2017年11月24日金曜日

野球とボクシングとミスコン。それがベネズエラの三大スペクタクル

昨日、23日(木・祝)は東大の駒場キャンパスで「ラテンシネクラブ第1回上映会&トーク」というのを見に行った。教養学部の石橋純さんが主催する会だ。彼が主宰するそうした組織があるわけでなく、うまく行けば第2回、3回と続くこともあるかもしれない、という程度の見通し。

ラテンアメリカ学会でも上映した作品ではあるが、パブロ・モジャーノ『沈黙は破られた』(アルゼンチン)エリオ・イシイ『誰か家にいますか?』(ブラジル)フアン=アンドレス・ベージョ『民衆のミス・ベネズエラ』(ベネズエラ)の3本のドキュメンタリーの上映と、上映後のトーク、それに加えて、最後の1本の前と後には石橋さんの指導するエストゥディアンティーナ・コマバの演奏までついていた。

『沈黙は破られた』は1976年からの軍政によって弾圧されたいわゆるDesaparecidosの中にいた16人の日系人の家族を追ったもの。『誰か家にいますか?』は2000年以後の経済成長で没落することになったサン・パウロの中流の人々を扱ったもの。『民衆のミス・ベネズエラ』は1944年のセリエ・カリベというか、アマチュア世界選手権(カリブの)を開催するに際し、そのイヴェントのためのマスコットというのか、ミスを選ぶことになった、それがベネズエラ初の無記名普通選挙だったのである、という話。どれも面白い映画だった。

あるところで買い物して、その荷物が今日、届いたのだが、そこに梱包されていたおまけが、これ。

スタジャン型貯金箱。「あるところ」というのがどこなのか、これでは匿名にする意味もない。


お金、溜まるかな?

2017年11月20日月曜日

人はみな詩人を目指す

アレハンドロ・ホドロフスキー『エンドレス・ポエトリー』(フランス、チリ、日本、2016)

『リアリティのダンス』(チリ、フランス、2013)の続篇とも言うべき自伝的作品。


トコピージャを後にするホドロフスキー親子のうち母親のサラ(パメラ・フローレス)が台詞を歌い、あからさまな書き割りを伴う船旅とサンティアーゴの街の様子が映し出された、そこはもうホドロフスキーの世界だ。

医者になれと強要する父親ハイメ(ブロンティス・ホドロフスキー)に反発して家を出たアレハンドロ(イェレミアス・ハースコビッツ→アダン・ホドロフスキー)は詩人になろうとし、ニカノール・パラの「ヘビ女」に想を与えた女ステラ(パメラ・フローレス)に出会い、パラ本人(フェリペ・リーオス)に出会い、エンリケ・リン(レアンドロ・タープ)に出会い……と詩人として自己成形していく。

ロベルト・ボラーニョの短篇に「ダンス・カード」というのがある。ボラーニョの分身とおぼしき人物が知り合った詩人たち芸術家たちとの思い出を綴ったものだ。それのホドロフスキー版、とでも言えばいいだろうか?

実際、ボラーニョを知った今となっては、ホドロフスキーの世界が実によくわかる。アレハンドロとエンリケが道をまっすぐ進むと決めてトラックの上に登り、見知らぬ他人の家を突っ切って行くというシークエンスがある。そしてまた、ふたりがどこかの講堂で立派な詩人として紹介されながら悪態に満ちた詩文を読み、肉と卵を聴衆に投げつけるシーン。ああいったことを、おそらく、ボラーニョはメキシコで仲間たちとやっていたのだ。『野生の探偵たち』のウリセス・リマのモデルとなったカルロス・サンティアーゴは目をつむって横断歩道を渡るという奇癖を持ち、そのため二度、交通事故に遭い、二度目に死んだのだった。

その破壊的行動を伴うロマンティックなまでの詩への憧憬をボラーニョとホドロフスキーは分け合っているのだ。

ホドロフスキー=ボラーニョ+サーカス+カーニヴァル

といったところだろうか。この自伝シリーズは三部作を考えていて、次回作でパリを経由してメキシコに到達するというのだが、そこにはきっと若きボラーニョも顔を出すに違いない。


ところで、ホドロフスキーにはやはり強烈なエディプス・コンプレックスのようなものがあるはずで、この作品でも父親のくびきから逃れる自分を描いているのだが、そのアレハンドロが息子のブロンティスやアダンを動員し、彼らを裸にしたり髪を剃らせたりして、エディプス的な意味合いではないかもしれないものの父親の存在感と影とをこれ見よがしに彼ら息子たちに落としているのは皮肉なものだとも思うのである。
写真はイメージ。先日の「ディエゴ・リベラの時代」展の図録が届いた!


2017年11月15日水曜日

ゆったりとした週

東大が採っている複雑な仕組みのカレンダーのおかげで、今週は東大の授業はない。他大はあるが。そしてまた、土曜日の立教の授業もない。入試の日だからだ。つまり今週は、比較的ゆったりした週だ。

昨日、14日(火)にはコロンビアの作家エクトル・アバッド=ファシオリンセの講演を聴きにセルバンテス文化センターに行ってきた。当初の予定になかったことだが、彼の講演の前に、娘が撮ったドキュメンタリーが上映された。僕は知らずに行って、最後の10分くらいだけ見た。アバッドは1987年、父親を殺され、亡命のようにしてコロンビアを去る。その経緯を彼のおそらく一番知られている小説 El olvido que seremos に綴っているわけだが、映画はその辺りの事情を当時のフッテージなど交えながら作ったものだった。

今日届いた荷物はこれ。


ラッセル・ホッブズのヤカン。注ぎ口が細く、コーヒーを淹れるのに向いている。

2017年11月11日土曜日

デートの記録、あるいは『野生の探偵たち』ファンへのお薦め

昨日、10日(金)、午前中の授業を終え、夜、とある女性と新開拓のレストランで食事をする約束をしていたのだが、どうせならと、昼間のうちから会って行ってきたのだ。


リベラの壁画を持ってこられるはずもなく、リベラのもの自体は少ないですから、期待しないでくださいね、と関係者に言い含められていたし、そもそも壁画をあらぬ期待を込めて所望していたわけでもないので、まあ、「の時代」を楽しむのだと、そういうつもりで出かけて行った北浦和。

埼玉県立近代美術館は入り口にフェルナンド・ボテーロの彫刻をでんと据えた素晴らしい美術館なのだ。埼玉県がメキシコ州と姉妹提携を結んでいることもあり、美術館の広報誌はその名もZócaloだったりする。

さて、リベラの壁画は、もちろん、さすがになかったけれども(映像とスライド投影、それにティナ・モドッティらによる壁画写真数点があった)、若き日のリベラ、そしてパリでキュビスムに転じる前後のリベラ、成熟後の非・壁画作品もあって、なかなかの充実ぶりだった。

そして、肝心の「の時代」。これがまた素晴らしい。特筆したいのは、マヌエル・マプレス=アルセのエストリデンティスモやその後の雑誌『同時代人』にいたるまでの前衛詩のグループとアーティストたちの緊密な繋がりを押さえ、当時の雑誌や、30-30というグループのマニフェストを掲げたポスターなどは見ていて飽きなかった。2時間ばかり滞在して、閉館間際の退出だった。

マプレス=アルセらはボラーニョ『野生の探偵たち』で頻繁に言及されたり登場したりする。その人たちの前衛詩がアートと密接に関連していることを示しくれるものだ。

本来の目的として夜に行ったのは、上野のバスク料理店サルデスカ


ある人が気になるとツイートしていたのを見たその日、別のある方からデートのお誘いが来たので、行っちゃえ、と提案したもの。いささか裏切り者の気分。カウンターと小さなテーブルがひとつあるだけの、スナックを居抜きした、ひとりで切り盛りしている店。食事のメニューはすべて日替わりらしい。どれも非常に美味であった。

2017年11月5日日曜日

センに線を引く

一昨日のエントリーでは写真に映った3冊のうち橋爪大三郎の著書のみを話題にした。が、その奥にはアマルティア・セン『アマルティア・セン講義 グローバリゼーションと人間の安全保障』加藤幹雄訳(ちくま学芸文庫、2017)などがあったのだった。

橋爪のアドバイスを受け入れ、センの著作を読む際、傍線を定規で引いてみた。

うーむ。果たして手書きより早く引けたかどうかは、不明。しかし、手書きよりはるかに美しく引けたことは間違いない。僕の読書の痕跡としては比類なく整然としている。

そしてまた、定規を栞の代わりに本に挟んで持ち歩くというのもひとつの手なのかもしれないとも思う。

『グローバリゼーションと人間の安全保障』はセンが来日して行った石橋記念講演の記録(第一・二章 「グローバリゼーション」「人間の安全保障」)と、それを機に東大からの第一号の名誉博士号を受賞したときの講演(第三章 「文明は衝突するのか?」)、それにセン自身が選定した独立論文(第四章 「東洋と西洋」)から成る。

グローバリゼーションを歴史上恒常的に見られてきた統合への動きとして捉えるところなどは、アルフォンソ・レイェスの「ポリスのアテナ」と並べて論じたくなるし、数学の概念の伝達と変化を叙述した箇所などは翻訳論の文脈にも入れてみたい。センの教養と洞察が光るところ。

「人間の安全保障」という概念が小渕恵三の提唱したものであることなどは、日本での講演であるという性質から来るものだろうが、それにしても、すてきなことを知らしめてくれるじゃないか。小渕は「人間は生存を脅かされたり尊厳を冒されることなく創造的な生活を営むべき存在であると信じ」、「人間の安全保障」という概念を提示したそうだ。


人間の尊厳など、友だちでない者のそれなら冒し放題な小渕の後輩(つまり、現首相のことだが)に聞かせてやりたいじゃないか。

そして、もっと、もっと切実に聞かせてやりたいのが、次の断定。

 経済発展の要素の一部とみなされる基本的自由を拡大するには、さまざまな制度とそのような諸制度による保護とが必要です。民主主義的な経済運営、市民の権利、基本的人権、自由で開放されたメディア、基本的教育と健康管理を提供する施設、経済的セーフティ・ネット、そしてこれまでおろそかにされてきて最近ようやく注意が払われるようになった女性の自由と権利を保護する諸制度などが必要なのです。(57)

どれも今の日本でないがしろにされているものばかりじゃないか。


2017年11月3日金曜日

公共のものである私の頭

10月31日にはセルバンテス文化センターに行った。México en Sur 1931-1951( FCE ) という本を編んだGerardo Villadelángel によるこの本のプレゼンテーションがあったのだ。グレゴリー・サンブラーノとの対話の形式。それを逐次通訳した人物は「ハビエル・ビジャウルティアやオクタビオ・パスが雑誌『放蕩息子』に寄稿していた」ってな発話を、「(ビジャウルティアやパスを『スール』に招いた)ホセ・ビアンコは『スール』では放蕩息子みたいな存在だったから」と訳した。(他にもいくつか誤訳があったが、忘れた)きっと詩人たちのことやメキシコの文学シーンをよく知らない人なのだろう。背景を分かっていないのだ(「放蕩息子」という日本語の意味も)。プロの通訳ならそのへんのことも調べた上で臨むものなのだが、まあ仕方がない。

誰かの発話を理解するには内容のみならずその人の背景や意図を理解することが必要で、そうした背景や意図を分からないと誤解したり(訳する場合には)誤訳したりする。それは本と同じだ。

橋爪大三郎『正しい本の読み方』(講談社現代新書、2017)はこうした読書論につきものの、著者の実践編というべき箇所が面白い。特にマルクスとレヴィ=ストロースをその「構造」と「意図」、「背景」から主張内容を簡潔に教えてくれる。唸らせる。で、ついでにフーコー『知の考古学』の誤訳がそこにある数学的構造を理解していないことに由来することを指摘している。さすがのキレだ。

でも読書論として画期的なポイントは、マーカーは黄色と青を使う、「白黒コピーを取ったときに、色が出ないのは、黄色と青だけだから」とか、「傍線は、手で引いてると、時間がかかるんです。だから、定規で引く」。「いわゆるカードは作りません。一切」という実践的アドヴァイスだ。特に2つ目には虚を突かれ、3つ目には解放された。

そして居住まいを正されるまとめの言葉:「学者とは、自分の頭を、公共のために使うと決めて、修練を積んでいる、プロの本の書き手です」。


はい。頑張って書きます。本。