2011年1月31日月曜日

書斎の極小化、とVIII

ピグリア「短編小説についての命題」VIII

       VIII
カフカは実に明瞭かつシンプルに秘密のプロットを語り、目に見える物語の方は細心の注意を払って書き、最終的にはこれを謎めいてよくわからない話に変えてしまう。この転倒が「カフカ的」と呼ばれるものの基本となる。

チェーホフの逸話で言えば、それをカフカが語ると、自殺するプロットは前面に据えられ、あたかもごく当然のことであるかのように語られるだろう。ぞっとするような要素は賭けのシーンに集中する。そこは省略が用いられ、何か恐ろしいことが隠されていると思わせるようなしかたで語られるのだ。

Appストアで『ブリタニカ』と『リーダーズ英和辞典』を買った。前にも書いたが、ぼくはJapan Knowledgeを使っているので、ネット接続さえできれば『ランダムハウス英和辞典』なとが活用できるのだが、ネットに繋がらないときのためだ。こうして書斎を極小化しているのだ。本当は、かくなる上は電話をiPhoneに換えてしまえばいいのだろうけど(今はアンドロイド機を使っているが、『西和中』や『リーダーズ』はこのマシンでは使えない)、まだ2年契約が残っていることだし、今は乗り換えを控えておこう。

『小学館ロベール 仏和大辞典』もアプリ化されるといいのだけどな。

2011年1月30日日曜日

「氷山の理論」補足とVII

昨日訳した箇所でピグリアが書いていたヘミングウェイの「氷山の理論」というのは、『午後の死』(1932)で表明されたものだ。

もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。(高見浩訳)

前の訳では、ヘミングウェイのこの語らないという方策を「統合」だと訳した。統合とはsíntesis、つまりドイツ語風に言うとジンテーゼの訳だ。これまでずっと「命題」と訳してきたテーゼ(定立)に反するアンチテーゼが提示されると、そのふたつの矛盾を統合するものとして見出されるのがジンテーゼ。だから統合だ。「正・反・合」の「合」だ。弁証法における止揚。リフトアップだ。

ピグリアはヘミングウェイの例を続ける。「テーゼ」のVIIだ。

VII
「二つの心臓の大きな川」はヘミングウェイの基本的な短編のひとつだが、ここではプロット2(戦争がニック・アダムズに残した影響)がまったくわからないように仕組まれていて、まるでこの小説が彼の釣り旅行を細々と描いてるだけのように思われるほどだ。ヘミングウェイは技巧の限りを尽くして秘密のプロットをわからないように語っている。省略の技術を巧みに使っているので、読者はもうひとつの話の欠如に気づくという次第だ。

ヘミングウェイならチェーホフの逸話をどのように小説化しただろうか? 細部を綿密に描きながら賭けとその賭博が行われている場所の様子を語るのだろう。男がどんなテクニックを使って賭けるかとか、どんな飲み物を飲むか、といったことも語るのだ。その男がやがて自殺するということは決して語らないだろうが、まるで読者がそのことを知っているかのように短編全体を書き上げるだろう。

「二つの心臓の大きな川」(第1部、第2部とある。『ヘミングウェイ全短編1 われらの時代 男だけの世界』高見浩訳、新潮文庫、1995所収)がニックの川釣りを描きながら、彼が戦争の傷を抱えていてそれが癒されるという話なのだろうという解釈は一般的なもののようだ。高見浩は訳者解説でそう紹介している。作家自身が『移動祝祭日』の中で「この物語のテーマは戦争からの帰還だが、戦争への言及はどこにもない」と述べているらしい。

しかし、それを語らずして釣り旅行を語るヘミングウェイの細部の描写が魅力的だと高見は紹介する(「その文章の、また何と官能的なことか」)。だからこそ戦争の傷が癒やされる感覚を読者が共感をもって追体験できるということだろうか。残念ながらぼくは、ヘミングウェイの描写にめったに共感できない。うまいなと思う描写はところどころに感じられるけれども、共感はできない。ぼくはヘミングウェイ不感症だ。

戦争の傷を抱えた人間が、釣り上げた鱒を殺してヒクヒクとなるさまを見て、その傷を癒しうるものだろうか? これでは、また殺すことによってしか傷を乗り越えることのできない快楽殺人者としての自分の発見が待っているだけではないのか? そう推論すると、なるほど面白いとは思うけれども、共感はできないのだ。

2011年1月29日土曜日

Ⅵ、そしてぐったりする週末夜

リカルド・ピグリア「短編小説についての命題」はまだ続いている。今日はⅥ


チェーホフ、キャサリン・マンスフィールド、シャーウッド・アンダーソン、『ダブリン市民』のジョイスに由来する近代版短編小説は結末に驚きを用意することを断念している。ふたつのプロット間の緊張関係を注意深く作り出すばかりで、それを解決して終わろうとはしない。新しい作品ほど秘密のプロットの語り方は回避的になっている。ポー張りの古典的短編小説はひとつのプロットを語りながらもうひとつのプロットの存在を知らせる。それに対して近代的短編小説はふたつのプロットをまるでひとつしかないように語る。

ヘミングウエイの氷山の理論は短編小説のこうした性質の変化の過程で最初に出された統合案だ。つまり、いちばん大切なことは語られないというものだ。秘密のプロットが語られないことがらや暗黙の了解事項、ほのめかしなどによって構築される。

27日(木)は旦敬介『ライティング・マシーン:ウィリアム・S・バロウズ』(インスクリプト、2010)の出版記念パーティに呼んでいただいた。広尾のメキシコ料理店《サルシータ》で。バロウズの作品と手紙とを読みながら、その南米への旅の足跡を辿り、『ジャンキー』やら『クィア』やらの記述の成立を分析するこの本は、旦さんのような人でなければ書き得なかったというか、彼の本領発揮だと思う。まだ途中までしか読んでいないのだが、本を持っていってサインをいただいた。そしてその他の方々と旧交を温めたり新たに面識を得たり。

今日、20日(土)は大学院博士後期課程の二次面接。4人。イタロ・ズヴェーヴォ、ハーマン・メルヴィル、フリオ・メデムあるいはベルナルド・アチャーガ、そしてジョアン・カブラル・デ・メロ・ネトらと語る。

こうした場合、一緒に面接をつとめる同僚の先生方の学識の深さに常に驚かされる。ここからこんな視点を得てこの情報を出し、このようにまとめるか! と勉強になることばかり。ついついこちらがメモしてしまう。受験生ではないのに。

とても疲れた。夜は抜け殻になっている。

2011年1月25日火曜日

V そして心残り

リカルド・ピグリア「短編小説についての命題」V

V
短編小説は秘密の話を内包するひとつの話である。

解釈によって現れたり現れなかったりする秘密の意味のことではない。謎とは謎めいたしかたで語られるひとつのプロットにほかならないということだ。話を作るさいの戦略は、そのような暗号化された語りにどれだけ役立つかということにかかってくる。ひとつのプロットを語りながら、どうじにもうひとつのプロットを語るにはどうすればいいかということだ。この設問が短編小説の技術的問題のすべてに共通するものだ。

第二命題:秘密のプロットが短編の形式の鍵となる。

ところで、IVで名前の挙がった「死とコンパス」これはアレックス・コックスが映画化し『デス・アンド・コンパス』のタイトルで日本でも上映された。その後VHSにはなったのだが、DVD化はされていない。古いVHSをかつて手に入れたので、そのうちHDD-DVDに入れておこうと思う。

すでにどこかに書いたのだっけ? この映画、一般公開までいったのかどうか覚えていないが、少なくともぼくは「スペイン・ラテンアメリカ映画祭」のようなフェスティヴァルでの上映作品として観た。ぼくが観た回にはコックスの舞台挨拶というか、アフタートークがあった。彼はこれを映画化するにあたり、「だれかが書いたこんな分厚い脚本」(とても長すぎて映画化できない代物)も目にしたと語ったのだった。それはビクトル・エリセのものではなかったのだろうか? ぼくはそう思ったのだけど、もう質問を受け付けなかったので確かめることができなかった。

ビクトル・エリセは93年、『マルメロの陽光』のプロモーションで来日した際、『エル・スール』以降そのときまでの約10年間にやった仕事のひとつとして、「ボルヘスのふたつの短編の映画化を試みた」と語ったのだからだ。ふたつの短編とは、「南部」と「死とコンパス」。そんな話を聞いた記憶も新しかったころなので、コックスの見た脚本というのがエリセのものではなかったのか、確かめておきたかったところだ。

確かめてどうするというわけでもないのだが……

2011年1月24日月曜日

IV 驚くことばかり

同僚の加藤雄二さんの授業の一環として、菊地成孔による講演が2週連続で外語であるらしい。授業の一環と言っても、収容人員501人のプロメテウス・ホールでの開催。学生たちにはぜひとも聴いて欲しいものだと思う。

かくいうぼくに、彼の存在を教えてくれたのは、彼の学校に通っていた5年ばかり前のぼくのゼミの教え子だったわけだが。

さて、続いての驚きはリカルド・ピグリアの「短編小説についての命題」IVはボルヘスの「死とコンパス」を例に挙げての解説。当該の短編を知らないと話がわからないと思うので、後に説明する。

IV
「死とコンパス」においては、話の始めに、ある商売人が1冊の本を売り出すことを決意するというのがある。その本の存在理由は、秘密のプロットを組み立てるのに必要不可欠であるということだ。レッド・シャルラッハのようなギャングがユダヤの複雑な伝統に精通し、レンロットに神秘的かつ哲学的罠をしかけるという筋を可能にするにはどうすればいいか? 作者ボルヘスが彼にその本を買ってあげて、自分で勉強しろと勧めたのだ。同時に彼はプロット1をうまく利用してこの機能を見せないようにしている。どういうことかというと、当該の本がまるでヤルモリンスキーの殺人によって、実に皮肉な偶然によって現れたかのように見せているというわけだ。「物好きな連中が、これに関係する本とあらばしかたあるまいと思って買ってしまうことに気づいた抜け目ない商売人が『ハシディム派の歴史』を出版した」。ひとつのプロットにおいて余談であるものが、もうひとつのプロットにおいては基本中の基本の要素となっている。この商売人の本というのは(「南部」における『千夜一夜物語』や「刀の形」における傷跡のように)曖昧な道具立ての一例だが、これが短編小説の語りのとても小さな機械を動かすのだ。
ボルヘスの「死とコンパス」『伝奇集』(鼓直訳、岩波文庫)所収の短編。ヤルモレンスキーというユダヤ神秘思想の研究家が殺された事件を、名探偵を自認するエリック・レンロットが推理する話。被害者の蔵書や書き残した言葉から、彼はユダヤ神秘教における神の名を巡る連続殺人だと考えたのだが、実は彼を陥れようと思ったギャング、レッド・シャルラッハの罠にかかってしまっていた、という話。レンロットがユダヤ教を巡る殺人だと考えていると新聞に口を滑らせたために、商売人がヤルモレンスキーの蔵書のひとつ『ハシディム派の歴史』を売り出してひと儲けしようとしたというのが、ピグリアの引用する一文の意味。この一文、既存の邦訳ではなく、ここでは柳原独自の翻訳を使った。

ピグリアのこの読みは示唆的だ。というのは、「死とコンパス」の冒頭には「ある商売人が1冊の本を売り出すことを決意する」という一文はないからだ。引用された文章は冒頭ではなく、もうだいぶ話が進んでからのもの。つまりこの伏線は「見せないように」仕組まれているのだ。代わりに引用の一文があることによって、私たち読者はあとづけでシャルラッハがこの本を買い、読み、「自分で勉強し」、レンロットの考えていることを知り、罠を張り巡らすことができるようになったのだとわかる仕組みになっている。でも、プロットの論理としてそれ以前に、この「商売人」が出版の計画を事前に立てていたという事実がなければならないとピグリアは指摘しているのだ。

うむ、蒙を啓いてくれて鋭敏だ。

2011年1月23日日曜日

休日出勤、そしてII、およびIII。

日曜だというのに、昨日、ある研究会の後の懇親会で紹興酒を飲み過ぎて少し酒が残っているというのに、朝から大学に来ている。大学院入試(前期課程冬入試+後期課程入試)のためだ。待機しなければならないのだ。その後、採点。

さて、リカルド・ピグリア「短編小説についての命題」II、およびIIIの全訳。

                   II
古典的な短編小説(ポー、〔ウルグワイのオラシオ・〕キローガ)はプロット1(賭けの話)を近景に据えて語り、プロット2(自殺の話)を秘密裏に構築する。短編作家の腕の見せ所は、プロット1のひずみの中にいかにうまくプロット2を組み込むかというところにある。目に見える話の背後に、省略されたり断片化されたりして語られる秘密の話を隠すのだ。

秘密のプロットの結末が表面に浮上してきたときに、驚きの効果が生まれる。

                 III
ふたつのプロットはそれぞれ異なるしかたで語られる。ふたつのプロットを仕組むということは、ふたつの異なる体系の因果律を仕組むということだ。ある複数の出来事が相対立するふたつの語りの論理に同時に吸収されることになる。短編小説の本質をなす要素は二重の機能を果たし、ふたつのプロットのそれぞれで違った使われ方をする。交錯するこれらのポイントが短編小説の構成の基礎となる。

つづく。

2011年1月22日土曜日

うさぎ、およびテーゼⅠ

昨日、調布(布田駅近く)にある神戸屋レストランで昼食を摂った際、置いてあったので気になって買ってきた「幸せのウサギパイ」。イチゴジャムとカスタードクリームが入った、今年の干支にちなんだパイ。3年のゼミの新年会と5年目の4年生が大学院に進学してもうすぐアルゼンチンに留学することになっている同期の学生のために開いたキックアウト会をはしごして帰った夜中、食べてしまったので、体重計に乗るのが怖い。今日は絶食して過ごそう。

さて、前回、要旨だけ紹介したピグリアの「短編小説についての命題」。掲載元のCiudad Sevaはプエルトリコの作家ルイス・ロペス=ニエベスが立ち上げたサイトで、今では彼の手を離れ、一大プロジェクトと化したものらしい。このサイト内のすべてのセクションはただとする、と書いてある。

そんなわけで、全文を訳してみる。ただし、時間もないので、連載の形式で。タイトルは「短編小説についての命題:ふたつの筋:ふたつのプロットの分析」まずはⅠだ。

メモのノートの一冊に、チェーホフは以下のような逸話を書き留めている。「ある男がモンテカルロでカジノに行き、大金を稼ぐ。男は帰宅して自殺する」。そのうちに書こうと思ったのだろうけど、書かれることはなかったこの話の核心には、短編小説の古典的な形式が濃縮されて詰まっている。

予測可能かつ因習的な内容(賭けをする—負ける—自殺する)を裏切り、この話の展開はパラドクサルである。この逸話は賭けのプロットと自殺のプロットを無関係に見せているかのようだ。このギャップが短編小説の形式の二重性を明確にするためのキーポイントとなる。

第一命題:短編小説では常にふたつのプロットが語られる。

続きは次回。

2011年1月18日火曜日

短編小説のテーゼ

アウレリオ・アシアインがツイッター上にリンクを貼ってくれたので訪ねたこのサイト。アルゼンチンの作家リカルド・ピグリアによる「短編小説についての命題」。これがなかなか面白い。論旨を転写しておこう。

1:チェーホフのメモにこんなのがあった:「ひとりの男がモンテカルロでカジノに行き、百万勝つ。彼は帰宅し、自殺する」。ここに古典的短編小説の形式が詰まっている。命題1:短編小説は常にふたつのプロットを語るものである。

2:ポーやオラシオ・キローガなどの古典的な短編小説ではこの第1のプロットが前面に出る形で語られ、第2のプロットは秘密裏に語られる。第2の秘密のプロットが最後に明るみに出ることによって読者は驚く。

3:ふたつのプロットの語り方は異なる。ある一定数のエピソードが、このふたつの語り方の両方に回収される。ふたつの語りのシステムの中で意味を持つ一定数のエピソードというのが短編小説構築の要。

4:ボルヘスの「死とコンパス」の例。具体的説明。

5:短編小説とはある秘密のお話を内包するひとつのお話である。命題2:秘密のプロットが短編小説の形式の鍵である。

6:チェーホフやキャサリン・マンスフィールドに始まる近代短編小説は、驚くべき結末というのを放棄し、むしろふたつのプロット間の緊張関係に注意を払って紡ぐ。

7:アーネスト・ヘミングウェイ「ふたつの心臓の大きな川」の例。

8:カフカは秘密のプロットの方を明瞭かつシンプルに語り、顕在化するプロットを細心の注意を込めて語る。この転倒が「カフカ的」短編小説の根本にある。

9:ボルヘスの場合はこのプロット1(顕在的なほう)がジャンルを構成するものとなる。プロット2、秘密のプロットはいつも同じだ。

10:短編小説の歴史の中でのボルヘスの業績は、秘密のプロット(プロット2)のつむぎかた、その秘密の張り巡らせかたをお話のテーマにしたこと。

11:短編小説は隠れて見えないものを見えるようにする技巧である。「瞬間的なヴィジョンが未知のものをわれわれに見せてくれる。ただし、遠い未踏の地に見せるのではなく、身の回りのすぐ近くの場所に見せてくれるのだ」というランボーの言葉こそが短編小説の核心。
以上、要旨だけだが、さすがはピグリア。

ちなみにぼくは今年、アルゼンチンの作家の小説の翻訳を出すはずだし、うまくいけば、もう一編、やはりアルゼンチンの別の作家の小説の翻訳も出せるかもしれない。残念ながらいずれもピグリアではない。でもこんな明敏な方法意識を持った作家の小説も、できれば翻訳されるといいのだけどな、と願うものである。したいと考えている人は多い。少なくとも3人知っている。

ね? 多いでしょ? 

2011年1月16日日曜日

リハビリ

パニック障害をやったころからだろうか、肉体的に疲れると精神も参ってしまって落ち込む。センター試験監督のような重労働をすると、翌日は何もできなくなる。仕事ができなくなる、ということ。本当はたまった仕事がたくさんあるのだけど。

財布がくたくたになっていたので、買ってみた。まだ一万円札のあるうちにディスプレイ写真を。こうして万札が1枚のぞいているとお金持ちみたいだ。カルヴァン・クラインの財布。

財布が新しくなると金を使いたくなった。

駅前のショッピング・センターで掃除用具やら、やはりくたくたになっていたので換えが必要だったボディ・ブラシやらを買ってきた。

小掃除。

掃除してる間に浴室の電球が切れた。買い置きがなかったので、掃除は中断。電球を買いに行った。

やれやれ。財布が新しくなると金回りが良くなって困る。

ショッピング・センターの前では野菜の特売が。で、大根1本100円なりで買ってきた。

大根は好きだ。これを細かくみじん切りにして豚バラ肉スライスと炒めると、それだけでおいしい。大根の味噌汁も好きだし、煮てもいい。ぶり大根なんかも捨てがたい。

大根に夢をはせながら仕事をさぼった。

これもリハビリだ。センター試験ショックからの回復だ。

2011年1月15日土曜日

時間を殺す、あるいはコンバースは永遠なり

スペイン語で時間を殺すというのだ。暇つぶしのことを。

いや、もちろん、試験監督は暇ではない。まさかの場合に備えて受験生たちの動向に目を配っている。でもね、「まさかの場合」なんてものはめったに来ない。だから「まさか」と言うのだ。で、どうにかして試験時間をやり過ごす。時間を殺す。

あからさまに「内職」をするのも問題ありだ。そんなわけで、たとえば、試験問題を読む。場合によっては解いてみる。どれどれ、なんと鷲田清一の文章などが出題されているが、センター試験に大阪大学総長の文章など出していいのか? それならぼくらの学長だって出してくれよ、などと考えながら、ざっと国語の問題に目を通したりしているわけだ。世界史の問題のこの牽強付会ぶりはどうだ、などと笑いながら。

しかし、あくまでも受験生じゃないんだから、時間いっぱい問題文に没頭するわけでもない。机間巡視したり、ぼんやり机の下を眺めたりもする。そして、今日、その結果、ぼくには靴が気になった。

男子受験生のコンバース使用率の高さに驚いた。半分くらいはコンバースだった。いわずと知れたオールスターだ。ハイカットもローカットもあり。カラー・ヴァリエーションもそれなりに。なるほど、コンバースは永遠だ。

ぼくだってコンバースを持っている。ただし、オールスター(バスケット・シューズ)でなく、ジャック・パーセル(テニス・シューズ)。ジャック・パーセルの受験生もいた。

制服組でやはり存在感があったのが、ローファー。ブレザーの場合はほぼ間違いなくローファーだ。女子の場合は茶色もあった。男子はだいたいが黒。

ぼくの経験からいって、きっとHARUTAかどこかのローファーだとの推測が成り立つ。事実、靴を脱いで問題を解いていた受験生のそれはHARUTAだった。事実HARUTAは学校指定シェアNo.1を謳っている。

したがって、ぼくが監督を務めた教室の受験生の大半はHARUTAか、でなければコンバースを履いていたということだ。

2011年1月14日金曜日

何度でも叫ぼう

今日はセンター試験前日のロックアウト日。休講だ。助かると言えば助かる。

が、毎年のことだが、何度でも言おう。センター試験など愚だ。無駄だ。

試験監督者は事前に講習を受けなければならない。毎年担当していても、そうだ。ぼくたち大学教員は裁量労働だから、そこに残業手当は発生しない。しかし、きっとこの講習にあたる入試課の職員には発生してることだろう。ちなみに、先日は教授会後、8時半までの講習であった。へとへとになった。

監督者の心得なる冊子だけならまだしも、リスニング試験の担当者にはその試験で使う機器の取り扱いを説明するDVDが配られた。50分ばかりのもので、これから見なければならない。これを焼き増しするのにさして金はかかってないとしても、制作費はかかっているはずだ。

このリスニングというのがまた曲者で、癒着を思わせるICレコーダーを使っての試験なのだが、これに対する注意事項が、これはもう冗談としか思えない気遣いようで、咳払いひとつできないありさま。噴飯ものだ。

センター試験の問題を作るのは委託された大学教員で、ぼくは幸い、試験科目の範囲外の人間なので、これに当たることはないが、当たった者たちは大変そうだ。大学の業務もやっていられない。だから授業の数は免除され、その代わり、非常勤の教員を補充するための予算は下りる。つまり、雇用が生まれる、と言えば聞こえはいいが、こんなものがなければ発生などしなかったはずの人件費が発生するということだ。国立大学の経費は削減しろとのプレッシャーがあるというのに。

経費削減というなら、これらの経費を削減することから始めたらどうかと、ぼくなどは思う。フランスのバカロレアみたいに退職した高校教員など(いや、もちろん、退職した大学教員でもいいが)を活用するほうがどれだけ高齢化社会に合致して合理的かと。

試験だって毎年のように雪の降るころではなく、秋口にでもやればいいのだ。

何よりも許せないのが、選択制。「ア・ラ・カルト方式」と入試課長は説明したのだった。最初、何と言っているのか理解できなかった。そう言っているのだろうと予測がついてからは耳を疑った。ア・ラ・カルトだと? ア・ラ・カルトなどと称することによって何が表現できるというのだ? 「自由選択」を「ア・ラ・カルト」と言い換えることの意義がどこにあるのだ? そんな浮ついた言語活動によってしか自らの行っていることを自己主張できない主体が行う事業に唯々諾々と従わなければならない受験生たちがどれだけ不幸か! 名称以前に、まだ選挙権(つまり、選択権)も持たないのが大半である受験生たちに選択の自由を認めて幻想を与える教育のどこに未来があるというのか? 

受験生に過重負担というなら、国・数・英の3教科でもいい。他の教科を試験したいという大学があれば、独自にやればいいのだ。大学全入時代。以前のように競争のための試験などを課している場合ではない。基礎学力を見るためだけの簡単な試験で充分じゃないか。少なくとも一次試験としてのセンター試験は。

2011年1月10日月曜日

3連休の過ごし方

連休と言ったって、まだ冬休みだろう、という主張もあろう。

いかにも。でも授業がないというだけのことであって、それなりに仕事漬けの日々は変わらない。

8日(土)日本ラテンアメリカ学会東日本研究部会。ぼくはこれの委員なので出席。4人の大学院生の発表があった。これを聞き、質問やコメントをし、懇親会でねぎらい、そのことのまとめを書いたりすることも仕事。

9日(日)わが老母に「ちゃんとした美人」とほめられた卒業生らと同期の、彼女以外にも「ちゃんとした美人」もいれば「あまりちゃんとしないけど美人というの」もいれば、ハンサムな男の子たちもいるし、箱根までわざわざバスケットしに行くような元気な者もいるのだぞ、ということが確認できるメンバーと、渋谷マークシティ4階にある「ビキニ タパ」

ここは名前から誤解を受けるかもしれないが、フィデワ(フィデオという細いパスタを使ったパエーリャ)がおいしいお店。ここでそのフィデワの写真でも撮って掲載すれば、グルメな人々のお目にもとまるのかもしれないが、ぼくはいつも肝心なことを忘れる。しかたがないから、デザートの写真。

今日はもう明日からの授業の準備に追われている。

2011年1月9日日曜日

やれやれ、知性って難しい

ある人のサイトからこんなリンクに飛んだ: ウィキペディアの「トルティーヤ」の項目

トルティーヤ(tortilla: トルティーリャ、トルティージャ)はいわばタコスの皮。これがスペインのジャガイモを使った卵料理と同名で、ウィキペディアでは後者を「トルティージャ」としているのだが、この名称についての説明の項。「スペイン人が見たときに本国のオムレツ風の鶏卵料理トルティージャと似ていることから、この名前で呼ぶようになった」だと。まったく、ふざけてもらっては困る。

誰もが知っているように、ジャガイモはアメリカ原産だ。そして、前にも書いたとおり、ジャガイモがヨーロッパに根づくのはせいぜい18世紀。スペイン人たちがアメリカ大陸にやって来た時(1492と考えても1521と考えてもいい)、少なくとも今の形のトルティーリャがスペインにあったはずがないのだ。このウィキペディアの断言は、したがって、歴史的転倒だ。

もちろん、当時のスペインにはトルティーリャと称されるものはあった。だからその名がついた。18世紀の辞書Diccionario de Autoridadesにはもう既に「卵料理」の定義はあるけれども(ジャガイモを使うとは書いていない)、tortaの小さいの、という原理的な意味も登録されていて、tortaとはいくつかの意味があるが、とりわけ焼く前のパンのこととなっている。16世紀の辞書Covarrubias, Tesoro de la lengua castellana o española には、tortaは「平たいパン」の定義しか登録されていない。考えられることは、この最後の意味に縮小辞-illaがくっついたのがtortillaの名称のもとになったということだ。

まったくもって日本語版ウィキペディアのスペイン語圏に関係する項目の記述にはいつも腹立つばかりだ。いっそのこと英語版スペイン語版をそのまま訳してくれた方がどれだけましか。トルティーリャだって、この両言語版はしっかりしている。

こんなふざけた文章が氾濫する現在(誤解しないでいただきたいが、ぼくはネット上の文章ばかりを責めようとしているわけではない。活字にだってこんなものはごまんとある)、読者としてのぼくたちは、この記事がでたらめであることに気づく知性を持たなければやっていられない。たとえジャガイモがアメリカ原産であることを知らなくても、「トルティージャに似ていることから、この名前で呼ぶようになった」との記述を読んだ瞬間に、たとえば、その卵料理のスペイン風トルティーリャは果たして15、16世紀からあったのか、と疑問を持つ感性がなければならない。この感性のことを知性と呼ぶのだ。

ウィキペディアの当該記事、少し下の方、「ベルナルディーノ・デ・サアグン (Bernardino de Sahagún) が、著書の『ヌエバ・エスパーニャ綜覧』 (Historia general de las cosas de Nueva España) 内で、当時のアステカ人の食生活を詳しく供述しており、大きさ、厚さ、食感、色などの違いからそれぞれ別名で呼ばれていた多種多様な「トルティーヤ」が存在していたことが窺える」の記述が見出される。この文章の最後には注がついていて、その注には「Benitez, Ana M. de. Pre-hispanic cooking/Cocina Prehispanica. Mexico City, Ediciones Euroamerica Klaus Thiele, 1976, p.p. 37-39.」と記されているのを見たとき、なぜ孫引きなのか? なぜサアグンに当たらないのか? 孫引きなのになぜそれを明記しないのか? と疑問を持たなければならない。ここにはこんな記述と注があるのに、例の「名称」の項にサアグンへの言及がないのはなぜか、と追求する姿勢がなければならないのだろう。一方で、こうした記事を書く側としては、逆に孫引きでなく、サアグンに当たるだけの準備がなければならないのだろう。

ところでぼくは、サアグンはちゃんと読んでいないが、、ベルナル・ディアス・デル・カスティーリョには「玉蜀黍の粉を捏ねて作った生のパン」(mazamorra: 訳は小林一宏。92章)や「トルティーリャ」(pan de tortilla: 91章)の記述が見られることは知っている。だってそれらを基に征服直前のテノチティトラン(現メキシコ市)の様子を再現したアルフォンソ・レイェスの名作『アナワクの眺め(1519)』の翻訳者だから。

2011年1月7日金曜日

やれやれ、緑は難しい

結局、観た。トラン・アン・ユン監督『ノルウェイの森』(2010)

ディジタル録画の映像はクロースアップ(それこそが映画の本質だとブニュエルが言った技法)に、悲劇のための装置、感情とセンセーションの表現という以上の新たな次元を付与している。皮膚すれすれに寄っていくことから生じる官能性だ。小谷野敦がポルノ小説だと呼ぶような原作小説の官能性を、ほとんど性描写なしに(というか、有り体に言って、女優のヌードなしに)描写できたのだからたいしたものだ。

この映画のポジティヴに評価できる点のひとつは、いたずらにBGMで時代(1968-70年)の雰囲気を醸し出そうとしていないこと。家の雰囲気や車などの道具立てで勝負しようとしている。つまり、視覚に全面的に訴えようという意図。実際には風が草を揺らせるさざめきや突然切断されるBGMなど、聴覚にも工夫をこらしてはいるけれども、ともかく、BGMがうるさくない。表題の「ノルウェイの森」すら下手な自己主張をしない。これがメリット。

実に、道具立ては70年前後を再現していて、ぼくくらいの世代だとかろうじて懐かしいという思いがあるのだが、それでもカメラワークのところどころにフランス在住のこの監督ならではの特徴が見える。一番印象的なシーンは直子から施設に会いに来るようにとの手紙を受け取った渡辺が階段を駆け上るシーン。アパートの階段(主に螺旋階段)を人が昇るシーンをいくつものヨーロッパ映画に観たはずの観客の記憶を揺さぶる。

ポジティヴに評価できる点のもうひとつ。ぼくがとりわけ印象深く憶えている原作小説のシーンやセリフやプロットの多くが使われていないこと。これが大事なのだ。そんなものがへたに再現されていたりしたら、原作に思い入れを持つ者にとっては失望の種になる。

ネガティヴな評価をせざるを得ない点:いくつかの説明過多のシーンやカットがある。直子の幻覚とか、彼女の自殺を示すカットとか、渡辺に向かって叫ぶシーンとか。直子という多感な女性が、ずっと恋人とうまくセックスができなくて、彼の自殺はそのことのせいじゃないかと思っていたのに、その恋人の親友とは1回だけスムーズにできてしまって、そのことに戸惑っているところへ、その恋人の親友が優しいものだからますます混乱して精神の均衡を失い、鬱病になって自殺する、というのが直子のストーリーであることには間違いないのだが、そのことを叫んで主張させては、興ざめだ。

そしてもっともネガティヴな評価をすべき点は、永沢さんを演じる玉山鉄二の訛りだ。イントネーションではない。ここ20年ばかりの若い連中の、「い」の音の弛緩、ほとんど「え」に近くだらしなく開いてしまうあの発音だ。これは絶対にいただけない。永沢さんはそんな発音はしない。玉山鉄二が以後も俳優としてやっていこうと思うなら、あれは直さなければならない。興ざめ以前の問題。基礎訓練ができていないのだ。

終わって映画についてあれこれと話しているときに、緑がイチゴのショートケーキを買ってこいというから買ってきたら、ふん、もういらないわよ、と言って窓から投げ捨てられた。ごめんよ、緑、君がもうイチゴのショートケーキを欲しいと思わなくなるってことに思いいたらなかったぼくが馬鹿だった。ロバみたいに間抜けだった、と謝った。やれやれ。人生むずかしい。いや、緑とつき合うのは難しい。

2011年1月6日木曜日

帰宅後に引き摺る故郷

具だくさんの(チキン)コンソメスープ料理のあるところでは(たとえ生ハムがなくとも)楽しく生きていけるというのが、ぼくの信念のひとつ。メキシコのポソーレやベネズエラのエルビードなどが大好きだ。そしてぼくの故郷には鶏飯(けいはん)がある。

空港に行くと、案の定、かつての級友がいて、彼もまた帰るところだったのだが、土産に鶏飯を買っていくという。何のことかと思ったら、レトルトで具とスープの入ったものがあるのだそうで、ぼくも便乗して買ってきたのだった。鶏飯。

コンソメと呼ぶには少々濃厚な鶏ガラのスープをご飯にぶっかけ、具を乗せる。それだけだ。スープ料理というよりはぶっかけ。具は家庭によって違うのだろうか? 標準的なのは、茹でて裂いた鶏のささみ、錦糸卵、パパイヤの奈良漬け、ミカンかゆずの皮のみじん切り、味つけ椎茸、など。

これを食べられる店が都内にもいくつかあるはずなのだが(たとえばここなどがそうか?)、ぼくは残念ながら行ったことがない。乞う、情報! シンプルな料理なのだから自分で作ればいいのだが、スープの具合が今ひとつわからないし、うまく行ったとしてもスープは作るのが面倒だ。結果、年に1度くらいしかできない。何よりパパイヤの奈良漬けなど近所のスーパーで見た記憶がない。これがなければどうにも調子が出ないのだ。

このパック、ひとり分との触れ込みだが、写真のどんぶりだと2杯ぶんにはなる。具材に改良の余地があるが、まあそれでも、おいしくいただきました。

2011年1月5日水曜日

同窓会というシステム

ともかく、1月2日には中学の同窓会があったという次第。出てきた。

既に死んだ者が3名(うち2名は12年前のときにはもう死んでいたが)。通風に苦しんでいる者や心臓をやって命拾いはしたものの、ニトログリセリンを手放せない者もいたが、これらはともかく、まだまだ例外。

だれもかれも髪が薄くなったり白くなったり。書類や写真を見るとき対象をだいぶ離したり眼を細めたり。ずいぶんと体が太くなった者もいたな。まあそんな経年劣化(というのは言い過ぎか?)を確認するのがこうした集まりの主な目的だ。

当時の憧れの的の女の子(ということにしておこう)2、3人から「ぜんぜん変わってないね」などと言われて、その場では有頂天になったぼくだったのだが、でも、考えてみたら、それも経年劣化の確認のひとつの言葉なのだろうと思う。「変わっていない」とは、期待値程度にしかおとろえていない、という意味だ。おっと、……でも、そんなことを書いたら、「いやいや、君だって変わっていない」と言ったぼくの立場が……

そういえば大学時代の同期の連中と比較的頻繁に会っていた時期があった。その連中とメーリングリストでやりとりしていたときに、誰かが温泉だかプールだかなんだか、そんな施設に行くことを提案した。別の誰か(女性)が、いまでは裸(水着?)など恥ずかしいのでダイエットしてからにしたいわ、と反論。それに対して第三の誰か(同じく女性)が、なんでそんなことを気にするのかわからない、私たちはみんながたどる道をたどって年を重ねてきたのであり、経年劣化があるのは当然なのだから、それを恥ずかしがることなどないではないか、と主張した。

ぼくはその彼女の言葉にとても感心したものだ。さすがはぼくが大学時代に憧れた女性(ということにしておこう)だけのことはある。さすがは御三家と呼ばれる女子校の出身だ(そうそう、前の記事に書いたアナウンサーになった彼女の高校の先輩に当たることになる)……って、なにが「さすが」なんだか……ともかくぼくは素直に感動した。

そう。ぼくたちはこうして少しずつもう若くはない自分に慣れていかなければならないし、現実に慣れていくのだろう。もう慣れているのかもしれない。それに、このくらいの年になると、若さはさほどの特権ではないということも知っているし、へんなたとえ話だけど、恋愛対象として見なす相手の年齢だって、上方向にシフトしているはずだ。それを確認するのが同窓会というシステムの目的。

でもなあ、それにしてもなあ、……知らずに会うと、絶対に年上だと思い込んでしまいそうな者がどれだけいたか。……まあ、つまり、大人になれば少々の年の差など気にすることはないということ。そのことの確認でもあるのだな。

さあ、12年後はもう赤いちゃんちゃんこだ。

2011年1月4日火曜日

酒づけの日々

デジカメの映像をメモリがいっぱいになるまで溜めておく人がいる。ぼくはそれがいやで、比較的まめにPCに移す。ふだん使っているWindowsマシンやMac Book ProにはSDメモリカードスロットがあるので、それで読み込む。今回、この旅にはそのスロットのないMac Book Airを持ってきているので、カードリーダーも併せて持ってきた。

ところが、これが機能しない。今回の旅の主要な目的のひとつは、老母に地上派デジタル放送対応のTV受像器を買うことだったので、買いにいったついでにカードリーダーも買ってみた。しかし、これも機能しない。結論としてMac Book Air はカードリーダーを認識しないと言える。

ところで、老母はテレビばかり観ている。今では年金だけで暮らしているが、仕事をしているときからそうだ。

機(はた)を織るのが仕事だった。大島紬だ。それはかつてマニュファクチュアというのか、工場(こうば)に織工が集っておこなう仕事だった。性役割分担がはっきりしていて、この仕事をおこなうのは女だけに限られていた。女たちはおしゃべりしながら機を織っていたが、何よりもラジオを聴きながら仕事をしていた。単純労働の無聊の慰みだ。19世紀キューバの葉巻工場などでは朗読係がいて、バルザックやデュマの小説を読んだりして単純労働者の耳を楽しませていた(ビセンテ・アランダの映画『カルメン』でもカルメンの働く葉巻工場に朗読係がいたな)ものだが、そんな歴史的事実を思い出す。

やがて工場が解体し、人々は自宅で機を織るようになった。母は織機の傍らにラジオを置いて機を織っていた。

それが、いつごろからだろう、TVをつけっぱなしにして仕事をするようになった。たまに手を休めて画面を見、でも大抵は音だけを聞いて楽しんでいた。朝8時くらいから夜8時くらいまで仕事をしていたけれども、その間、つけっぱなしだ。仕事を終えてからは娯楽としてテレビを見た。そのせいで大抵の雑音は気にせずやりたいことがやれる人物に育ったぼくが、でもほとんどテレビを見ないのはこういう生活に対する反動かもしれない。

そんな、おそらく日本で1番長い時間テレビを見ている母が、元日の夜、おかしなことを言った。何度かここにも書いているしツイッターにも書いているが、NHKのアナウンサーになった教え子がいて、その彼女が『着信御礼! ケータイ大喜利』という番組に出ることを2ちゃんねるで見て知った(自分で企画したレポートが全国放送に乗るときには教えてくれるのだが、こういうものの時には教えてくれないのだ。そういう矜恃をぼくはとても高く評価したい)ぼくが、母にチャンネルを変えてくれるように頼んで、一緒にその番組を見たのだった。深夜だったので、母は途中で立って寝に行ったのだが、去り際にひと言:

お前の大学にもちゃんとした美人がいたのだね。

うーむ。ぼくの勤務する東京外国語大学は70%以上が女子学生というほとんど女子大みたいな大学だが、果たして老母はこの大学にたいしてどんなイメージを抱いているのか? 母よ、あなたは……

2011年1月1日土曜日

空港ロビーの話

つい最近まで東京—奄美間の飛行機は比較的早い時間(8時とか9時。以前はさらにもっと早い、7時台だった)に出発していたのだが、このたびのJALのリストラなどが関係しているのか(そういえばこの路線、以前はTDA東亜国内航空=JAS日本エアシステムのものだった。これを吸収したこともJALの悲劇の要因のひとつなんだろうな)、11:00発となった。いつもの時間に起きても間に合う。これは助かる。

羽田空港の10番搭乗口というのが、今日割り当てられたゲートだ。早めに行って座っていると、三々五々、乗客が集まってきた。737-800という機種の収容人数がどれだけのものかは正確には知らない。6席×25列くらいの小さな飛行機ではある。それが満席になる程度の客はいるが、こんな日にこんな路線に乗り込む者は大抵が帰省客だ。あるい帰省する親に連れられた子供、親の田舎に遊びに行く都会の子供など。いずれにしろ、南方系の血を引く者たちだ。10番搭乗ゲート付近だけ、一気に平均身長が低くなり、色黒になり、顔の彫りが深くなる。

空港のロビーの宙づりにされた時間、というような話から語り起こしたのはジェイムズ・クリフォードの『ルーツ』だっけかな? 正確にはそこに何と書かれていたかは覚えていないけれども、ここは既にして奄美空港到着ロビー羽田出張所になっているな、などと考えていたら、向こうから手を振る女の子……じゃなくて、ご婦人。

中学時代の同級生だった。やっばりね。こういうことがあるんだよな。下の子が高校受験でね、早くから帰るわけにもいかず、乗れるのは今日くらいしかなかったのよ、と。

他に、高校の後輩(寮でいっしょだった)に声をかけられたりした。厚生労働省の年金局の局長だかなんだか、立派な職についておられた。ああ、えらいなあ……

暦の一巡について

昨日(というのは2010年のことだから、昨年のことだ。つまり、1年前と言ってもいい)、年の締めは行わないと書いておきながら、今日は正月を実家で過ごすべく、帰っている。暦が巡ってきたからだ。還暦だ。といっても60ではない。そのひとつ手前だ。ぼくらは暦が巡るごとに祝う風習をまだ残しているので、帰って来いとの命令が下ったのだ。これに合わせて、中学の大々的な同窓会が開かれることもあるし。

ということは、12年前にも正月を実家で過ごしたということだ。12年前は、先日少し書いたように、ギラン・バレー症候群で入院した直後の正月だ。暦の一巡りを「生きることなしに生きて」来たと書いたのは、本当に一巡りしたのだとの実感が強いからだ。

まあその間、「生きることなしに生きて」来たとは言っても、実際にはぼくはそれなりに仕事をしてきた。それでも「生きることなしに生きて」きたと思うのは、通常の状態(もう今となっては何が「通常」なのかもわからないのだが)ならばもっとできたのではないかという思いが強いからだ。着想して書きかけにしたままのものなどもだいぶあるので、そんな思いが強いのだろう。ぐずな性格で、だらだらと仕事をしているという自覚があるからだ。

おっと、昨日(というのは1年前)、1年のまとめはしないと書いておきながら、12年のまとめをしちまいそうだぜ。

……というのも、12年ぶりに旧友たちに会うからだろうな。さて、みんなどれだけおじさんおばさんになっていることか……