2018年11月18日日曜日

ちっちゃいやつら


以前、告知したとおり、青山の「本の場所」というとこで何やらお話をしてきた。朗読+トーク、といったところ。

カルペンティエール研究から始まり、初の個人全訳もカルペンティエールであったこと、それをめぐって二度ばかり死にかけたことを話し、ボラーニョが描くメキシコDFの話で、次に出るはずの本を予告し、で、今度ある出版社に企画を出すはずの、つまり、僕が翻訳をしたいと思っている小説の話をした。それぞれ朗読つきで。つまり、最後のものについては、まだ存在しない翻訳を朗読したのだ。

僕たちは何か翻訳したいものがあるとその作家や作品について説明し、試訳を添えて提出する。それで出版社の企画会議にかけてもらうのだ。その資料のための試訳を読んだという次第。これに合わせて、長らく進めずに来た訳を完成させたのだ。

その作品というのは、Juan José Millás, Lo que sé de los hombrecillos ( 2010 ) 

ちっちゃな人間たちの話だ。その人間たちと感覚を共有することになった普通サイズの人間の語り。訳した部分はそんなちっちゃな人間たちの世界で唯一の女性とセックスするシーン。感覚共有の最大の醍醐味は性交と殺人だ。だからそのシーンを訳したのだけど、考えてみたら、それを人前で読むなんていささか恥ずかしい。

本の場所の前には「本」の文字の形の鉄のオブジェがあり、そこでイベントをした者はそのオブジェに自分の名を書き記すしきたりになっている。終わってその儀式を行った。表参道の駅からほどない本の場所には、かくして、僕の名が刻まれた。

2018年11月14日水曜日

ママ、人を殺しちゃった……


昨日、秘密の仕事を終えてから観てきたのだ。


館内に僕と同世代かもう少し上の人たち(老人と呼ぶには忍びない世代)が多いように感じたのは、平日昼間の早い時間帯だったからという理由だけではあるまい。きっと皆、若い頃、クイーンを聴いていた人々に違いない。僕も、ビートルズよりも先にクイーンを知った世代だ。僕にとっての最大のアイドルではなかったとはいっても、常に聴いていたアーティストであることは間違いない。

物語はフレディ・マーキュリー(ラミ・マレック)がブライアン・メイ(グウィリム・リー)やロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)に出会ってクイーンが結成され、「キラー・クイーン」や「ボヘミアン・ラプソディ」、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」といった曲ができる過程を小さな山のように挟み、一時期の仲違いを経て、最終的に1985年のライヴ・エイドでのパフォーマンスにいたるまでの話を描いたものだ。

フレディ・マーキュリーはジンバブエで生まれてインドで育った。ゲイであり、公言はしなかったけれども、グラム・ロックの時代の時流に乗って奇抜な衣装をまとい(後にはハードゲイ風のタンクトップをも身につける)、その名も「クイーン」を名乗り、そしてあっという間にエイズによる肺炎で死んだ人間だ。実に興味深いバックグラウンドを持っている。いろいろな焦点の当て方があるだろう。

物語はフレディがメアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)と出会って結婚してからゲイに目覚め、自分の性的アイデンティティを見いだすという流れになっている。こうした描き方、いかにもゲイ(映画ではブライアンはメアリーに「バイセクシュアル」と告白する)の描き方としては問題だ。たとえばBuzFeedPier Domínguezはだいぶ不満のもよう(リンク)

この点に関しては、フレディがツアー先でメアリーに電話しながらその晩の相手に目をつける(ドミンゲスも言及している)シーンの最後に、メアリーが電話を切って誰か訪問客にドアを開ける一瞬のカットが気になるところ。明示されている以上にこの二人のカップルの関係について何らかのほのめかしがあるかもしれないというのが、僕の気になるところ。

生まれ育ちと、そこから来る葛藤についての描写も物足りない。冒頭から「パキ」と呼ばれて差別されていることがほのめかされ、家族との葛藤も描かれているのだが、それと音楽活動との関係は掘り下げられていない。たとえばかつてNHKが『世紀を刻んだ歌』というシリーズのドキュメンタリーの一環として「ボヘミアン・ラプソディ殺人事件」というのを放送しているが、その番組の方がよほど深く掘り下げていた。

といった不満は多々あろう。しかし、これは映画なのだ。映画はもっとも映画らしくクイーンを提示したに過ぎない。つまり、クライマックスの1985713日のライヴ・エイドだ。実際のライヴ・エイドの曲目からは一曲少ないものの、実物をかなり忠実に再現してウェンブリー・スタジアムの熱狂を伝えている。ポスターにも「ラスト21分」の感動を謳っているが、あれをあんなふうに再現されると圧倒されるのだ。映画ならではの再現。大ファンというわけではないけれども、そこそこ好きだった往年のファン(僕のような存在)やクイーンのことをよく知らない若い世代の者が、ともに懐かしく思い出す新たな思い出としてのライヴ・エイド。

そして、そんな再現を楽しくしているのが、俳優たちのなりきり具合。フレディだけでなくクイーンのメンバー全員が本物にだいぶ似せて(体格差さえも)作られている。びっくりだ。

映画の前の20世紀フォックスのロゴ(大島紬における「本場大島紬」の認定ロゴみたいなものだな)をみせる時の音楽すらも、ブライアン・メイ(本物)のギターの演奏になっている。

2018年11月11日日曜日

500ポンドと自分だけの部屋


ヴィム・ヴェンダース監督『ローマ法王フランシスコ』(スイス、ヴァチカン市国、伊、独、仏、2018@今日もラテンビート映画祭。

ヴァチカンからの委託で作られた映画らしい。ヴェンダースが行ったフランシスコ教皇へのインタヴューに様々な場面のフッテージをつなぎ合わせたドキュメンタリー。が、現教皇をアッシジの聖フランシスコにたとえ、アッシジのフランシスコの活動を再現ドラマのように挿入しているので、フィクション、みたいなものだ。

教皇がアッシジの聖人にたとえられるのは、名前が同じだからのみではない。清貧を旨とする点においても同様だ。そして現在のフランシスコは、貧困問題を現代社会の問題の中心に捉えてもいる。『回勅 ラウダート・シー』などの態度表明が話題になった。数々の演説などの映像と、聖書のみならずトマス・モアやドストエフスキーまでも引用してのインタヴューとが彼の思想のエッセンスを伝える。

貧困は大問題だ。貧富の格差を拡大するシステムへの反動というか、反省、そうしたシステムの修正が急務の課題となっている。それは政治の問題であり(残念ながら日本では絶望的だが)、経済主体の問題であり、同時に精神の問題でもあるのだろう。精神の局面で貧困を問題化する教皇は、いわば時代の要請に応える存在なのだ。共通善(と字幕では訳されていたが、教皇自身はun bien mayor とも言っていた。より大きなひとつの善)を合い言葉にグローバル社会を見直す新しいコモンズ主義者たちとの親和性が高い。たとえば、ステファーノ・バルトリーニ『幸せのマニフェスト』中野佳裕訳(コモンズ、2018らが政治経済的視点から新しいコモンズを提唱している。フランシスコの言動にこうした系譜の発露をヴェンダースは見いだしているのだろう。LOHASの概念やいわゆるミニマリストの風潮もこの時代の産物だ。「500ポンドの収入と鍵のかかる自分だけの部屋」という、フェミニズムの文脈で語られがちなヴァージニア・ウルフの作家になるための条件に、たとえば、安心できる公共のスペースの確保というのを加えた条件を、人は目指しているのかもしれない。目指すべきなのかもしれない。だからそこに満足しているような教皇(やホセ・ムヒーカといった人々)が人気を博すのかも。

2018年11月10日土曜日

俺が観なけりゃ誰が観る


クリスティーナ・ガジェーゴ、シーロ・ゲーラ監督『夏の鳥』(コロンビア、2018)@ラテンビート映画祭

冒頭、これが事実に基づいているとの字幕が提示されるし、エンドクレジットではクリスティーナ・ガジェーゴの発案からできたと注釈があるけれども、これは僕の訳したフアン・ガブリエル・バスケス『物が落ちる音』(松籟社、2016に対応するというか、それを補うものだ。「俺が観なけりゃ誰が観る」とタイトルをつけたのはそういう意味だ。

グワヒーラの先住民ワユーの青年ラパイエット(ホセ・アコスタ)が美しい娘サイダ(ナタリア・レイェス)と結婚したいと思い、サイダの母親のウルスラ(カルメン・マルティネス)に要求された品物を買うために、平和部隊のグリンゴ(北米人)たちに大麻を売ることにする。親戚のアニーバル(フワン・バウティスタ)が栽培するそれを友人のモイセス(ジョン・ナルバエス)と組んで仲買をしたのが間違いのもとで、金は儲けたのだが、トラブルが続き、……やがて破滅に至るという話。

周知のごとく、バスケスの『物が落ちる音』は平和部隊の隊員(彼女自身は麻薬取引には関与していない)と、その仲間の平和部隊隊員の麻薬密売の運び屋になったコロンビア人との話だ。この小説では栽培者である農民たち(先住民であることが多い)は特に言葉を持たない。その欠落を補っているのがこの映画だと言っていい。逆に平和部隊のグリンゴたちについては詳しくないこの映画は、先住民社会の贈与の体系が大麻の取引に関するトラブルに絡み合う形で描かれ、丁寧である。さすがは『彷徨える河』の監督なのだ。

荒野と家、煙、雲の図が印象的。

2018年11月8日木曜日

子供欲しい?


友人のツイッターで今日までだということを知ったので、仕事の打ち合わせを終えて吉祥寺まで出向き、観てきた。


いわずとしれたフェデリコ・ガルシア=ロルカの『イェルマ』をサイモン・ストーンの演出(脚色もか?)でヤング・ヴィック劇場で上演したものを映画としてみせるもの。通常の映画料金よりは演劇の料金に近い額での提供であった。

子供のできない女性の苦悩を描いているのはガルシア=ロルカの作品どおりなのだが、舞台を現在のロンドンに移し、うまく脚色した。ロルカ的カトリック=スペイン=地中海=アンダルシア的閉塞感に変わって、SNSやら不妊治療、ローンなどが主人公「彼女」(ビリー・パイパー)の精神を追い詰めていく。うまいアダプテーションだ。演技も素晴らしい。ガラス張りの舞台を前後から観られるようにした会場のレイアウトもなかなか。

渋谷から吉祥寺に向かう途中、井の頭線の向こう側の車両から4-5歳くらいの女の子が楽しそうに手を振ってきたので、僕も満面の笑みをたたえて手を振り返した。子供はかわいい。子供が欲しい。その気持ちは分からないでもない。でもまあ、僕はそうでもないのだが……

ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』中山エツコ訳(河出文庫)とその親本(2016年刊)

2018年11月5日月曜日

紅白歌合戦


第三回はじめての海外文学スペシャル@ウィメンズプラザに行ってきた。

ちょっと煩雑なのだが、複数の書店が行うフェア〈はじめての海外文学〉は今年が四回目。複数の翻訳家たちが翻訳文学を推薦し、そのラインナップを本屋が揃えて売る。そういうフェア。それに合わせて推薦人の翻訳家たち複数が自分の推薦した本をプレゼンする催しが〈はじめての海外文学スペシャル〉。これは今年が三回目。〈スペシャル〉では賛同する出版社からのプレゼントが抽選で贈られたりする。

サイトは、こちら。推薦された作品の一覧もここからダウンロードできる。

僕が今年推薦したのはウエルベックの『服従』(大塚桃訳、河出文庫)。直前に開場のすぐ目の前にあるABCの本店では鴻巣友季子さんご推薦のクッツェー『恥辱』と前後に並んでおいてあることがわかったので、ぜひこの二冊を併読するといいと薦めた。どれも大学のしがない文学教師が教え子に手を出す話だからだ。そして圧倒的に暴力に直面する(『恥辱』)か、世界観の転換を迫られる(『服従』)か。

プレゼンターは、ひとり体調を崩して急遽お休みになったが、20人。開場には218人が入場したらしい。つまり、盛況だった。みなさん楽しそうに面白そうな作品を紹介してくださった。参ったな。読んでいない作品の方が多い。まあ当然だが。人生はあまりにも短く、読むべき本はあまりにも多いのだ。

主催者の越前敏弥さんは、この催しをして「紅白歌合戦」にたとえ(過去二回は12月にやった)、自らも赤いシャツに白(っぽ)いネクタイという出で立ち。

どうでもいいことだが、僕は補色の緑のシャツであった。

2018年11月3日土曜日

高いところが怖い


高所恐怖症の僕には心臓に悪い映画館に行ったら(こんなツイートをして)、




観たフィルムにも僕を怖がらせるシーンがあった。


15回ラテンビート映画祭の一環としての上映。上映後監督のベルヘルのティーチインあり。

親戚の結婚披露宴の余興で催眠術をかけ損ねられ、それを機に他の人格が乗り移ってしまったカルロス(アントニオ・デ・ラ・トーレ)に苦しめられるカルメン(マリベル・ベルドゥ)が、催眠術をかけた張本人であるぺぺ(ホセ・モタ)とともに乗り移った人格のことを調べ、解決を図るという内容。カルロスはサッカーに夢中になると周囲が見えなくなるような人物で、工事現場で働く労働者階級。典型的なマチスモの体現者で、つまりこれはカルメンがマチスモから脱却する話としても読めるだろう。だが、それ以上に、上映後のティーチインで語られたように、あらゆる要素をひとつに詰め込んで、観客を飽きさせないエンターテイメントといった趣が強い。ダンスがあり、殺人があり、高所でのチェイスがあり(そこで僕はすくむことになる)、動物まで出てくる。


マリベル・ベルドゥの表情の豊かさも印象的だ。披露宴での微笑みの表情はこの女優をたくさん観てきたはずなのに、はじめて見るかのようだった。ホセ・モタはラテンビートのプロデューサーのアルベルトみたいだったし……

今日は特に関連の書籍など買うことはしなかった。古い友人に会い、教え子と顔を合わせた。

リンクを貼るためにIMDbを検索して面白いことに気づいた。アルフォンソ・クワロンの『天国の口。終わりの楽園。』IMDb上にもこの日本語のタイトルで出ていた。原題のY tu mamá también(おまえのお袋もな)は、原題として出ている。うーむ、これはどういうことだろう。

クワロンといえば、今日会った教え子から『ローマ』が面白いからぜひ観るといいと薦められた。Netflixは登録していないのだが、うーむ。

明日は〈はじめての海外文学スペシャル〉でお話をするのだ。まだ若干席あり。ぜひ! 

咲いた咲いた♪


昨日は恵比寿ガーデンプレイス内

恵比寿ガーデンシネマで観てきた。


修道院の運営する孤児院から香辛料を商って裕福なコルネリス・サンツフォールト(クリストフ・ヴァルツ)の後妻に入ったソフィア(アリシア・ヴィキャンデル)が、肖像画家ヤン・ファン・ロース(デイン・デハーン)と恋に落ちる。一方でサンツフォールト家の料理人マリア(ホリデイ・グレインジャー)は魚売りのウィレム(ジャック・オコンネル)と恋仲である。この二つの恋の当事者のいずれの男も、当時高騰を極めバブル経済のような活況を生み出していたチューリップの球根への投資をすることになる。夫から跡取りを作ることを期待されつつできないでいたソフィアは、マリアが妊娠したのをいいことに、それで夫をだまし、ついでにサンツフォールト家も出てしまおうと、ある計画を練る。

救いがあるのだかないのだか、……不思議な話だが、一方で、文学的トピック満載で、なじみの話のようでもある。経済状況によりブルジョワが勃興し、さらに流動化するという社会変動の話でもあるようだ。17世紀のオランダが舞台で、ちょうど今展覧会が行われているフェルメールの絵などを彷彿とさせる構図と配色に満ちている。その意味で、楽しい。

原作があるということを寡聞にして知らず、館内で売っていた翻訳を買った。

デボラ・モガー『チューリップ・フィーバー』立石光子訳(河出文庫、2018)

翻訳親本は2001年、白水社から『チューリップ熱』として出たものらしい。このたび、映画化に際して文庫化されたということ。

映画ではマリアが語り手となり、結末の言葉なども、いかにも小説の締めを映画化したらこうなった、という感じかと思っていたのだが、どうも原作はソフィアが語り手のようだ。うむ。ひねりがあったのだった。

写真下に映っているのは、その前に書店で買った『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』木村榮一訳(新潮社、2018)

ところで、なぜ「東欧」と「 」つきなんだろう? 

2018年11月1日木曜日

嘘だと言ってくれ!


気づいたら11月になっていた。10月のブログ記事は一本しかなかった。

10月を死んだように過ごした訳ではない。

9日(火)には谷崎潤一郎賞の授賞式に行った。星野智幸さん『焔』が受賞したのだ。僕はこの短篇集の書評を書いたのだった。

授賞式のスピーチは素晴らしかった。これが新潮社刊であることから『新潮45』のヘイト論文およびそれを擁護する論文の問題に触れ、作家の慢心の可能性に触れた。

13日(土)と14日(日)にはイスパニヤ学会の大会に南山大学に行ってきた。最終日には京大のスペイン語教育の試みについてのワークショップがあって興味深く聞いた。

翌週20日には第三回の現代文芸論研究報告会を開催。ゲストに多和田葉子さんを迎え、最近の三作品についての大学院生からの質問に答える形式でワークショップを行った。これも楽しかったのだが、その日は僕は授業を終えてから東大に向かうというスケジュールだったので、問題になっている本を持って行くのを忘れた。話題になっている箇所をその場で確認できなかったし、懇親会でそこにサインをいただくこともできなかった。残念。

本などにすんなりサインをもらえる人がいる。僕はなかなかそれができないタイプのようだ。

さて、11月。4日(日)にははじめての海外文学スペシャルで登壇してある本のプレゼンをする。一分くらいなものだけど。

17日(土)には原宿の本の場所で、トーク。こちらは二時間ばかりだろうか? 独りで話したり、朗読したりのようだ。20人くらいの小さなスペースだからと言われてその気になったのだが、果たして僕には20人もの集客力があるだろうか? 少なくとも知り合いがふたり、行くよと言ってくれてはいる……