2011年6月30日木曜日

社会を考える?

ちょっと前に社会に不満を抱えてデモ行進をしたスペインの若者たちが、「政治の非道徳化」を訴えていたことは印象的だった。政治が経済に道を明け渡して非道徳化したのだと。

つまりこの裏には、経済が政治に先行してはならないし、政治は倫理によって(哲学によって)律されるべきだとの思想があるのだな。スラヴォイ・ジジェクはグローバリゼーションを「経済の脱政治化」と呼んでいたけど、経済が政治のコントロールを逃れ、逆に政治をコントロールするようになっては世も末だ、ということだ。

ぼくには恐怖とともに思い出す光景がある。いつだったかのホームカミング・デイのこと。学長の講演が少し延びた。学長はそこで村上春樹の話をしていた。彼の小説に出てくる音楽をいちいちかけたりしながらの話で、ぼくにとってはとても面白いものだった。

ところが、それが終わってからレセプションへと流れたとき、参加者のひとりが事務の人々に食ってかかっていた。学長の講演が延びたことへの苦情だ。学長本人に対してでなく、事務職員に向かって。そしてその人は、「文学なんてふざけたことを言っているからダメなんだよ。世の中は経済が中心なんだ。必要とされるのは経済なんだ」と、おおよそ、そんなことを言っていた。

その人は外語を出て、立派な会社に勤め、実社会で修羅場をいくつも潜り抜け、そこそこの地位まで上り詰めて来た人なのだろう。その人にとって重要なのは経済なのであり、経済人は、そのようにロビー活動によって学長の行動に影響を及ぼしうると思っているのだろう。

そういう人に対してぼくは恐怖を覚える。嫌悪を覚える。

ぼくたちの日々の生活の基盤には経済活動がある。ぼくたちは金を稼ぎ、その金で食料を買い、生き延びている。でもそれは基盤だ。たかが基盤なのだ。下部構造とはよく言ったもので、それがすべてを律するのだと思ってはいけないのだ。まだ法政時代に、同僚の粟津則雄の最終講義を聴いて、「いやあ、おれなんかよりよっぽど高尚な話をするね、さすがだね」と言っていた金子勝の見識を、経済学者には望む。経済人には、こんなのたかが下部だとの冷めた意識を望む。

だれもがやっているたかが経済活動だ。それを第一に据えるのは人間の知性の頽廃だ。経済人の圧力に屈する政治家は頽廃した政治家なのだ。

2011年6月26日日曜日

大学を考える?

昨日の記事を書きながら、書き足そうかどうしようか迷ったあげくやめたこと:学生たちは自分たちが嫌味の対象となるときにのみ空気を凍りつかせるわけではない。まったく利害関心のないはずの他者が愚弄されているときもそうなのだ。それがぼくには不可解な話。きっと彼らはとても心根が優しいのだろう。第三者の悪口を言って笑っているぼくなど、卑怯な小心者と映るのだろう。

いちばん最近の例:ある日、前日の授業の教室に忘れ物をしたので探しにいった。その日のその時間(ちなみに言うと、1限だ8:30-10:00だ)の授業が終わったところだった。忘れ物はそこにまだ置かれていたので、安心した。それは別として、その教室が、それこそ立錐の余地もないくらい満杯であったことにぼくは心底びっくりした。百数十人が入る大教室が人いきれでむっとしたのだ。

なぜびっくりしたかというと、ぼくにとってはその同僚の先生の話を聞くことは苦痛だからだ。ぼくが学生なら決して受講しないタイプの人だからだ。声が小さいし、話し方に抑揚がない。目も上げずに話すので、いったい何を言っているのかわからないのだ。おそらく彼は、自分の話が他人に聴かれるものであるという意識を持っていないのだ。そんな人の話を、よりによって満杯の教室で、暑さに耐えながら90分も聴くなんてとてもできない。しかも朝一番、1限の時間に! それなのにあの大教室が満杯だとはどういうことだ? 

という話をしたら、学生たちがぼくに対する意識の回路を断ち切ったのだ。お笑い芸人たちが俗に「ひく」と言っている状態。波が沖に向けて引くときのように、ざーっと音を立てながら聴衆の心だか意識だかが逃げていくような感覚。

ま、ぼくとしても同僚の悪口ばかり言いたくもない。学生たちの心根を慮るのもこのあたりでやめておきたい。少し一般論を。かといって、学者の中には、確実に話すことに対する意識の希薄な者がいるということを言いたいのではない。学者でなくても、話し下手なのはいる。下手というより、人前で話しているのだという意識が決定的に欠如している者は、どこにでもいる。そんな話ではない。

ぼくが言いたいのは、ぼくが驚いたその先生の授業こそが、ぼくの知らないもうひとつの東京外国語大学の実態を物語る現実なのだ、ということ。

外国語大学、などという名で外国語学部だけの大学だから、外語大というと、どうも外国語習得マニアが行く大学だとのイメージがあるのだろう。そしてそれはある一面では間違ってはいない。内部の人間たちにも、外語は外国語教育で保っているとの対外的イメージがあるはずだとの思い込みのようなものもあるに違いない(複雑な構文で語ったのは、それだけ複雑なメンタリティだからだ)。

でもここで外国語教育のみが行われていると思ったら、それは大学というものに対する認識不足だ。外国語学部というのは、経済学部に経済学関係の必修科目が多いように、外国語(学)関係の必修科目が多い、ただそれだけの存在だ。ぼくのような人間としては、外語には人文科学関係の人材も豊富にいるのだということは言っておきたい。この大学の関係者(卒業生、教員、元教員)は、高度な翻訳家集団でもある。そのことも忘れてはならない。でも、その日ぼくが垣間見た東京外国語大学は、そんなものでもない。

その先生の悪口を言うのが本意ではないので、正確な名は隠すけれども、ぼくが垣間見た現実が展開されていた授業というのは、現在のコース割りでいう「地域・国際コース」の配当の授業。地域研究(歴史学を含む)、国際関係論、およびその関連の社会科学諸分野を軸としたコースだ。そのコース配当の授業なのだ。

東京外国語大学というのは外務専門職などを多数輩出している大学でもある。そんな職業に就きたがる人たちが、主に取りたがるコース。人気がある。人気があるから、勢い、授業の受講者は多数である。そんな職業に就きたがる人々だから真面目な学生が多い。真面目だから、ぎゅうぎゅう詰めでもきっと我慢して授業に参加しているのだろう。たとえその先生が何を言っているのかよくわからない人であったとしても、必至にそこから何かを学び取ろうとしているのだろう。人いきれとは、参加者の熱気の証でもあるに違いない。そういう授業が存在するのだ。

それが東京外国語大学のぼくのあずかり知らぬ現実だ。ぼくはそれを良いとも悪いとも思わない。ただ面白いなあ、と思うのみだ。学生たちは偉いなあ、と感心するのみだ。だからぼくの授業の学生たちにも、ついつい、本題に入る前のまくらとして話したりしているのだ。そして、教室を寒からしめる。

……これじゃあ人気の授業にはなれないやね。ならなくていいけど。ぼくは数人を相手に、楽しい本でも読んでいられれば、それでいいや。それがいいや。それだって大学の大切な存在理由なんだから。

2011年6月25日土曜日

凍りつく夏

教室が一瞬にして凍りつく、というか、学生たちの興味が一斉にさーっと引いて、しらけた空気が漂う瞬間というのがある。ぼくたちにとっての恐怖の瞬間だ。

たとえば、しゃべりすぎて調子に乗って、少しばかり嫌味な冗談を言った場合。

ぼくもいい年こいて軽薄さはいつまでもなくならないものだから、時にそんなことがある。傷つきやすい学生たちの心を踏みにじってしまうようなのだ。そんなときには反省もするし、落ち込みもする。以後、そうしたことは言わないように気をつける。(それでも時々、同じ過ちを繰り返してしまうから、ぼくは軽薄だと言うのだ……)

一方で、こういう場合もある:たとえば今年、ゼミでバルガス=リョサの『チボの狂宴』を読んでいる。1回2章ずつ内容をまとめてもらってそれについて議論しているわけだ。トルヒーリョが部下の大臣たちの妻や娘を片っ端から手籠めにしているなんて記述や場面を読んでは、「トルヒーリョ、ひでー」「ありえねー」「エロい~」なんて言ったりしているのだが、その「ありえねー」などの感想をまとめて、「これはあれかな、社会人類学や文化人類学が「ポトラッチ」と呼んだ贈与競争による地位保全のありかたをトルヒーリョが部下たちに求めているってことなのかな? でも、だとすればトルヒーリョは何を与えているんだろう? 「ポトラッチ」、知ってる? モースの『贈与論』、どこかの授業で読まなかった?」なんて話に移る瞬間だ。そういう瞬間に学生たちは一気に興味と関心を遮断して自らの殻に閉じ籠もる。活動のスイッチを切るのだ。教室内に冷たい空気が流れる。冷房のサーモスタットがカチッと音を立てる。

仮にも大学の授業なのだから、「ありえねー」から「ポトラッチ」に移る瞬間は必要なのだが、その肝心の瞬間にこれなのだ。百人ばかりの教室だったら90人くらいが、この瞬間にスイッチを切る音が聞こえるような気がする。多くの学生たちが、あたかも知的・学問的な問題・言説に対して、あらかじめ本能的に心を閉ざすことをプログラムされているのじゃないかと、がっかりする瞬間だ。

もちろん、教育なんてものは選別のシステムだ、と開き直ることはできる。100人中10人でも、いや、たとえ1人でもスイッチを切らずに興味を示してくれる者がいれば、いいじゃないか。その連中をすくい上げ、伸ばし、勉強させる。それが教育の目的だ。でもなあ、90人がスイッチを切って気温が下がると、落ち込むのだよ、ぼくは。

せっかく名を挙げたので、『チボの狂宴』『贈与論』、そして今日の収穫の岩波文庫2冊:

ウィーナー『サイバネティックス:動物と機械における制御と通信』池原、彌永、室賀、戸田訳
J. L. ボルヘス『詩という仕事について』鼓直訳

2011年6月24日金曜日

茹であがる

ぼくたちの大学は回廊形式で、ガラス張りの天井が解放感を演出している。

……んなわけない。

夏には一目瞭然、これが内部の温度を上げている。温室効果とはこのことだ。本物の温室だ。8階建ての建物のぼくは7階にいるのだが、そのあたりは地獄よりも暑い。熱い。

夏にはこの天井の内側に布でもかければいいのだ。カーテンだ。そうすれば5度くらいも温度は下がるのではないか。アンダルシアの建物の中庭みたいに。

布くらい、どうにかならないかな……

2011年6月22日水曜日

Premio Nobelを拝聴する

スペイン語でPremioというと、「賞」の意と「受賞者」の意がある。Premio Nobelとは、したがって、「ノーベル賞受賞者」の意でもある。

昨日のこと、セルバンテス文化センターにマリオ・バルガス=リョサの講演を聴きに行った。ぼんやりしていて申し込みが遅れたので、6階の図書館でのモニター観覧となった。回線の混乱があって、日本語訳が聞こえたりスペイン語が聞こえたりして、人々があちこち行ったり来たり。まあ日本語でも理解できるので、ぼくは行き来せずに日本語翻訳の流れた部屋で聞いた。

「子犬たち」や『都会と犬ども』、『緑の家』、『ラ・カテドラルでの対話』、『パンタレオン大尉と女たち』の成立のことなどを即興で、楽しそうに話していた。

余談だが、ぼくがセルバンテス文化センターに到着したら、大江健三郎も到着していた。彼はセンターの人々のお出迎えを受けていた。ぼくはすごすごと横を通ってエレベーターに乗った。

……当然の扱いだが。

東京ブックフェアにはフリオ・リャマサーレスなどが来るようだ。

今日は東大で同じくバルガス=リョサの講演会があった。が、ぼくは今日は教授会の日、東大に行ったなんておおっぴらに言えないじゃないか。

もしぼくの姿が外語の大会議室にあったら、ぼくは職務を優先させたということ。もしぼくの姿が東大本郷キャンパス、法文2号館1番教室にあったとしたら、仕事をさぼったということ。

さて、どっちだったでしょう? あくまでも秘密だ。

ふふふ。

ところで、バルガス=リョサの小説の中でぼくのいちばん好きな作品(かもしれない)『密林の語り部』が岩波で文庫化されるそうだ。バルガス=リョサは東大から名誉博士号を授与されたらしい。

2011年6月19日日曜日

福嶋君のD論が本になった。

戸田山和久『論文の教室:レポートから卒論まで』(NHK出版、2002)

なんて本を手に取るのは、あくまでも学生たちの論文指導に常に迷い、悩んでいるからだ。何かひとつでも学ぶべきことがあればと思うからだ。この本は、まあ「ヘタ夫君」と先生の対話形式などを取り込み、文章も軽めにして、早い話が、ぼくがいちばん嫌いなタイプの本なのだが、それでも、ふだん学生の論文指導をしながら感じているモヤモヤを晴らしてくれるようなテーゼはいくつかある。

 ようするに、キミが見つけたつもりになっている問いが「……とは何か」という形式をしていたら、それはまだキミが問いにたどり着いていない証拠だと考えたほうがよいということだ。(59ページ)

【鉄則18】要約は文章を一様に短くすることではない。読んで報告する報告型の課題に取り組むとき、
(1) 筆者はどういう問題を立てているか、
(2) 筆者はそれにどう答えているか、
(3) 筆者は自分の答えのためにどのような論証をしているか、
の三点だけをおさえて報告すればよい。(83ページ)

さらには、木下是雄『レポートの組み立て方』(ちくま学芸文庫、1994)がこの種の論文マニュアルで最初にパラグラフ・ライティングの説明をしたものだ、と書いてあったら、そういえばこの本は持っているが、どこにあったっけかな、と探し、見つけ、読んだりしている。

さて、では次の論文は、こうしたマニュアルを読んで方法論意識を高めたぼくの見識に叶うものかどうか、見てやろうじゃないか。

福嶋伸洋『魔法使いの国の掟:リオデジャネイロの詩と時』(慶應義塾大学出版会、2011)

福嶋君は東大を出て外語の大学院に進み、そこで博士号を取得。博士論文を加筆して慶應大学出版会から出版した。表紙のイラストがすてきな本だ。が、ところで、タイトルは博士論文として出したものと同名だというが、すごいな、かつてこんなすてきなタイトルの博士論文が書かれたことがあったのだろうか? ぼくは彼の論文審査を担当した者ではないが、その能力の端倪すべからざることにかけて評判の福嶋論文は、実に蠱惑的な雰囲気を醸し出している。

 わたしたちによく知られている物語が伝えるところによれば、子どもの魔法使いが修行のために魔法の国から出てわたしたちの世界を訪れるときには、素性を隠し、わたしたちの誰とも変わらない、ごくありふれた誰かとして振る舞うことが定められているという。そしてもし誰かに正体を知られてしまったときには、人びとの記憶のなかからその魔法使いの存在は消し去られなければならない、と。(2ページ)

驚け、これが第1章の冒頭なのだ。序章は確かに論文のアブストラクトとなっており、定石を踏んでいるように見えながら、1章の書き出しからしてその定石が破られているのだ。パラグラフ・ライティングなどどこ吹く風、と笑うかの文章なのだ。そして4段落目で、

 この魔法使いは、わたしたちの言葉では、幼年時代と呼ばれている。(3ページ)

と話をまとめる。

すごい! 

これは標準的な論文の書き方を指南する上記のマニュアル類、それが推奨する論文作法をはるかに超越した上級者レヴェルの展開によって綴られた時間と言葉を巡る詩学の書なのだった。評判に違わず福嶋伸洋、ただ者ではない。プルーストを呼び出し、ボードレールに言及し、ヘルダーリンを引用しながら、幼年時代との決別とその回復としてのマヌエル・バンデイラの詩を読み解く第1章は、それ自体が詩のようだ。この章の精髄は、この1段落。

 ヨーロッパ諸語における「幼年時代(enfance, infanzia, infancia,…)」のルーツにあたるラテン語の単語 "infantia"が「言葉を用いることができないもの」という意味を持ち、そのために「幼年時代」が、語源学的に「言葉」との関わりにおいて定義されるものであるということは思い出しておくべきである。言葉によって書かれるしかない以上、詩は必然的に幼年時代とは相容れない。ドゥルモンによる簡潔な定義、「わたしたちは読むことを覚えつつ、幼年時代をわすれてゆく」はまた、「わたしたちは書くことを覚えつつ、幼年時代を忘れてゆく」と言い換えることもできるだろう。幼年時代の、豊かな詩想の源であると同時に、詩の表現が追い求めて止むことのないものである、という双面は、語源の裡にすでに孕まれている。(11-12ページ、注を省略)

かっこいいなあ。すばらしいなあ。こんな博士論文が書けるなんて、羨ましい。自分の博士論文を書き直したくなったな。

2011年6月16日木曜日

電子化を言祝ぐ

東京外国語大学出版会が出している冊子『ピエリア』の第2号までがサイト上で読めるようになった。ブログからリンクが貼ってある

現在第3号まで発行された『ピエリア』。その創刊号にぼくは「ラブラレターのすすめ」というのを書いた。友人のKは「あれがお前の最高の文章だ」などと言っていた。ほかにもいろいろと書いてきたのだけどな。それらは評価してくれないのかな。いじけるな。

でも、ともかく、それを書いた。そして本のお薦めのコーナーでも、この記事に関連するものを勧めた。

第2号では本を薦めているだけ。

第3号ではインタビューをうけ、「私の読書道」というコーナーに掲載。「書物の記憶はつながっている」というタイトル。これのPDF化は秋頃とのこと。昨日訪ねてきた卒業生は、それに目を通し、「ああ、なるほど、そうそう、その世代ってこんなの読んでました、っていかにもな本のラインナップですよね」と。うーむ。見透かされたようだ。

インタビュー中に語ったことで、掲載されなかった面白いエピソードを。

ある日、新小金井街道を車で走っていると、とてもすてきな木造建築物が見えた。助手席に乗った人物に、ぼくは、いとも自然に、「斎藤病院ってまだあるんだね……」と話しかけた。斎藤茂吉の興した病院だ。はじめて見たはずのぼくは、瞬時にそれを認識してこの発言に及んだのだ。

不思議だ。ぼくは斎藤茂吉も息子の斎藤茂太も、その弟の北杜夫も読んだことはない。ただ1冊、北杜夫のエッセイをのぞいては。そして、思い出したのは、中学生のころに読んだその北のエッセイの巻末に、斎藤病院は「東京都小金井市」にあるとして写真入りで紹介されていたのだ。

ぼくはつまり、読んだことを忘れかけていた中学のころの読書体験による記憶を保持していて、実物の斎藤病院を見たときにその記憶をよみがえらせ、反応したのだ。

すごいことじゃないか?

2011年6月15日水曜日

¡Vamos!

1年生が先日のボート大会用に作ったTシャツが余っているので、買えと言ってきた。買った。ブツが来た。こんなやつだ。

1限に受け取ったので、2限の前にトイレに入って着替え、2限はそれで授業した。

あまり人前でTシャツを着ないので、なんだか照れた。

夕方には卒業生が訪ねてきた。そのまま食事。マッシュルームが向こうに見える。マッシュルーム。うまい。

2011年6月12日日曜日

元ちとせのはだしを思う

レイモンド・ウィリアムズ『キーワード辞典』椎名・武田・越智・松井訳が平凡社ライブラリーに収録されたと新聞の一面の広告に見出し、昼食のついでに本屋に寄ってみたらもう店頭に並んでいた。買った。ついでに、もうひとつ目についたのが、

陣野俊史『戦争へ、文学へ:「その後」の戦争小説論』(集英社、2011)

ツイッター上で『すばる』の方が予告していたし、星野智幸がそれについて期待できる一冊だとコメントしていたので、気になっていた。こんなに早く出るとは思っていなかったのだが。躊躇したけれども、結局買ったのは、立ち読みしたときに2つの文章が印象に残ったからだ。ページは前後するが、目についた順に言うと、

 二十一世紀になって、特に二〇〇三年以降、若い小説家が戦争小説を多く書いている、そんな漠然とした印象があった。(18)

 文芸誌に掲載された小説を中心に一九九一年以降の「戦争小説」史を考えてみるとき、いささか驚くのはやはり九〇年代の戦争小説の少なさである。(14  下線は原文の傍点)

そうなんだよな、80年代までは確かに戦争小説があり、それが90年代になると少なくなる、そんな流れはあるように思うのだな、小説に限らず、映画とか漫画とかも。つまり、80年代に教養形成したぼくらの世代くらいまでが戦争をフィクション上の現実として感じていたのだよな、などとつらつらと思った。

しかし、そのとき思い出したのだ、2日前の元ちとせの姿を。彼女ははだしだった。

ぼくは元の熱心なファンではないので、厳密には言えないけれども、でもぼくが記憶している彼女の映像はステージ上では常にゆったりとしたワンピースにはだしという出で立ちだったように思う。元ちとせははだしの少女なのだ。

彼女はぼくより15歳くらい年下で宇検村の諸鈍かどこか、ともかく、山間の海辺にへばりつくようにしてわずかばかりの土地が開けた小さな集落で育っているはずだ。その彼女がはだしであるということはどういうことか? 

きっと彼女ははだしが自然でもっとも歌いやすい体勢だと感じているのだ。つまり彼女ははだしで育ったのだ……と思う。

ぼくたちは皆、はだしだった。元ちとせより15歳年上の、島の北部の、やはり山間にへばりついてはいるものの、それほど険しい地形ではない集落で育ったぼくの周りは、はだしの子が多かった。

靴くらいは持っていたさ。でも、ここ一番の力を発揮しようというとき(たとえば運動会で100メートルの徒競走を走るとき)、靴を脱ぐ子が大半だった。

ぼくたちの母の世代は、だいぶ年が行くまで、はだしが日常の姿だった。母は1931年生まれ。終戦時は14歳になったばかりだ。はだしで、集落の移動は徒歩か船が主だったと聞いたことがある。終戦後、いわゆる「2・2宣言」というやつで奄美群島はトカラ列島、小笠原諸島、沖縄ともども日本の領土外に置かれた。1953年、講和条約発行後の2年後には本土に復帰する。日本本土だってそれまでGHQの統治下だったといえばそれまでだが、それでも、たとえば軍票が通貨として使われたりして、明らかに日本とは異なる体制下で生きていた。このこともあって、沖縄より早く日本に復帰した奄美群島は(逆にそれだから、という面もあるが)、貧しかった。

1954年、復帰の翌年に大宅壮一が奄美を旅し、ルポを残しているが、主邑・名瀬はともかく、そこを離れれば人々の暮らしは「未開人のよう」だと書いた。はだしで、衣服もろくなものはなく、栄養状態も悪い、と。

ぼくは復帰の10年後、終戦の18年後に生まれた。ぼくたちは既に靴は履いていた、中学までの通学路は自転車で移動した(ただし、その時に使っていた県道が舗装されるのは、ぼくたちの中学在学中のこと。76-79年のいずれかの年だ)。でも、何かの折にははだしになるのを好んでいたのだ。貧しく、大学進学者だってそんなに多くはなかった。

ちなみに、ぼくははだしになると足の裏に痛みを感じるだけで、力など出せるはずもなく、そんな「未開人のよう」な真似はあまりしなかった。でも、ぼくの周囲にははだしの少年が多数いた。一方、ぼくは同世代の者のなかで、実際にはいちばん貧しかった。

ぼくたちの中学への道路が舗装されたころに、ぼくたちの住む集落とは対称の位置にある集落で生まれた元ちとせは、たぶん、はだしを自然と感じた最後の世代の最後の最後のひとりだったのではないかとぼくは推測する。その彼女が「わだつみの木」で圧倒的な話題をさらったのが2002年のこと。その翌年くらいから若い世代の戦争小説の隆盛が始まると陣野俊史は指摘しているのだ。

元ちとせのはだしは、時宜を得て出てきた戦後の記憶なのかもしれない。

と、本屋で考えたのだった。

2011年6月11日土曜日

新宿のデモの嵐を尻目に別の嵐を見る

ジュリー・テイモア『テンペスト』(アメリカ、2010)

シェイクスピアが単独で書いた最後の戯曲『テンペスト』が原作。

戯曲『テンペスト』はミラノ大公プロスペローが、弟たちの陰謀によって国を追われてある島に暮らし、魔術を身につけて機を窺い、その政敵たちが近くを船で通った際に魔術で嵐を起こして島に呼び寄せ、復讐してミラノ大公に返り咲くという話。

地中海の島がほのめかされているけれども、実際のシェイクスピアはバミューダの島からのニュースをヒントに舞台を考えついたこと、プロスペローが島に住んでいた妖精エアリエルと怪物キャリバンを手懐けるその手腕が、まさにヨーロッパの植民地主義的統治そのものであると理解できること、プロスペロー、アエリエルといった名の含意は明らかな上に、怪物キャリバンがCannibal(人食い)のアナグラムであること、19世紀にはこの怪物がアメリカ合衆国にたとえられたこと、20世紀初頭にはその比喩が受け継がれて、逆に妖精エアリエル(アリエル)こそがラテンアメリカの文化の目指すべき姿だとされたこと、20世紀半ばには、しかし、逆に、われわれラテンアメリカ人はむしろキャリバンとしての自己認識を持つべきだとの発想の転換がなされたことなどから、いわるポストコロニアル批評の参照テクストとして注目を浴びた作品だ。デレク・ジャーマン(1979)やピーター・グリーナウェイ(1991『プロスペローの本』として)についで3度目の(たぶん)映画化だ。

テイモアの『テンペスト』はプロスペローをプロスペラ(つまり女性)にかえたこと(配役はヘレン・ミラン)。このことの意味は微妙だが(たとえば娘ミランダ〔フェリシティ・ジョーンズ〕との関係)、少なくともエアリエルとの関係がこれで面白くなった。エアリエル(ベン・ウィショー)もキャリバン(ジャイモン・フンスー)同様、プロスペロー……いや、プロスペラによって言葉で支配された植民地先住民の一部に過ぎず、彼女の命令を遂行した後には自由の身になりたいと考えている。ほとんど全裸に近い姿で白塗りで出てくるものの時には(特殊メイクによって)小さく乳房をつけたエアリエルが、時にプロスペラを誘惑するかの仕草をしてみせるから面白い。小田島雄志訳(白水社Uブックス)では彼がプロスペローに対し「私をかわいいとお思いに?」と訊く台詞がある。これは "Do you love me?" なのだが(今iBooksで『テンペスト』を探したらフランス語版とイタリア語版しかなかった。フランス語版によれば、M'aimez-vous?)、このやりとりがずいぶんとなまめかしくなる。

ただし、このアリエルをなかなか興味深い視覚効果を使って動かしているのだが、ぼくはあまりこれが好きになれなかった。いくつかの音楽同様、脱力した箇所。

渋谷の真ん中で出自にとらわれる

もう日付けがかわったので、昨日のことだ。10日(金)は授業が終わってから渋谷のCCレモンホールに行ってきた。昔の渋谷公会堂だ。

Rolex Time Day 2011 Amami Chronicle Live
さすがはRolex主催だけあって、時の記念日にこれでもかというくらい時間を意味する単語の並んだコンサート名だ。出演は元ちとせ中孝介、坪山豊。

早い話が、同郷のよしみ、というやつだ。これに協力しているある雑誌(SWITCHだ)の編集者の方が、そういえば元ちとせと同郷だそうじゃないか、来るか、と誘ってくれたので。

第1部はいずれも大島に身を包んだ中と元の若い二人に囲まれた坪山豊が「朝顔節」(これは独りで)「朝花節」「俊良主節」「くるだんど節」といったスタンダードの島唄ナンバーに加え、「ワイド節」(これも既にスタンダードだが)の作者である坪山の作になる「綾蝶節」、そしてやはりスタンダード「豊年節」を披露。

「豊年節」にいたって1階のフロアから誰かの吹く指笛が聞こえたときには、思わずぼくも手を口の中に持っていった。すんでの所で反応して指笛を返すところだったのだ。本能的に、というのが言い過ぎだとしたら、せめて条件反射として。30年以上前に捨てた故郷とはいえ、三つ子の魂百まで、その故郷で身につけた行動特性は強かったと、自らの来し方を渋谷の真ん中で再認識したのだった。

それにしても、元ちとせの表現力(主に裏声の張りと強さ)は、島唄でも健在であることが改めて確認された。

第2部は元ちとせ、中孝介がそれぞれのナンバーを何曲かずつ歌った。途中「しわじゃ しわじゃ」で始まる「糸繰り節」を歌った直後の中のその心配(しわ)が的中したわけではあるまいが、直後に歌った「花」の音が割れていたのが少し残念(PAの問題)。代表作中の代表作だけに惜しい。それからまた元ちとせが加わって、二人のユニット「お中元」による曲、さらには坪山豊を呼び入れ、祭りのクライマックスを飾るいつもの踊りのナンバーを三曲ほど。一曲目は「喜界やよい島」か? よく知らない曲だった。そして「ワイド節」、最後は「六調」。1階の平土間では、一目でそれとわかるしまんちゅと、そうでない人々が、最初はおずおずと数人だけ、後にほぼ全員を巻き込んで踊っていた(その手首の返し方を見れば、出自はおのずとわかる)。

ぼくは子供のころ、この踊りの輪にうまく加わることができずに、横で指笛を吹く役に徹していたのだ。没我にいたることのできない覚めた人間の、伴奏者根性。よくいえばヴォワイヤンの立場。でもその指笛すらもが、ひとつの条件反射の、没我の賜物だということを、前半早々に思い知らされた日だったという次第。

六調のクライマックスを2階から見下ろしていたぼくは、そりゃあ、指笛くらいは吹いていたさ。

2011年6月10日金曜日

人間になりたい

ツイッター上にぼく宛のメッセージが来た。リンク先のこのブログの内容を広めたいのだと。

無視するのも素気ないかと思い、ここにリンクを貼っておく。

ぼく自身は他人が別の第三者にしかけた論戦に参加する意志は、それがぼく自身に関わってこない限り、ない。

ブログの論点は3つ。1)『アラトリステ』字幕には決定的な誤訳がある。2)それを導いたのは条件法の文章のニュアンスを取れなかったことに由来する。3)DVD化の際やウィキペディアへの記載など、誤訳訂正の機会の芽が摘まれてしまったことは遺憾である。

3)については、それこそ、第三者間の論争だし、ぼくはあずかり知らない。(日本版ウィキペディアは、最近ではだいぶ改善されてきたとはいえ、ぼくはリファレンスとしては端から信頼を置いていない)

1)についても、ぼくはさして『アラトリステ』には興味もないし、そもそも原作も読んでいない、映画も見ていないので、きっとそうなんだろうな、という以上のことは言えない。2)に関してなら、本当に条件法のニュアンスを取れないで翻訳に携わっている人は多いし、それは由々しきことであると言いたい。逆に言えば、この種の不備はたくさん見出される。

条件法というのは、(少なくともぼくらの世代ならば)入試英語の勉強において、たとえば、 "If I were a bird, I would fly to you." なんて構文として示されたことで馴染みのもの。この構文がこのまま使われれた場合ならともかく、帰結節の would だけが出てくる場合など、この前提に条件節の過去の文が暗黙裏に想定されていることが忘れ去られ、人はミスを犯してしまいがちなのだ。スペイン語なら過去未来形と呼ばれる活用をする動詞だ。学部の学生くらいだったら、限りなく100%に近い数の学生が、この時制の特性を取り違える。いちおうぼくはこの時制に関する注意を常に喚起しているつもりではあるが、2年生の講読レヴェルだとどれだけ口を酸っぱくして注意してもなお多くの学生が2度も3度も取り違える。ぼくはときおり、日本人には条件文というものを理解する精神構造が欠けているのではないかと詠嘆したくなるほどだ。

ありもしないことを空想するのは人間の特性だ。事実に反する仮定とその帰結を述べる条件文は、従って、人間に特有の言語表現だ。これをきちんと把握できるようにしたいもの。

(6月26日の付記:くれぐれも誤解して欲しくないので繰り返すが、ぼくは『アラトリステ』解釈論争には興味ないし、どちらにも与する気はない。ここではこの論争に示唆され、一般論としての条件法理解の難しさを説いただけのこと)

2011年6月7日火曜日

知の共有可能性を慶賀する

学生の授業での小課題の回答を読んでいて、ちょっと気になったことがあったので、CELARG(Centro de Estudios LatinoAmericanos Rómulo Gallegos ロムロ・ガリェーゴス・ラテンアメリカ研究センター)のサイトを久しぶりに訪れた。ロムロ・ガリェーゴス国際小説賞などを出している機関で、ぼくは2002年、ここの客員研究員だった。

そこで発見したのが、このプロジェクト。Biblioteca Ayacucho アヤクーチョ叢書の電子化。かなり多くの巻がPDFファイルとして無償でダウンロードできる。

スペイン語圏ではすでにBiblioteca Virtual Miguel de Cervantes セルバンテス・ヴァーチャル図書館のプロジェクトがあって、古典文学作品の多くをHTML文書で読むことができる。これに続く快挙だ。

アヤクーチョ叢書はベネズエラに滞在していたウルグワイ人批評家アンヘル・ラマの提唱から始まったラテンアメリカの古典作品の叢書で、細かく信頼に足る校注版ではないものも多いのだが、それでもたいていは研究者によるイントロダクションや注がついていて、ラインナップもオーソドックスな古典作品が揃っている。詩や小説の文芸作品のみならず、エッセイやジャーナリズム作品なども含むので、それもうれしい。

こうした叢書が電子版としてインターネット上にあり、いつでも参照しダウンロードできるのだから、こんな嬉しいことはない。知はこのように共有されるべきなのだ。

2011年6月5日日曜日

勉強しなきゃな、と思うのはいつものこと

日本ラテンアメリカ学会@上智大学。

いくつか若い人の発表を聴き、うむ、おれも近頃学会発表などしていないな、これはよろしくないぞ、などと考えるのは、いつものことだった。

懇親会、二次会とワインを飲み、帰ってきたら届いていた。

寺崎英樹『スペイン語史』(大学書林、2011)

朝刊一面に広告が出ていたから買わなきゃなと思っていたら、そう思った日のうちにいただいた次第。ぼくは彼に教わっているので、つまりは先生なのだが、こうしてご恵贈くださると恐縮する。ラファエル・ラペサの『スペイン語の歴史』も今では邦訳が存在するが、もっとわかりやすく、かつラペサ以後の見識も盛り込みながらのスペイン語の歴史を扱った書。

スペイン語(español)はカスティーリャ語(castellano)とも呼ばれ、ラテン語(latín)から分岐したロマンス諸語の一つである。系統的に見ると、ラテン語はインド・ヨーロッパ(印欧)語族イタリック語派に属する言語である。印欧語族は、この他にインド・イラン語派、バルト・スラヴ語派、ギリシャ語派、ケルト語派、ゲルマン語派などに分類される。(1)

これが書き出しだ。「1.序 1.1.スペイン語の系統」の冒頭だ。こういう簡潔にして明瞭、ドライに命題を積み重ねていくアカデミックな文章って、実は意外と難しいのだよな。読む者としてはしかし、飽きずに読み進められる。

2011年6月3日金曜日

アクロバシーを称える

卒論ゼミでベネズエラ中央大学の建築を思い出し、つつル・コルビュジエを考え、家に帰ってから、このところ評判の以下のテクストを読んでみた。

中沢新一「日本の大転換(上)」『すばる』2011年6月号、184-200ページ。

福島の原発の話から始まり、原子力エネルギーのごとき「第七次エネルギー革命」の産物(A・ヴァラニャックの言葉)は人間が生存場所とする「生態圏」の外部から無媒介にもたらされた最初のエネルギーであるというエネルゴロジー(エネルギーの存在論)上の位置づけをし、そういう「生態圏」の外部からもたらされたものとして、この核エネルギーに対応するのが一神教であると述べる。

実に中沢新一的な論理のアクロバットだ。これが実に面白い。それだけに留まらず中沢は、カール・ポランニーを引きながら、資本主義もまた私たちの「こころの生態圏」たる社会の外部から来たものであるとする。つまり核エネルギーの対応物だということだが、この資本主義というやつ、みずからの閉じたシステムに社会をも巻き込んでいくとんでもない破壊力に満ちたもの。社会に内在するキアスム構造(構成要素同士を結びつける働き)を粉砕していくのだ。しかもこの手に負えない資本主義を動かしているのが、いまや原子力であるという危険性を指摘したところで、「上」は閉じている。続きは7月号にて。

原子力を一神教と結びつけて考える中沢のような想像力の持ち主にとって、福島第一原発で放水車を操っている姿は、一神教の神にアニミズム的呪術で対抗しようとするみたいなものだ、などという比喩は、地震が天罰だと言ったどこかの老人よりはよっぽど何かを考えさせられる表現だ。

2011年6月2日木曜日

クロスメディアで楽しめ!

『「シューマンの指」音楽集』(ソニー・ミュージック、2011)

奥泉光『シューマンの指』(講談社、2010)で言及されるシューマンの楽曲をキーシン、ホロヴィッツ、仲道郁代らの演奏をコンパイルしてできた6枚組。なんと、3000円! 

奥泉の小説が出たとき、講談社のサイトで何曲かキーとなる曲をmp3かmp4で聴けるというサービスがあった。そのとき、できればCDにして欲しいな、とぼくはツイッターに書いたものだが、そうした要求が多かったのだろうか、今、こうして実現した次第。

でも意外とぼくはシューマン、何枚か持っているのだけど、きちんと確認したわけではないが、おそらく、このコンピレーションに収められた演奏、演者のものはないと思う。たとえばクライスレリアーナはぼくが持っているのは、アシュケナージ。このアルバムでは小山実稚恵。聴き比べてみることとしようじゃないか。

村上春樹にはごく初期のころ、彼が言及した音楽についての解説を集めた本があったように記憶する。『村上レシピ』なんて料理本もあった。『風の歌を聴け』で鼠が食べていた、ホットケーキにコーラをかける、なんてものまで再現されていて笑ったものだが、ともかく、そんなのがあった。そうした例を、これははるかにしのぐ快挙だ。クロスメディアで楽しめ、『シューマンの指』!