2017年4月21日金曜日

戦後を待ちわびて

「戦後文学が読みたいぞ」という文章を書いた直後に新聞で北村総一朗がお膝元・昴で新藤兼人の『ふくろう』(2003)を脚色して舞台にかけているという記事(北村のインタヴュー)を読んだものだから、これは見てみようと思い立って見てきたのだ。

はまだ久米明が生きているころ、今はなき三百人劇場に何度か見に行ったくらいではなかろうか? 『セールスマンの死』で知られる昴/久米明の組み合わせだが、テレンス・ラティガンらの他の翻訳ものもやっていて、楽しかった。三百人劇場は、他に、1985年、メキシコ時代のルイス・ブニュエル特集を組んだりと、映画の記憶もある。

今回の会場・大山Pit昴は三百人劇場に比べるとぐっと小さな、百人も入らないくらいの地下の典型的な小劇場だ。

新藤兼人の『ふくろう』は大竹しのぶと伊藤歩による快作というか奇作(こんな言葉、あるのか?)というか、なんとも不思議な映画で、ともかく、1980年頃までは戦後だったぞ、と改めて思い出させてくれる作品であった。北村はそれをかなり忠実に舞台に再現し(もともと、部屋の中だけで展開するシチュエーショナル・サスペンス(こんな言葉、あるのか?)なので、舞台向きだ)ていた。

満州からの引き揚げ者で故郷もなくして東北の入植地に入植していたユミエ(服部幸子)が、すっかり入植者がいなくなり、娘のエミコ(立花香織)と二人だけになってしまった。そこで近所のダムの建設現場や電気会社工事人など、訪ねてくる男たちを相手に売春しては金を巻き上げ、毒入りの酒を飲ませては殺し、入植地の空き家の庭に埋めるということを繰り返す、という話だ。男たちは死ぬ瞬間、鶏のようなうめき声をあげ、最後にはひと言、不思議な言葉を残す。それが奇妙なおかしみを産み出して、テーマのシリアスさをやわらげている。

珍しく若い客もある程度いて、後ろに3人の女性のグループがいたので、幕間が楽しかった。聞く気はなくても彼女たちの話(感想を言い合っている)が聞こえてきたからだ。どうやら殺される男たちの1人がこのグループの誰かの知人らしく、「あのパンツ一丁になってた人? あの人やばいね」などと話していたのだ。裸の立花香織に服部幸子が水浴びをさせるシーンがあって(映画ではホースで盛大に水をかけていたように思う)、それをすだれ越しに見せたのだが、彼女たち、「あれ、どうなってるんだろうね? ヌーブラ?」「ニップレスみたいなのしてるのかな?」「後ろだとわからないけどね、前の人なんか、おおっ、てなったのかな?」「意外に仕組みがわかってがっかりしたりして?」なんて語り合っていた。


なんだか楽しそうだった。僕もなんだか楽しくなった。

2017年4月19日水曜日

引き返せない4月

先日、実に濃厚なメンバーと読んできた。

滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋、2016)

ある人物の通夜に集った親類(故人の子とその子たち)の様子をなめらかに移動する複数の視線で描いたもの。

特に大きな物語が生起するわけではないが、語り口と語りの妙によって楽しく読ませる一篇だ。

語り口、というのは、視点人物によって多少変化するが、おそらく最も中心となる人物・知花(故人の3番目の子、次女多恵の娘)のそれが、いかにも2015年の時点で17歳の高校生らしいもので、とりわけ面白い。通常の引きこもりとはいささか趣を異にする引きこもりの兄・義之との関係が微妙で、それを「やばい」だの「エロい」だのという言葉でしか表すことができないとしながらも、その関係を説明する様々な出来事を想起し、あるいは捏造していく過程が面白い。

こうしたことについて数時間、みんなでああでもないこうでもないと語ったのだった。

ところで、最近、こんなものを机の上に置いてみた。

まあ、なんということはないCDプレイヤーだ。これまで机とは違う場所に置いていたのだが、その場所であまり使わないことに気づいたから。

そしてまた、Bluetoothつきなので、iPadからの(Macからのでもいいが)音楽を聴くスピーカーにもなる。本当は、Bluetoothのスピーカーだけでもいいのではないかと思ったのだが、ともかく、遊んでいる機器が一台あるのだから、それを有効に使ってみた。


遅れ馳せながら定額で音楽聴き放題のサービスを利用し始めた。月額980円なら月に1枚CDを買う者でも元は取れるとの観測からだ。ただし、このサービスに提供されていない楽曲、CDなどはあるわけだから、そういうのを手に入れようとすると、当然、それはまた別の支出になるわけだが。

2017年4月4日火曜日

メキシコの仇を東京で

パブロ・ラライン『ジャッキー――ファースト・レディ最後の使命』(アメリカ、チリ、フランス、2016)

アカデミー賞ノミネートだの、公式サイトに謳う「知られざるジャッキーの真実に迫る感動作」だのの文句を見る限り、僕がまず間違いなく見なかっただろう映画なのだが、何と言ってもパブロ・ララインなのだし、まさか「感動作」なはずはあるまい、そう思って見に行った。それから、メキシコで見る予定が時間を勘違いして見られなかったので、仕切り直しの意味もあって。

副題に「最後の使命」とあって、この「使命」というのはナタリー・ポートマン演じるジャクリーン・ケネディの台詞から取ったものだけれども、その台詞というのはIt's my jobだかbuisnessだか、そんな単語を採用しているところで、それを松浦美奈の字幕が「使命」と訳しているわけだ。配給会社と監督や脚本との意図の違いが鮮明に現れるところ。

ジャクリーン・ケネディの話とくれば、夫の暗殺の瞬間だとか、華々しくファースト・レディになったころ、あるいはしばらくしてギリシヤの富豪と結婚しジャクリーン・オナシスになったことなど、いくつかのポイントが考えられるけれども、これは暗殺直後から葬儀を出すまでに焦点を当てたもの。

夫の死後1週間して訪ねて来たジャーナリスト(ビリー・クラダップ)との会話を通じて特に暗殺後数日の日々をジャクリーンその人が回想するというストーリー。役作りでかなり体重を落としたのだろうポートマンの首筋辺りが痛ましい。が、最初から記者に懐疑的な彼女はメモをチェックして発言を変えたり削除させたりして、かなり神経質に自己演出している。この自己演出こそが夫ケネディの国葬張りの大々的な葬列を可能にしたといのうが、この映画の極めて単純で悪意に満ちた主張だ。

暗殺直後の機内で大統領に就任するリンドン・ジョンソンの良く知られた写真を再現し、その隣で複雑な表情を見せるジャッキー。霊柩車内で運転手や看護婦にジェイムズ・ガーフィールドやウィリアム・マッキンリーを知っているかと訊ね、要するに過去暗殺された合衆国大統領で知られているのはエイブラハム・リンカーンだけであることを確認すると、同乗するロバート・ケネディ(ピーター・サースガード)にリンカーンの葬儀に関する文献を届けさせるように命じるジャッキー。そうした細部が彼女の下心というか野心を照らし出す。

もちろん、目の前で夫を射殺されたのだから気丈で立派に振る舞ってなどいられない。狼狽えもしようし、理性を失いもしよう。それを正直に(といってもこれらが事実かどうかは僕は知らないけれども、少なくともおかしくなるのが正直な人間の心理だろう)描き出すところが、悪意だと言っているのだ。

ところで、最近はタイトル・クレジットをストーリーが終わった後に出すのが流行りなのだろうか? よく見るような気がする。この作品もそうだった。


池袋HUMAXはひとつのシートにつきちゃんとふたつの肘掛けが確保されていた。HUMAXってどこもそうだっけ? 

2017年4月2日日曜日

新たな年が始まる

もう4月だ。4月は僕らにとっての新年だ。
肩書きから二水の文字が一文字抜け、身軽になるのだか肩の荷が重くなるのだか、ともかく、いろいろと変化があるので、僕自身も無理矢理変化をつけてみた。

iPhone7 を導入し、それに合わせてモバイルSuicaを導入。ちゃんと使えるのだから面白い。

ちなみに、これはそのiPhone7 で撮った写真。珈琲サイフォン(株)の字が見えると思う。珈琲サイフォン株式會社の建物で、ここでは豆も挽き売りしているらしい。最近知って訪ねて来たのだが、さすがに日曜日は休みだった。

珈琲サイフォン社というのは、いわゆるコーノの珈琲器具の会社。僕が生まれて初めて使ったミルはここの製品だった。

最近、以前紹介したフレンチプレス一辺倒なのもどうかと思い、ここの、つまりコーノのドリッパーを導入してみたのだ。

これも僕の変化のひとつ。

一番普及しているカリタ式と違い、円錐状で、溝が下半分にしかないというドリッパー。台形状のカリタ式よりもコクと深みのある味が出るし、フレンチ・プレスよりはあっさりしている。一説にはネルドリップに近い味だとか。もちろん、ネルではなくペーパーフィルターを使うので、後片付けなどは楽。


週があけるといよいよ新学期だ(といっても本郷キャンパスの場合、学部1年生がいないので、少し落ち着いているのだが)。

2017年3月30日木曜日

響き渡る鳴き声、染みいる悪意

坂手洋二作・演出『くじらの墓標2017』燐光群@吉祥寺シアター。楽日前日のマチネで見てきた。

若い頃の作品だけあって、主人公が若い。藤間流の舞踊もやれば、徳之島というルーツに従って島唄のウタシャもやるという客演のHiROと宗像祥子のカップルの婚約を契機とする物語だ。

死者の召還の物語とも言えるし、いわゆる「夢落ち」かと思いきや、そこに悪意のこもったもうひとひねりがあって、中孝介を彷彿とさせるいかにもウタシャらしいHiROの悲劇的な声と乾いた声で単なる清純派などではあるまいぞと存在感を示す宗像祥子のコントラストがいい効果を上げていたと思う。

事故で入院して回復期にあるらしいイッカク(HiRO)は、クジラ漁師の家系の7人兄弟の末っ子。その彼が婚約することになり、田舎から母代わりの叔母タツエ(中山マリ)が上京、すると20年前に死んだと思っていた兄たちが現れて、故郷に帰ると言い出す。

話を聞いていると彼らはクジラ漁師というよりはクジラの化身のようでもある。クジラ漁師はかつて陸に上がったクジラの子孫なのだという、まるで神話のような話が提示されて、その曖昧な存在に説明がつけられる。さらには、えびすと呼ばれるある種神話的クジラとの取り決めによる贈与を仲立ちとした関係を維持するために死んだことにして姿を隠していたのだとも。きっと日本式捕鯨文化にまつわるさまざまな伝承などに依拠しているのだろうが、こうした設定によって劇全体のトーンがぐっとファンタジックになっている。そこがこの作品の面白いところ。


もちろん、クジラの話だから、最後はクジラとの対決もある。ファンタジックなだけでなく、思いの外スペクタキュラーでもある。もちろん、クジラそのものが出てくるわけではないけど。

2017年3月27日月曜日

映画を観ようとは言うけれど……


? ? ? ? ?

シネ(cine)はいつから女性名詞になったのだろう? 思わず辞書を引いた。

やはりcineはあくまでも男性名詞だ。cinemaもそう。であるならば、当然シネ・エスパニョールcine español であるべき。

はて? なぜこのような事態が起こるのか? 

思い浮かんだのが、サッカーのスペイン・リーグ、liga españolaリーガ・エスパニョーラの単語としての定着。名詞と形容詞の性を持たない日本語話者が、それで、「スペインの」という形容詞は「エスパニョーラ」なのだろうとの理解したのでは、との推論。

他に類似の例があるだろうか? 

と思ったときに思いついたのは、逆の例。鈴木亜美が「アミーゴ」を名乗った例だ。アミの音からの連想なのだから「アミーゴ」でも「アミーガ」でもよかったはずだ。むしろ女性だから「アミーガ」であって欲しいところ。それなのに「アミーゴ」に落ち着いたのは男性名詞のそれが定着してしまっていたからなのだろう。

そう考えると、リーガ・エスパニョーラはよくぞ「エスパニョーラ」と女性形になったものだと思う。つまり、定着と呼べるほどかどうかはわからないにしても男性形「エスパニョール」の語はある程度流布していたように思うからだ。

おそらく、従事している人がどれだけスペイン語に敬意を抱いているかの問題なのだろうと思う。映画界におけるスペイン語軽視は本当に悲しいほどである。

たとえばこの「シネ・エスパニョーラ2017」の作品ラインナップを見るといい。

『ザ・レイジ 果てしなき怒り』
『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』
『クリミナル・プラン 完全なる強奪計画』
『クローズド・バル 街角の襲撃手と8人の標的』
『キリング・ファミリー 殺し合う一家』

……教えていただきたいのである。こんな立派な、すてきな副題をつけるなら、なぜそれだけでだめなのか、よりによって英語(風)転記のカタカナをつけなければならないのか、なぜここがスペイン語であってはならないのか。


単にスペイン語軽視というだけでなく、明らかにある時から映画タイトルはおかしくなってきたのだが、今、おそらく、人はそれをおかしいと思う感覚が完全になくなっているのだろう。

2017年3月22日水曜日

最後の日は映画を観よう

帰国した。

帰宅した。

ホテルのチェックアウトが現地時間20日(月)13:00。飛行機の出発予定時刻が21日(火)1:01。早い話が、20日の深夜(感覚)。時間ぎりぎりにチェックアウトしても12時間、飛行機へのチェックインがぎりぎりでも10時間ばかりの時間がある。最終日だという意識があるし、ホテルも発っていることなので、なんだか手持ちぶさた。とても困るのだ。

前の晩、ちょっとした仕事でメキシコに滞在していた教え子とアルゼンチン料理など食べながら、映画の話をし、映画を観るのがいいのじゃないかと勧められた。

なるほど! 

こんなそわそわと落ち着かない日でも、映画は観ているうちに集中する。集中するけれどもある時間が来れば終わるから、熱中しすぎて時間を忘れ、取り返しのつかないことになることもない。ちょうど国立フィルムライブラリーCineteca Nacionalでは『ネルーダ』と『ジャッキー』、つまりパブロ・ララインの2作が観られるぞ、と……

シネテカは特集上映などのみならず、今では新作の上映もするし、今はキューブリックの展示会とか、そんなものも行っている。シネコン並みにネット予約もできる。スクリーン数も増えた。そして休日だった20日(月)は、実際、シネコンのように客がたくさん来ていた。『トレインスポッティング2』のチケットもう買えないんだってよ! なんてやり取りが聞こえてきた。

さて、14:00から『ジャッキー』を観て18:00から『ネルーダ』を観れば、終わるのは20:00少し前。そこからホテルに引き返して預けていた荷物を受け取れば理想的だ! どうせ飛行機の中では寝てばかりで映画など観られないのだから、その代償に、最終日は映画を観よう。

……と思ったのだが、ちょっと本屋に寄ったりしている間に、『ジャッキー』は16:00からだと記憶が書き換えられ、見損なってしまった。その代わり、パトリシオ・グスマンの『真珠のボタン』を再見。素晴らしい作品であることを再確認。

『ネルーダ』(アルゼンチン、チリ、スペイン、フランス、2016は上院議員になったネルーダ(ルイス・グネッコ)が大統領ガブリエル・ゴンサレス=ビデーラ(アルフレード・カストロ)を敵に回し、地下活動に入り、ついで亡命を余儀なくされたころ(1948-)を扱い、その詩人を追跡する警官オスカル・ペリュショノー(ガエル・ガルシア=ベルナル)を中心に据えた物語だ。

こう書くと、まるで事実に即した、ネルーダ亡命の物語かと思うだろうが、それが、そんなことはない。この映画はなかなかにくせ者なのだ。だいたい、参議院議員となったネルーダが共産党に所属したことによって最初に引き起こした軋轢を表現するのが、サロンなのかトイレなのかよくわからない場所なのだから、そもそもの最初からヘンだなとの疑いが湧き起こる。

ネルーダの描き方にしてもロベルト・アンプエロの『ネルーダ事件』張りに悪意に満ち、売春宿で遊び呆けるは、十年一日、同じ詩を詠んで人気を博して浮かれているは、妻が隣にいるのに口述のタイプライターの女性の胸に手を這わせるは…… まあ、ネルーダ神話を強化したいだけなら、きっとその最期を描くはずだろう。

このヘンな感じがだんだん形を取り始めるのは、オスカルがネルーダを追跡して行く先に常に置いてある一冊の本があるからだ。どうもネルーダが書いた小説らしく、その小説には自分のことが書かれているようで、オスカルは読み耽ってしまうのだ。そして追いかけても追いかけてもネルーダは直前で逃げていて、いなくなったその場所に、オスカルは常に同じその本を見出すだけ。こうしたところはコミカルなサスペンス仕立て。

クライマックスの始まりはネルーダの妻デリア(メルセデス・モラン)とオスカルとの会話だ。そこで彼女は彼にお前はネルーダの書いた物語のなかで端役に過ぎないのだと種明かし(?)されるのだ。

最後のチェイスではガエルのオートバイが故障するし(『モーターサイクル・ダイアリーズ』だ)、母親は娼婦だ、などとガルシア=マルケスみたいなことを言うし、……


なかなか一筋縄ではいかない内容なのだ。

メキシコでの最後の二晩を過ごしたホテルの部屋からの眺め。いわゆるソナ・ロサの朝。

2017年3月20日月曜日

ついでにメヒコ覚え書き

コンピュータがいろいろなものをアップデートしたりして、使えないソフトがあるので、暇に飽かせて、ついでにメヒコのことも書いておこう。

メキシコのペソは今では東京の至るところにあるTravelexという両替屋で買うことができる。ただし、売る時にはとてもレートが低くなる。今回、買う際にあらかじめ1,000円余計に払えば、高値で売れるという制度があるがどうだ、と訊かれて、とりあえず1,000円余計に払った。

さて、……

必要最小限だけ持ってきて、後はキャッシングでいいんじゃない、と言われたが、まったくその通りだと思う。本を買ったときや少しよさげなレストランで食事したときはカードで払うのだし、そのカードはvisaデビットで、すぐに引き落とされるし、キャッシングもできるので、ということは実質、キャッシュカードで引き落とすのと同じことだし、持ち歩く金を少なくすることに何の問題もないのだ。それなのにまだ現金取り引き社会の亡霊から自由になり切れていないのだな、僕は。あるいはピッキングを極度に恐れているのか? 

実際、今回、ペソはかなりあまりそうだ。
(50センターボ硬貨がたくさん余った! 写真は5ペソ、1ペソ硬貨とともに)

メキシコでは人と会う予定があったので、プリペイドのSIMカードを買ってみた。メキシコではsimはchipと呼んでいる。TelcelにしようかMovistarにしようか悩んで、後者にした。15日間(2週間)で100ペソ。入れればすぐ使えるよ、と言われたが、使えない。どうしたのだろう? 

どうもチャージするといいらしい、とどこかから聞こえてきた。コンビニに言って番号を言い、なにがしかの金を払えば、手続きしてくれる。サークルK(てっきり日本のものかと思っていたらUSA発祥なんだね)では30ペソからチャージができると言われた。チャージしてほどなく、通話もデータ通信も使えるようになった。ただし、一日中ブーブーとうるさくメールやらフェイスブックのコメントやらを受け取っていると、あっという間にチャージ分を使ってしまった。

やれやれ。

言うまでもないことだが、iPhoneのsimのスリットは何かとても細いものでつついて開けないと行けない。買ったときにはそれがついているのだが、別に人はこれを持ち歩いているわけではない。入れ替えるとき、苦労する。ホテルのメイドに針のようなものはあるかと訊ねたところ、本当に針を持って来た(裁縫キット)ので、それを使った。


ほとんど通話はしないので、特にこちらでプリペイドsimを買う必要もないかな、との思いもある。アップルsimのようなもので充分かもしれない。特に今回、maps.meというアプリを入れていて、それがオフラインでも自分の地図上の位置を教えてくれるものなので、オンラインでgoogleマップなどを使う必要がないとなれば、ますます無理してsimを入れることはないかな、と。もちろん、もっと長く滞在するなら話は別だが。

キューバ覚え書き

日本時間では日付が替わったので、少し補足の記事を。

今回僕が泊まったのはDeauvilleというフランス系の名前のホテル。どう読むんだろうと思ってスペイン語風にデアウビーエ? と発音したら、タクシーの運ちゃんはドヴィユだね、とフランス語風に呼んでいた。

で、ともかくそこはマレコン(ハバナの海岸沿いを走る通り)の目の前で、こんな絵に描いたような光景が展開されていた。

よく目にする、マレコンに打ちつける波を、しかし、遠くから素人の手で捉えようと思っても難しい。せいぜい、こんな感じだ。うーむ。

さて、14年前はドルをそのまま持ち込んで使えば良かったのだが、キューバは今では兌換ペソ(Peso convertibleまたはCUC。後者はクックともセー・ウー・セーとも発音していた)の方が通りがよさそうだ。ドルやユーロも使えるには使えるのだけど。レートは$1=1euro=1CUCくらい? これが5CUCと10CUC紙幣。それに1ペソ硬貨。

空港を出てすぐのところにある両替屋は長蛇の列。これには参った。ホテルまで送ってそこで両替して払ってくれればいいよ、とタクシーの運ちゃんが話しかけてきたので、そうすることにした。が、ホテルでは1euro=90ペソと低めのレート、少し損した。

Peso nacionalというのもあって、CUCとNacional併記の店などもあった。書店で買い物をして、結構な額になったのだがCUCを渡すべく数えていたら、そのうちの5CUCだけを取られて「これでいいんだ」と言われた。何かの勘違いをしているのだろうか? だとすればその勘違いが解けないうちに、と思ってそそくさと書店を出たのだが、たぶん、あれは、最初国内ペソでの額面を言ったのだろうと思う。

ネットの接続状況は悪い。通信会社ETECSAのWi-Fiを使うためのカードを購入し(1時間分2CUCだった)、そこにあるユーザー名とパスワードでアクセスする。僕のホテルで買ったものを他のホテルや空港などの施設でのETECSAのWi-Fiにも使ってみたら、使えた。汎用性はあるということだ。ただし、Wi-Fiの施設そのものは範囲も狭いし弱い。ホテルではロビーでしか使えなかった。

でもまあ、そんなわけなので、しばらくネットアクセスは仕事のメールのチェックなどのために必要最小限に抑え、晴れて自由の身となって過ごしたのだった。

ETECSAの事業所などではSIMカードも売っているので、それを購入すれば、SIMフリーのディバイスなら、LTEだか3Gだかのデータ通信も可能。ただし、ETECSAがどこにあるかわからないし、ホテルで聞いてもあやふやだし、やっと見つけたのはもう滞在4日目だったし、列も長かったしで、これを買うことは断念した。それでこそ自由の身だ。でも後学のために記しておくとオビスポ通り(ラ・フロリディータから港へ向かう道。財務省とかがある通り。両替屋なども同じ通りにはある)にあった。

CUCを換えすぎて余らせるのも癪だし、と思ってユーロが使えるところではユーロを使うようにしていたのだが、これは本末転倒で、結局割高なところでばかり食事していたように思う。良くないな、と反省するのであった。


こんなところだろうか? 後は仕事と散歩の日々であったのだが……

2017年3月19日日曜日

14年越しの願い

1週間ほどキューバに行ってきた。

授業のない時期にメキシコだのキューバだのと言ったら、人はどうも休暇で出かけると思うものらしいが、実際は仕事で行ってきたのだ。研究だ。取材と資料収集とその他諸々だ。

今回の一番の目的地はここだ。


こんな風に作家の蔵書がある。ディジタル化の進むこれらの資料もじかに眺めることもできる。

こんなものを眺めながら、ついでに、ここにある資料が眠っているのではないかと目星をつけて来たのだが、はかばかしい成果は得られなかった。

でもまあ、研究部門の人と話し、いろいろと示唆を受けるところはあった。

ついでに、前回、2003年には修復中で入れなかったところに行ってきた。

ホセ・レサマ=リマ記念館。レサマの生活がそのまま維持されているスペースだ。

レサマの書斎の机。

そしてレサマを真似、書斎の棚に持たれてポーズ。

前回、やはり場所は特定したけれども、写真を撮ってこなかった場所。でも、こんな像はあっただろうか? 

これはセシリア・バルデス像。

シリロ・ビリャベルデの『セシリア・バルデス』はキューバ19世紀を代表する恋愛小説で、サルスエラなどにもなり、映画化もされ、いわば国民的な人気を誇る作品。それの主人公セシリア像だ。副題をLa Loma del Ángel。Lomaというのをどう訳するかは悩ましいところ、坂、というか丘、というか、……まあ、坂、としておこう。アンヘル坂。その上にある教会の前。実はこの教会の裏手が革命博物館なのでわかりやすい場所にあるのだ。


ところで、繰り返すが、このセシリア像、前からあったのか? 記憶にないな……

2017年3月13日月曜日

アースダイバー

昨日は「仕事の合間」にポランコのエル・ペンドゥロに行ったと言った。仕事というのは、たとえば、これ

と、これ

を関連づける仕事だ。

わかるかな? 同じものが見えるはずだ。もっと言えば、こんなもの。

それを補足するために今日は、旧国立予備学校に行ってみた。アルフォンソ・レイェスもホセ・バスコンセロスもオクタビオ・パスも、みんなここの学生だった。回廊形式のすてきな建物だ。ほとんどの壁にオロスコの壁画がある。


パスには「サン・イルデフォンソの夜想曲」という詩がある。サン・イルデフォンソというのが、Antiguo Colegio San Ildefonsoつまりは旧国立予備学校だ。

おまけ:

旧国立予備学校からコレヒオ・ナシオナルの前を通ってアラメダ公園に向かう道は古書店街だ。ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』でフアン・ガルシア=マデーロが通い詰めた古書店街。そのうちいくつか開いた店があり、入ってみたら、猫がいた。しかも4、5匹。

2017年3月12日日曜日

コーヒー&ブックス

仕事の合間に(?)ポランコという高級住宅街の中にあるカフェブレリーア〈エル・ペンドゥロ〉に行ってきた。


で、いずれの店も入った感じはこぢんまりとしていたので、写真で見るポランコの店はもっと大きいのかと思っていたのだが、

……そうでもなかった。このお店にはこのお店なりの理想の店舗の大きさがあるのだろう。吹き抜け、螺旋階段、カフェを取り囲む本屋、という感じを作りたいのだと思う。

買い物をして、それがある程度の額を超えたからかもしれないが、レストランというか、カフェの条件付き割引券をいただいた。条件というのは、次の三択の質問に対する答だと思った箇所を擦れ、正解ならサービスしてあげよう、というものだ。

この写真でもその問いがわかるだろうか? 

「女優にしてモデルのイザベラ・ロッセリーニはハリウッドの大スターの娘ですが、さて、それは誰でしょう? / Aグレース・ケリー、Bローレン・バコール、Cイングリッド・バーグマン」

というもの。15%オフの権利を得た。えへへ。

滞在中にまた行くのか、それはあくまでもわからないが。

ペンドゥロの近くにはガンディもあった。もともと必ずカフェを併設するというコンセプトで広まった書店。ここのガンディには、しかし、カフェがなかった。

何かが決定的に変わったのだなと実感する。


2017年3月11日土曜日

着いた! 

アエロメヒコの東京―メキシコ直行便ではちょうど10日に開幕するグワダラハラ映画祭に行く配給会社の方と乗り合わせ、日本語通訳を兼務するCAは、かつて共通の友人を通じて知り合った方で、そんな知り合いに囲まれていたとはいえ、いつものごとくその行程のほとんどを寝て過ごしたのであった。やれやれ。

ホテルに着いてみたら、部屋にこんなものが用意されていて感慨ひとしおであった。コーヒーメーカーだ。

今回は12-3日(考え方の問題)の旅行で、着替えは4着しか持ってこなかった。そんなものだ。これを3回くらいずつ着ればいい。ホテルにはたいていクリーニングのサービスがあるから、それを利用して、……と思ったのだが、週末を過ごすメキシコ市のホテルは土日はそのサービスはないと言われた。まあ、よくある話だ。それで、若い頃のように、昨日の服は手洗いして浴室に干した。

今回のメインの目的地は、ともかく、そんなわけでハバナだ。キューバなのだ。ハバナでは来週のウィークデイを過ごす。が、それを挟む週末をメヒコで過ごすわけだが、もちろん、その滞在にも目的がないわけではない。


東京外国語大学出版会の企画で、都市についての本を書くことになっている。シリーズ物のひとつとして、僕がメヒコについて書くのだ。半分くらい原稿はできているのだが、ある章について、いろいろと実地に確かめておきたいことがある。それを確かめるのも今回の目的のひとつ。さて、何を確かめるのか? 

(準備のためのノート。これはまあ、あれだな、なんとか細胞のときに話題になった実験ノートのようなものだな……)

2017年3月10日金曜日

行ってきます! 

昨日は学年最後の教授会。その後、退職教員の送別会。

そして今日から僕は出張旅行。

旅のお伴は1冊の本と、いつもとは違う旅のノート。

うっすらと行き先の街の名が読めるだろうか? ふだん使っているモレスキンのノートは置いて、旅行中はすべてをこのノートにつける。読んだ本のことも。

持っていく本は、キンドルのものを除けば、これだけ。イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』四方田犬彦訳(現代思潮社、2017)

本当は書評するので持っていくのだ。そうでなければ、本は現地で調達ということも多い。飛行機の中ではずっと眠っているので、ほとんど読めない。その代わり、向こうではずっと早起きになるだろうから、その間にたっぷり仕事ができるという具合。


行ってきます!

2017年3月5日日曜日

狼狽えるパーフェクション

新聞などが早くも書評を掲載しているので、僕もブームに乗じて:

村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編/第2部 遷ろうメタファー編』(新潮社、2017)

僕は常々、村上春樹はふざけた冗談をたくさん書いているのだが、その割になぜ人はこの作家のおかしさについてもっと語らないのだろうと不思議に思っている。『騎士団長殺し』の笑えるポイントは、いずれも登場人物(人物なのか?)すなわちキャラクターだ。騎士団長と免色渉。

『騎士団長殺し』はそのタイトルから察しがつくように、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を下敷きにしている。そこに上田秋成「二世の縁」(『春雨物語』)が絡み、それが『ザ・グレート・ギャツビー』の設定の前提に立っている、……という話。すぐれたアダプテーションの一例だ。

抽象画家だけど肖像画描きで生計を立てている「私」が妻の柚(ゆず)から離婚を提案され、放浪の旅の後に友人の父の家に住む。友人の父というのが雨田具彦という有名な日本画家で、今では認知症で施設に入っているので、家を維持する必要があっのだ。

「私」はもう肖像画描きはやめるつもりだったけれども、たっての願いで免色渉(めんしき わたる)という人物のそれだけは描くことになる。免色は実は「私」の住む小田原の山の中のちょっと先に見える豪邸の持ち主(ギャツビーなのだ)。

「私」がある日家の中で見つけたのは雨田具彦の知られていない作品『騎士団長殺し』。『ドン・ジョヴァンニ』の例のシーンを雨田得意の飛鳥時代風俗に移し替えて描いた作品だ。同時に、家の裏から鈴の音が聞こえてきて、気になって仕方がないので、「私」は免色とともにその場所にある穴を暴いてみる(上田秋成だ。そのことはテクスト内に明示される。で、この「二世の縁」というのがまたとんでもなくおかしな、笑える話だ)。

それを契機に顕れるのが、自らをイデアと名乗る騎士団長。雨田の絵の中の殺される騎士団長の姿をまとった身長60センチばかりのキャラクターだ。これがともかく、笑える。

僕はかつて村上春樹作品のキャラクター小説化(「キャラクター小説」は大塚英志の言葉)について書いたことがある(柴田勝二、加藤雄二編著『世界文学としての村上春樹』に所収「羊男は豚のしっぽの夢を見るか」)。そのキャラクター小説化のプロセスの果てにたどり着いた、これまでに最強のキャラクターではあるまいか? 

「かまうもかまわないもあらないよな。雨田先生はもうおぼろで平和な世界に移行してしまっておられるし、騎士団長だって商標登録とかされているわけじゃあらない。ミッキーマウスやらポカホンタスの格好をしたりしたら、ウォルト・ディズニー社からさぞかしねんごろに高額訴訟されそうだが、騎士団長ならそれもあるまいて」
 そう言って騎士団長は肩をゆすって楽しげに笑った。
「あたしとしては、ミイラの姿でもべつによかったのだが、真夜中に突然ミイラの格好をしたものが出てきたりすると、諸君としてもたいそう気味が悪かろうと思うたんだ。ひからびたビーフジャーキーの塊みたいなのが、真っ暗な中でしゃらしゃらと鈴を振っているのを目にしたら、人は心臓麻痺だって起こしかねないじゃないか」
 私はほとんど反射的に肯いた。たしかにミイラよりは騎士団長の方が遥かにましだ。(I-350)

な? 『海辺のカフカ』などを思い出すが、もっとおかしいくはないか? 


(ところで、僕はフアン・ホセ・ミジャスの『ちっちゃいやつら』(仮)Juan José Millás, Lo que sé de los hombrecillos という中篇小説を翻訳したいなと思っているのだけど、騎士団長の出るシーンを読みながら、つくづくとこの作品のことを思い出した。ある日、小型の人間が「私」の目の前に現れ、それと感覚を共有することになるという話だ)

それにもましておかしいのが免色さん。

免色がその場所にあった家を強引に買い取ったのは、ある女性の近くにいたいとの思いからのこと。その女性・秋川まりえとの仲立ちを「私」に頼むことになるという筋立ても『ギャツビー』だろ? つまりまりえの肖像を描くように依頼するのだ。その際に、偶然を装ってその現場に現れたいと望むのだが、計算違いから、思ったよりも早く対面することになる。その時の狼狽えようがおかしい。これも『ギャツビー』と言えばそうなんだろうが……

村上春樹の小説にはその生活態度や能力、手回しの良さにおいてパーフェクトな人間が大抵、登場する。少なくとも語り手=主人公にとっては、自分の対極にあるような完璧な人間だ。そんな完璧な人間が、その完璧な手回しによって語り手=主人公を意図しない邪悪な世界に引きずり込むのだ。今回。免色もそんなところがある。独身で豪邸に住み、あらゆることを完璧にこなす。そして自らの欲望を達成するために他者を巻き込んでいく。


しかし、そんな完璧な存在であったはずの免色が、秋川まりえを前に狼狽え、ドジを踏み、顔色を変えるさまはおかしい。笑える。長いから引用はしないが、ともかく、そんな狼狽えぶりで完璧のほころびを見せる免色の存在が主人公と取り結ぶ関係も、そんなわけで、いささか特異なものになっている。それがとても気になるところ。

2017年3月1日水曜日

2月は終わるのが早い

2月の最後の2日はブカレスト大学(およびハーヴァード大学)からゲストを招いての講演会だった。

これは東大がやっている、新日本学という試みで、ハーヴァード大学のデイヴィッド・ダムロッシュ(『世界文学とは何か』)さんを読んで集中講義をお願いしているのだが(本日まで)、それに合わせて、ダムロッシュさんのハーヴァードのIWL(世界文学研究所)での右腕たるデリア・ウングレアヌさんも同行し、ダムロッシュの授業の後に講演をしていただいたというわけだ。彼女が今年中に出す予定のFrom Paris to Tlôn: Surréalisme as World Literature(Bloomsberry)には、うかがったところ、かなりな発見が盛り込まれていて、楽しみなのだ。

で、その彼女が27日はユルスナールとタルコフスキーおよび黒沢の隠れたコネクション、および発想の共有という話をし、昨日28日はルーマニアのシュルレアリスムの系譜に連なる作家ミルチェ・カルタレスクについて話した。昨日は同僚の阿部賢一さんが司会を務め。27日は僕が司会を務めた。27日は、ちょうど東大を訪れていたツヴィカ・セルペルさんからの黒沢のフィルムの発想源についての、専門家ならではの鋭い質問なども飛び、盛り上がった。写真は沼野充義さんが撮ってくださったもの。

さて、話は変わって、4月から、こんなことをやるようだ。立教のラテンアメリカ研究所が主催している「ラテンアメリカ講座」で文学についての授業を行う。具体的には何か最近の文学作品を皆で読むという形式だが、よかったら、どうぞ。


向こうに映っているのはレトルトの黒豚カレー。先日の結婚式の引き出物にいただいたカタログ・ショッピングで得たもの。このところ、スーパーのレトルト・カレーの豊富さに驚き、時々、昼食などでいろいろな味を試していた矢先だったので、カタログでもこれを買ったのだ。

2017年2月20日月曜日

金に糸目はつけない

最近、こういうのを導入した。

フレンチプレス。コーヒーを作るのだ。こうやって。

原理……というか用法としてはお茶と一緒。コーヒーを入れ、お湯を入れ、一定時間待ってから、プレスする。

ペーパーフィルターよりもコクが出て、うまい。金属フィルターのように澱が出ることはない。少なくとも大量に出ることはない。まだペーパーフィルターが余っているのだけれども、最近はすっかりこればかりだ。

コーヒーのためなら金に糸目はつけない。新しいマシンでも何でも、コーヒーのためならば導入する。


ただし、これは2,000円ばかりだったけれどもね。こんな値段である限り、金に糸目はつけない。

2017年2月15日水曜日

今日が映画の日だとは知らなかった

上京してすぐに住んだ国分寺のアパートのすぐ近くには映画館があった。映画館といっても2番館で、2本立て、3本立てで好きなだけちょっと古い映画が観られるという場所。暇があって金のない僕は、よくここに通った。大島渚の『戦場のメリークリスマス』などはここで観た。が、その映画館でかかっている映画の大半は日活のロマンポルノだった。ポルノ専門館ではないけれども、ロマンポルノがかかることが多かった。ちょうど当時はポルノ出身の女優(白川和子、風祭ゆき等々)が一般の映画やTVドラマに欠かせない存在になっていたり、ロマンポルノ出身のアイドル(美保純とか)が出たり、逆に普通のアイドル女優(早乙女愛など)だった人がポルノに出たりしていた時期で、ここや、東映のピンク映画上がりの若い監督が一般作品で名を挙げ始めたころでもあって、日活ロマンポルノの潰える直前の最後の輝きがみられた時代だったという次第。1983年のこと。

根岸吉太郎『キャバレー日記』竹井みどり主演、なんてのは印象深いのだ。

だから、日活が「ロマンポルノ・リブート」などと称して、行定勲や中田秀夫ら5人の監督の撮るロマンポルノの企画を打ち出した時には、1本くらいは観ようかな、などとぼんやりと考えていたのだけど、今日、思い立って園子温『アンチポルノ』を観てきた。

映画の日だった。新宿武蔵野館の100席に満たないスクリーン3とはいえ、ほぼ満席だった。女性客もかなりの数いた。

周知のごとく、ロマンポルノが面白かったのは、10分に一度濡れ場を入れるという制約さえ守れば何をしてもいいという自由さを大いに生かし、若い監督たちが撮りたいストーリーを思う存分に撮っていたからだった。園子温もその制約=自由を逆手に取り、男の作った「自由」に苦しめられる少女の自我の叫びを撮った。

隷従と鞭打ち(つまりSM)、レズビアン、近親相姦、両親の性交現場の窃視、そしてスカトロまで、ポルノ映画と性のオブセッションに纏わる記号をこれでもかというくらいに挿入しながらも、基調はペドロ・アルモドバル的原色の内装の部屋で繰り広げられるルイス・ブニュエル的反復脅迫の悪夢、どんでん返しによる主従の転換(主人と奴隷の弁証法)なのだった。「10分に1度の濡れ場」の制約も、過ぎ去ってしばらくしてから、そうか、そういえばあれは濡れ場なのか、と気づくものも多く、つまりは、ロマンポルノが脱構築されているのだ。


閉ざされた空間でのセリフ劇だからだろうか、さすがに舞台出身の筒井真理子の存在感が水際立っていた。さすがなのだ。

2017年2月14日火曜日

死んでも『ジュリエッタ』と呼ばないために

日本の一部の映画配給会社の横暴(控えめに言って横暴、僕の本音をいえば人権意識の欠如)には腹に据えかねるところがあって、あれだけハリウッドからも引く手あまたでありながらスペインに、とりわけマドリードの市井の人々の語りに強くこだわるペドロ・アルモドーバル(あるインタヴューでも語り口の重要性を彼は語っていたのだ)が、いかにアリス・マンローの原作とはいえ、スペインを舞台に脚色した映画の、いかにもスペイン風のその主人公と同名のタイトルJulietaフリエータを、どこにもない名前の音に変えるなど、監督への冒涜も甚だしいのだ。

そんな風に腹を立てていたら最初の公開時期に見損なってしまった。それが早稲田松竹で『トーク・トゥー・ハー』との2本立てでやっていたので(早稲田での非常勤の仕事帰りに前を通りかかり、知った)、今日はダリーオ・グランディネッティ祭だとばかりに見に行ってきた。

何度も見ているのに、『トーク・トゥ・ハー』(このタイトルにもいろいろと言いたいことがあるぞ)でアリシア(レオノール・ワトリング)に意識が戻っていたことが発覚する瞬間には泣きそうになる。

さて、問題の『フリエータ』(スペイン、2016)

2人の人間(列車で話しかけてきた見知らぬ男と夫)を自分の素っ気ない態度がもとで死なせてしまったかもしれないという罪の意識から抑鬱症を患い、娘に助けてもらったと思っていたら、実はその娘は周囲の者からいろいろと聞いていて、ずいぶん複雑な思いでいたらしい。その娘の心理を描かずして(ただ不在によってほのめかす)葛藤から和解にいたるまでを語るという、実に繊細な話。

恋人ロレンソ(グランディネッティ)とリスボンで新生活を始めようとしていたフリエータ(エマ・スワーレス)が、街角で娘アンティーアの親友ベアトリス(ミシェレ・ジェネ)と行き違い、スイスでアンティーアに会ったと告げられる。それで思い直し、マドリードの昔のアパートに引っ越して、娘に向けて彼女の父親との出会いから今までを手記に書きつける、という形式。回想の中の若いフリエータをアドリアーナ・ウガルテが演じている。

列車で話しかけてきた男を避け、避難した食堂車で漁師のショアンと知り合い、男の自殺にほだされ関係を持ったフリエタは、代用教員の時期が終わると誘われてガリシアのショアンの家へ。寝たきりになっていたショアンの妻は死んだところで、そのままそこに住みつき、子どもが生まれ、家庭を持つ。ところがショアンは寝たきりの妻の目を盗んで昔からアバ(インマ・クエスタ)と関係を持っていたらしい。そのことをほのめかされ、問い詰めると、ショアンは漁へ。その日、難破して死んでしまう。娘のアンティーアが夏期キャンプでベアトリスと仲良くなり、マドリードに訪ねたついでに、そのまま転居、出版社の校閲係をしながら鬱病と闘ってどうにか立ち直ったと思ったところで、アンティーアはピレネーの山に瞑想生活に出て、そのまま行方をくらます……という展開。


マドリードのアパートが2種類出てくる。いかにも近代的で無機質、白く、IHコンロなのと、昔ながらの石造り、木の扉が重々しく、壁もみずから塗り替えて住むようなもの。フリエータはそのふたつを棲み分けることになるのだが、やはり、後者がいいのだ。

フリエータが古典文献学の教師だというところがいい。

ロッシ・デ・パルマが出ていた。


早稲田松竹の帰りは高田馬場のオムライスlabo でテキサス・オムライス(ハンバーグつきということ)を食べた。ハンバーグとオムライスって、……好みがどれだけ若い(幼い)のか。

2月14日はふんどしの日だそうだ


フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』木村榮一訳が、新たに翻訳された短篇ふたつを含む文庫本になって河出書房新社から出版された。めでたい。

何年か前(ひとつ前の記事の花嫁が3年生の時)、ゼミで同じ作者、同じ訳者の『狼たちの月』とこれを読もうということになったとき、まだ発売1年にも満たなかったソニーマガジンズの親本が既に手に入りにくい状態になっていて、ずいぶん面食らったことがある。こうして文庫本になってくれると学生にも勧めやすく、助かる。

が、そんなことより、今はこれ:

佐野勝也『フジタの白鳥――画家藤田嗣治の舞台美術』(エディマン/新宿書房、2017)

著者の佐野勝也は大学時代の先輩だ。大変な人だったので、僕は晩年、少し距離を置いていたが、ともかく、一時期、一緒に仕事をしたりした仲には違いない。そんな佐野さんの絶筆。早稲田大学に提出した博士論文を本にすべく書き直している途中、亡くなった。

冒頭に日本における『白鳥の湖』初演の舞台美術をフジタが務めたことと、その経緯、そしてその舞台の詳細が紹介される。それから時代を遡ってパリ時代にバレエ・リュスやバレエ・スエドワらに関わり、どんな活動をしたかが順に述べられる。そして日本時代、ミラノのスカラ座での『蝶々夫人』……

どれも貴重な資料に裏付けられた記録で、画家フジタのこれまで知られてこなかったもうひとつの顔が明かされている。図像もふんだん。

フジタのことはカルペンティエールも折に触れて書いている。パリ時代、彼らは面識があったはずだ。少なくとも同じ場に居合わせたことは何度となくあった。そしてリオデジャネイロで個展を開いた1931年にはアルフォンソ・レイェス夫妻が彼に似顔絵を描いてもらって喜んでいる。


フジタは当時既に生きる伝説だったのだ。ピカソのように……

2017年2月12日日曜日

パレス・ホテルは本当に宮城の目の前だった


今日は外語時代の教え子の結婚式。

行ってきた。

新婦はちょうど3.11の地震の時に卒業を控えていた人物のひとり。地震直後には、以前ブログに書いたように(リンク)節電と称してピクニックに誘い出してくれたりしたのだった


僕は6年前のこの日、彼女たちの生き方にたいそう感心したのであり、爾来、彼女たちを尊敬してやまないのだ。そんな彼女たちのひとりが結婚するとなれば、嬉しくもあり寂しくもあり、ともかく祝わないではいられないのだ。

よくあることとは言え、披露宴のテーブルには新婦の手書きのメッセージが置いてあった。でもそこに、そんな彼女から「ピクニックも楽しかった」などと書かれていたら、泣いちゃうじゃないか。


メガネをかけずにテーブルに着いてよかった。泣かずにすんだ。

2017年2月7日火曜日

立ちたいとき

昨日は大学院修士課程の二次面接だった。

さて、昇降式の机を買ったからといっていつも立って仕事をするわけではない。それならばスタンダップ・デスクを買うだろう。あくまでも立ったり座ったりしながら仕事がしたいということ。

立って仕事をすることは体に影響することには違いないのだが、立ちたくなるのは精神的な理由。

1) 朝、仕事を始めるときには立つのがいい。

2) たまったメール、返すのが億劫なメールは、立つと書ける。

3) 座っていて興が乗ると、立つといい。「興が乗る」サインは太腿のあたりがムズムズしてくること。これまでは、そんな時、僕は席を離れて水を飲みに行ったり(喫煙していたころは)タバコを吸いに行ったりしていた。

4) 逆に、行き詰まった時も、立つと打開できることがある。

5) 気乗りしない、なかなか集中できない読書には立つのがいちばん。

……しかし、こうして列挙してみると、なんだか常に立っているのがいいと言っているみたいだ……


2017年2月2日木曜日

僕らのZ、永遠のZ

昨日取り入れた昇降式の机。今日は終日大学にいたので、使い心地についてはまだなんとも言えない。

しかし、ひとつだけ言えることがある。昨日のあの体制では、僕の考えた書斎改革にとって欠けているものがあったということだ。

それは何か? 

これだ:

高校時代からずっとゼットライトを使っていた。机の縁にひっかけて、アームを曲げたり伸ばしたりできるあのライトだ。

僕が使っていたのはシェードの丸いやつだった。

ところがある時、今より広い家に住み、大きな机を使っていたころ、卓上に置く大きなライトに換えた。机の配置から、その方が都合がよかったからだ。ライトもだいぶ歳取ってくたびれていたことだし。

その後、生活を縮小し、机も小さくなった時に、そのライトが大きすぎて、小さなLEDライトを買った。昨日の写真に写っていたやつだ。

決して悪くはない。が、やはり照らし出す範囲が狭すぎる。

で、もうだいぶ前からゼットライトが恋しくなっていたのだった。ゼットライトなら、右端で作業していてもアームを伸ばして照らし出すことができる。PCに対して逆光にならないように光の向きを変えることもできる。

昇降式の机とともにゼットライトに換えるぞ、と思っていたのだった。が、昨日、机が届いたのが夕方だったので、もうゼットライトを買いに走るには遅かった。仕方がないので、今日、生協で買ってきたのだ。ゼットライト。LEDのやつ。シェードは横長のやつ。

机の上が見違えるように明るくなった。これまで使っていた机より、奥行きが少し深くなったので、恩恵はますます顕著だ。


さ、仕事仕事……

2017年2月1日水曜日

夢が叶った? 

自らを不遇だと思っている人間は環境を嘆き、自身の不遇をそのせいにする。こんな国に生まれなければ、こんな職場でなければ、こんな学校にいるから、こんな家では……等々。

仕事上のツールも環境の一部だ。こんなトロいPCでなければ、この楽器では、この鞄がつらい、鉛筆が手に合わない……等々。

裏を返せば、こだわりとは、こうした不平を言わないための予防線だ。住みやすい家、働きやすい仕事場、理想の書斎、手に馴染む万年筆……等々。

僕は、自分では環境適応能力が高い方だと思うので、あまり環境に対するこだわりはない。どこでもいつでもやりたいことをやるだけ、という姿勢。

が、仮にも住むため部屋を持っている(先日、ある女性に「すてきな部屋ですね」と感心され、有頂天になっている)。そこには仕事をするための机がある。机に座って仕事をしていると、体が疲れてくる。

……

ヘミングウェイは立って執筆していた。ゲーテも立って執筆していた。

ヘミングウェイもゲーテも、それほど好きではない。

サイードも立って読む姿がある写真から確認できる。

立って執筆したいのだ。いや、僕は怠け者だから立ってばかりだと疲れて、やがていやになる。そんな時には座って仕事をする。立ったり座ったりとどの姿勢でも仕事ができる環境が欲しいのだ。


その後、折りたたみ式の小さなテーブル(卓袱台と言いたい)を必要とあらば机に載せて立って書き、それを取り払って座って書き、していた。しかし、まあ、それも面倒だ。

でも、ともかく、立ったり座ったりしながら書ける机が欲しいというのが、僕のここ数年のオブセッションだったのだ。教え子の中にはオフィスの机がそうであることを自慢している者もいて、うらやましさに身を捩る思いだったのだ。

で、ふと気づいてみれば、国産メーカーでも昇降式のデスクを作っているところはあったのだった。僕が数年前に夢見始めたころにはなかったと思ったのだが、今では、アマゾンでだって買える。

そんなわけで、買ってしまったのだ。昇降式の机。えへへ。月賦だけどね。

わかるかな? 椅子の高さと比較してくれればどれくらいの高さかわかると思う。

さあ、これで、体の凝りも解消して、バリバリ仕事をするぜ! たまった仕事も、すぐに片付くぜ! 

……だといいな。


今まで使っていた机は、こうして、本棚の前に置き、当面の仕事に使う資料などを置くスペースとなる予定。

追記: こんなふうに並べた方がわかりやすいかも。


2017年1月14日土曜日

教えることは誘惑すること

町山智浩『映画と本の意外な関係!』(インターナショナル新書、2017)は、「意外な関係」などと俗情と結託したタイトルをつけているけれども、「意外」でもなんでもなく、どんどん論じ欲しい論題。映画で引用される書物、あるいは映像に映り込み、登場人物が読んでいる書物からそれぞれの映画を語るというもの。フェデリコ・ガルシア=ロルカやランボーの詩から『気狂いピエロ』を語るようなものだ。町山は取り上げていないけれども。このコンセプトで、実際、町山の取り上げなかったフランス映画やイタリア映画、ロシア映画、スペイン映画など、シリーズ化して欲しいくらいだ。

このコンセプトで論じたくて仕方のない映画を、ついでに、見てきた。


これがフィクションだとわかってしまえば、詩と詩神ミューズ、恋愛を講じるバルセローナ大学のイタリア人文献学教師ラフェル・ピントが、教え子と次々関係を持って妻にばれる、という話で、たまたま会場で会った教え子(男)など、出しなに「先生はあんなことしちゃいけませんよ」などと言ってきたわけだが、そんな不倫のストーリーがゲリンの手にかかると実に緊張感を孕んだ実験映画になるのだからすごい。

最初のシークエンスはピントの授業。ダンテ『神曲』地獄編第五歌のフランチェスカとパオロのエピソードを取り上げ、『アベラールとエロイーズ』にも話を広げたりしながら、恋愛とミューズを熱く語っている。次のシークエンスでは受講生のうちのふたりが、授業でのテーマを取り上げ、自分の恋愛に絡めながら議論している。そしてピントと妻らしい人物が自宅のリヴィング兼書斎で、議論している姿が窓の外からのカメラに収められる。『シルビアのいる街で』で素晴らしい効果を発揮した、外の映像の映り込むガラス窓と、それに遮られる室内の映像だ。妻は、恋愛なんて作り物だから、あなたの言うミューズによる女性のエンパワーメントなど無意味だというような反論をしている。

さらには次のシークエンスではピント教授は、妻の意見に感化されたかのように、恋愛は文学作ったものだというドニ・ド・ルージュモンのような話をして、学生たちから意見をもらっている。

……この辺で気づくべきだったのかもしれない。これはこれら恋愛と文学との関係をめぐる文学を下敷きにしたフィクションなのだと。ところが、ここまでの雰囲気から、観客はこれがピント教授の授業を題材にしたドキュメンタリーではないかと思ってしまう。だから受講生のひとりローザとサルデーニャ島に取材旅行を装った不倫旅行に行くシークエンスでも、最初はすっかり研修旅行か何かかと勘違いするのだ。

それにしてもこのサルデーニャ旅行のシークエンスは素晴らしい。牧童たちが自然と一体化し、その声を聴き、それを音楽に表現し、そしてまた身内の者たちを記憶するために詩作を実践していることが語られ、歌が歌われ、詩が詠まれる。象徴派の詩人たちの目指していた万物照応(コレスポンダンス)というやつの可能性がこうして今も生きているのだ。しかも知的な詩としてではなく、生活に根ざした民衆詩として。映画全体から独立してこのシーンを見るためだけに見てもいいくらいだ。

ストーリーに戻れば、そんな話をしてくれた牧童にすっかりうっとりしたローザは、どうやら彼と関係を持ったらしく、ピントから嫉妬されるのだが、性描写などは一切なく、キスシーンすら挟まずに、ただほのめかすだけで男女の関係を語るものだから、まだこれが作られた物語だとは気づかない。

……そんなふうにして観客は詩と自然、詩と愛とをめぐる大学教師の知的探求についてのドキュメンタリーかと思いながら、いつまでも騙されて見続けている。そしてこれがフィクションだとわかった瞬間に、何もかもがおかしくて仕方がなくなる。少なくとも僕は途中からくすくす笑っていた。終わってすぐにまた最初から見返して、笑いそびれた箇所を笑って借りを返したい気分になる。


ダンテらをバルセローナ大学で講じるピント教授の授業ゆえに、イタリア語、カタルーニャ語、スペイン語が入り混じる。ヨーロッパの多言語状況も見逃せないバックグラウンドだ。これだけ独立して見たいと言ったサルデーニャ島では、たぶん、トスカーナ語とは異なるサルデーニャ語も発されている。サルデーニャ語にはamoreという語はない、amoreは翻訳不可能なのだ、サルデーニャ人たちはイタリア人以上に愛するというのに、なんてな科白も実に印象的。

2017年1月7日土曜日

ついに牧人気分


タコス・アル・パストールのレシピだ。

タコス・アル・パストールは大好きだ。メキシコに行くたびにこれを食べないうちは帰れないという思いで街に出る。この動画ではわからないが、店頭ではケバブの店のようなロースターでこの肉を焼いていて、その場で削って出しくれるのだ。

おいしそうだろう?

ところが、東京のタコス屋ではこれを出す店がめったにない。ちょっと前に金沢に行った時にこれを出していただいて、そんなわけで、感激したものだ。

で、漠然と、そのうち作りたいな、という思いが募ってきた。友人が作って食べさせろと催促することだし。


同じアマゾンでアル・パストールの食材のうち、スーパーなどではめったにお目にかかれないベニノキAchioteも売っていることを知った。それからグワヒージョ唐辛子も。(ただし、レシピではパウダーになっているが、これは唐辛子そのもの)これらを注文してみた。トルティーヤのプレスはまだ踏ん切りがついていない。

食材が届いたら早速作りたくなるのが人情というもの。作ってみた。サルサ・ベルデのためのグリーン・トマトなどまで手に入れるのが面倒なので、普通のサルサでいいか、と思った。くやしくて仕方がないのだが、同じくアマゾンでタコス用の小ぶりなトルティーヤも注文した。これはまだ来ない。

さて、肉は準備できた。が、サルサに入れるハラペーニョがないことに気づいた! まあいいや、明日考えよう。


目が覚めた瞬間、閃いた。駅ビルには成城石井があるのだった。成城石井ならハラペーニョくらいあるだろう。

案の定、あった! 

そして、小麦粉のトルティーヤも。

どうしよう? 小麦粉だと雰囲気が出ないし、この大きなサイズも、タコス用じゃないしな……でもアマゾンに注文したトルティーヤはまだ来ない。

いいや、背に腹は代えられない。

で、ハラペーニョと小麦粉のトルティーヤを買ってきた。そして、完成。

う、……うまい!

自分で作ったというひいき目はあろうが、それにしてもうまい! 


市販のカゴメのサルサをかけてみたもの。これもうまい。

2017年1月4日水曜日

大掃除せずに散乱してしまった

数日前からある本を探していた。

僕は根が軽薄なせいか軽い小さな本に愛着があって、自分でも100ページに満たないような本を書きたいものだと思っているのだが、日本の本はなかなかそんな短いものがない(詩集などを別にすれば)。で、僕自身が書くか書かないかという問題ではなく、そんな薄い本をけっこうたくさん持っているのだ。その中でもとりわけ小さな本のシリーズのうちの1冊を探していた。メキシコのフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社(FCE)が出しているCentzontleというシリーズの1冊だ。

こうして見つからない本を探していると、見つからないなりに自分の蔵書を再発見することになる。

こんな風に傍線や書きこみを見つけて、俺はちゃんとこんな本を読んでいたんだな、と改めて過去の自分の勉強熱心さに感心したり(当時の特徴で線が細いので、写真ではよく見えないかも)。ちなみにこれはフーコーの『監獄の誕生』。この間、ある文章でフーコーの名を挙げたので、不安になって見てみたら、ちゃんと読んでいたのだよ。

僕が持っている中でももっとも奇妙なのが、この本。エメ・セゼールの『奇跡の軍』
              
ところが、中を開けてみると……
              
ブルトンの『ナジャ』!

なぜ買う前に気づかなかったのだろう、この世紀の乱丁!?

まあいいや、欲しかったのは、これ:
               
Benito Pérez Galdós y Manuel Gutiérrez Nájera, Tranvías (México: FCE, 2004)

わずか80ページ。ペレス=ガルドスとグティエレス=ナヘラが書いたトラムを巡る短篇をひとつずつ収めたもの。

ペレス=ガルドスはマドリードの都市化に敏感だった人で、マドリードを舞台とした彼の小説にはその様子が生き生きと読み取れる。1870年代に始まるマドリードのトラムを、そんな彼が小説に取り込まないわけはない。かつて僕が一篇まるごと訳を作り、送付したのに、編集者とのやりとの勘違いでいまだに活字化されていない『トリスターナ』(もちろん、ブニュエルの『哀しみのトリスターナ』の原作)でも、ドン・ロペがトリスターナの浮気の噂を聞くのはトラムの中だった。当時はまだ二頭立ての馬が動力だったはずなので、路面電車ではないトラムだ。ブニュエルの映画化作品は、舞台を同時代のトレードに移しているので、トラムなどは現れない。


日本の文庫本より少し大きめの版に総ページ数80。こういう本って好きなんだけどな。

2017年1月3日火曜日

サンタが家にやって来た

去年のクリスマス(の1日前)のこと。サンタがうちにやって来て、置いてってくれた。

Herzのトートバッグ。いろいろとどっさりと荷物を放りこむものが欲しいなと思った次第。L.L.Beanのキャンヴァス地のトートも持っているのだが、Herzのものも欲しかったのだ。

そしてもうひとつのプレゼント。

ファーバー・カステルのシャープペンシル、エモーション。芯が1.4mm。

下にあるのは『セサル・バジェホ全詩集』松本健二訳(現代企画室、2016)。もうすぐこれについて軽い話をしなければならないのだ。

で、スペイン語版の『全詩集』と並べてみた。


さ、仕事、仕事……

2017年1月1日日曜日

正月が休みだなんて誰が言ったのだ?

あらゆる読書指南書が言わずして絶対に言うひとつアドヴァイスがある。それは明言はされないことの方が多いので、気づいていない人もたまにはいるかもしれない。けれども、本当にあらゆる読書論が言っているのだ。いや、言わずして勧めているのだ。それはどういうことかというと、すべての本は始めから終わりまで順に、しかも細大漏らさず読む必要はないということだ。逆に多くの本は飛ばし読みし、斜めに読み、必要な情報だけを得るのに使えばいいということ。中には「速読」などの語で言っているものもあるが、雑誌広告やある種の本に謳う「速読」はまた少し別の技術なので、今問題になっているのは要するに、斜めに読むということだ。斜めに読む技術と、じっくり読む技術とが必要だということ。
(ただし、小説や詩は別だ。これはパラテクストを眺めた後にはゆっくりじっくり読まなければならない。でもその小説すらも速度を変えたり順番を変えたりしながら読んだってかまわない。まあこれは別の話)

斜めに読むということは、まずはタイトルと紹介文、序文、あとがき、目次、文献一覧などのパラテクストを見て内容にあたりをつけ、後は飛ばし飛ばし読むということだ。飛ばすということは、段落の始め(とせいぜい終わり)だけを読んだりして内容を追うということだ。しかる後に、必要な段落、節、章を一字一句じっくりと読む。

ということは別の立場から言えば、こういうことだ。本は、たいてい読まれる本は、段落の最初(とせいぜい最後)を読めばその段落の中身がわかるようにできている。つまり、パラグラフ・ライティングが大抵は端正にできているものが、商品としての本になる。

さらに立場を換えて言えば、あるひとつの悲しい命題に行きつく。我々は飛ばし読み、斜め読みされる文章を書いてはじめて一人前だということだ。

多くの論文指南書などにパラグラフ・ライティングのことが書かれている(いや、実際には多くはない)。ひとつの段落はひとつないしはふたつのキーセンテンスと、それを説明する文章とから成り立つ10行ばかりの単位でなければならない、と。つまり、(とは書かれないことが多いが)急いでいる人にはそのキーセンテンスだけ読んでもらえば話がつながるような文章を我々は書かなければならないのだ。読み飛ばされる運命だ。

実際、読者としての僕らは、日々読む本を決めるため、仕事に必要な箇所を探すため、潮流に追いつくため、等々、いろいろな目的で膨大な量の活字を斜めに読み、分類する。1)読まなくていいもの、2)内容だけ把握していればいいもの、3)一部をじっくり読みたい/読まなければならない/読めばいいもの、4)全部をちゃんと読みたい/読まなければならなもの、等々と。

さて、正月は大学教師にとっては地獄の季節だ。そろそろ授業も終わるので試験やレポートのことも考えなければならない。その前に予習が尽きてきて、最後の一踏ん張りをしなければならないかもしれない。授業は休みなので、他の業種の人は我々を暇だとみなし、あれこれと言ってくる。大学業務以外でたまった仕事もある……しかし、なんと言っても我々がこの時期忙しいのは、卒論(や大学によっては修士論文なども)を読まなければならないからだ。仕上がってきた卒論も読まなければならないだろうが、この時期は何と言っても、年明けに締め切りを控え、ラストスパートをかけている卒論執筆者の草稿などを読み、添削し、アドヴァイスしなければならないのだ。

卒論や学会誌投稿論文などを審査する場合も、僕らはまず、斜めに読む。ただし、分類するためでなく、今度はこの斜め読みで内容が把握できるかどうかを確かめるために斜めに読む。これは上の「悲しい命題」から引き出される当然のやり方だ。斜めに読むことができないものはできの悪い論文なのだ。そして、しかる後に批判的にじっくりと読み直す。

たが、残念ながらこの「悲しい命題」は「悲しい命題」であるがゆえに、これを正視し、このことを納得している学生はそう多くはいない。こちらの日ごろの指導が至らないという理由もあるだろうが(でもなるべくパラグラフをしっかり書くように言っているつもりなんだけどな)、ともかく、やはりまだまだ文章作成になれていない学部学生の卒論草稿などは、斜めに読むことができないものが多い。パラグラフ・ライティングができていないものが多い。で、全部とは言わないまでもいくつかを実際に書き換えてみて、こんな風にするのだぞ、と言ってみるのだが、……これが実は根気と時間を要する作業なのだな。

やれやれ、本当に正月は忙しい。こんな文章を書いている暇なんかないんだけどな……

今年は4冊ばかり著書を書き終える予定。そうしたい。そうしなきゃ。頑張ります。ちゃんと読み飛ばされるような文章を書きます。


でも本当は悲しい命題にはその先があって、読み飛ばそうと思えば読み飛ばせるのだけれども、もったいないから一字一句読みたくなる文章というのが、僕たちが目指すべき場所でもある。第2段階の目標だ。そんな本を書きます。