2020年1月27日月曜日

スペイン語は君の窮地を救う……かも?


レジス・ロワンサル監督『9人の翻訳家――囚われたベストセラー』(フランス、ベルギー、2019)

ダン・ブラウンの『インフェルノ』発売の際に実際にあった出来事をヒントに作られた映画らしい。オスカル・ブラックという覆面作家の書いた大ベストセラー『デダリュス』三部作の3作目『死にたくなかった男』の発売にあたり、版元の社長エリック・アングストローム(ランベール・ウィルソン)は売り上げ実績の最も大きい9言語(英語、ロシア語、スペイン語、イタリア語、ドイツ語、ギリシャ語、デンマーク語、ポルトガル語、中国語)の翻訳者たちをフランスのとある城というか豪邸の地下に閉じ込め、無茶なスケジュールで翻訳させようとする。12月からはじめて3月までに450ページ以上あるその本の翻訳を作成するというのだ! 外部に漏れることを恐れ、携帯電話も取り上げられ、ネット接続もできず、原作も20ページずつ小出しに与えられ、一日の作業が終わったら取り上げられる。PC……というか、Macもその都度ロックされる。厳重な監視体制なのだ。衣食住は贅沢に享受できるし、ボウリング場やプール、映画のビデオまでそろっていて、気晴らしもできる。

ちなみに、スペイン語翻訳者はスペインの優男エドワルド・ノリエガ。腕にギプスを巻き、吃音のある、少し気の弱そうな役をしている。

で、ともかく、これだけの厳戒態勢にもかかわらず、何者かが原稿をネット上に暴露し、法外な金を要求してくる。アングストロームの追求が始まり、翻訳者たちも互いに疑心暗鬼に陥る。

さすがにミステリなのでここから先は明かせない。映画を観ずに謎が知りたい人は劇場用プログラム冊子26-27ページを参照のこと。この仕組み、実はけっこう助かる。後で思い出せる。

途中から事件後の刑務所の面会室でのやりとりが挿入され、そこでの転換がストーリーの転換を促す。飽きさせない展開だ。

「本職じゃ食っていけない」とか、「スペイン語話者は5億人もいるのに(印税がそれっぽっちでいいのか?)」とか、独りでないと翻訳できない、等々、俺に取材したのか? ってくらいに膝を打つことばかり。おまけに事件の真相にある動機が文学への愛とくれば、なんだか泣けてくるじゃないか。

映画内の言語はフランス語が主で時に英語も混じるけれども、ところどころ、翻訳者たちがそれぞれの言語で呟いたりもして多言語空間が現出される。アングストロームから追い詰められた翻訳者たちが、デンマーク語は理解するのにスペイン語は理解しないらしい彼の裏をかくためにスペイン語を解する者たちでコミュニケーションを取って窮地を脱しようと試みるシーンがある。表題はそのことを下敷きにしたもの。

登場人物たちが『デダリュス』の文章を引用したりそれについて議論を戦わせたりするので、やはりミステリらしい(レベッカは殺されたのか? という)この小説の内容も考えたり予想したりしながら見るのも観客のもうひとつの楽しみ。ダン・ブラウン『インフェルノ』で監禁された翻訳者になっていたかもしれない越前敏弥さんが、プログラムに『デダリュス』を訳したいと書いていた。翻訳で読みたいものだ。


こんな名前のコーヒーがあるのだ。たいそうおいしい。

2020年1月26日日曜日

広い机が欲しいものだ


 ツイッター上でフォローしている何人かが、歩調を合わせて本の整理に取りかかっている。そういう時期なのか? 

で、こんまりこと近藤麻理恵の本などについて言及したりしている。

こんまりその人の本は読んでいないので、二次情報だが、どうもやはり本を情報もしくは娯楽としてみなすことがドラスティックな本の処分に成功する秘訣のようだ。

僕は比較的に本を処分する方ではあるけれども、それでも最低限は手許に置いておかなければと考えてもいる。そしてその最低限は多くの処分派の人の考える最低限の数倍には上るだろう。僕ら(つまりある種の職業にある人々)は本を情報として必要とするだけでも娯楽として楽しむだけでもなく、利用しなければならないからだ。

執筆中の僕の机はこんな感じだ。

論文などのコピーは今ではPDFファィル化してデジタルペーパーやiPadで読んでいるが、ともかく、コピーと手書きのノート、複数の本を机上に開き、PCのデスクトップ(まあ、つまり、「机上」だが)にはいくつもの書きかけのメモや草稿を開いて、その中から完成原稿を作っていく。

二次資料はメモを取ったら後は開くな、とエーコは言ったのだが(『論文作法』)、それでも思い立ってまた開いてみなければならないこともある。「思い立ってまた開いてみなければならない」ときに、手許になければならないのだから、本はストックしておかなければならないのだ。アドラーとドーレンの言う「シントピカル読書」(『本を読む本』)をする人にとっては置いておくことは必要。

マリオ・バルガス=リョサはだいぶ若い時期から文学を教えはじめた。教えはじめると「すぐに、後で教えるために行う文学の読書は、純粋に楽しみのためにする読書とは、かなり違うと気づいた」(『プリンストン大学で文学/政治を語る』立林良一訳255ページ)とのこと。「教えるための読書」は「もっとずっと理性的な読書をし、感覚や感情を概念に翻訳しなければならない」。教えるために読む者も(そして本当はその授業で学ぶ者も)本棚に囲まれて読まなければならない。

ところで、話は変わるが、今し方引用したこのバルガス=リョサの本。ルベン・ガリョとの対話。この本についての書評を書かなければならないのだが、きっと書評には書かないことをひとつだけ。

これはプリンストン大学でのバルガス=リョサの授業の記録で、理論的な問題に関してか(ジャーナリズムと文学とか)、そうでなければバルガス=リョサの過去の作品についての討論が中心となるのだが、第7章『チボの狂宴』についての話し合いで、バルガス=リョサがトルヒーリョについて、あるいは独裁というもの全般について言うことがあまりにも心に残る。トルヒーリョのことでなくABのことを言っているようなのだ。

「この独裁者は社説も読まなければ、国際面のニュースにも関心がありませんでしたが、社交欄は非常に念入りに目を通していました」(208
「独裁の正当化は常に秩序と平和の名の下に行われます」(221
「いかなる国も、いかに発展していようとも、独裁の危機を完全に免れてはいません」(235

等々……

2020年1月9日木曜日

海の細長い花弁


毎年、半期13回で一冊の小説を読み切るという授業をやっている。1回の授業につき20-30ページばかり読んでいけば300ページばかりのものならば読み終わる計算だ。その授業が昨日、最終回だった。つまり、読み終えた。

今年読んだのは、これ。

Isabel Allende, Largo pétalo de mar (Vintage Español, 2019)

アジェンデはどうもファンタジー作家として位置づけられ、すっかりシリアスなものばかりを扱いたがる研究者たちからは遠ざけられているようだ。が、この授業の趣旨はともかくスペイン語の小説を読み切るということだし、この作品はスペイン内戦とチリのクーデタに翻弄された者たちを扱っているというので、ともかく読んでみようと思った次第。

三部構成。第一部では内戦のこと、主人公ビクトルとその弟の妻ロセールの紹介がこと細かになされる。バルセローナに住む医学生のビクトルは内戦勃発でまだ免許もないまま共和国側の軍医(見習い)として働いている。彼の家族に引き取られて音楽を学んでいる(ビクトルの父は音楽家にして音大の教師)ロセールは、戦闘要員として内戦に参加しているビクトルの弟ギリェムとの間に子をもうけ、結婚する。しかしギリェムは戦死、父は病死、母とロセールを先に逃がした上でビクトルも国外に逃れる。ここまでが第一部。

第二部ではバラバラに逃げたビクトルとロセールがフランスで再会を果たし、パブロ・ネルーダが組織した亡命者のための船ウィニペグ号に乗ってチリに亡命を果たす。表面上は夫婦として過ごしながら、ビクトルは医者としてロセールは音楽家としてチリでどうにか生活を確立する。ところで、ふたりは乗船の権利を得るために偽装結婚しており、チリの法律上なかなか離婚はできないのでそのままの関係であったのだけど、そういう立場から、必然的に恋愛沙汰などが展開する。それが第二部の内容。スペインからの撤退の途中はぐれていたビクトルの母親と再会が叶い、チリに呼び寄せるなどのエピソードも。

第三部で一気に時間が速く進む。実質的にも夫婦となり、それぞれの仕事での名声と地位を確立し、子どもも鉱山技師として自立した頃になって、クーデタが勃発。ビクトルはサルバドール・アジェンデのチェス仲間だったこともあって強制収容所に入れられる。その後、どうにか亡命を果たしてベネズエラで10年ほどを過ごした後に帰国を許され、チリも民政を取り戻す。ロセールが癌で死に、80歳の誕生日を迎えたビクトルのもとに、かつての恋人オフェリアとの間の子どもだと名乗るイングリッドが現れる。

巻末の謝辞には、40年以上も英語環境に住んでいるのでたくさん間違いを犯すスペイン語を添削してくれたホルヘ・マンサニーリョへの感謝なども書かれていて、そういえばアジェンデは合衆国在住なのだけど、そうやって鈍っていく言語であるスペイン語にあくまでもこだわって書き続けているのだな、と改めて気づかされた。

小説は亡命・移住した先で根付くこと、カタルーニャ人であったビクトルがチリ生まれの子を持つことによってチリ人であると感じることなどを扱っているし、アジェンデ自身も、そんなわけでは今では立派なアメリカ人だろうと思うのだけど、スペイン語とチリにこだわっているというのが、つまり、気になったのだ。

見返しに写真満載の楽しい本だ。

2020年1月6日月曜日

悔いの残ることばかり


以前書いたように(リンク)バレリア・ルイセリ『俺の歯の話』松本健二訳(白水社、2019)をあるところに紹介する予定だ。その原稿を今日仕上げたのだった。

が、言いたいことの半分も書けなかった。言いたいことがそれだけ多いのだ。それだけ面白い小説だと思うのだ。

いちばんの問題は、これが英語版とスペイン語版でだいぶ違うことであり、翻訳は英語版を底本としていることではあるだろう。前回の(リンク先での)記事に書いたあらすじはスペイン語版のあらすじで、実は翻訳版と少し違っていることも確認した。ハイウェイは 翻訳版=英語版ではマリリン・モンローの歯を取り戻すことになっている。そんな異同についても書きたかったがそれも書けなかった。

が、何と言っても悔やまれるのは以下のことを書けなかったこと。だから、ここで書いておく。

主人公にして途中までの語り手であるグスタボ・サンチェス・サンチェス、人呼んでハイウェイは「ジャニス・ジョップリンの物真似ができる」などと自己紹介する。そして「日本語で八まで数えられる。イチ、ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ」(10ページ)とある。なぜ、八までなのか? これは「世界一の競売人」であるハイウェイが日本人ケンタ・ユシミートから競売術を学んだからだ。その師匠の学校では「全員で目をつぶり、深呼吸しながら、日本語で一から八まで数えてレッスンは終了した」からだ。

つまり、この「ユシミート・メソッド」では最後にラジオ体操のリズムで深呼吸して(場合によってはラジオ体操をして?)レッスンを締めくくっていたのである。

なんだか面白くないか?

最寄りのものではないが、ジョナサンズ。なんとなく気になった。

2020年1月4日土曜日

飽きるくらいに映画を観よう


別に観た映画をすべてブログに書いているわけではないのだけど、なんか書いておきたくなった作品なので。


主演も助演もアカデミー賞にノミネートされたのに日本ではどうやら劇場公開されなかったらしい。リー・イスラエルの自伝 Can You Ever Foregive Me? の映画化作品。

かつてキャサリン・ヘプバーンの伝記などでベストセラーを出した作家リー・イスラエル(メリッサ・マッカーシー)は今では鳴かず飛ばず、人間嫌いで猫だけが友だちという孤独な性格なのでエージェントからもよく思われていない。生活費に困って古本を売ったりしているが、売れるはずもなく、往時、ヘプバーンからもらった手紙を売るにいたる。そこで有名人の手紙が売り物になることに気づき、ちょうど図書館で調べ物をしている時に本に挟まったファニー・ブライスの手紙を見つけ、それを加工することから始め、次々と有名人たちの手紙を捏造しては売っていく、という話。

気難しい作家にやがて協力することになる一癖も二癖もある友人ジャック・ホックをリチャード・E・グラントが演じている。『スター・ウォーズ』に出ていたことだし、彼の他の出演作品をと思って見出したのがこの作品だが、思いのほか面白くてよかった。

捏造した手紙が面白くて自らの作品と混同してしまう作家の心理を、弁護士が言う「手紙は面白い」などという科白がくすぐる。創作と剽窃の差はどこにあるのか? 

そして、なんといっても、手紙を売りに行く古書店の数々がいい雰囲気のところばかりで味わい深い。あれはどれも実在の書店なのだろうか? 確かめてみるのも一興。

……と思ったら、こんなブログ記事があった(クリック)。

これ、なんで劇場公開されなかったのだろう? シネフィルが皆ビブリオフィルとは限らないけれども、ビブリオフィルのかなり多くはシネフィルでもあると思うのだけどな? それは単なる僕の思い込みなのかな? 


すてきなカフェ。

2020年1月3日金曜日

まだまだ映画を観よう


三が日最後の日は森達也『i——新聞記者ドキュメント』(2019)@シネマロサまたしても。

フィクション版『新聞記者』も観たことだし、ドキュメンタリー版も、との思いもあり観に行った次第。望月以塑子の活動を観るつもりでいったら、嫌になるほど醜いものをみせられた。辺野古、伊藤詩織、宮古島の要塞化問題を追いかける彼女がそれだけそうした醜いものと対峙しているということだろう。

醜いものとは望月殺害をほのめかす東京新聞社への脅迫電話(これは見たというより、聞いた)、法的根拠も告げずに望月と森の進行を阻もうとする警官たち、菅義偉、安倍晋三、麻生太郎、上村秀紀、辺野古の赤土、安倍の街頭演説中に支持者(サクラ?)によって掲げられた日韓断交のプラカード、……等々だ。感情に走りがちな僕はすんでのところでスクリーンにバッグを投げつけてしまうところだった。

籠池諄子の大阪のおばちゃんぶりには映画館も笑いに包まれた。

森達也は開高健ノンフィクション賞の審査委員も務めていて、2年ほど前に工藤律子の『マラス』が受賞したさいの授賞式後の祝賀パーティーでは「ルポルタージュではなくノンフィクションなのだから」工藤はもっと自分を出した文章を書くべきだったと辛口の評をしていた。なるほど、この人の考えるルポとノンフィクションの違いは語り手の位置にあるのだな、と理解した。映画でも最後は一人称単数を常に失わないこと、と強調していた。

ところで、フィクション版『新聞記者』の劇場用パンフレットは売り切れで買えなかったが、こちらも売り切れであった。

ローズマリー。

取り返すために映画を観る正月


見損なった(最近この語を使うと誤解されそうで怖い。観る機会を逃したということ)映画を取り戻すシリーズ第二弾(12日)は、

イサベル・コイシェ『マイ・ブックショップ』(イギリス、スペイン、ドイツ、2017)。

原作はペネロピ・フィッツジェラルドの1978年の小説。ブッカー賞の最終候補だった作品。日本では今年……いや、去年、2019年の春ごろ。自身読書が好きだから読書する人を映画に出すのだと言っていた(来日時の都甲浩治とのトークで)コイシェがブックショップを扱うのだから、これは観ないわけにはいかないだろうと思いながら、結局、観ないでいたのだな。

戦争未亡人のフローレンス(エミリー・モーティマー)が小さな町で書店を始めるが、その町の有力者ヴァイオレット・ガーマート夫人(パトリシア・クラークソン)の妨害に遭う話。ガーマート夫人は前々から文化センターのようなものにしようと狙っていた空き家をフローレンスに先取りされたというので、いろいろと妨害工作をするのだ。

フローレンスの理解者で擁護者になるのが町外れの高台に独りで住んでいる読書家のエドマンド・ブランディッシュ(ビル・ナイ)。オスカー・ワイルドの『若い芸術家の肖像』を気に入らないとして途中で火にくべ、町の者たちの噂を「悪い文学」と切って捨て、ブロンテ姉妹はいかんと憤る頑固老人がフローレンスが見繕って送ったレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読み耽って他のものはどうでもいいからブラッドベリのものは何でも送ってくれと頼み、『ロリータ』(これが出版された時代の話なのだ、映画は)についての意見を求められれば読まれるべき作品だと断じる、そういう細部が書店を舞台にする作品として優れている。

同じ書店を舞台にしても書物の細部にはあまり立ち入っていなかったとの印象のある『ノッティング・ヒルの恋人』に、実はモーティマーは出演していたらしい。気づかなかったのだ。

飛び跳ねる水。

2020年1月2日木曜日

映画館でなくても映画を観よう


僕はわりと映画を観るのは映画館でなくともかまわないというタイプではある。もちろん、劇場のサウンド・システムでなければ十全に体験できない映像もあることはわかっているけれども。

で、ともかく、そんなタイプなので見損なった作品などは家でDVDやネット配信で観ることもある。1日の夜は1年ほど前に公開された際に観られなかった次の作品を観た。

パブロ・ソラルス『家へ帰ろう』(アルゼンチン、スペイン、2017

引退して家を手放して娘たちに売らせ老人ホームに入ることになった仕立屋の老人アブラハム(ミゲル・アンヘル・ソラ)が、命の恩人との約束を果たしにポーランドのウッチに戻る話。つまりアブラハムはアウシュヴィッツを生き延びたユダヤ人で、だからポーランドに行くのにも決してその名を口にしようとしないし、マドリードから陸路行くことになった時には、ドイツを通過したくないと駄々をこねる。

ロードムーヴィーなので、途中、いろいろなことが起こる。それが楽しい。仕立屋らしく、アブラハムの着ている服がしゃれている。ふた組のスーツだけ(青いストライプの三つ揃いとサーモンピンクのツーピース。アスコット・タイにハンチング)なのだが、いずれも、良い。監督は演劇畑の出身らしく、アブラハムと娘たちの関係を『リヤ王』のエピソードそのままに描いているなど、悪くない。

ナチスに収容されていた人物だけあって、アブラハムの前腕部には番号が刺青してあるのだが、たった三語(Yo te quiero つまり「愛してる」)が言えなかったために家を追い出され、マドリードに住む娘クラウディア(ナタリア・ベルベケ)の腕にも同じ数字が(たぶん)刺青してあった。そこがこの映画の『リヤ王』への応答。親子関係が『リヤ王』に基づくことはエンド・クレジットにも明記してある。アウシュヴィッツの収容者たちが腕に番号を刺青されたことについてはエドゥアルド・ハルフォンに「ポーランドのボクサー」という短篇小説がある。

冒頭の孫とのやりとりがいい。

撮影時には気づかなかったけど、不思議な生き物がいる写真。

2020年1月1日水曜日

年末年始も映画を観よう。


新年最初の映画、ではない、実は。これは31日に観たもの。

ヌリ・ビルゲ・ジェイラン『読まれなかった小説』(トルコ、フランス、他、2018)@新宿武蔵野館。ヒューマントラストシネマ有楽町でもやっていたはずなのに、そちらはあっという間に終わってしまったようだ。もったいない。実はこの映画、試写会に呼んでいただいたのだけど、いずれの回も時間が取れず、行けずに悔しい思いをした作品。もったいない。

これはいわばグランドツアーものである。「グランドツアーもの」なんてジャンルがあるわけではない。僕が今、勝手に作った。いささかの皮肉を含んだ命名。『アメリカン・グラフィティ』とか『卒業』とかに連なるものだ。学業を終えて次のステップにつくまでのギャップ期間の若者の焦りとやりきれなさを描いたものだということ。グランドツアーというのは18世紀ヨーロッパの貴族が社会に出る前に旅をした、その習わしのこと。ロマン主義者たちの南方旅行好きと崇高の概念を生み出すことになった。20世紀にもなると貴族のように優雅な旅行というわけにもいかないから(『卒業』のベンは枕を持って旅行をしたが)、近隣の彷徨ということになる。

大学を終えて故郷のチャンに帰ってきたシナン(アイドゥン・ドウ・デミルコル)は教員試験、または(厳しいので落ちた場合は)兵役を控えている。かつての憧れの女性ハティジェ(ハザール・エルグチュル)が、いわばマリッジ・ブルーの状態にあることを知り、その婚礼の日には彼女のかつての恋人ルザ(アフメト・ルファト・シュンガル)の苛立ちと衝突することになる。しかもそれは教員試験の前日。彼は案の定、試験には落ちたようだ。

シナンのグランドツアー(もどきの放蕩息子の帰還、または彷徨)が他と違うのは、彼が小説を書き上げ、その出版を考えていることだ。しかもオートフィクションのメタロマンというから興味深い。この細部がこのフィルムが『卒業』と同種のストーリーであることを忘れさせる。特異点だ。

出版に必要な金を集めなければならないシナンだが、この彼の前に立ちはだかって試練を与えるのが父親のイドリス(ムラト・ジェムジル)。なにしろ、定年を間近に控えた教師でありながら、競馬にのめり込んで借金ばかりしているからだ。試験会場までの交通費のあまりをせびるし、シナンの出版の軍資金にと貯めた金も盗んだようだ。そのことを知りながら口に出せないシナンにそれを口にしろと迫る始末。なんだか複雑な父殺しの物語が成立してしまう。

身につまされるのは本を出すのに苦労し、苦労したというのに本屋では1冊も売れていないと言われ、献辞を書いて献呈した母親も読んではいないらしいこと。一冊の本で一躍作家としての地歩を築くなど、夢のまた夢だ。心が痛い。シナンが地元の作家スレイマン(セルカン・ケスキン)にしかける議論は、シナンの立場もあり、ほとんど言いがかりめいてくる。文学部を出て教員試験に落ち、警官になった友人が、電話での会話でデモ隊や過激派への弾圧は憂さ晴らしだという趣旨のことを言って笑っていたが、こうしてグランドツアー中の若者たちは誰もが憂さ晴らしをしているかのようだ。

作家志望のシナンの憂さ晴らしは、さすがに警官になった友人のような暴力ではなく、スレイマンに対する言いがかりのように、言葉によるものだ。作品内では皆がひたすらしゃべり、議論する。BGMはほとんどがニワトリの鳴き声や潮騒、せせらぎ、喧噪などだ。ポップスの数々が印象的な『アメリカン・グラフィティ』やビー・ジーズの歌とともに思いだされる『卒業』との相違点は、そこにもある。

一方で前日に観た『家族を想うとき』と似たような点も見出さないではいられなかった。ギャンブル好きの父も、ベビーシッターのアルバイトをしているらしい母も、大学を出たばかりで出版費用の必要なシナンも、常に金がない。教員試験に落ちたら兵役だ。豊かとは言えない地方都市の、貧しいと言っていい家族の話なのだ。ロンドンの働きずくめの家族とはいささかの違いがあるとはいえ、端から見る限りわかりづらい貧困であることに代わりはない。

その点でも身につまされるのだ。父と子の関係という点では、父もなく子もない僕は身につまされることはないけれども。

写真はその後紀伊國屋書店で買ったもの。