2017年3月30日木曜日

響き渡る鳴き声、染みいる悪意

坂手洋二作・演出『くじらの墓標2017』燐光群@吉祥寺シアター。楽日前日のマチネで見てきた。

若い頃の作品だけあって、主人公が若い。藤間流の舞踊もやれば、徳之島というルーツに従って島唄のウタシャもやるという客演のHiROと宗像祥子のカップルの婚約を契機とする物語だ。

死者の召還の物語とも言えるし、いわゆる「夢落ち」かと思いきや、そこに悪意のこもったもうひとひねりがあって、中孝介を彷彿とさせるいかにもウタシャらしいHiROの悲劇的な声と乾いた声で単なる清純派などではあるまいぞと存在感を示す宗像祥子のコントラストがいい効果を上げていたと思う。

事故で入院して回復期にあるらしいイッカク(HiRO)は、クジラ漁師の家系の7人兄弟の末っ子。その彼が婚約することになり、田舎から母代わりの叔母タツエ(中山マリ)が上京、すると20年前に死んだと思っていた兄たちが現れて、故郷に帰ると言い出す。

話を聞いていると彼らはクジラ漁師というよりはクジラの化身のようでもある。クジラ漁師はかつて陸に上がったクジラの子孫なのだという、まるで神話のような話が提示されて、その曖昧な存在に説明がつけられる。さらには、えびすと呼ばれるある種神話的クジラとの取り決めによる贈与を仲立ちとした関係を維持するために死んだことにして姿を隠していたのだとも。きっと日本式捕鯨文化にまつわるさまざまな伝承などに依拠しているのだろうが、こうした設定によって劇全体のトーンがぐっとファンタジックになっている。そこがこの作品の面白いところ。


もちろん、クジラの話だから、最後はクジラとの対決もある。ファンタジックなだけでなく、思いの外スペクタキュラーでもある。もちろん、クジラそのものが出てくるわけではないけど。

2017年3月27日月曜日

映画を観ようとは言うけれど……


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シネ(cine)はいつから女性名詞になったのだろう? 思わず辞書を引いた。

やはりcineはあくまでも男性名詞だ。cinemaもそう。であるならば、当然シネ・エスパニョールcine español であるべき。

はて? なぜこのような事態が起こるのか? 

思い浮かんだのが、サッカーのスペイン・リーグ、liga españolaリーガ・エスパニョーラの単語としての定着。名詞と形容詞の性を持たない日本語話者が、それで、「スペインの」という形容詞は「エスパニョーラ」なのだろうとの理解したのでは、との推論。

他に類似の例があるだろうか? 

と思ったときに思いついたのは、逆の例。鈴木亜美が「アミーゴ」を名乗った例だ。アミの音からの連想なのだから「アミーゴ」でも「アミーガ」でもよかったはずだ。むしろ女性だから「アミーガ」であって欲しいところ。それなのに「アミーゴ」に落ち着いたのは男性名詞のそれが定着してしまっていたからなのだろう。

そう考えると、リーガ・エスパニョーラはよくぞ「エスパニョーラ」と女性形になったものだと思う。つまり、定着と呼べるほどかどうかはわからないにしても男性形「エスパニョール」の語はある程度流布していたように思うからだ。

おそらく、従事している人がどれだけスペイン語に敬意を抱いているかの問題なのだろうと思う。映画界におけるスペイン語軽視は本当に悲しいほどである。

たとえばこの「シネ・エスパニョーラ2017」の作品ラインナップを見るといい。

『ザ・レイジ 果てしなき怒り』
『インビジブル・ゲスト 悪魔の証明』
『クリミナル・プラン 完全なる強奪計画』
『クローズド・バル 街角の襲撃手と8人の標的』
『キリング・ファミリー 殺し合う一家』

……教えていただきたいのである。こんな立派な、すてきな副題をつけるなら、なぜそれだけでだめなのか、よりによって英語(風)転記のカタカナをつけなければならないのか、なぜここがスペイン語であってはならないのか。


単にスペイン語軽視というだけでなく、明らかにある時から映画タイトルはおかしくなってきたのだが、今、おそらく、人はそれをおかしいと思う感覚が完全になくなっているのだろう。

2017年3月22日水曜日

最後の日は映画を観よう

帰国した。

帰宅した。

ホテルのチェックアウトが現地時間20日(月)13:00。飛行機の出発予定時刻が21日(火)1:01。早い話が、20日の深夜(感覚)。時間ぎりぎりにチェックアウトしても12時間、飛行機へのチェックインがぎりぎりでも10時間ばかりの時間がある。最終日だという意識があるし、ホテルも発っていることなので、なんだか手持ちぶさた。とても困るのだ。

前の晩、ちょっとした仕事でメキシコに滞在していた教え子とアルゼンチン料理など食べながら、映画の話をし、映画を観るのがいいのじゃないかと勧められた。

なるほど! 

こんなそわそわと落ち着かない日でも、映画は観ているうちに集中する。集中するけれどもある時間が来れば終わるから、熱中しすぎて時間を忘れ、取り返しのつかないことになることもない。ちょうど国立フィルムライブラリーCineteca Nacionalでは『ネルーダ』と『ジャッキー』、つまりパブロ・ララインの2作が観られるぞ、と……

シネテカは特集上映などのみならず、今では新作の上映もするし、今はキューブリックの展示会とか、そんなものも行っている。シネコン並みにネット予約もできる。スクリーン数も増えた。そして休日だった20日(月)は、実際、シネコンのように客がたくさん来ていた。『トレインスポッティング2』のチケットもう買えないんだってよ! なんてやり取りが聞こえてきた。

さて、14:00から『ジャッキー』を観て18:00から『ネルーダ』を観れば、終わるのは20:00少し前。そこからホテルに引き返して預けていた荷物を受け取れば理想的だ! どうせ飛行機の中では寝てばかりで映画など観られないのだから、その代償に、最終日は映画を観よう。

……と思ったのだが、ちょっと本屋に寄ったりしている間に、『ジャッキー』は16:00からだと記憶が書き換えられ、見損なってしまった。その代わり、パトリシオ・グスマンの『真珠のボタン』を再見。素晴らしい作品であることを再確認。

『ネルーダ』(アルゼンチン、チリ、スペイン、フランス、2016は上院議員になったネルーダ(ルイス・グネッコ)が大統領ガブリエル・ゴンサレス=ビデーラ(アルフレード・カストロ)を敵に回し、地下活動に入り、ついで亡命を余儀なくされたころ(1948-)を扱い、その詩人を追跡する警官オスカル・ペリュショノー(ガエル・ガルシア=ベルナル)を中心に据えた物語だ。

こう書くと、まるで事実に即した、ネルーダ亡命の物語かと思うだろうが、それが、そんなことはない。この映画はなかなかにくせ者なのだ。だいたい、参議院議員となったネルーダが共産党に所属したことによって最初に引き起こした軋轢を表現するのが、サロンなのかトイレなのかよくわからない場所なのだから、そもそもの最初からヘンだなとの疑いが湧き起こる。

ネルーダの描き方にしてもロベルト・アンプエロの『ネルーダ事件』張りに悪意に満ち、売春宿で遊び呆けるは、十年一日、同じ詩を詠んで人気を博して浮かれているは、妻が隣にいるのに口述のタイプライターの女性の胸に手を這わせるは…… まあ、ネルーダ神話を強化したいだけなら、きっとその最期を描くはずだろう。

このヘンな感じがだんだん形を取り始めるのは、オスカルがネルーダを追跡して行く先に常に置いてある一冊の本があるからだ。どうもネルーダが書いた小説らしく、その小説には自分のことが書かれているようで、オスカルは読み耽ってしまうのだ。そして追いかけても追いかけてもネルーダは直前で逃げていて、いなくなったその場所に、オスカルは常に同じその本を見出すだけ。こうしたところはコミカルなサスペンス仕立て。

クライマックスの始まりはネルーダの妻デリア(メルセデス・モラン)とオスカルとの会話だ。そこで彼女は彼にお前はネルーダの書いた物語のなかで端役に過ぎないのだと種明かし(?)されるのだ。

最後のチェイスではガエルのオートバイが故障するし(『モーターサイクル・ダイアリーズ』だ)、母親は娼婦だ、などとガルシア=マルケスみたいなことを言うし、……


なかなか一筋縄ではいかない内容なのだ。

メキシコでの最後の二晩を過ごしたホテルの部屋からの眺め。いわゆるソナ・ロサの朝。

2017年3月20日月曜日

ついでにメヒコ覚え書き

コンピュータがいろいろなものをアップデートしたりして、使えないソフトがあるので、暇に飽かせて、ついでにメヒコのことも書いておこう。

メキシコのペソは今では東京の至るところにあるTravelexという両替屋で買うことができる。ただし、売る時にはとてもレートが低くなる。今回、買う際にあらかじめ1,000円余計に払えば、高値で売れるという制度があるがどうだ、と訊かれて、とりあえず1,000円余計に払った。

さて、……

必要最小限だけ持ってきて、後はキャッシングでいいんじゃない、と言われたが、まったくその通りだと思う。本を買ったときや少しよさげなレストランで食事したときはカードで払うのだし、そのカードはvisaデビットで、すぐに引き落とされるし、キャッシングもできるので、ということは実質、キャッシュカードで引き落とすのと同じことだし、持ち歩く金を少なくすることに何の問題もないのだ。それなのにまだ現金取り引き社会の亡霊から自由になり切れていないのだな、僕は。あるいはピッキングを極度に恐れているのか? 

実際、今回、ペソはかなりあまりそうだ。
(50センターボ硬貨がたくさん余った! 写真は5ペソ、1ペソ硬貨とともに)

メキシコでは人と会う予定があったので、プリペイドのSIMカードを買ってみた。メキシコではsimはchipと呼んでいる。TelcelにしようかMovistarにしようか悩んで、後者にした。15日間(2週間)で100ペソ。入れればすぐ使えるよ、と言われたが、使えない。どうしたのだろう? 

どうもチャージするといいらしい、とどこかから聞こえてきた。コンビニに言って番号を言い、なにがしかの金を払えば、手続きしてくれる。サークルK(てっきり日本のものかと思っていたらUSA発祥なんだね)では30ペソからチャージができると言われた。チャージしてほどなく、通話もデータ通信も使えるようになった。ただし、一日中ブーブーとうるさくメールやらフェイスブックのコメントやらを受け取っていると、あっという間にチャージ分を使ってしまった。

やれやれ。

言うまでもないことだが、iPhoneのsimのスリットは何かとても細いものでつついて開けないと行けない。買ったときにはそれがついているのだが、別に人はこれを持ち歩いているわけではない。入れ替えるとき、苦労する。ホテルのメイドに針のようなものはあるかと訊ねたところ、本当に針を持って来た(裁縫キット)ので、それを使った。


ほとんど通話はしないので、特にこちらでプリペイドsimを買う必要もないかな、との思いもある。アップルsimのようなもので充分かもしれない。特に今回、maps.meというアプリを入れていて、それがオフラインでも自分の地図上の位置を教えてくれるものなので、オンラインでgoogleマップなどを使う必要がないとなれば、ますます無理してsimを入れることはないかな、と。もちろん、もっと長く滞在するなら話は別だが。

キューバ覚え書き

日本時間では日付が替わったので、少し補足の記事を。

今回僕が泊まったのはDeauvilleというフランス系の名前のホテル。どう読むんだろうと思ってスペイン語風にデアウビーエ? と発音したら、タクシーの運ちゃんはドヴィユだね、とフランス語風に呼んでいた。

で、ともかくそこはマレコン(ハバナの海岸沿いを走る通り)の目の前で、こんな絵に描いたような光景が展開されていた。

よく目にする、マレコンに打ちつける波を、しかし、遠くから素人の手で捉えようと思っても難しい。せいぜい、こんな感じだ。うーむ。

さて、14年前はドルをそのまま持ち込んで使えば良かったのだが、キューバは今では兌換ペソ(Peso convertibleまたはCUC。後者はクックともセー・ウー・セーとも発音していた)の方が通りがよさそうだ。ドルやユーロも使えるには使えるのだけど。レートは$1=1euro=1CUCくらい? これが5CUCと10CUC紙幣。それに1ペソ硬貨。

空港を出てすぐのところにある両替屋は長蛇の列。これには参った。ホテルまで送ってそこで両替して払ってくれればいいよ、とタクシーの運ちゃんが話しかけてきたので、そうすることにした。が、ホテルでは1euro=90ペソと低めのレート、少し損した。

Peso nacionalというのもあって、CUCとNacional併記の店などもあった。書店で買い物をして、結構な額になったのだがCUCを渡すべく数えていたら、そのうちの5CUCだけを取られて「これでいいんだ」と言われた。何かの勘違いをしているのだろうか? だとすればその勘違いが解けないうちに、と思ってそそくさと書店を出たのだが、たぶん、あれは、最初国内ペソでの額面を言ったのだろうと思う。

ネットの接続状況は悪い。通信会社ETECSAのWi-Fiを使うためのカードを購入し(1時間分2CUCだった)、そこにあるユーザー名とパスワードでアクセスする。僕のホテルで買ったものを他のホテルや空港などの施設でのETECSAのWi-Fiにも使ってみたら、使えた。汎用性はあるということだ。ただし、Wi-Fiの施設そのものは範囲も狭いし弱い。ホテルではロビーでしか使えなかった。

でもまあ、そんなわけなので、しばらくネットアクセスは仕事のメールのチェックなどのために必要最小限に抑え、晴れて自由の身となって過ごしたのだった。

ETECSAの事業所などではSIMカードも売っているので、それを購入すれば、SIMフリーのディバイスなら、LTEだか3Gだかのデータ通信も可能。ただし、ETECSAがどこにあるかわからないし、ホテルで聞いてもあやふやだし、やっと見つけたのはもう滞在4日目だったし、列も長かったしで、これを買うことは断念した。それでこそ自由の身だ。でも後学のために記しておくとオビスポ通り(ラ・フロリディータから港へ向かう道。財務省とかがある通り。両替屋なども同じ通りにはある)にあった。

CUCを換えすぎて余らせるのも癪だし、と思ってユーロが使えるところではユーロを使うようにしていたのだが、これは本末転倒で、結局割高なところでばかり食事していたように思う。良くないな、と反省するのであった。


こんなところだろうか? 後は仕事と散歩の日々であったのだが……

2017年3月19日日曜日

14年越しの願い

1週間ほどキューバに行ってきた。

授業のない時期にメキシコだのキューバだのと言ったら、人はどうも休暇で出かけると思うものらしいが、実際は仕事で行ってきたのだ。研究だ。取材と資料収集とその他諸々だ。

今回の一番の目的地はここだ。


こんな風に作家の蔵書がある。ディジタル化の進むこれらの資料もじかに眺めることもできる。

こんなものを眺めながら、ついでに、ここにある資料が眠っているのではないかと目星をつけて来たのだが、はかばかしい成果は得られなかった。

でもまあ、研究部門の人と話し、いろいろと示唆を受けるところはあった。

ついでに、前回、2003年には修復中で入れなかったところに行ってきた。

ホセ・レサマ=リマ記念館。レサマの生活がそのまま維持されているスペースだ。

レサマの書斎の机。

そしてレサマを真似、書斎の棚に持たれてポーズ。

前回、やはり場所は特定したけれども、写真を撮ってこなかった場所。でも、こんな像はあっただろうか? 

これはセシリア・バルデス像。

シリロ・ビリャベルデの『セシリア・バルデス』はキューバ19世紀を代表する恋愛小説で、サルスエラなどにもなり、映画化もされ、いわば国民的な人気を誇る作品。それの主人公セシリア像だ。副題をLa Loma del Ángel。Lomaというのをどう訳するかは悩ましいところ、坂、というか丘、というか、……まあ、坂、としておこう。アンヘル坂。その上にある教会の前。実はこの教会の裏手が革命博物館なのでわかりやすい場所にあるのだ。


ところで、繰り返すが、このセシリア像、前からあったのか? 記憶にないな……

2017年3月13日月曜日

アースダイバー

昨日は「仕事の合間」にポランコのエル・ペンドゥロに行ったと言った。仕事というのは、たとえば、これ

と、これ

を関連づける仕事だ。

わかるかな? 同じものが見えるはずだ。もっと言えば、こんなもの。

それを補足するために今日は、旧国立予備学校に行ってみた。アルフォンソ・レイェスもホセ・バスコンセロスもオクタビオ・パスも、みんなここの学生だった。回廊形式のすてきな建物だ。ほとんどの壁にオロスコの壁画がある。


パスには「サン・イルデフォンソの夜想曲」という詩がある。サン・イルデフォンソというのが、Antiguo Colegio San Ildefonsoつまりは旧国立予備学校だ。

おまけ:

旧国立予備学校からコレヒオ・ナシオナルの前を通ってアラメダ公園に向かう道は古書店街だ。ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』でフアン・ガルシア=マデーロが通い詰めた古書店街。そのうちいくつか開いた店があり、入ってみたら、猫がいた。しかも4、5匹。

2017年3月12日日曜日

コーヒー&ブックス

仕事の合間に(?)ポランコという高級住宅街の中にあるカフェブレリーア〈エル・ペンドゥロ〉に行ってきた。


で、いずれの店も入った感じはこぢんまりとしていたので、写真で見るポランコの店はもっと大きいのかと思っていたのだが、

……そうでもなかった。このお店にはこのお店なりの理想の店舗の大きさがあるのだろう。吹き抜け、螺旋階段、カフェを取り囲む本屋、という感じを作りたいのだと思う。

買い物をして、それがある程度の額を超えたからかもしれないが、レストランというか、カフェの条件付き割引券をいただいた。条件というのは、次の三択の質問に対する答だと思った箇所を擦れ、正解ならサービスしてあげよう、というものだ。

この写真でもその問いがわかるだろうか? 

「女優にしてモデルのイザベラ・ロッセリーニはハリウッドの大スターの娘ですが、さて、それは誰でしょう? / Aグレース・ケリー、Bローレン・バコール、Cイングリッド・バーグマン」

というもの。15%オフの権利を得た。えへへ。

滞在中にまた行くのか、それはあくまでもわからないが。

ペンドゥロの近くにはガンディもあった。もともと必ずカフェを併設するというコンセプトで広まった書店。ここのガンディには、しかし、カフェがなかった。

何かが決定的に変わったのだなと実感する。


2017年3月11日土曜日

着いた! 

アエロメヒコの東京―メキシコ直行便ではちょうど10日に開幕するグワダラハラ映画祭に行く配給会社の方と乗り合わせ、日本語通訳を兼務するCAは、かつて共通の友人を通じて知り合った方で、そんな知り合いに囲まれていたとはいえ、いつものごとくその行程のほとんどを寝て過ごしたのであった。やれやれ。

ホテルに着いてみたら、部屋にこんなものが用意されていて感慨ひとしおであった。コーヒーメーカーだ。

今回は12-3日(考え方の問題)の旅行で、着替えは4着しか持ってこなかった。そんなものだ。これを3回くらいずつ着ればいい。ホテルにはたいていクリーニングのサービスがあるから、それを利用して、……と思ったのだが、週末を過ごすメキシコ市のホテルは土日はそのサービスはないと言われた。まあ、よくある話だ。それで、若い頃のように、昨日の服は手洗いして浴室に干した。

今回のメインの目的地は、ともかく、そんなわけでハバナだ。キューバなのだ。ハバナでは来週のウィークデイを過ごす。が、それを挟む週末をメヒコで過ごすわけだが、もちろん、その滞在にも目的がないわけではない。


東京外国語大学出版会の企画で、都市についての本を書くことになっている。シリーズ物のひとつとして、僕がメヒコについて書くのだ。半分くらい原稿はできているのだが、ある章について、いろいろと実地に確かめておきたいことがある。それを確かめるのも今回の目的のひとつ。さて、何を確かめるのか? 

(準備のためのノート。これはまあ、あれだな、なんとか細胞のときに話題になった実験ノートのようなものだな……)

2017年3月10日金曜日

行ってきます! 

昨日は学年最後の教授会。その後、退職教員の送別会。

そして今日から僕は出張旅行。

旅のお伴は1冊の本と、いつもとは違う旅のノート。

うっすらと行き先の街の名が読めるだろうか? ふだん使っているモレスキンのノートは置いて、旅行中はすべてをこのノートにつける。読んだ本のことも。

持っていく本は、キンドルのものを除けば、これだけ。イルダ・イルスト『猥褻なD夫人』四方田犬彦訳(現代思潮社、2017)

本当は書評するので持っていくのだ。そうでなければ、本は現地で調達ということも多い。飛行機の中ではずっと眠っているので、ほとんど読めない。その代わり、向こうではずっと早起きになるだろうから、その間にたっぷり仕事ができるという具合。


行ってきます!

2017年3月5日日曜日

狼狽えるパーフェクション

新聞などが早くも書評を掲載しているので、僕もブームに乗じて:

村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編/第2部 遷ろうメタファー編』(新潮社、2017)

僕は常々、村上春樹はふざけた冗談をたくさん書いているのだが、その割になぜ人はこの作家のおかしさについてもっと語らないのだろうと不思議に思っている。『騎士団長殺し』の笑えるポイントは、いずれも登場人物(人物なのか?)すなわちキャラクターだ。騎士団長と免色渉。

『騎士団長殺し』はそのタイトルから察しがつくように、モーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を下敷きにしている。そこに上田秋成「二世の縁」(『春雨物語』)が絡み、それが『ザ・グレート・ギャツビー』の設定の前提に立っている、……という話。すぐれたアダプテーションの一例だ。

抽象画家だけど肖像画描きで生計を立てている「私」が妻の柚(ゆず)から離婚を提案され、放浪の旅の後に友人の父の家に住む。友人の父というのが雨田具彦という有名な日本画家で、今では認知症で施設に入っているので、家を維持する必要があっのだ。

「私」はもう肖像画描きはやめるつもりだったけれども、たっての願いで免色渉(めんしき わたる)という人物のそれだけは描くことになる。免色は実は「私」の住む小田原の山の中のちょっと先に見える豪邸の持ち主(ギャツビーなのだ)。

「私」がある日家の中で見つけたのは雨田具彦の知られていない作品『騎士団長殺し』。『ドン・ジョヴァンニ』の例のシーンを雨田得意の飛鳥時代風俗に移し替えて描いた作品だ。同時に、家の裏から鈴の音が聞こえてきて、気になって仕方がないので、「私」は免色とともにその場所にある穴を暴いてみる(上田秋成だ。そのことはテクスト内に明示される。で、この「二世の縁」というのがまたとんでもなくおかしな、笑える話だ)。

それを契機に顕れるのが、自らをイデアと名乗る騎士団長。雨田の絵の中の殺される騎士団長の姿をまとった身長60センチばかりのキャラクターだ。これがともかく、笑える。

僕はかつて村上春樹作品のキャラクター小説化(「キャラクター小説」は大塚英志の言葉)について書いたことがある(柴田勝二、加藤雄二編著『世界文学としての村上春樹』に所収「羊男は豚のしっぽの夢を見るか」)。そのキャラクター小説化のプロセスの果てにたどり着いた、これまでに最強のキャラクターではあるまいか? 

「かまうもかまわないもあらないよな。雨田先生はもうおぼろで平和な世界に移行してしまっておられるし、騎士団長だって商標登録とかされているわけじゃあらない。ミッキーマウスやらポカホンタスの格好をしたりしたら、ウォルト・ディズニー社からさぞかしねんごろに高額訴訟されそうだが、騎士団長ならそれもあるまいて」
 そう言って騎士団長は肩をゆすって楽しげに笑った。
「あたしとしては、ミイラの姿でもべつによかったのだが、真夜中に突然ミイラの格好をしたものが出てきたりすると、諸君としてもたいそう気味が悪かろうと思うたんだ。ひからびたビーフジャーキーの塊みたいなのが、真っ暗な中でしゃらしゃらと鈴を振っているのを目にしたら、人は心臓麻痺だって起こしかねないじゃないか」
 私はほとんど反射的に肯いた。たしかにミイラよりは騎士団長の方が遥かにましだ。(I-350)

な? 『海辺のカフカ』などを思い出すが、もっとおかしいくはないか? 


(ところで、僕はフアン・ホセ・ミジャスの『ちっちゃいやつら』(仮)Juan José Millás, Lo que sé de los hombrecillos という中篇小説を翻訳したいなと思っているのだけど、騎士団長の出るシーンを読みながら、つくづくとこの作品のことを思い出した。ある日、小型の人間が「私」の目の前に現れ、それと感覚を共有することになるという話だ)

それにもましておかしいのが免色さん。

免色がその場所にあった家を強引に買い取ったのは、ある女性の近くにいたいとの思いからのこと。その女性・秋川まりえとの仲立ちを「私」に頼むことになるという筋立ても『ギャツビー』だろ? つまりまりえの肖像を描くように依頼するのだ。その際に、偶然を装ってその現場に現れたいと望むのだが、計算違いから、思ったよりも早く対面することになる。その時の狼狽えようがおかしい。これも『ギャツビー』と言えばそうなんだろうが……

村上春樹の小説にはその生活態度や能力、手回しの良さにおいてパーフェクトな人間が大抵、登場する。少なくとも語り手=主人公にとっては、自分の対極にあるような完璧な人間だ。そんな完璧な人間が、その完璧な手回しによって語り手=主人公を意図しない邪悪な世界に引きずり込むのだ。今回。免色もそんなところがある。独身で豪邸に住み、あらゆることを完璧にこなす。そして自らの欲望を達成するために他者を巻き込んでいく。


しかし、そんな完璧な存在であったはずの免色が、秋川まりえを前に狼狽え、ドジを踏み、顔色を変えるさまはおかしい。笑える。長いから引用はしないが、ともかく、そんな狼狽えぶりで完璧のほころびを見せる免色の存在が主人公と取り結ぶ関係も、そんなわけで、いささか特異なものになっている。それがとても気になるところ。

2017年3月1日水曜日

2月は終わるのが早い

2月の最後の2日はブカレスト大学(およびハーヴァード大学)からゲストを招いての講演会だった。

これは東大がやっている、新日本学という試みで、ハーヴァード大学のデイヴィッド・ダムロッシュ(『世界文学とは何か』)さんを読んで集中講義をお願いしているのだが(本日まで)、それに合わせて、ダムロッシュさんのハーヴァードのIWL(世界文学研究所)での右腕たるデリア・ウングレアヌさんも同行し、ダムロッシュの授業の後に講演をしていただいたというわけだ。彼女が今年中に出す予定のFrom Paris to Tlôn: Surréalisme as World Literature(Bloomsberry)には、うかがったところ、かなりな発見が盛り込まれていて、楽しみなのだ。

で、その彼女が27日はユルスナールとタルコフスキーおよび黒沢の隠れたコネクション、および発想の共有という話をし、昨日28日はルーマニアのシュルレアリスムの系譜に連なる作家ミルチェ・カルタレスクについて話した。昨日は同僚の阿部賢一さんが司会を務め。27日は僕が司会を務めた。27日は、ちょうど東大を訪れていたツヴィカ・セルペルさんからの黒沢のフィルムの発想源についての、専門家ならではの鋭い質問なども飛び、盛り上がった。写真は沼野充義さんが撮ってくださったもの。

さて、話は変わって、4月から、こんなことをやるようだ。立教のラテンアメリカ研究所が主催している「ラテンアメリカ講座」で文学についての授業を行う。具体的には何か最近の文学作品を皆で読むという形式だが、よかったら、どうぞ。


向こうに映っているのはレトルトの黒豚カレー。先日の結婚式の引き出物にいただいたカタログ・ショッピングで得たもの。このところ、スーパーのレトルト・カレーの豊富さに驚き、時々、昼食などでいろいろな味を試していた矢先だったので、カタログでもこれを買ったのだ。