2019年10月28日月曜日

喫茶店探訪第n?回 


大学で用を済ませ、家にまだ仕事が残っていたので帰宅する前に、ちょうど昼時だったので、前々から行こうと思っていながら行けなかった店に行ってみた。

本郷三丁目駅前の名曲喫茶〈麦〉。

昼にカレーなどを食してみたのだ。時々、喫茶店やそば屋のカレーというのは恋しくなる。

こんなものを読んでいたせいか、食後のコーヒーのころには「インターナショナル」がかかった! うむ。僕の読書と関係があるのか?

ふと奥の席に座った僕が隣の壁の棚を見やれば、河合榮治郎全集があるではないか! 東京帝大の経済学の教授だった社会主義思想家で、戦前、右翼から弾圧まがいの嫌がらせをされた人物だ。

うーむ、感慨深い。

ちなみに、「インターナショナル」は村治佳織も自らのアルバム『ポートレイト』(2009)の中で演奏しているのだ。よく聴くと美しいメロディなのだ。


2019年10月26日土曜日

ジャガイモ三昧の週末


立教の授業が終わり、来週は大学の都合で休講なのでちょっと一息つき、スーパーに寄ったら、ジャガイモがえらく安く売っていて、それを見ているうちに猛烈にポテトチップスが食べたくなったので、作ってしまった。

ポテトチップスとポテトサラダ。ともに2個分ずつ。以前、どこかで電子レンジだけで作れるポテトチップスの作り方を見つけたので、それにしたがってやってみたのだ。スライスしたジャガイモを洗って、水気を切って、両面にオリーヴ・オイルを塗って、600Wのマイクロ波オーヴン(電子レンジ、なんてダサい名前、口にしたくもないぜ)で表3分、裏返して2分弱。文字どおりcrispy crisps が仕上がるのだった。

インスタグラムに載せた写真は、広げた姿(リンク)。これでジャガイモ2個分。市販の一袋が意外に多いことがわかる。

僕は最近2ヶ月かけて4キロ近く体重を落としたところなのに、ポテトチップスこんなに食べちゃったら減量が滞っちまうな。

……ま、いいか。

2019年10月22日火曜日

かえるくん、世界を救う……のか? 


今日はどこぞの殿上人にまつわる行事で休みだそうで、僕は必ずしもそれを歓迎しているわけではないが、大学全体が休みなんだからしかたがない。便乗してやるか。

で、こんな、急に授業のなくなった授業日というのは、何かと心ばかりが浮ついて、結局終日何もせずに終わるということが少なくない。

結局無駄に過ごしてしまったという絶望を味わわないためには、映画を観に行くに限る。そしてそれを発信するのだ。少なくとも映画を観、それについてレビューを書いたという記録は残る。


村上作品のデンマーク語訳を手がけるメッテ・ホルムが『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の2作品を翻訳する過程を追ったもの。村上がアンデルセン賞を受賞してデンマークを訪れるので、それに合わせるようにと頑張る姿を撮っている。

とりわけ悩んでいるのが『風の歌を聴け』冒頭の1行。「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」。ある作家が「僕」に向かって言ったという科白。この「文章」という単語の広がりに翻訳者は頭を悩ますのだ。

で、結局、どういう訳語にしたかは映画の最後にわかる仕組みになっている。もちろん、デンマーク語に移したのだが、デンマーク語が理解できなくてもその訳語はわかるようになっている。ヨーロッパ語なんだから。

「かえるくん、東京を救う」(『神の子どもたちはみな踊る』所収)の「かえるくん」……というか二足歩行するかえるが登場し、作品に厚みを与える。「厚み」とは二方向のそれだ。

冒頭近く、ホルムがインタヴュアーとの会話のなかで、村上作品の魅力のひとつは非日常的なもの(正確にこう言った……こう字幕に書いてあったかどうかは定かではない。僕ならば「不気味なもの」と言いたいところ)が現れることだと言っていた。まさにその「非日常的なもの」「不気味なもの」として常にそこに存在している。

そのかえるくんがぬったりとした声(誰の声だろう?)で「かえるくん、東京を救う」のかえるくんの科白を読むのだが、それがメッテが市井の人々と交わす言葉やメッテ自身の翻訳者としての仕事への評価にも理解されるという、アレゴリカルな構造を示すことも「厚み」のひとつのあり方だ。ジェイズ・バーを意識したのだろう、芦屋か神戸あたりのバーで、レコードをターンテーブルに載せようとする店のマスターらしき人物が、今の状態だと戦争まではわずかであるかもしれないという時代への危機意識を語れば、片桐にみみずくんとの戦いへの協力を依頼するかえるくんの科白がそれに意味づけをする。かえるくんのみみずくんとの戦いは東京を地震から救うためのものだったはずが、一気に時代がかって世界の戦争へと聞くものの意識が広がる。片桐の協力に感謝するかえるくんの科白が、「翻訳がなければ私たちは生きていけない」と語るメッテの言葉と意味の幅を広げる。

同業者としては、メッテがテクストに書きつける書き込みや、ピンボールというものをわかろうとして実際にプレーしたりピンボール・マシーンの各部位の名称をゲームセンターの人に訊ねたりしているシーンなどが印象的だ。上でほのめかしたバーも、いい味出している。

そうそう。翻訳者は同じ作者のものを続けて翻訳しているとその作家になった気になる、というポーランドの翻訳家の科白も、印象的だ。僕もセサル・アイラになった気にならないようにしなきゃね。

写真はクラウド・ファンディングで援助していたEl libro negro de los coloresの翻訳。今日届いた。メネナ・コティン文、ロサナ・ファリア絵、うのかずみ訳『くろは おうさま』(サウザンブックス、2019)。

黒がきれいだ。

2019年10月12日土曜日

嵐を耐え忍ぶ


前回投稿した翌日、5日には第4回現代文芸論研究発表会があった。毎回、作家をゲストに呼んでいるが、今回は町屋良平さん。自分へのインタヴューという形式で「小説を書く身体/小説を読む身体」という話をされた。夢を見た状態を、一日で書き終わることのない小説を書く間生きていることが小説を書く本質などと、実に興味深い話だった。

町屋さんは文藝賞を受賞してデビューした。彼が受賞した翌年には僕も授賞式に呼ばれたので、若竹千佐子さんが受賞したそのときはノコノコと出かけていったのだった。

その文藝賞の授賞式。2年ぶりに出た。11日(金)のこと@明治記念館。

今年の受賞者は宇佐美りん「かか」と遠野遥「改良」。宇佐美さんは20歳の若さだというのに、受賞の挨拶も立派なものであった。遠野さんは自分の書いたものを人に読んでもらうことの楽しさを語られた。

ところで、繰り返すが、著書『テクストとしての都市 メキシコDF』が、難産の末にほぼ一月後に上梓されるもよう(11月11日、ポッキー・プリッツの日に発売予定)。それのプロモーションではないが、ちょうど時期があったので、宣伝がてらこんなこと(リンク)をやる予定。来てね。

台風のため、今日の立教の授業は休講。明日の「はじめての海外文学スペシャル」も中止。

写真はイメージ(文藝賞授賞式に向かう直前に撮ったもの)。

2019年10月4日金曜日

軽薄短小への回帰


iPadはずっと第1世代のミニを使っていたが、ここしばらくは普通の大きさのiPadに戻っていた。

で、ちょっと前に久々にiPad miniに第5世代が現れ、それがApple pencil に対応しているというので、やはりミニにしてみようと思った。

先日、バルセローナに行く際に置いていく決心をしたとき、iPadの用途をつきつめて考えたら 1)新聞電子版の購読 2)PDFファイルへの書き込み が他のディバイスに代えられないアドバンテージだとの結論に達した。加えて 3) Kindleや他の電子ブックとしても抜きん出ている。しかるに、この3)の機能はやはり少し小さめな方が持ちやすく、いい。1) 2) がやりづらくなるほどの小ささでもないサイズなのがミニだ。で、ミニに戻しみようとの結論になったのだった。

手にしてみると、その軽さも強みであることがわかる。

僕は最近、さすがに贅肉がつきすぎたと思って、少しずつ減量しているところだ。3Kg くらいは落ち、このところ窮屈にかんじていたあるジーンズに余裕を感じる程度にはなった(でもまだあと10Kgほど減らしたいのだが)。

ディバイスも軽くしていくに限るのだ。

いよいよ最後の校正。『テクストとしての都市 メキシコDF』。むふふ。すてきな装丁になりそうなのだ。このくらいの大きさ。

ところで、これができあがるころ、こんなイベント(リンク)やります。来てね。チケットはこちらから(リンク)

あ、そうそう。ところで、「亜熱帯から来た男」連載第2回(リンク)