2015年2月26日木曜日

事後報告いろいろ

「東京大学で一葉・漱石・鷗外を読む」よりも前に、18日(水)には飯田橋文学会、UTCP(東大で哲学を、という主旨の組織)、東京大学附属図書館共催による「第1回〈現代作家アーカイブ〉公開録画」武田将明さんによる高橋源一郎さんのインタビューに行ってきた。発案者の平野啓一郎はこれを「アクターズ・スタジオの作家版」と説明。なるほど。高橋が断片化の手法を思いついてデビュー作となるはずの(ならなかったけれど)作品を書いている頃、村上春樹がデビューした、との前後関係に、あ、なるほど、と思い当たった。村上はアメリカ風に洗練された形でやったのだろうが、自分の『さようなら、ギャングたち』はゴダールだ、との説明に目から鱗が落ちた。

その翌週、つまり昨日、25日(水)にはセルバンテス文化センターでジュノ・ディアスの話を聞いてきた。「カリブは終わらない: ジュノ・ディアスのバイカルチャー作品」。最も印象に残った2点:まず、ドミニカ共和国はラテンの国だが、同時にカリブの国でもある。カリブにはスペイン語のみならず英語もフランス語もオランダ語もクレオール語の数々もある。だから英語で話し書くことがドミニカ共和国から離れることを意味するとは思えない。次に、文化を理解しようとしたってできはずがない。それと関係を持つこと、何らかのかかわりを持つこと、と捉えればいいのだ。

いずれも質問に答えての発話。特に後者は日本在住のメキシコ人が、日本文化を理解できない、ここが俺を受け入れてくれない、と嘆いたのに対してのコメント。すばらしい。そうなのだ。ぼくは何人かのメキシコ人が好きだ。メキシコ料理の一部が好きだ。そういう関係、それで充分ではないか。


柴田勝二、加藤雄二編『世界文学としての村上春樹』(東京外国語大学出版会、2015)。ここに「羊男は豚のしっぽの夢を見るか:村上春樹の〈キャラクター小説〉化について」という一文を寄せている。座談会にも出ている。ご高覧たまわりたく。

2015年2月23日月曜日

これはよかったよ

昨日は現代文芸論主催、河出書房新共催のイベント「東京大学で一葉・漱石・鷗外を読む」に参加。河出書房新社から配本中の池澤夏樹個人編集 日本文学全集の第3回配本を記念してのもの。

第1部は「『たけくらべ』にさわる」として、今回の「一葉・漱石・鷗外」の版で樋口一葉『たけくらべ』を翻訳した川上未映子さんの話。第2部は「明治の青春小説の魅力」と題したシンポジウム。個人編集の池澤夏樹さん、川上未映子さんに加え、紅野謙介さん、カタジーナ・ソンネンベルクさん、それに沼野充義さんがしゃべった。

川上さんはかつて松浦理英子訳『たけくらべ』の朗読したテープを聞きながら原文を読むというようなことをやっていたらしく(そのことは「訳者あとがき」に書いてあった)、そうした体験を僕たちと分かち合ってくれた。川上訳『たけくらべ』のすばらしさが聴衆に伝わったのだった。

第2部はいろいろと話されたが、池澤さんの全集に臨む姿勢が明確になって面白かった。

金曜日くらいに第1部の司会……というか導入のようなものをやるように言われ、土曜、元同僚の高垣敏博先生の最終講義に向かう電車の中で『たけくらべ』を読み、その面白さに震えたのだった。訳のすばらしさに泣いたのだった。


で、今回の訳、本当にすばらしいよ、と言っている図。友人が撮ってくれた。

2015年2月14日土曜日

あれ、よかったのになぁ

MONKEY Vol. 5の「村上春樹私的講演録」連載第5回は「小説家になった頃」。

学生結婚だったこと。バーをやっていたこと。神宮球場で小説を書こうと思いついたこと。最初の章を英語でかいたこと、など、……こうして列挙すれば、ファンには既にお馴染みの事実ばかりだ。ある程度以上のファンなら、何かに書かれているのを読んだか、せめて二次的にでも聞いた話だと思う。

が、そうした(とりわけ二次的になら)生半な事実認識とは、異なって響くのだ、本人が今回書いていることは。さすがに作家の手によって語り直されると、それらの事実がまったく違う意味を帯びるものとして立ちあらわれてくる。

たとえば、『風の歌を聴け』の最初の章を英語で書いたという話。これはあまりにも有名な話で、あちらこちらで再生産されている。が、今回書いている経緯はそのままには繰り返されていないように思う。今回、どう書いているかというと、まず最初は日本語で書き(タイトルは別だった、と言っている。このときのタイトルは「ハッピーバースデー・アンド・ホワイトクリスマス」のはず)、できが今ひとつなのでオリヴェッティのタイプライターを引っ張り出してきて英語で書いてみた。そこで獲得した「リズム」(と本人は書いているけれども、これはあきらかに文体のことだ)でもって日本語を書き直した。そうしてできたのがあの小説だということ。最初から英語で書いたのではない。日本語があり、英語が来て、最初の日本語に上書きされたテクストが出来上がった。

神宮球場での思いつきについて、こちらははるかに運命論的な色合いが出ている。見に行ったゲームは1978年の開幕戦で、1回の裏、外木場から1番ヒルトンがレフトに二塁打を放った瞬間で、「空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受けとめられたような気分でした」と説明する何者かが、つまり、「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」との思いだった。村上はこれエピファニー(epiphany)と呼び、「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」と非宗教的な説明をしているが、エピファニーとは神明(神命)の顕現だ。悟りだ。啓示だ。ちなみに、この年のヤクルトは万年Bクラスを脱し、優勝したのだということまでもがつけ足されると、はるかに啓示の観は強くなる。

さらにこうして書いた小説で、彼は作家デビューを果たすのだが、その後日譚、というか、『群像』の新人賞受賞の話も興味深い。最終選考に残っていることを編集者から知らされた日の朝、彼は妻とふたりで散歩に出て、傷ついた鳩(伝書鳩。ちなみに当時彼が住んでいたのは鳩森神社のそば)を拾い上げる。名札があったので交番にそれを届けに行った。

そのあいだ傷ついた鳩は、僕の手の中で温かく、小さく震えていました。よく晴れた、とても気持の良い日曜日で、あたりの木々や、建物や、店のショーウィンドウが春の日差しに明るく、美しく輝いていました。
 そのときに僕ははっと思ったのです。僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと。そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。すごく厚かましいみたいですが、僕はそのときそう確信しました。とてもありありと。それは論理的というよりは、ほとんど直観に近いものでした。(153-154ページ)

「直観」にいたる前の風景描写が、それが天の啓示であることを強く印象づけるものになっている。人は暖かい木漏れ日を受け取るようにして光を、啓示を受け取るのだ。こうして村上春樹は小説の着想時と、その手応えにおいて啓示を感じ取り、作家になったのだ。(もちろん「ある程度の成功」にいたるには書き続けるという努力をする必要があったことは忘れてはならない)

この表現のあり方をもって、これがフィクションだといいたいのではない。たぶんフィクションだろうし、それと同じくらい事実だろう。そして真実だろう。あるいはこうした書き方をするから、村上春樹の感じた啓示が真実味を帯びるのだといいたいのではない。そんなの当たり前の話じゃないか。ただ、少なくとも、こうした語りによって、神宮球場で思いついたという一過性のエピソードは意味のあるものになっていくことを確認したかっただけだ。

この「啓示」が本当にあったかどうかということには大して興味はない。人は確かに、自分の行く末について、ある種の啓示のようなものを受け取る瞬間がある。ぼくだって高校や大学への進学、大学院への進学、職業選択などにおいてこの種の啓示を受け取ってきた。それがあるということは幸せなのだ、と思うのみだ。たとえそのようにして選んだ人生が不幸を背負い込む人生だったとしても……

そういえば、もうすぐ、ぼくの寄稿した村上春樹についての論文集が上梓される。


(このエントリーのタイトルは「猿からの質問」のコーナーのテーマ)

2015年2月4日水曜日

どこまでも下衆な人々

ぼくは親しい友人のため以外で涙を流したことはそんなにない。あ、それからフィクションの中の人物(それは結局のところ親しい友人なのだ)のためにも流した。ともかく、自分のためや、見ず知らずの遠い他人のために涙を流したことはない。

ところが、最近、まったく見ず知らずの人のために涙を流しそうになった。後藤健二や湯川遙菜という、このたび殺された二人の遺体の引き渡しを求めないと安倍晋三が発表したときだ。あまりにもひどいじゃないか。

加えて、今日はこれだ。髙村正彦が後藤さんの活動を「蛮勇」と称し、これに続く者も蛮勇にいたらないようにと釘を刺した。

死者を埋めるまではその土地に根づいたとは言えない。それが『百年の孤独』の前半の基本思想だ。裏を返せば、根づいた土地に埋められない死者はあまりにも哀しい。大して救出の努力もしなかった政府が、加えて遺体の引き渡しを求めないのならば、見殺しじゃないか。与党総裁が見殺し、副総裁がその見殺しにした死者に唾する。


……責任逃れの逃げ口上としても、あまりにもひどい話じゃないか。短時日のうちに見ず知らずの人物のためにぼくは二度も泣きたくなった。

2015年2月3日火曜日

授業が終わった!

今日、今年度のすべての授業が終わった。

まだ採点やらシラバス記入やら卒論・修論の審査やら何やらが残っているので、まだまだ気が抜けないのだが、それでも終わったことは嬉しい。

さて、通常はモレスキンを使っているのだ。そしてまた万年筆を使っているのだ。万年筆は、しかし、インクが乾くので、キャップを開けっ放しでで書くのはつらい。つまり、メモを取るときには少し向いていない。

メモを取るときには、できればローラーボールを使いたいのだ。が、多くのローラーはモレスキンのような紙質だと裏染みがして、両面使うことが難しいのだ。困った。エンピツ(シャーペン)でメモを取ってもいいが、エンピツだと少し見づらい。本当に困った。

実は、通常のボールペンだったらほとんど染みない。実に簡単なことだ。

ぼくの頭の中には、なんだかボールペンに対する偏見があったようで、万年筆、ローラー、エンピツ、その他は使わない、と頑なに決めていたようなのだ(赤のボールペンは使うくせに)。筆圧がボールペンには向かないと思っていたようだ。

……筆圧、というなら、どのペンにもぼくは向かないのだ。同じことだ。

そんなわけで、ボールペンを排除する積極的な理由はないことに気づき、買ってみた。パーカーのボールペン。こうしてメモを取っているのだ。


……あ! このクレールフォンテーヌのノートはローラーを使っても裏には染みないのだった。

2015年2月1日日曜日

追い立てられる

イスラム国がジャーナリストの後藤健二を殺したらしいというニュースが流れ、暗澹たる気持の日曜朝。ツイッター上では通常の番組を中断してそのニュースを延々と流し続けるTV局に対する非難がトレンド入りするほど書かれていて、ますますうんざりする。明かな代償行為だ。そんなものにつき合わない方がいいのだろう。

あるとき、ある病気で感じた死を恐怖する気持がまたその存在を主張しようとしている。この件について語ることも語らないことも、ぼく自身の体調には悪影響を及ぼしそうだ。ブログやツイッターなどで書くことは差し控えよう。

ノートだ。

既に何度も書いているとおり、基本的にはモレスキンのノートを使っているのだが、時々、違うのにしてみる。写真左はモレスキンではあるものの、赤いやつ。これの後にクレールフォンテーヌのものを、現在、使ってみている。そろそろ次のやつを、というので、今回、はじめて買ってみたのがロイヒトトゥルムLeuchtturm。

こんな比較ではわかりにくいかもしれないけれども、幅はモレスキンより少し広い。ページ番号が振ってあり、目次を作るためのページもある。紙質も少し異なる。

日記も、読書ノートも映画ノートも執筆のためのノートも、たいていは1冊にまとめて使っている。特別に1冊用意するような仕事もあるにはあるが、それは1冊の本になるような大きなものの場合。短い原稿などのためには、ここに雑多に書き連ねることにしている。左端の赤いノートを引っ張り出したのは、ある思いつきをここに書いていたからだ。書き留めた内容は、記憶の中の印象と少し違っていたが。


日記形式の小説の翻訳もしている。日記を読み返し、日記を記すことの意義(目的)を綴った箇所などを訳していたので、次のノートのことに思い至った次第だ。翻訳も追い立てられているが、こうしてまだ使い終えていないうちから次のノートの候補のことを考え、これにしよう、と選定していると、早く今のこのノートを使い終えねば、という気になってくる。自らを追い立てているようなものだ。ぼくのような性格の人間にはそれも悪くない。