして。なにより、そこまで今はまだ奥行きを必要としていないので。