2016年12月31日土曜日

砂漠への旅

ちょっと前にこういうツイートをした。

大見嵩晴のメールマガジンの文章について呟いたのだ。。

大見の文章はボラーニョ批判なのだが、どうにも的外れだ。まず第一に『野生の探偵たち』を読んで鼻白んだと、というのも「この小説は数十頁で収まる内容を邦訳にして八百頁程度に引き伸ばしたものだったからである」と。第二に、にもかかわらず訳者の柳原〔つまり僕だ〕が「めっぽう面白くて紛れもない傑作なのだけど、何しろ長くて難解なこの小説」と書いているのをあげつらい、ボラーニョの読者は彼の作品を難解だと思っているようだがそうではない、というのが論点。ボラーニョは難解なのではなく、「つまるところ、それは難解さを装った書物であり、頁を捲るという肉体労働を続けるだけで、難解さと対峙したと誤解できる書物なのである。そのような小説を求める読者とは難解を受容している自分に酔いしれるために書物を消費しようとしている読者である」とまで言い切っている。

まず、僕が「難解」だと言ったのはスペイン語を日本語にすることが難解だと言う意味。僕は小説に難解さなど感じない。第二に、「難解さと対峙したと誤解できる書物」とつき合う「自分に酔い痴れる」読者が「書物を消費」しているというが、書物を「消費」するという行為は、長い話を数行の話に縮めてしまうようなもののことだ。ロラン・バルトはそう呼んでそれを「テクストの快楽」の対極に置いた。つまり、「八百頁程度に引き伸ばした」話を「数十頁に収まる内容」だと断言するのが「消費」だ。テクストを消費したがっているのは大見の方ではないのか?

次に僕がいぶかしく思うのは、なぜこの人はボラーニョではなく、その読者を批判するのか、ということだ。読者は好きなように読むものだ。もちろん、消費だけする者もいれば、思いがけない楽しみを引き出す者もいる。読者批判は自分にも返ってくる。天に向かって唾を吐く行為だ。読者を蔑む者は読者から蔑まれる。

こうした大見のような論に勢いを与えているのが寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』で、なるほど、そこではボラーニョの読者はアメリカあたりの批評家に追随して、などと、根拠の怪しいことを書いている。いつもの戯れ言だ。無駄な遠吠えだ。そして彼は短篇や中篇がボラーニョの本領発揮だとした上で〔もちろん、このことには異論はない。中篇も面白い〕、長篇は「象徴体系」に欠ける、などと切り捨てる。

象徴体系? (まさかアレゴリーのことではあるまいな)

いつの時代の話なのだろう? ボラーニョが要求しているのは、そんな使い古しの判断基準などではないのに。ボラーニョの読者はボラーニョに「象徴体系」などという古臭いものなど求めてはいないのだ。書く対象が異なれば手法が異なる。手法が異なればそれを叙述する言語も異なる。批評のタームが一変する。そんな当然の事実を前になまじっかな批評の言葉は空しいだけだ。

長篇を長いとか無駄だと言って切り捨てる手合いには、ボラーニョ自身の長篇内での文章を読ませて差し上げよう。『2666』の第二部「アマルフィターノの部」の結末近く、アマルフィターノが読書家の薬剤師の読む本について感慨を巡らせている。薬剤師が『変身』や『バートルビー』といった短いものを主に読んでいることを知ったアマルフィターノは考えるのだ。

いまや教養豊かな薬剤師さえも、未完の、奔流のごとき大作には、未知なるものへ道を開いてくれる作品には挑もうとしないのだ。彼らは巨匠の完璧な習作を選ぶ。あるいはそれに相当するものを。彼らが見たがっているのは巨匠たちが剣さばきの練習をしているところであって、真の闘いのことを知ろうとはしないのだ。巨匠たちがあの、我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っていることを。(野谷ほか訳p.228)

ボラーニョの長篇の読者は彼が「我々皆を震え上がらせるもの、戦慄させ傷つけ、血と致命傷と悪臭をもたらすものと闘っている」その姿を見たいのだ。なんらかの「象徴体系」に収まる行儀良さでもなければ、「数十頁に収まる」ようなまとめではない。

たとえば『2666』が読者に呼びかけているのは、サンタ・テレサという架空の街、それを取り囲む砂漠にやって来いということだ(その意味で『野生の探偵たち』も半ば同じだ)。砂漠を見て、砂漠を感じて、そこでアルチンボルディという作家がどこにいるのかわからないけれども、彼が近くにいることを感じることだ。「批評家の部」のペルチエがそう感じたように。植物の墓場である砂漠地帯で累々と死屍が積み重ねられている終末の光景を眺めることだ。文字どおり「血と致命傷と悪臭をもたらすもの」が横たわっている様子だ。ボラーニョに魅入られた読者たちが欲しているのは、そんな終末の様相を呈する場所でボラーニョがいったい何を見、何を感じているのかを推測することなのだ。ボラーニョとともに見た砂漠の光景を描いてみることなのだ。

ボラーニョのランボーへの傾倒は明らかだ。『野生の探偵たち』の中心人物のひとりベラーノにアルトゥーロという名を冠し、その彼をアフリカに死なせている。自らの分身をランボーに同定した。ランボーは詩を棄てて砂漠に消えたのだ。詩は砂漠に消える。『野生の探偵たち』の第三部でランボーの話が出てくるのは偶然ではない。ベラーノはソノラ砂漠でランボーを感じているのだ。砂漠とは詩人(場合によっては詩を棄てた詩人)が感じられる場所だ。

一方で、ボラーニョの北はボルヘスの南と同じだ、というのような話を僕は授業でしたのだった。北が南であるならば、突き詰めていけば砂漠はパタゴニアの凍ってやせ細った台地と等価なのだとも。ブルース・チャトウィンがそこに伝説の続きの死(サンダンス・キッドだ)と詩(詩についてのトリビア)を見出したように、ボラーニョも伝説の続きの死(セサレア・ティナヘーロ)と詩(詩についてのトリビア)を見出している(『野生の探偵たち』の場合)。おびただしい数の屍の果てに詩を見出している。


うむ。2017年は少し砂漠を旅してこよう。

2016年12月28日水曜日

もうすぐ年が改まる。

先日の「はじめての海外文学フェア スペシャルの動画がアップされた。僕もしゃべっている。当然。



グラナダの丘サクロモンテにクエバと呼ばれる洞窟形式の家が軒を連ねている。その場所のジプシー、つまりロマたちの共同体で自然とフラメンコを学んだバイラオールやカンタオールたちの群像を彼らが踊りや歌を披露していたサンブラ(という呼び名だ)の跡を紹介しながら、みずからアーティストでありこうした歌の採取や保存に取り組んでもきたクーロ・アルバイシンが案内・紹介しながら進む。時にクーロらの子ども時代のモノクロの映像が挟まって愛嬌がある。

師弟関係や親子関係など確認しながら何度も巻き戻して見たいものである。

夜は小笠原伯爵邸でディナー。なんだか恋人たちのクリスマス・ディナーみたいだ。


俳優・宅間孝行は実は三池崇史版『愛と誠』(2012)の脚本も書いている人物で、近年はこのタクフェスというやつをやっているようなのだが、何しろ友人の女優が客演しているので観に来た僕としては、開演前の触れ合いタイムなど、たじろがされた。

劇自体は「オムニバス」と呼んでいた。春、夏、秋、冬の四章にプロローグ、エピローグを加えた作品で、僕はそれをオムニバスというよりは連作短篇と呼びたい。春の中山競馬場で客の金まですった銀行員が夏の花園神社境内ではアングラ演劇の俳優をやっていて、秋には暴力団の若頭へと転身していて、……というように、宅間孝行がひとりの人間の4つの異なる人生のステージを演じている。


夜、入浴中に地震が来た。初めての経験だった。

2016年12月25日日曜日

母を憎む

レイナルド・アレナス『襲撃』山辺弦訳(水声社、2016)

「超厳帥」が統治する社会で、囁きや人の股間を見つめる、規定された以外の語(「私、寒い」など)をしゃべるなどの行為が罪になる、そんな社会で罪人を次々と殲滅という名の死刑執行に追い込み、「愛国大英雄」として「超厳帥大演壇」の「名誉登壇者」となった「俺」は、母を憎み、彼女を殺すことを目的としているが、どれだけ探しても見つからない。「超厳帥」の部下でナンバーツーの「大秘書官」はこの「大演壇」の席で母を見つけ出せるはずだと甘言を弄する。しかして、登壇の当日……という近未来SF。

52の短い章からなり、各章につけたタイトルは何らかの本(脈絡のない)からの引用になっている。ただし、章の中身とは無関係。自身の作品からの引用もある。最終第52章だけが表題と同じ「襲撃」というタイトル。

母への嫌悪の凄まじさと性欲への意識が印象的。母親と出会えると期待した出来事の前の晩、逃げても逃げても母に放尿され、股間の陰毛に窒息させられるエピソードなどは、もう何と言うか、……何とも言えないのだ。父殺しというテーマは馴染みのものだが、これは母殺しの小説。

不思議な章ごとのタイトル以外に、この作品を読みにくくし、かつ読むドライヴとしている言語操作はいくつかの次元に渡っている。

1) 「五月蠅(うるさ)い」などの漱石風の漢字使い。
2) 「良留(ヨル)」「皇苑(コウエン)」などの通常の単語を別の漢字表記で表したもの。
3) 「複合家族」「大厳都」などのSF的設定ゆえの造語。この次元の造語、「複合独房」「愛国地獄」「移動式監獄」などはふと立ち止まって考え、笑ってしまう。

ここにアレナスが言論弾圧を受けたキューバ革命政権などの、あるいはより広範に言って独裁体制への批判を読み取ることは容易ではある。「発言撤回大ホール」、「大衆への見せしめ」としての「象徴的打撃」などの語は革命政府の強要する自己批判そのものだ。けれども、やはりそれ以上に気にかかるのは母への嫌悪、そして女全般に対する嫌悪感だ。実に、何と言うか、……何とも言えないのだ。


『夜明け前のセレスティーノ』(安藤哲行による邦訳が存在する)に始まる五部作〈ペンタゴニーア〉(五部作pentalogíaと苦悶agoníaを繋げた造語)の最終作。エイズを発症し自ら命を絶った亡命作家が最後に至った地点がこれだと考えると圧倒されるというか、言葉を失う。

写真はイメージ。昨日乗った都バス。そういえば、『襲撃』の人物たちはバスに乗るのではなく、バスになる。これもまた笑えるんだか悲しいんだかのエピソード。


2016年12月18日日曜日

またしてものぞき見趣味発動

池上彰、佐藤優『僕らが毎日やっている最強の読み方――新聞・雑誌・ネット・書籍から「知識と教養」を身につける70の極意』(東洋経済新報社)

僕は池上や佐藤の影響圏にあるわけでなく、彼らの著作はそれぞれ2、3冊ずつ読んだという程度なのだが、何しろいろいろ悩むところ多くて読書論のようなものを読んでしまいがちで、なんといってもこれを手に取ったのは、前を通り過ぎたからに他ならず、が、ふと見れば冒頭にふたりの書斎や文具などの写真がふんだんに載っているからという次第。つまりまあ、他人の書斎をのぞき見する例の趣味ですな。

まあ、タイトルが2時間ドラマのそれみたいで、ほとんどすぺてを言い尽くしているのだが、新聞、雑誌、ネット、書籍、そして中学・高校の教科書・参考書などにわけて活用法をふたりが話し合っていく、というか、ふたりのそれぞれの活用法を披露し合っていくというもの。

佐藤など本は「超速読」と「普通の速読」と「熟読」に分けるというだけあって、この本の作りそのものが、二色刷で大事なところに蛍光ペンを引いた風の色づけがあったり、項ごとにまとめがあったりで、速読用にできている。

本などの読み方もさることながら、ふたりが揃って2013年末から2014年初頭にかけての頃に新聞が変わったと感じているという指摘をしているところなどは、証言として貴重かと思う。池上はさらに2008年のリーマンショック以後新聞広告が変わったといい、男性用精力増強剤の広告が最初に『朝日新聞』に出たときに「心底、驚きました」と言っているのも面白い。僕も、同様に驚いた。それから包茎手術を勧める整形外科のCMがTVの深夜帯でもない時間帯に流れ出した時にも驚いたけれどもね、僕は。さすがに池上さんはそんなものは見てないか。

ふたりともメモを取るのに速記用シャープペンシルを使っている(0.9ミリと1.3ミリ)というので、実はその速記用シャープペンシルなるものの存在を知らなかった僕はひどく気になったのだった。で、気になったはいいが、あくまでも軸の太いものが好きな僕は、もっと気になる、こんなものを見つけてしまった。(リンク)ファーバー・カステルのエモーション。


なんだこれは! 欲しいぞ! サンタさんにお願いすればもらえるかな? 

2016年12月12日月曜日

文具会社、注目のイベント

そんなわけで、昨日、「はじめての海外文学スペシャル」というイベントに行ってきた。「はじめての海外文学フェア」というフェアがいくつかの書店で行われていて、今年が2回目なのだが、そのスペシャル・イベント。フェアで推薦人を務めた翻訳家たちのうち19人が、自分のものであれ他人の訳したものであれ、推薦の1冊を3分間の制限時間内で紹介するというもの。

「ビギナー編」と「ちょっと背伸び編」があり、僕はビギナー編の推薦をと依頼されたので、自分の訳したものだけれども、エドゥアルド・メンドサ『グルブ消息不明』を推薦した。それについて概要を話し、ごく最初の方で、何度も車に轢かれて首が抜ける箇所を読んだ。

みなさんそれぞれ、1冊ないしは2冊を面白く紹介していた。英語以外の言語からの翻訳も多数。緊張するだの人前で話すのは久しぶりだの言いながらも、うまくまとめ、面白い話しばかりであった。面白そうな作品ばかりであった。

さて、ところで、終了後、サイン会などが開かれた。場所がABC(青山ブックセンター)本店の上の施設だったので、ABCで買って、その本にサインをもらう、なんてことも可能だった。ともかく、サイン会が開かれたのだ。すると、サインペンも用意されていたのだが、かなりの数の翻訳家たちが自らの万年筆を取り出し、サインしていた。

万年筆だ。

パイロットの80周年記念の限定品を持っている人、巻物式の筆入れに何本もの万年筆をさしている人、ペリカンのスーベレーンをさりげなくひけらかす人(僕以外に、ということだが)……等々。


ふむ。職業柄、と言えばいいのか? ここにこれだけの需要があることに文具会社は注目すべきだろうな。

2016年12月11日日曜日

声を聴く、感覚を表現する、招喚する

昨日は昼から6時間の長丁場で行われた「和田忠彦教授退任記念シンポジウム 遊戯のはじまり」@東京外国語大学に行ってきた。

第一部「感覚の摘み草」では岡田温司、小沼純一、沼野恭子、福嶋伸洋、山口裕之、松浦寿夫が登壇。感覚を言葉で、絵画で表すことの困難についてそれぞれの立場から話した。

第二部「ことばのたろんぺ」(たろんぺというのは秋田の方言でつららのこと)に登壇したのはジョルジョ・アミトラーノ、木村榮一、澤田直、都甲幸治、栩木伸明、西成彦、久野量一。みんな面白い話をするものだ。

第三部に和田忠彦さんご本人の講演「声の在り処 詩から詩へ」。エウジェニオ・モンターレをよりどころとして記憶を召喚したふたりの作家、イタロ・カルヴィーノとアントニオ・タブッキについての話は印象的だった。

最後に「読みまどろむ」として土肥秀行、くぼたのぞみ、ぱくきょんみ、山崎佳代子がそれぞれ和田さんの書いたものや訳したものの一節を読み、コメントした。時間が押していたので和田さんご本人は朗読できなかった。

なんでも和田さんご自身が、若い頃、まだ京大の大学院生だったころと言っただろうか?、ドイツ文学の野村修さんの退職記念連続講演(つまり、最終講義として自分が話すのでなく、野村さん自身が聞きたいと思う人の話を聞く、という会を開いたのだそうだ)で話すことになったのだとかで、それをヒントに、最終講義でなく、こうした会にしたのだとか。

パーティーも盛況だった。パーティー後は、何人かの仲間たちとひさしぶりに吉祥寺の〈けむりや〉に行き、結局午前様、池袋からタクシーに乗ることになった。カメラをなくしたことに気づいて慌ててタクシー会社に電話したら、どうやら車内に置き忘れたようだ。着払いで送ってもらうことにした。


今日は、これ(リンク)。僕も登壇する。来てね。

2016年12月6日火曜日

蝶が舞う あるいは魔術的リアリズムの皮相な真相? 

『百年の孤独』のマウリシオ・バビロニアという人物には常に黄色い蝶または蛾(同じことだ。同じ単語なのだから)が飛び回っている。

これが意外に多くの人の心に残る要素のようで、よく引き合いに出されているのを目にする。「蛾」ではなく「蝶」なのでは? なんてものも含めて(繰り返すけど、同じ単語だ)。ガボの葬式の時にも黄色い蝶を舞わせたらしい。

これをして驚異的、魔術的、と言うべきかどうかは議論の分かれるところで、コロンビアのある地方では、季節になると蝶が大量に舞う光景が見られる。一種の風物詩だ。僕も『百年の孤独』を読むよりも前のことだと思うけれども、TVでその映像を見たことがあった。NHKなんかがよくやっている、外国のちょっとした話題を紹介するような番組だか番組内のコーナーだかでのこと。

蝶が大量に群れをなして飛ぶのは風物詩だとしても、それがひとりの人間に常についてまわるということは、なるほど、あり得ない話であって、それをして人は「魔術的」というのかもしれない。でも、それはむしろ、マンガみたいなキャラクター設定ということだろうと思う。常にある匂いに包まれる小町娘のレメディオスと同様の造型だ。

今日、2限の時間、そんな話をしていたら、3階の教室の窓に大量の黄色い虫がぶつかってきた。見ると蝶が大挙して窓を襲っていた!…… 

……よくよくみるとチョウではなくイチョウだった。イチョウの枯れ葉(『落ち葉』!)が風に舞って窓に打ちつけたのだ。

ま、「魔術的リアリズム」ってこの程度のことです、と僕は授業を締めくくった。

(以上の話には、フィクションがある。他のテクストを読んでいて、窓にイチョウが押し寄せ、見て錯覚して驚き、『百年の孤独』の話をした、というのが正しい順番。そしてそれは授業半ばのこと。すぐには終わらなかった。現実はそんなに美しくは終わらない)


いや、でも本当にイチョウが3階まで舞い上がってくるというのは、すごいことだと思う。

あ、そうそう。ここにエッセイ書きました。
『NHKテキスト 基礎英語1』2017年1月号。月替わりエッセイ「ことばのプレゼント」だ。今日の出来事に負けず劣らずマジカルな記憶の問題について書いた。

2016年12月4日日曜日

人間は一番美しい……のか? 

とある授業で次の小説を読んでいる。

Lucía Puenzo, Wakolda (México: Tusquets, 2011)

ルシア・プエンソはルイス・プエンソ(『オフィシャル・ストーリー』など)の娘にして自身、映画監督でもある。で、この小説を自分で脚色し、映画化したのが同名の映画(アルゼンチン、スペイン、フランス、ノルウェイ、2013年)。邦題は

『見知らぬ医師』(オンリーハーツ)

小説内のある科白の後の文章が、構文は難しくないのだがどうにも意味内容が納得がいかず、何かのヒントになればと、その科白を映画で確かめてみようとしたのだが……結局、その科白は別の人物が別の場所で発していたのだった。

『見知らぬ医師』は実在のナチスの人体改造実験を推進していた医師ヨーゼフ・メンゲレをモデルとしたフィクション。メンゲレはリオ・デ・ジャネイロの海岸で溺死するのだが、その前にアルゼンチンに隠れていたという話。

ブエノスアイレスを離れ、バリローチェというパタゴニアの街に逃げる途中のメンゲレ(アレックス・ブレンディミュール)が、エンソ(ディエゴ・ペレッティ)とエバ(ナタリア・オレイロ)の夫妻の娘リリット(字幕ではリリス、フロレンシア・バド)に目をつけ、道案内を頼み、ついでエンソたちが死んだエバの母の後を継いで開いた宿屋に投宿する。年のわりに背の低いリリットに身長が伸びるホルモン治療があるとして持ちかける……

ナチを逃れて多くの人が、そして多くのユダヤ人が逃げてきたアルゼンチンにはアドルフ・アイヒマンも潜入していた。メンゲレを助ける元ナチ医師グループの存在がなかなかに恐ろしい。原作小説では人体を改造することに心血を注いでいた医師(小説内ではホセを名乗っている)のリリットやその他の人間に対する眼差し、あくまでも被検体に対する眼差しが、時に笑いすらも産み出す。さすがに映画ではこうした心理に立ち入ることまではできていない。代わりにリリットのナレーションが伝えていた。また、小説の言葉にはもう少し彫琢が欲しいと思うところがあるのだが(不用意に同じ語をすぐ近い場所で繰り返したりということがある)、小説にはない言語外の要素、音楽と映像は美しい。


写真はイメージ(昨日、東京都写真美術館ホールで買ったホセ・ルイス・ゲリンの新作前売り券のおまけにもらった絵葉書)。

2016年12月3日土曜日

バレエも美しい


この作品がフォーカスするのは3人のバレリーナ。アリシア・アロンソとビエンサイ・バルデス、それに少女アマンダ。

冒頭、アリシア全盛期の何十回と続くピルエット、継いで負けず劣らず続くビエンサイのピルエット、そしてまだ駆け出しで、数回も続かないアマンダのピルエットが連続で映される。

それ以前に、「この作品がフォーカスする」と言ったのだが、一番の冒頭から始まって上映中何度かフォーカスのぼやけたアリシアやリハーサル中のバルデスの姿などが映されるが、これはごく若い頃から網膜剥離に苛まれたアリシア・アロンソの視界を再現しようとしたものに違いない。アリシア(1921年生まれ)は実際、今では目はほとんど見えないのだけれども、それでもわずかに見える人の輪郭などを頼りにレッスンをつけているのだから驚きだ。「表情が硬い」などと叱責を飛ばすのだ!

アリシアにレッスンをつけてもらっているビエンサイ(字幕はヴィエングセイ)は押しも押されぬキューバを代表するプリマなのだが、リハーサル中は常に悩んでばかり。それがプロというものだろう。

アマンダはプロのバレリーナになりたくて、それを支えるために仕事をやめた父母とともに地方から上京してきて、バレエ学校の試験に臨もうとしているところで、ある日、レッスンの後にアリシアに稽古をつけてもらっているビエンサイの練習風景を覗くことになる。

盲目で高齢のアリシア・アロンソは、今では当然、激しい動きはできないのだけれども、その彼女が最低限の動きで振り付けの要点をビエンサイに示してみせるシーンがある。そのときのアリシアの動きにはハッとする。カルペンティエール『春の祭典』で、語り手=主人公のひとりベラが、自分に欠けているものはリズム感だとの観測を述べる箇所がある。リズム感と言っても、リズムに合わせることができるとかできないという話ではない。リズムに合わせつつ、独自のゆったりとした動作でリズムを支配する、そんな動きができないのだ、と。そうした動きができる人でないとプリマは張れないと。菊地成孔はファッションモデルたちがわざとリズムを外して歩くことを指摘し、そのずれにモードがあるのだと言っているが、それはこれに似たような動きのことを言っているのだろう。タメ、というか、腰……そうしたタメがいまだ堂々として、その時だけ年齢と盲目の条件を忘れさせる。そんな瞬間がある。


ところで、タイトル。原題はHorizontesと複数形だが、『ホライズンズ』でなくていいのかな? でも、そういえば、「地平線、水平線」を意味するこの英語の単語、かつては「ホライン」と表記していたと思うのだが、今では「ホライン」なのだ……ま、些細なことだが。

2016年11月27日日曜日

ギターは美しい

昨日のこと、ここに行ってきた。

杉並公会堂。

渡辺香津美「ギター・ルネッサンス」

同名のアコースティック・ギター・ソロのアルバムをシリーズVまで出している渡辺香津美が村治奏一(第1部)、戸田恵子(第2部)をゲストに招いてのコンサート。ビートルズのナンバーから始めた。「アクロス・ザ・ユニヴァース」はそのアルバムのひとつ収められていたと思うのだが、続いて弾いた「カム・トゥゲザー」はなかったのではあるまいか? 常々この曲は歌そのものよりもベースのフレーズやリズム(ギターのカッティング)に魅力があるのではないかと思っていたのだが、こうして渡辺香津美の手にかかると、やはりこのためにある曲なのだと確信を新たにする。村治奏一を招いての「フール・オン・ザ・ヒル」は渡辺が鉄弦のままで村治のナイロン弦と交互に(コーラスごとにということではない)主旋律を奏でるものだから、たとえばレオ・ブローウェル/鈴木一郎のデュオとはずいぶんと趣を異にする。鉄弦の金属音とナイロン弦の澄んだ音色とのコントラスト。

そうしたコントラストがさらに強調されていたのは、「リベルタンゴ」だ。渡辺のギターのシャリシャリとした金属音が、時にカスタネットの響きにも聞こえた。

そういえば村治奏一はソロで「フェリシダーヂ」を演奏して、これも聴き応えがあったのだが、荻窪に来るまでの電車の中で、ヴィニシウス・ヂ・モライス『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』福嶋伸洋訳(松籟社、2016)を読み終えたのだった。あ、つまり、「フェリシダーヂ」は映画『黒いオルフェ』のテーマ曲で、『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』は原作。そういう連想だ。

ただし、この戯曲はオルフェウスの神話を下敷きに、韻文で書かれた抽象性の高い作品。丘に住むギターの名手オルフェウが死んだ婚約者ユリディスをおって冥府におり、戻って後には発狂するという話。使用する曲を指定するなどして、ボサノヴァの産みの親のひとりであるモライスが、その新しい波をプロモートしているようにも読める。映画版の黒人表象のエキゾチズムを嫌ったというが、戯曲は、なるほど、神話と音楽とが鳴り響くのみだ。

訳者福嶋伸洋によるあとがきが充実している。

さて、第2部のゲストは戸田恵子で、この元アイドルにして女優、かつ声優もこなす人が、実はジャズ・シンガーでもあったということを僕は不覚にも知らなかったので、喜ばしい驚きであった。アンコールで出てきた時には、「わたしがいちばんうまく歌える歌です」などと言ったから、まさか、と思ったが、しばらくイントロを聴いていると、やはり違うだろう、と不思議な安堵を覚えたものの、実はまったくそのとおりで、つまり、「アンパンマン」のテーマだったのだ! 盛り上がった。

アンコールと言えば、村治奏一は「ロマンセ」と「アルハンブラの思い出」という実にスタンダード過ぎる曲をやったのだが、渡辺香津美がレオ・ブローウェルを思い出させるようなフレーズを含む伴奏で音に厚みを与えて素晴らしかった。最後は「ヘイ・ジュード」で締めた。

コンサートを終えるともう暗くなっていた。


夜は広尾のメキシコ料理サルシータで友人たちと楽しく過ごした。

2016年11月24日木曜日

理想のプロポーション

坂手洋二作・演出『天使も嘘をつく』燐光群@座・高円寺

燐光群での客演が3度目となる竹下景子が馬淵英里何を従えて出てきて両手を広げた瞬間、僕の頭にふたつのことが去来した。

1) 竹下景子が20代デビュー直後でアイドル的な人気の頂点にあったころ、女性雑誌だか化粧品会社だかが実施したアンケートで理想のプロポーションとされた数値に一番近かったのが山口百恵と竹下景子だったというのが、彼女自身が出演していたクイズ番組(クイズ・ダービー)で出されたことがあった気がする。

で、その数値は今どきの20代女性と比べれば小柄な方だとは思うが、それにしても竹下景子はまるで20代のころのようにほっそりとしたままだ、と驚いたのだ。松坂○○だとこうはいかないな、などと……

と、同時に、当時の理想の数値の割には脚が長いな、などと変なことまで考えた。

2) で、アイドル的な人気のあった竹下景子だが、20代の彼女が一番よかったのは『青春の門』ではなく、やはり『ブルー・クリスマス』だよな、とも。

『ブルー・クリスマス』を思いだしのは、雪が降っていたからだろうか? 雪→ホワイト・クリスマス→ブルー・クリスマス……

そんなことを考えていたら、大西孝洋演じる映画館主タイラがシナリオの雑誌などにはわけあって映画化に至らなかったシナリオが掲載されることがあり、それがもとで映画化が叶った例もある。大島渚の『少年』とか倉本聰の『ブルー・クリスマス』とか、と言った。

坂手洋二はこの『ブルー・クリスマス』→竹下景子のラインを評価している人物だと思う。何しろ竹下景子演じる映画監督クリモトヒロコは「冷戦期アメリカB級映画における田舎町の恐怖」(うろ覚え)というテーマが専門(『遊星からの物体X』、『ボディ・スナッチャー』、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』など。「ロメロ監督は絶対です!」という台詞があった。同じくうろ覚え)で本当は劇映画を撮りたいと思っていたけれどもドキュメンタリーを撮ることになった人物という役柄だ。

そのヒロコがかつて撮ったある島のメガソーラー発電所をについてのドキュメンタリー映画を、同様のメガソーラーの計画が進行中の沖縄のある架空の島で上映し、ついでのそのあたりでの映画のプランも練ろうとしていたのだが、実はメガソーラー計画をカモフラージュにして自衛隊基地を作ろうとしているのじゃないかとの疑惑が浮上する。メガソーラー反対派の市民は基地反対の活動をするために、ヒロコの幻の映画『天使も噓をつく』の製作を実行する委員会という姿をカムフラージュにして基地反対運動を展開するという内容。やがて計画がレーザー基地建設という具体性を見せてくる……

サブプロットは馬淵英里何演じる反対派のサユリの離婚と、元夫に親権を取られてしまった娘との関係、そしてまた彼女がヒロコの幻の映画に主演する予定だった女優(そして上映されたドキュメンタリーのプレゼンター役)マナ(故人)によく似ているという話。

もちろん、高江のヘリパットなど現実の沖縄の問題の隠喩に違いない劇だが、社会問題と映画製作を絡めるという設定においてイシアル・ボジャインの『雨さえも』などをも思い出させる。

また、市長の川中健次郎を檻の中に入れ、他の出演者が鉄格子状のパネルを前に置いたりかざしたり回したりしつつ防衛省の野望とその植民地主義的態度を批判する言辞を連ねていくシーンがあるのだが、演出家が日ごろ行っているような政治批判を、こうして舞台に乗せて台詞としてしゃべらせるだけで劇は成立するのだという格好の例だ。僕が外語時代にある企画のために坂手さんにコンタクトを取った頃、ちょうど彼の演出で燐光群が演じていたデイヴィッド・ヘアーの『ザ・パワー・オブ・イエス』について彼が言っていたことを思い出した。調べたことを舞台に上げるだけでいいのだ、と。


それにしても、いや、ほんと、竹下景子は最後も手を広げて舞台に仁王立ちになるのだが、僕は自分の腹が恥ずかしくなったな。最初、風邪気味なのか少し声が元気がないなと思ったのだが、そのうちに調子が出てきて、よかったよかった。

2016年11月23日水曜日

中途半端なミーハー

今の家に引っ越してきてすぐのころ、住宅街なのに行列の絶えないラーメン屋がすぐ近所にあることに気づいた。僕はラーメンにはぜんぜん執着はないし、行列のできる飲食店など蔑みの対象でしかないから、黙って前を通り過ぎるだけだった。

ほどなく、そこがミシュランでラーメン屋として初の星を獲得したことを知った。すぐにTVカメラなどが周囲を賑わすようになり、整理券制度が始まり、その整理券も朝の早い時間になくなる始末となった。外国人観光客がキョロキョロと探し回る姿も日常茶飯事になった。

繰り返すが、ラーメンにも行列にも興味はない。だから気にもならなかったのだが、僕はまた中途半端なミーハーでもある。少しはどんな味なんだろうという興味もある。

そこへ、生麺式のインスタントでこの店の味の商品が出たのを知った。たまたまスーパーを冷やかしていたら見つけたのだ。で、色気を出して買ってみた次第。

もちろん、店ではこれに具材などが乗るのだろう。トリュフを使ったものだと聞いたような気もする。僕はこの後で茹でたキャベツとネギをたっぷり入れたわけだが、ともかく、そんなわけで、その店の味そのものではないはずだが、食べてみたのだ。

うむ。美味。

これがあれだけの長蛇の列に値するとみるかどうかは、また別問題。何しろ僕は行列のできる店がいやなのだ。


でもまあ、ともかく、うまいことはうまい。

2016年11月20日日曜日

世界は陰謀に満ちている

ウンベルト・エーコ『ヌメロ・ゼロ』中山エツコ訳(河出書房新社、2016)

エーコの遺作で、彼の死のニュースが流れたころにはもう予告が打たれていたように記憶する。

舞台は1992年、まだ携帯電話も存在しない(少なくとも普及していない)時代のミラノ。ある有力者の肝いりで作られる日刊紙『ドマーニ』のパイロット版(ヌメロ・ゼロ)作成チームのチーフ、シメイに、その様子を後に本にするためのゴーストライターになってほしいと頼まれた語り手兼主人公のコロンナが、仮の編集部の校閲デスクとして参加する。パイロット版はあくまでも事件をリアルタイムで取り扱う必要がないのだからと、ちょっと前の事件などを基に記事を作って紙面を構成、12号まで発行しようとしているのだが、1992年のイタリアではいろいろな政治スキャンダルが起こったようで、それら現実のスキャンダルについて、メディアがどう見せるかという談義をしながらのメディア批判になっている小説。

記者のひとりブラッガドーチョが、ムッソリーニが生きていて、1970年、彼を頭目にしてクーデタがもう少しで起きそうだったが、その瞬間に彼は死んだのだとの情報を得てコロンナに話す。このクーデタ未遂事件に関する情報がもとになって小説後半ではスピーディーに話が展開する。「ネタバレ」なんてものを嫌がる人には話さない方がいいだろうから、どんな展開かは書かないでおく。エーコの小説ではいちばん短いものだと思うけれども、現実の92年のイタリアと照らし合わせてみればその濃度がわかるだろうと思う。

僕は小説を読むとき、そこに書かれている傍系の情報(どうでもいいこと)がとても気になってしまう。それら、気になって取ったメモの一部は、以下のようなもの。

洗濯物を窓の外に干すのはナポリ。
イタリアの売春防止法は1958年。(日本もそのころではなかったか?)
ムッソリーニの身長は166cm。(思ったより高い)
その息子ヴィットリオは映画脚本家。長年ブエノスアイレスで過ごした。(本当か?) 

等々。


こういうことって気になるでしょう? 

2016年11月18日金曜日

月とボラーニョ


つい2、3日前にスーパームーンなどと騒いでいたと思ったら、もうこんなに影ができている。月って意外と早く欠ける。朝、洗濯物を干しながら眺めた月。

ボラーニョの新刊。Roberto Bolaño, El espíritu de la ciencia-ficción (Barcelona: Alfaguara, 2016).『SFの精神』

クリストフェル・ドミンゲスが前書きを書いている(「文学へのイニシエーションの小説であるばかりでなく、性や恋愛へのイニシエーションの小説でもある〔略〕ロベルト・ボラーニョの篚がいつまでも閉じないことを望む」等々)。末尾には「ブラーナス、1984」と。

DFだったころのメキシコ市、というか、1970年代のDFで、屋根裏部屋に暮らす二人の若き詩人が好きなSF作家にひたすら手紙を書き送る、という話らしい。

そして特筆すべきは巻末付録。この『SFの精神』の創作ノートの一部が24ページにわたって写真で掲載されている。


僕のノートとボラーニョのノートの差。

2016年11月13日日曜日

久々の週末

前回、ドルチェ・グストを研究室に置いたことを書いた。

そのとき書き忘れていたが、実は最近はステンレス・フィルターも使っている。これがペーパー・フィルターとは全く異なる味で驚く。色が違う。ねっとりとコクが出る。粉末がカップに残り、それを飲むと苦いので、飲み方に気をつけなければ。

昨日は新国立劇場の研修生終了公演『ロミオとジュリエット』(田中麻衣子演出)に行ってきた。田村将一の演じるロミオが若く、世紀の恋も若気の至りの軽薄な恋だということがよくわかった。シェイクスピアの優れた言葉遊び(あるいは河合祥一郎による訳の妙か?)も楽しかった。やはり古典はいいのだ。

3週ほど前に護国寺に行ったことを書いた。そのとき本当は僕はここを目指していたのだ。

東京教育大跡地、すなわち教育の森公園。

大学の敷地だと考えれば、現在の筑波大に比べれば確かに狭い。が、充分に広い都心のこの閑静な場を手放したのは、筑波大のために嘆くべき事実だと思う。残念だな。


こどもフェアみたいなことをやっていた。

2016年11月11日金曜日

大きな一歩……?

僕にも矜恃というものがあって、こんなものを見せるのは恥ずかしい(と言いながら見せている)。

子供の頃からコーヒーを淹れてきた。

最初はサイフォンだった。香りが何ものにも代えがたい。

高校に入ると寮住まいだったので、サイフォンのような大がかりなものは使えなかったので、ドリッパーにペーパーフィルターで淹れた。

いわゆるエスプレッソはあまり好きではないが、好きでないのは焙煎が深すぎるからであって、中煎りにした豆をエスプレッソで淹れると美味しいと知ってからはエスプレッソ・マシンもある。

そんな風にしてコーヒーを飲んできた。手で淹れると一回ごとに当たり外れはあるが、それがまた楽しくて、ともかく自分で淹れている。

研究室にもずっとドリッパーを置いていた。

そんなコーヒー生活にまさか変化が訪れるとは。

大学の研究室は毎日訪れるとは限らない。長期休暇の時期だとましてや足が遠くなる。豆(さすがにミルまで置く気はないから、挽いた粉というのが正しい)を長く放置して古くしてしまうこともある。

これを打開する道は2つだ。ミルを研究室に置くか、冒頭にあるようなマシンで既成のパックに入ったコーヒーを作ること。

ミルを置いても、長期休暇中には豆そのものが古くなる。結局、ふたつめがいちばん妥当な選択肢ではないか。

そう思って買ってしまった。ネスカフェ〈ドルチェ・グスト〉。

こんなパックを使う。

問題は、あくまでもお仕着せの味しか味わえないということだな。ブレンドやエスプレッソ、等々。あくまでもストレート・コーヒーを、今日はグワテマラで、……などと選んだりはできないということだ。ネスエフェがグワテマラ……等々を商品化してくれない限り。


まあいいや、意外に美味しいし。今日(もう昨日だが)なんざ朝から秘密の仕事、昼は教授会、夜の仕事に備えて研究室で過ごす時間も長かったので、3杯も飲んじまったぜ。

2016年11月10日木曜日

また記録を怠ってしまった。

11月5日(土)には「第1回現代文芸論研究報告会」というのをやった。僕は開会の挨拶をした。発表5人にそれぞれコメンテーターがついて、充実した研究発表だった。〆には蜂飼耳さんの講演。漢詩の読み下し文と翻訳と、自身の訳さた『堤中納言物語』とその訳文を示され、言葉を置き換えることについてお話しいただいた。

6日(日)には「人生に、文学を。」第1回オープン講座というのをやった。僕はその第1部で村山由佳さんと彼女の作品を巡ってモラル・ハラスメントの話をした。受講者からの質問……というか意見がなかなか面白かった。それぞれにモラル・ハラスメント(やそれに類するもの)に苛まれた経験を語ってくださったりした。

第2部は阿部公彦さんと西村賢太さんのトーク。僕は別室でモニターで見ていたが、時々、音がよく聞こえなかったのが残念。だいぶ盛り上がっていた。

そして今週もひたすら授業。ただし、金曜は補講期間のために休講。来週も金曜は学祭で休講。2週連続おやすみだ。

ヤタ!


……

2016年11月3日木曜日

土日などない

週末が潰れるから、今日は休みだ。

まあ、単なる祝日なのだが。日本国憲法が公布された日で、その前は紀元節、つまり明治天皇の誕生日で、「文化」の日などと名乗ってはいるが、そんなわけで「明治の日」に改めようなどという不穏な動きがあるとも報じられている日。

太陽の照り返しを受けて何かが近づいてきている感じがわかるだろうか?

この直後、ゴジラが現れたのだった。

……なんちゃって。

これは誰でしょう?

コンラッドだ。

今度、『コスタグアナ秘史』の書評を書かなければならないので、念のため。英語のAnnoted版をKindleで持っているのだが、まあ、念のため。たまたま大学の図書館(当然だが)と近所の区立図書館にあることがわかったので、休日の今日は大学よりも区の図書館だろうと思って借りてきた次第。

今週の土曜日は「第1回現代文芸論研究報告会」というのをやります。蜂飼耳さんの講演もあり。

そして、日曜日は、既に何度か告知している「人生に、文学を。」の第1回オープン講座。村山由佳さんの司会をする。


どれも来てね。

2016年10月31日月曜日

薔薇の木の下には何が眠っている?



課題図書は村山さん著作二つ。『放蕩記』『ラヴィアンローズ』。いずれも集英社。講演タイトルは「モラルハラスメントと自由――透明な鎖をどう断ち切るか」。

課題図書の内容を少しまとめておこう。出席者はあらかじめ課題図書を読んでから来るようにとのことなので、ここでは、いわゆる「ネタバレ」はよしとしようじゃないか。

『放蕩記』は母と娘の問題を扱ったもの。主人公は鈴森夏帆。小説家。結婚中に小説家としてデビュー。その後、離婚。7歳年下の恋人・大介と暮らしている。

夏帆の母が美紀子。大介からは「いい人」だと思われるような茶目っ気と明るさを備えた人物だが、娘からすればある種の嫌味が感じられる物言いばかりする。自己顕示欲と潔癖さが鼻につく。鼻につくだけならばいいのだが、夏帆は夏帆で母への遠慮や、彼女に好かれたいという思いなどがあり、その言葉の呪縛から自由になれない。

大介らに助けられながら夏帆が幼少期からの思い出を語ることによって、自らの呪縛を解いていく過程であり、そこで語られる半生の物語でもある小説。終盤、駆け足に騙られる夏帆の男性遍歴が実は怖い。エスの世界なども描いているところはサービス精神に満ちているという感じか。

『ラヴィアンローズ』は『放蕩記』で少し触れられた「前夫」との仲を展開したもの。ただし、設定は『放蕩記』とは共通していないので、続編などと見なすことはできない。

主人公などは前回書いた。不倫によって夫との関係がハラスメントの加害者と被害者のそれだと気づき、主人公の咲季子は夫に反旗を翻し、結果的に殺してしまうのだが、そうなって気づいてみれば年下の不倫相手・堂本裕美も、実は求めていたような王子さまではないことに気づくという結末が小気味いい。


ここではもう「モラルハラスメント」という語が出て、夫の言葉の暴力がよりわかりやすく展開されていて、後半のノワールな世界に導かれて行く。

2016年10月30日日曜日

富士巡礼

散歩しているとつい遠くまでいたり、実は護国寺の近くに来ていることに気づいた。

ちゃんと訪ねたことはなかったので、行ってみた。護国寺。

大仏の微笑みに衝撃を受けた。菩薩のような仏だ。

猫はこちらを向いてくれない。

で、音羽富士というのがあった。


山頂には浅間神社まである。これがないと富士塚とは言えないらしい。

なかなかの散歩であった。寒かったので今秋、というのか冬というのか、ともかく初めてのスタジャン(フランクリン・マーシャル)を着ていたのだが、中は汗をかいたのだ。

おまけ。たまに思いついて作るトルティーリャ・エスパニョーラ。アリオリを作るのが面倒なので、マヨネーズにすり下ろしたニンニク、オリーヴオイルを少し加えて即席アリオリを添える。



先日呼んでもらったホーム・パーティで、友人がカボチャ入りのトルティーリャを作ってくれて、少人数用にいい具合に成形するにはどうすればいいか、という話になり、その彼女と僕が実は同じ結論にいたったらしく、その話で盛り上がったのだった。それで、思い立って作った次第。

富士巡礼の後は卵料理に限る……? 

2016年10月29日土曜日

薔薇色の人生

来週の日曜日、「人生に、文学を」オープン講座第1回というので村山由佳さんの講座の司会をせねばならないので、課題図書のうちまだ読んでいなかった『ラヴィアンローズ』(集英社、2016)を読んでいた。母と子の確執を描いた『放蕩記』(集英社文庫、2014 / 2011)よりもさらに、夫の妻に対する言葉の暴力(このふたつのテーマでもって「モラルハラスメント」というテーマで話す模様)が最初から痛く辛く響く作品だ。

不倫相手の堂本裕美との出会いの鮮烈さなどがチャームポイントであるに違いないこの小説の、だからこその夫・藍田道彦の言葉の刺が痛くてたまらなくなり、そうだ、息抜きに薔薇を見に行こうと思い立ったのだ。

La vie en roseというタイトルから察しがつくように、薔薇に関係する話だ。主人公の咲季子はフラワー・アレンジメントの教室などを開き、ガーデニングやその他の活動が話題になって本なども出しているカリスマ主婦(というのかな?)だ。冒頭からバラ園の記述が読者をその世界に誘い込む。

そういば、そろそろ薔薇は見頃だろうか、と思い立ったわけだ。それで、いちばん近い薔薇の見どころといえば、やはり旧古河庭園。以前、このブログにも書いたことがあるけれども、そのときは薔薇の季節ではなかった。だから薔薇を見に行ってきたのだ。

旧古河庭園はかつてよくTVドラマのロケなどにも使われていた(はずだ)典型的な洋館と、高低差のある庭園が特徴だ。上の段の庭園はフランス式のシンメトリーで、薔薇が特に名物。

下の段が日本庭園になっている。

この薔薇の浮き上がりようはどうだ! あ、つまり、写真映りのこと。


館内の喫茶店でコーヒーなども飲んだのだった。(写真はない)

2016年10月23日日曜日

知的生活の方法? 

ところで、富山に行った際、話題の富山市立図書館にも行ってきたのだ。隈研吾の手になる、木を多用した館内は今から国立競技場を見るようであった。ただし、吹き抜けのある作りは、僕のような高所恐怖症の人間にはいささか怖い。

さて、地方に出かける必要のない久しぶり週末、当然、仕事をしているのだ。

2-4冊、本を書く約束をしている。「約束」をどこまでの範囲にとるかによって、冊数が変わる。2-3冊、翻訳を約束して、その「約束」の意味を取り違えてまったく話を無駄にしたことのある(1冊分の翻訳原稿を作ったのに、いまだに宙に浮いている)僕としては、常に「約束」の範囲は怖いものなのだ。でもまあ、とりあえず、2-4冊だ。

それらをそろそろ仕上げにかからねば、と思うのだが……いつまで経っても終わらない。

書いてはいるのだ。でも僕はまだまだ「一気呵成に書き上げる」神話にとらわれているのだろうな。

僕が準備している本だから、当然、それは多くの本に依拠している。そうした文章が書き進められないということは、

1)書く時間をつくらない
2)書くための準備(読書)をしていない
3)読んだことは読んだし、書く時間も作れるのだが、読むことと書くことの橋渡しを面倒くさくてやっていない

のどれかの理由によるものなのだ。そしておそらく僕は圧倒的に2)か3)の理由によって書き進まない。

3)つまり読むことと書くことの橋渡しとはこういうことだ。僕らはだいたい、次のような手順を踏んで文章を仕上げる。

i) 本を読む。
ii) メモを取る。カードとかノートとかいうやつ。
iii) メモを基にある単位の文章(大抵は1段落)をつくる。
iv) そうしてできた段落などを組み合わせ、全体の流れを考えたり修正したりしつつそれに組み入れ、もっと大きな単位(節、章、など)を作っていく。
v) めどが立ったところでその節なり章なりを冷静に書き直してみる。
……
後はひたすら、推敲。何度も推敲。

このii)とiii)の手続きが「橋渡し」。実はこれが面倒なのだ。この段階を飛ばして文章を書けちゃう人もいる。あるいは同じ人でも書けちゃう文章と書けない文章がある。書けないとき、この手続きを踏むのが実に難儀になってくる。ii)とiii)の段階ではまだ文章(章や1冊の本全編)が見えないものだから、焦るのだ。焦ると放棄したくなるのだ。

そこで、i)から一気にiv)ないしv)に進もうとする。すると、そこに問題が生じる。何かを読んで、それを紹介したり、別の文脈に組み込むべく説明する文章を書いたりするということは、実に労力を要する作業なのだ。ある章のある箇所にある本のあの一節を引用するといいとわかってはいても、それがとても難しい。

問題のふたつめは、ある本を自分の文章に組み込もうとすると、その文章を書いている間、その本を持ち歩かなければならなくなるということ。すると荷物が膨大になる。文章を書くのは、出先でも喫茶店でも、どんなところでもできる。僕の場合はむしろ、外出先の方が文章がはかどるくらいだ。ところが、そこに引用を紛れ込ませようとすると、その本が必要になる。できるだけ身軽にして歩きたいと思っている僕としては、現在執筆中の原稿にかかわる本をすべて持ち歩くなど、難しい話だ。

そんなわけで、本当はi)からiii)までの、いや、せめてii)までの作業を早く終えた方がいいのだ。iii)での作業を経て段落単位の文章をたくさんフォルダに入れておけば、文章を書く作業も楽になる。ところがii)やiii)の作業は執筆中の本の流れからすればわずかな進捗しか意味しない。だから焦りを産み、焦りは怠惰を導く。

今日もオスカー・ルイスの文章をある文章に組み込もうとして手が止まり、はて、どうしたものか、よくわからないのだから、とりあえず使えそうな文章を全部ファイルに書き写して眺められるようにすればいいのだ、との結論に達したのだが、さて、それもめんどうだ、うーむ……としばし唸った次第。で、それを実行に移さずに、この文章を書いたりしている。逃避。


いやいや。今頃卒論や修論で悩んでいるだろう学生たちを鼓舞するつもりでこれを書いているのだ、ということにしておこう。さあ君、諦めてオスカー・ルイスの文章を書き写すことから始めたまえ。それが君の文章にどう活かされるかわからないからといって焦ることはない。最低でも1行分くらいにはなるはずだ……

2016年10月17日月曜日

金沢にパストールを食べに

またまた間が空いてしまった。

10日(月)には東京外国語大学の「翻訳を考える」シリーズで温又柔、関口涼子、金子奈美の鼎談を聞きに。

15日には富山に行った。

教え子、というか飲み仲間がいるので、彼女の勤めている農場が食材を卸しているイタリア料理のレストランに。美味しかった。

富山に行ったのは翌日、金沢に行く予定があったから。16日(土)には日本フランス語教育学会で講演してきた。「世界文学の時代:ラテンアメリカ文学のひとつの首都パリ」というタイトルで1時間ばかり。

懇親会には金沢大学に勤める大学時代の先輩も顔を出してくださり、久しぶりにまみえたのだった。

二次会では美味しい酒と刺身などの食べものを。そして〆には、なんと! タコス・アル・パストールを食べたのだった。

今回呼んでくださった金沢大学のK先生と奥様のYさんが連れて行ってくださったのだが、僕が東京のメキシコ料理屋にはパストールを置いているところが少ないとブログに嘆いたのを知っていて、金沢にはあるぞ、と教えてくださったという次第。

参った。金沢、侮れない。


ちなみに、この前に金沢に行ったのは1988年3月のことだった。

2016年10月9日日曜日

ご無沙汰

ずいぶんとブログの更新を怠ってしまった。

前回の記事からいろいろなことがあったのだが、ブログも更新しなかったし、概してTwitterFacebookへの書きこみも減ったと思う。

特に書きこみを減らしたくなるような何かがあったわけじゃない。

9月24日(土)と25日(日)には京都にいた。世界文学・語圏横断ネットワーク研究会でコメンテーターをつとめた。仁和寺に行った。

10月1日(土)と2日(日)には神戸にいた。日本イスパニヤ学会第62回大会で2つの分科会で司会を務めた。2つもの分科会で司会をするなど、異例なことだ。

10月3日(火)には飯田橋文学会主催の作家インタヴューのシリーズで筒井康隆の話を聞きに行った。

翌4日(水)には同シリーズで島田雅彦の話を聞きに行った。

久しぶりに東京で過ごす週末、昨日の8日はラテンビート映画祭に行ってきた。

まずはアンドレス・フェリペ・ソラーノによる朗読劇「ホワイト・フラミンゴ」

かつてラミーロという元締めの下で殺し屋(シカリオ)をやっていた友人二人のうち独りが性同一性障害で、性転換後に再会して会話を交わすという内容。榊原広己と宮菜穗子。

僕はソラーノの「豚皮」という短編を『グランタ・ジャパン』に翻訳したことがあるのだが、初めて彼を読んだ時のような不思議な感覚が蘇ってくる。

宮さんはさすがに上智のイスパニヤ語出身だけあってその後のソラーノを交えたティーチ・インでも彼の発話を少し理解しているようだった。すてき♡

少し時間を置いて、イシアル・ボジャイン『オリーヴの木』(スペイン、2016)El olivoなんてシンプルな題をなぜThe Olive Treeとことさら英語表記にするのか理解できないので、僕は「オリーヴの木」と書く)

この映画祭でのボジャイン3作目の上映。

認知症なのか言葉もしゃべらずものも食わず、徘徊するだけの祖父を、かつて彼の命の木だったオリーヴを、オリーヴ農園の景気の悪いのにかこつけて子供たち(つまり彼女にとっての父と叔父)が売り払ったことに対する抵抗なのだと理解したアルマ(アナ・カスティージョ)が、その木がドイツの電力会社のシンボル・ツリーになっているのを発見し、叔父や友人に噓をついてそれを取り返しにいくという話。


終映後、ボジャインが登壇。話を聞いた。こちらも、すてき♡

2016年9月19日月曜日

パラリンピックの後に

この間『サンチャゴに雨が降る』なんて映画の話をしたと思ったら今度はこれだ:

福嶋伸洋『リオデジャネイロに降る雪――祭りと郷愁をめぐる断想』(岩波書店、2016)

今年の7月刊だから少しはリオデジャネイロでオリンピックがあることにあやかろうという気持があったのだろう。たとえ著者本人にはなくとも、出版社には。で、僕もたいがい天邪鬼なもので、オリンピックも終え、パラリンピックが閉会した後に、この本の記録をアップするのだ。

魔法使いの国の掟』の福嶋伸洋の第二作はリオでの留学時代に行き交った人々、体験した街の思い出と、そこにを巡る音楽や文学の話などを綴った短い文章の集成だ。ひとつひとつの文章が大半は3ページばかりなので読むリズムができる。ましてや福嶋さんの文章は美しい。

本のタイトルにもなった表題作(というのかな? 「リオデジャネイロに降る雪」というタイトルのエッセイ)は実にしゃらくさい。ヨゼフィーネというドイツ人と知り合ったと「ぼく」は言う。他の学校仲間から彼女はベルリンの出といっても東ベルリンじゃないかとの予測をつきつけられたという。その彼女が12月のクリスマスの時期になってもリオに雪が降らないことへの不平を述べたという。後に「ぼく」は1920年代にリオに滞在した堀口大學が、ブラジルの詩人はフランス人の真似ばかりしてふりもしない雪の詩なんぞばかり書いていると証言したという話を思い出す(これについては、別のエッセイに詳しく書いてある)。そして結ぶのだ。

いまのぼくだったら、イギリスの詩人ジョン・キーツの "Heard melodies are sweet, but those unheard are sweeter" (耳に聞こえる音楽は美しい、だが聞こえない音楽はそれよりも美しい)という言葉に倣って、「見えない雪は見える雪よりもきれいだ」と、あの十二月の彼女に言いたい気がする。(108)

と。

な? 実にしゃらくさいだろう? 洒落くさいのだよ。素晴らしいのだ。ちくしょうめ。同じく雪の降らないメキシコについて、「DFに降る雪は……」とか言いたくなるじゃないか。(そういえば、ええ、僕だってメキシコ市について書きますよ)

けれども、そんな洒落のめした構えを突き破って、学生・福嶋伸洋のリオ体験にとっていちばんの自己覚醒の瞬間は指導教官ヴェラとの対話だろう。どうしてブラジルに来たのか訊ねられて福嶋さんはボサノヴァが好きだからだと答えたという。ヴェラの反応:

「わたしもボサノヴァは好き」と言った。リオっ子の彼女がボサノヴァを好きではないなどということがありうると、ぼくには想像できなかったことも知らないまま。「ジョアン・ジルベルト、ペレ、クビチェッキ。ブラジルが幸せだった時代の音楽……」。
 数々のボサノヴァの詩に描かれた楽園のようなリオデジャネイロをただ“見つける”ためにそこにやってきた二十三歳のぼくには、幸せでなかった時代のブラジルを見据える心構えはできていなかった。(51 下線は引用者)


この背理法(と言えばいいのかな?)にははっとさせられる。「好き」という答えが「好きではない」という選択肢の可能性を宿していることに気づいたときに、自身のユートピア探しがディストピアの発見になるかもしれないと気づく瞬間。どこか外国の都市で住み、学んだことのある者たち誰もが体験するかもしれないし、あるいはしないまま終わるかもしれない瞬間。体験した者が必然的に抱くことになるはずのアンビヴァレントな土地への愛。あるいはその愛はブラジル人たちの言う(そして本書でも何度か説明される)郷愁saudadeに似ているのかもしれない。

2016年9月11日日曜日

すべては10歳の時に始まった。

9月7日(水)には小野正嗣さんと『チリの闘い』について語ってきた@下北沢B&B。

前半は主に映画のことについて、後半はこれに関連する映画や文学、作家たちのことについて。

小野さんは、1973年9月11日のクーデタ当時はまだ2、3歳の子供だったけれども、僕は10歳になった直後だったし、10歳のころは今より大人で、世界情勢にも目を光らせていたので、リアルタイムでクーデタのニュースを受け取ったようゆ思う。

9月10日(土)には奄美市立屋仁小学校というところで話をしてきた。ま、要するに僕の母校だ。

僕の在校中の出来事が2つ、学校のサイトの「概要」に出ていた。73年には作文コンクールで3年連続学校賞をもらっていること、75年3月には体育館が落成していること。体育館の落成は僕は74年3月だと思っていたが、勘違い。

これらの出来事に加えて、僕は校庭に全員で芝生を植えた話をした。73年の11月か12月くらいだったと思う。

学校を離れ、次は集落の浦にある蒲生神社というところに纏わる平家の落人伝説の話をした。その伝説の名残である土地の話などを。それらへの対処の仕方、それらについての知のあり方を説明した。そして僕はこの落人伝説の話を、子供のころに読んだ本で知ったのだと説明。

子供のころに読んだ本というのが、これ。

『笠利町誌』(1973)

これも小学校4年の時、10歳の年だ。はじめてギターを買ったのも10歳。家が建ったのもその年。すべては僕が10歳の時に始まったのだ。


そういう意識があったから僕は、体育館の落成も4年の時だと思っていたのだと思う。

2016年9月4日日曜日

シリーズ〈ボラーニョ〉を締めてきた

昨日、9月3日(土)、丸善ジュンク堂渋谷店で『第三帝国』プロモーション第3弾のトークショウに行ってきた。お相手は野谷文昭(『アメリカ大陸のナチ文学』)さんと斎藤文子さん(『はるかな星』)。

野谷さんが議論を進行する形だった。では、柳原君、『第三帝国』の内容を一分でまとめて、って感じだ。

我々3人が〈ボラーニョ・コレクション〉で訳した作品に共通する項目(『はるかな星』は『ナチ文学』の最後のエピソードからのスピンオフだから共通するのは当然だが)は飛行機で空に文字(詩)を書く試み。『ナチ文学』のカルロス・ラミーレス=ホフマン、それを展開した『はるかな星』のカルロス・ビーダー、そして『第三帝国』の名もなきセスナ機。『第三帝国』ではこのエピソードが9.11(カタルーニャの日、かつチリのクーデタの日)に設定されていること、これのモデルと思われるラウル・スリータのことなどにも話が及んだ。

ボラーニョの描く悪、その描き方(描かずに皮膚感覚へ訴えかけてくる仕方)、空(天気)への意識、風景描写との対比、などを語った。

斎藤さんは『第三帝国』の結末部には物足りないものを感じたようだ。終わり方は、確かに、意見の分かれるところかもしれない。あれはあの終わり方しかないのだと意見する人もいる。



昨日も少し、『コロニア』について言及したのだった。事実に根ざしつつそれをいかにも映画的もしくは小説的エンターテインメントに仕立てるというのもひとつの手だろうが、そうではなく、描かないで描くという描き方をしているのがボラーニョなのだと。

2016年8月31日水曜日

ジュリエッタってわたしのこと? とフリエタ言い

ボラーニョ・コレクション・プロモーション第3弾。



そのためもあって、25日にはアテネ・フランセ文化センターで『チリ 頑固な記憶』を見てきた。クーデタの16年後、1999年にチリに戻ってこの映画をいろいろな集団に見せ、その反応を記録した映画。こはれ『チリの闘い』三部作を見た後にぜひとも見ておきたい1作だ。

下北沢でのイベントの三日後、9月10日には、ここで話してくる(リンク)。

屋仁小学校という、僕が学んだ小学校で話してくる。小学生16人(1年から6年まで全学年、全校生徒だ)を前に、いったいどんな話をすればいいのだろう? 

上のリンクから飛べる小学校のHP、「概要」のところには、僕が在校中の出来事がふたつ書いてある。でも、もちろん、ここには書いていないことの方が多い。そんな話から始めてみようか。

ところで、ペドロ・アルモドバルの新作Julieta 『ジュリエッタ』として公開されるそうだ。

本当に一部の映画配給会社のスペイン語をないがしろにする態度には腹にすえかねるものがある。トレーラーのごく冒頭であれほどはっきりと「フリエタ」と発音されているのに、「ジュリエッタ」でごまかしがきくと思っているらしいところが舐めた態度というしかない。4億数千万に上るとされるスペイン語話者に対する冒涜なのだ。安倍晋三並みの傲慢さだ。


やれやれ。

2016年8月23日火曜日

今日の学習:ロンメル・ジレンマ

台風に閉じこめられ、学会関係の仕事をしていたら、リオ・オリンピックの閉会式の話題でツイッターのトレンドが騒然となり、何ごとかと映像も確認したら、安倍晋三の大根役者がマリオに扮してリオに現れたとか。

恥ずかしい。いくら何でも恥ずかしい。ふだん日本国民たることをことさら言いつのるつもりもない僕も、さすがに日本人として恥ずかしいと思ったのだった。だからすぐさまツイッターに「ほんのちょっと前まで日本はおのれを恥じることができると自慢していたはずなのに、今や恥そのものがのさばっている」という主旨の文章を書きこんだのだった。かつてブッシュ(子)に対して "Shame on you" と叫んだ映画監督がいたが、僕としても同じ叫びをあげたい。

そして台風一過も一過、夕方には下北沢に出かけて行った。米光一成さんとのトークをB&Bでやってきたのだった。

米光さんはピーター・P・パーラ『無血戦争』を紹介し、ゲームとしてやっていることを現実と混同してしまう「ロンメル・ジレンマ」などの現象を説明し、『第三帝国』中に言及されるゲーム〈ダンジョンズ・&・ドラゴン〉からRPGが派生していくことなどを語ってくださり、ゲームを取り込んだこの小説について、僕の持ち得なかった視点を開いてくださったのだった。


机上でウォーゲームをするうちに戦争で勝った気になる……というか、自分も戦争したくなっている男の幼児的自意識を肥大させるだけのオリンピック引き継ぎ式演出は本当にいかん、と思いながら帰宅したのだった。

2016年8月22日月曜日

日本一の雨男

8月16日にはアレハンドロ・サンブラの講演会@セルバンテス文化センターに行った。

8月18日にはEva夏公演『月と薔薇のブルース――雨音がブルース2――』@中野ザ・ポケットに行った。全人類クローン化計画を扱ったものだ。かつてクローンによる世界征服を企むマッドサイエンティストを主人公兼語り手とする小説を翻訳した僕が見ないわけにはいかないだろう。

8月20日、こんな事態になった。

ちょっと前にある大学に行った。そこで懐中時計を取り出したのを憶えている。その日は、打ち上げで飲みに行った。翌日、時計がなくなっていることに気づいた。前日の大学に問い合わせてみても要領を得ず、後日、またそこを訪れた時に探してみたのだが見当たらず、時計はすっかりなくしたものだと思い、諦めて新たに買うことにした。同じ型の色違い(金ではなく銀にした)。

20日、前日ソファに掛けたチノパンを取り上げたところ、そのウォッチポケット(蓋なし)に入れたはずの時計がなくなっていた。ソフィのクッションに少し隠れているのが見えた。つまりウォッチポケットから飛び出してしまっていたのだ。さらにふと見ると、クッションの奥にも何やら見える。メキシコの1ペソ貨幣のようだ。

コインを取り出すべくクッションを上げた。他の硬貨に混じって、金の時計も出てきた。


つまりなくしたと思ったその日、酒を飲んで帰ってチノパンをソファに掛け、その時、時計が落ちてしまったのだ。翌日、それに気づかず、なくしたと思ってしまったようなのだ。

今さら時計など必要か? という人もいるかもしれない。だが、我々大学教員はセンター試験の監督の時など、スマートフォンの時計を使ってはいけないので、こうした時計専用マシン(?)が必要なのだ。そうでなくても僕は懐中時計が好きだし、こうして持っている次第。

ソーラー電池、電波時計なのだ。


今日はこれから『第三帝国』について米光一成さんとのトークに行ってくる。下北沢のB&B。台風で外は雨と風が激しい。

2016年8月15日月曜日

ゴジラとともに、あるいは石原さとみ讃

庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』(東宝、2016)である。

Sin Godzilla(ゴジラなし)ではない。むしろCon Godzilla(ゴジラとともに)だ。「シン・ゴジラ」の「シン」の意味は、たぶん、「新」だ。事実、この作品には先行するゴジラ映画に比してふたつの新機軸がある。

ゴジラが出現し、人類が英智を振り絞り、技術力=軍事力の粋を凝らして退治する。ゴジラ映画のストーリーなど常にそんなものだし、『シン・ゴジラ』もそんなストーリーだ。ゴジラのあり方やその退治の仕方などに意匠を凝らすのがこの手の映画のヴァリエーションだ。その意味だけでもこの映画は十分面白い。世代交代を経ずして進化する(要するに変態する)ゴジラなのだから。

ただ、今回の新しさはゴジラに対峙し退治すべく振り絞られる英智(インテリジェンス)が政府情報機関(インテリジェンス)であることだ。ストーリーのほとんどは総理官邸とその避難先である立川の防災基地で繰り広げられる。だからこそ、軍事力行使のための手続きが、たぶん、ゴジラ映画史上はじめて前景化されることになった。

それゆえこの映画はフクシマの悲劇と戦争関連法案をめぐる昨今の事情へのアレゴリカルなレヴェルでの批判として理解される。そういう解釈をしている人は多いようだ。防衛大臣が女性であること(余貴美子)、金銭スキャンダルに見舞われたくせになぜかやめずにいる実在の大臣によく似た人物(誰とは言いません)のキャスティングなど、なるほど、アレゴリカル・キャラクターは多い。合衆国の傀儡である政府の悲哀もあぶり出されている。主人公の大臣補佐の名矢口蘭堂(長谷川博己)すらアレゴリー的だ。こうした解釈が可能になるのも、怪獣パニックものではめったにみられなかった官僚的手続きが語られるからだ。

この映画のふたつめの新しさは、おそらく映画中すべてのキャストに徹底されていた早い台詞回しに由来する。ハリウッドのパニックものを意識しているのだろう。母語話者も100%は理解できないのではないかというスピードでの会話はキビキビとして小気味いい。その台詞回しの成果として、この映画の第二の新機軸が出現する。

石原さとみだ。彼女の演じるUSA大統領特使カヨコ・アン・パターソンだ。

日本語もしゃべれる外国(他国もありうるが、話をわかりやすくするために、ここではUSAのみに話を絞ろう)からの使者というのも、この手の映画ではなくてはならない存在だ。しかして、そうした存在はどんな発話をしていたか? いわゆる「カタコト」である。英語訛りを消しきれない日本語話者だ。いや、むしろ、彼らは英語訛りを残していなければならなかったはずだ。それが外国からの使者であり、異者であり、彼と我とを繋ぐ存在となりえる者の符丁もしくは聖痕だったのだ。

しかるに石原さとみは祖母が日本人という設定で、日本語は流暢に(石原さとみだと思えば当たり前だが)、英語もそれなりに(さすが、AEONのCMは伊達ではない。とはいっても、もちろん、完璧ではないが、それには目をつむろう)、そして日本語中に混じる英単語は英語風に発音する発話を駆使して不思議と嫌味なしに演じている。

不思議だ。こんな発話がこれだけ嫌味なしに演じられるのは、既に述べた台詞回しの速さだけでなく、この女優の力に預かるところ大なのだろう。石原さとみって、実はすごい役者なのじゃないかと思う。

いや、女優として石原さとみその人が好きだ、ファンだと言っているわけではない(まあ好きよ。でも、……というくらい)。ファンというならば僕は、今回ほぼスッピン(もしくはスッピン風メイク)で環境省の切れ者官僚を演じていた市川実日子さんのファンだ。お姉さんの市川実和子さんともども、大ファンだ。彼女たちのことなら何ページでも讃えてみせよう。そうではないのに、今回、石原さとみに魅入られてしまったのだ。


我々は石原さとみとともに生きるしかない。

2016年8月14日日曜日

壊れていく

オリンピックだ。

まあさしてオリンピックには興味もないのだが、普段から見ている種目ならば、観戦しなくもない。

錦織圭とアンディ・マレーの試合を見ていた。昨晩のことだ。試合はマレーの一方的な展開だった。やはりジョコビッチ、マレーとそれ以下の間には大きな開きがあるのだろうか? 

それはまあいい。その試合、第2セットの途中にニュース速報が流れた。

いよいよか? と思った。いよいよ何なのかはわからない。でもまあ、ニュース速報にはそんなふうに身構えさせる何かがある。

で、流れてきたのは、「人気アイドルグループ スマップ解散。12月31日で 所属事務所発表」(文面は記憶に頼っているので、多少違うかも)との報。

なんだこれは? 

どうなっているのだ? 

この国は大丈夫なのか? 

もちろん、SMAPの人気と知名度、その影響力を知らないわけではない。どういうわけか大学時代の同期の女性には木村拓哉はことに人気だ。それ以外のメンバーのファンだってたくさん知っている。

SMAPの先日の事務所移転騒動、異様な謝罪映像も知らないわけではない。愚だ、という印象を持つのみだが。

しかし、それにしてもなあ、オリンピックを中継していたのはNHKだった。ためしに、他局でこの速報が流れているか確かめるべくザッピングしてみた。それぞれ瞬時のことなので、断言はできないが、少なくとも僕は他局で確認できなかった。あるいはNHKだけのスクープなのかもしれない。

もしこれがNHKだけのスクープなのだとすれば(ツイッター上で流れてきたので、それ以前にどこかのスポーツ新聞が記事を掲載したことも知っている。だから文字どおりの「スクープ」というよりは、これは独占公式発表)、そこには別のレベルの考察を加えねばならないだろう。「所属事務所」つまりジャニーズ事務所の横柄というか何というか……

まあいいや、そのことを措いておこう。ともかく、これが深夜のNHKでニュース速報で流すようなことなのか、という話だ。

この価値観(SMAP解散はNHKがニュース速報で流すべきことである)が疑問を引き起こさないのだとすれば、この国は僕が思う以上に何らかの事態が進行しているのだろう。僕はその世界観にとり残されてしまっているのだ。「何らか事態」というのは、報道のサブカル化かサブカルの肥大化かだ。あるいは社会の幼児化だ。サミットの晩餐会にAKB48を出演させるような感覚の容認だ。社会における価値の序列の崩壊だ。

如何に「国民的」と呼びうるほどとはいえ、SMAPはたかだかアイドルだ。そんなのがニュース速報の価値に見合うのだと言われたら、SMAP支持者がそもそも迷惑がるのではないか? 


でもそれは、たかだかエージェント(代理人)に過ぎないはずの「所属事務所」が、当のアーティストたちの意向の障害になっていいのだとうぬぼれることと似ているのかもしれない。

2016年8月10日水曜日

早くも紅葉が……

京都に行ったのは日本イスパニヤ学会の理事会があったからだ。僕は理事3年目(任期4年)で、毎年8月の理事会は京都でやることになっている。

このところ京都に行く際には1回につき1箇所ずつ観光旅行をすることにしている。観光地の神社仏閣などを訪ねることにしている。

今回は三十三間堂。

10歳の時以来だ。

隣にあった養源院では、早くも紅葉が! 


季節ってわからないものだ。こんなに暑いのに。

2016年8月9日火曜日

何回目の京都だろう?

京都に来ている。

これは〈ホテルゆにぞ〉というホテルのファサード。この向こうは鉄筋コンクリート十数階だてのビルになっている。

でも、ここに泊まっているわけではない。

京都に来るのはもう何度目にもなるのだけれども、今回、はじめて京都駅よりも南側に宿を取っている。九条のあたりだ。

このゆにぞは四条通を少し入ったところにある。

前回京都に来たときに、四条西洞院にあるハンバーグ屋〈ハンバーグ・ラボ〉に行って、そこがたいそう美味しかったので、今日も来てみた次第。(ただし、日付が替わっているので、もう昨日のこと)

カウンターに座れば、オープンキッチンでハンバーグを作っている姿が見られる。

ウェイトレス(の責任者だと思うのだが)が麦わらのカンカン帽姿で応対してチャーミングだ。

きっと僕は帽子好きなんだな。


ハンバーグ、そんなに好きというほどではないのに、こうして〈ハンバーグ・ラボ〉に来ているのだった。

2016年8月5日金曜日

年中行事の大切さ

昨年、新国立劇場演劇研修所とちょっとした仕事をしたので、時々、ご招待いただく。今日も第十期生の公演に行ってきた。

朗読劇「ひめゆり」脚本 瀬戸口郁、構成 道場禎一 演出 西川信廣@新国立劇場小劇場 The Pit

明日は8月6日だ。毎年、この時期になるとメディアはこぞって戦争を取り上げた。戦争のドラマや映画を流し、メディアの戦争関与についての反省の特集記事を掲載していた。そんなに遠い昔のことではない。

今、8月にメディアで取り上げられる戦争の話題はいつの間にか激減しているように思う。

以前のそれは、いわば年中行事だった。斜に構えた者などは、そう位置づけて鼻白ませていたかもしれない。僕にもそんなところがなかったとは言わない。でも、年中行事は年中行事であるがゆえに大切なものなのだ。8月に戦争のことを語らなくなったら、僕たちはきっとまた戦争を始める。

『ひめゆり』はもちろん、ひめゆり学徒隊を扱ったもの。沖縄の一高女と女子師範、それぞれの広報誌のタイトル「乙姫」と「白百合」を合わせて「ひめゆり」。沖縄戦の最中、看護救援に駆り出され、多数が死んだ。

劇は石垣島から女子師範に進学した3人の少女に焦点を当てたもの。朗読劇らしく台詞と地の文とを訳者が本を手に持ちながら発し、最低限のアクションで補う。


この研修生公演は3年の研修期間の最後の年に行う者。修了生なども参加するけれども、中心は最終年度の研修生が務める。さすがに3年目ともなると、皆、立派な役者だ。すすり泣きの声はあちこちから聞こえた。

2016年8月4日木曜日

トルタはサンドウィッチではない

以前、星野智幸さんがどこかで、トルタの屋台のことを書いていた。

トルタtortaというのはポリージョbolilloと呼ばれるコッペパンをかたく、平たくしたようなパンを水平に切り、フリホール豆のペーストを塗っていろいろな具を詰めたものだ。

サンドウィッチではない。メキシコではイギリス式のサンドウィッチのことはsandwichesと英語からの借用語で呼ぶ。トルタはあくまでもトルタだ。

で、そのトルタの屋台サチータ。日替わりで都内のどこかに出没する。

木曜日は渋谷の新南口近くに店を出している。それで、行ってきたのだ。

黄色い車。

一番人気だというティンガ。これで500円。


東大本郷の構内には屋台村と言って何カ所かに日替わりで屋台が出るのだが、ここに参加してくれないかな……

2016年8月2日火曜日

端っこつまむと線香花火♪ 

僕の所属する現代文芸論研究室は毎年夏に合宿をするのが恒例になっている。

今年も、8月1日から2日にかけて行ってきた。白子海岸だった。

行って何人かの学生たちの研究発表を聴き、食事し、宴会し、翌朝また研究発表を聴き、というスケジュール。

卒論を準備中の学部学生から、大学院生まで、『古事記』からコルタサルまで、いろいろなのだ。

夜、宴会の後、というか、途中、近くの海岸で花火をした。


最近のカメラは大したもので、ストロボなしでもこんな絵が撮れるのだ。

2016年8月1日月曜日

夏は始まらない

ともかく、僕らはファシズム政権の誕生を見たのである。国と、そして昨日、都で。教科書や歴史書の記述としてでなく、繰り返される茶番として。

歴史上、最大のファシズムは戦争でしか倒れなかった。このことが心配の種だ。先日、ボラーニョ『第三帝国』発売記念イベントで都甲幸治さんが言っていたことが不気味な警鐘となる。ナチは悪いことをしたから戦争に負けたのではない。つまり勧善懲悪の摂理は働かない。

僕はこのファッショ政権が一刻も早く倒れて欲しいと願うが、それが戦争によってであることは願わない。さりとて、論理(および倫理)だけでは、もはや打倒できないだろうとも思う。

安倍晋三の背後に(アメリカ合衆国のジャパン・ハンドラーたちと並んで)広告代理店が存在することはたまに言われる。では、なぜ反対勢力も広告を利用しないのか? ピノチェト政権打倒のための国民投票の成功の裏に広告代理店を見出したのはアントニオ・スカルメタ/パブロ・ラライン(映画『NO』)であった。

まあいいや。個人の身の振り方としては、身近にいるファシスト支持者たちにどう対処していけばいいのか、そのことが問われている。

原稿をひとつ送付し、これから現代文芸論研究室の合宿に向かうところ。合宿から戻ってきたら、ある授業の成績〆切り日だ。


まだ当分、夏は始まらない。(写真はイメージ)

2016年7月31日日曜日

おのれの愚図なるを嘆く

昨日はある人の博士論文の事前審査(というのをやるのだ)があって、それは3時間ばかりの仕事なのだけども、何やら疲れるもので、その後の時間を無駄に過ごした。

事前審査では論文そのものに教えられることもあったが、いつものごとく他の審査員の先生たちの態度や言葉に学ぶこと大であった。

今日はある原稿の〆切り日で、前からわかっていたはずなのだけど、結局、当日になってうんうん唸るはめに陥っているのはいつものこと。

お題はキューバ映画について。3,000字。

こんな、目の前の〆切りに追われているときに限って、長期的な約束を少しでも先に進めたい、あの本の原稿を書いてしまいたい、この目の前の仕事があるからあれができないんだ、と逆恨みする(ある雑誌への記事を書いているわけで、僕はここ数年、こんな仕事をあるていどしてきて、それらの原稿を集めれば、もう2冊分くらいの分量にはなるはずなんだけど、実際には単行本にするにいたってはいない。そして、単行本を書く約束は、こうして遅々として進まない、と……)のは、典型的な愚図の思想なんだな。

愚図なんだ。
 
でももうすぐ書き終えると思う。「もうすぐ書き終える」からと、こんなところに寄り道しているようでは、結局、書き終えることはないのでは、との不安も頭をもたげる。

実際に何か原稿を書く時には、それ以前にメモを取り、メモを基にしたパラグラフがいくつもあり、それらを組み合わせたり書き換えたりしながら、どうにか文章を成形して行く。その成形過程のことを「書く」というのだが、メモやパラグラフが足りないまま〆切り当日を迎えると、こんな風になる。そしてこんな風になると、こんな風に他の文章を書いたり、よせばいいのに、最近、見る習慣をなくしているはずの野球を見たりしている。そしておそらく、もう少ししたら、夕食を作り始めるだろう。脱稿は、かくして、先延ばしにされる。


ともかく、書き終えたら、明日は現文研究室の合宿♪ (書いておかないと忘れてしまいそうだ)

2016年7月28日木曜日

エマ・ワトソンは大人なのだ

フロリアン・ガレンベルガー『コロニア』(ドイツ、2015)

試写会で観てきた。コロニア・ディグニダーというチリに実在したドイツ人コロニーを舞台にしたフィクション。このコロニーはコロニア・レナセルとしてボラーニョが『アメリカ大陸のナチ文学』に記した同様のコロニーのモデルだと思われる。幼児の性的虐待やピノチェト時代(そしてそれ以前から)の拷問の場所としても知られる。

アジェンデ政権に連帯してチリに滞在していたダニエル(ダニエル・ブリュール)がクーデタによって監禁され、このコロニアで拷問を受ける。ルフトハンザのCAとしてちょうどチリに来ていた恋人のレナ(エマ・ワトソン)は帰りのフライトをキャンセルし、自らこのコロニアへの入所を志願して恋人を助けようとする。

リアリティとしてみれば、脱出劇の最後の最後のサスペンスは、さすがにそこまではあるまいと思う。また、その状況での脱出は不可能とは思われる。でもまあ、これも追っ手の恐怖の隠喩なのであり、映画のサスペンスを高める手法なのだから、僕たちはそういうものとして手に汗握って観る。

幼児虐待や性的虐待をあからさまに描いていないところは品を保っていると言うべきなのか? つまりは、サスペンス、なのだ。

クレジットを観ていたら、『チリの闘い』からの引用があると書いてあった。気づかなかったな。


そして僕は『ハリー・ポッター』を観ずに生きてきたので、エマ・ワトソンをよく知らず、幼子のイメージだけがあったのだが、大人だった。僕の抱くイメージなど、どうでもいいことだが。

2016年7月27日水曜日

語るかも

パトリシオ・グスマン『チリの闘い』3部作(チリ、フランス、キューバ、1975-1978)

を試写会で観てきた。日本語字幕つきをスクリーンで、3部通しで観るのははじめてだ。

改めて思うことは、これは3部通しで見た方がいい、ということ。1部と2部の対称の構成がみごとだからだ。そして総括のような意味を持つ3部のその意味がよくわかるからだ。

第1部は「ブルジョワジーの叛乱」。アジェンデ政権打倒のためにブルジョワたちが(合衆国の後ろ盾を得て)ボイコットやデモを仕掛ける、その政権打倒のための記録だけれども、冒頭は9.11のクーデタの際の大統領官邸空爆の映像で始まり、最後に6月の最初のクーデタの試みで幕を閉じる。フランス人のカメラマンが銃弾を受けて倒れる寸前に撮った映像だ。

第2部「クーデター」はこの1部の最後の映像から始まり、日を追う形で最終的なクーデタまでの動向を追う。そして最後にまた、9.11の官邸空爆の映像。そんな風に対称をなすというわけだ。


それにしても、クーデタ直前、内戦の予感を皆が抱いているチリの空気の不穏さは、2002年のカラカスをも思い出させるし、現在の東京にも比せそうだ。このタイミングで公開されることの説得力!

2016年7月24日日曜日

語ってきた

22日(金)には告知のとおり、紀伊國屋で都甲幸治さんと『第三帝国』について、ボラーニョについてトークしてきた。

勧善懲悪という摂理の働かない戦争のゲームを生きることそれ自体の危うさを小説に展開することの意義やら面白さやらについて、都甲さんが大いに語り、僕が相づちを打ったり、少し言い添えたりして、大盛況であった。

大盛況、というのは人数の上でも、ということ。紀伊國屋書店新宿南店でだけ『第三帝国』先行発売となったのだが、50部ばかり搬入したうち20数部が売れたとか。

すごい。

先行販売はまだ続いているらしい。

そういえば、都甲さんは、『第三帝国』が思いのほか厚いと言っていた。

そう、厚いのだよ。

今日、24日は大学院の入試説明会だった。


ちなみに、話題のポケモンGOでモンスターを探しているらしい人は東大本郷キャンパスにもかなりの数、いた。

2016年7月21日木曜日

重版……じゃなかった初版出来!

ロベルト・ボラーニョ『第三帝国』柳原孝敦訳(白水社、2016)

なのだ。今日、出来てきたのだ。出来してきたのだ。

何冊目になっても嬉しいものだ。

そして、いよいよ、明日は紀伊國屋での都甲さんとのトーク。先行販売もある!


頑張ります。

2016年7月20日水曜日

男と女の行き先は……

ヘルマン・クラル監督・脚本・製作『ラスト・タンゴ』(ドイツ、アルゼンチン、2015)

フアン・カルロス・コペスとマリア・ニエベスの「タンゴ・アルヘンティーノ」のコンビの出会いから解散までを本人たちへのインタビューと記録フィルム、それに若い世代の踊り手たちによる再現ドラマ風の舞踊で再構成したもの。山形国際ドキュメンタリー映画祭などにも出品された作品らしいが、インタビュアーが再現ドラマを演じる若い踊り手たちであることによって、疑似ドキュメンタリーのフィクションの様相を呈している。ドキュメンタリーとして観ることはないと思う。フィクションだ。ドラマだ。

アトランタという名のミロンガで出会ったニエベスとコペスのふたりが、踊りのパートナーとしても人生のパートナーとしても仲良くなり始めのころ、『雨に唄えば』を観に行ったと回想するシーンで、アジェレン・アルバレス・ミニョとフアン・マリシアの若いダンサーふたりが、鉄橋の屋根に守られて『雨に唄えば』のシーンを彷彿とさせる踊りを(しかし、タンゴで)踊る場面はすてきだ。アルバレス・ミニョはまだ学生だそうだけれども、魅力的だ。

帰りの電車で読み終えたのが:

ハビエル・マリアス『執着』(白川貴子訳、東京創元社、2016)

以前訳された『白い心臓』がマリーアス(僕はこう表記しよう)の代表作とされていたのだが、2011年刊のこの作品でそれが刷新された観のある、それだけインパクトの大きな作品だ。

語り手=主人公のマリアは、出勤前のカフェで毎日のように見かけて気になっていた夫婦のうち、夫ミゲル・デベルネが惨殺されたことを知り、妻ルイサに話しかけて知己を得る。夫の親友だというハビエル・ディアス・バレラとも知り合い、関係を持つようになるが、ディアス・バレラは親友の妻ルイサに夢中のようだ。

ある晩、ことを終えてディアス・バレラの部屋のベッドに寝ていたマリアは、訪問者との話を盗み聞きし、ディアス・バレラが人を使ってミゲルを殺させたらしいという疑いを抱く……

そしてその事の真相をディアス・バレラがマリアに語って態度決定を迫り、後日譚が語られて、という、それだけの比較的シンプルなストーリーなのだが、とにかくマリーアスの小説は登場人物たちの一つの言葉、一つの行動に対する思弁の展開が豊かで、これで330ページばかりの小説になるのだ。

おふざけのない、深刻なセサル・アイラ、と今だったら言いたくなる。ただし、デュマの『三銃士』、バルザックの中篇『社ベール大佐』、そしてシェイクスピアの『マクベス』が引用され、下敷きにされ、ストーリーにスパイスを与えている。

いくつかあるキー・センテンスのうち、とりわけ、『マクベス』の「死ぬのはもっと先でもよかった」が、種明かしの段で効いてくる。


でもところで、ミゲルとルイサの夫妻にミゲルの親友ディアス・バレラという組み合わせにはménage à trois のモチーフがあると言いたい。男と女、合計三人の微妙な関係。幸せなカップルと、それを見守る独り身の男。実はそのカップルの片方に思いを寄せ、そのために(たぶん)独り身でいる男。僕自身の役回り……

2016年7月18日月曜日

今日も劇を観たぞ

坂手洋二作・演出『ゴンドララドンゴ』(燐光群)@ザ・スズナリ。

1988年、昭和天皇が死の床に伏せっていたころに端を発する物語。ゴンドラに乗ってビルの外装の手入れをするバイトをしていた俳優のロクさん(大西孝洋)が仕事仲間のトラさん(猪熊恒和)と体が入れ替わってしまう。とりあえず眼前の問題であるロクさんの劇団の公演を乗り切り、ロクさんになったトラさんはトラさんの妻ノリコ(都築香弥子)と再婚。元来はぐれ者のロクさんはトラさんの見た目のままロクさんの子供トオル(杉山英之)を連れて放浪の旅に出る。その後、どうやら怪しい教団に入信したらしい。が、95年に教団は大きな事件を起こして司直の手にかかり、それを機に親子は逃げだしたらしい。

その1995年に端を発するもうひとつの取り替え物語がある。ある作家が不倫関係にある編集者のヒトミ(円城寺あや)と共に交通事故に遭い、肉体は死に、意識は彼女の体に棲みついてしまうというもの。そのことなどを作品に書いたので、女優に成長したトラさんの娘ミチ(百花亜希)が相談にやって来る。

教団脱退後のトラさんの行く末についてはここには書くまい。あ、そこに来たか、と思わせる展開。88-89年、95年というふたつの転換点に、ありきたりと言えばありきたりな取り替え物語を掛け合わせると、これが面白い試みになる。単に人間が入れ替わるというだけでなく、入れ替わる直前のロクさんが発していた実は劇の台詞だったという言葉、「自分の命と引き換えに、世界中の人を救えるとしたら?」が関係してくると、プロットは一気に歴史性のあるものになる。88-89年とは昭和天皇崩御とそれに伴う元号の交代、ベルリンの壁の崩壊などの年であり、95年は阪神淡路大震災とオウム真理教により地下鉄サリン事件の年なのだから。


劇中劇などの遊び心もあるし、何より、昨日の世界の記憶をくすぐり、深刻にならずに楽しめる作品、といった感じ。

2016年7月13日水曜日

エマ・ストーンが教え子なら俺だって……

ウディ・アレン『教授のおかしな妄想殺人』(アメリカ、2015)@丸の内ピカデリー3

ニューポートの大学の哲学科に新たに赴任してきたエイプ(ホアキン・フェニックス)は実存的悩み(と昔なら言ったろう)に取り憑かれているし、そのせいもあって、赴任前からいろいろと噂も立っていた。曰く教え子と寝るだの変人で敵が多いだの……

そうした噂はむしろ異性を惹きつけるもので、自然科学科のリタ(パーカー・ポージー)は夫のある身でありながら彼を誘惑してかかる。優秀な教え子ジル(エマ・ストーン)もボーイフレンドひとりには決められないなどと言いながらエイブとの関係を進展させようとする。

無意味の感覚にとらわれているエイブは書きかけの本も進まないし、一時的に性的不能に陥っている。ところが、ジルと一緒にいたダイナーで、後ろの席の会話を盗み聞きし、そこで名指しされた悪徳判事トマス・スペングラーを、その見知らぬ人に成り代わって殺すことによって人生の意味が見出せるのではないかと考える。そう考えたところから、実際、彼は生気を取り戻し、リタとも関係を持ち、しまいにはジルともできてしまう……

実存主義的、と言ってしまおう。実にこうした展開は好きだ。大学の教室のセットもすてき。エマ・ストーンがとびきりチャーミングだ。

何と言っても感心するのは、誰にも気づかれないはずだった完全犯罪がリタにばれそうになったときに、まだ真相をしらないジルとリタが、その問題についてバーで話すシーンがあるが、ここで、恋敵であるはずのふたりの間に、嫉妬のドラマを何ひとつ用意しなかったということだ。安易な愛とジェラシーの三角関係の話にされたら、たまったものではない。そんな展開にしないところがウディ・アレンのいいところなんだな。

しかし、それにしても、大学を舞台にするフィクションでは常に教師と教え子とが関係を持つ。15キロも増量して役作りしたというホアキン・フェニックスの、ぼってりと腹の出た中年体型でも、エマ・ストーンを魅了できるのだ! 


おかしいなあ? 俺はあそこまで腹は出ていないが、俺にはストーンみたいな優秀で美しい学生、ついてこないぞ(優秀で美しい学生はたくさんいるが)……

2016年7月11日月曜日

わくわく

ある程度予想されていたとはいえ、選挙の結果には常に失望させられる。とんでもない国に住んじまったものだ。若い教え子たちには言いたいな。一刻も早くこの国を立ち去れ、それが君たちの身のためだ。


縮小する新宿南口店3階カフェ横のスペースでのトークショウ・ファイナルだ。そこでボラーニョ『第三帝国』をめぐって、解説の都甲幸治さんとトークをするのだ。

さらに、今度はこちらのリンクで白水社の告知を読んでいただきたい。なんと! その日、他の書店に一週間ばかりも先駆け、『第三帝国』を先行販売するのだ。ずいぶんとお得じゃないか! しかもトークは無料、予約不要だ。(本は無料とはいかないが)

その日、雨が降らなければエスパドリーユまたはアルパルガータで行こうかな、とは先日も書いた。実際のウォーゲームも持って行っちゃおう。


それにしても、紀伊國屋書店のサイトにはもう書影が上がっているが、かっこいいと思わないか? 

2016年7月10日日曜日

投票したぞ

ツイッターに書いたことだが、初めての選挙は1983年の衆議院議員選挙。20歳になったちょっと後にすぐにあった選挙だ。既に東京に住んでいて、住民票も移してあったから、行使できた。当時の東京7区は新聞では菅直人が最下位の予想だったが、蓋を開けてみればトップ当選だった。当時の第2党は社会党。

爾来、投票を棄権したことはない。選挙権という権利を手に入れた以上は行使するのは当然だという態度だ。

支持政党を持ったためしはない。確固たる政治的信念があるわけでもない。強いて言えば政権与党には投票しないということくらいが原理原則。よほどのすぐれた政策をしていれば、あるいは選挙の争点に関して政権与党が正しいことを言っているという確信があれば話は別だが、そうでなければ与党には入れない。そして、この原理原則が崩れたことは、今のところ、一度もない。

今日、どこに、誰に投票したかは秘密だ。だって秘密選挙なんだから。誰それに、何党に入れよう、などと、少し口を滑らせたら、公職選挙法違反だしね。

ただし、公職選挙法違反のような広告を今朝の朝刊に出した政党もあるようだが。こうしたことは厳しく追及されなければならない。

ならないのだが、もうこの国はタガが外れてしまって、いろいろなことが狂ってしまっているので、これが追求されないということもあるかもしれない。


不気味だ。

怖い。

息が詰まる。


快適だった。


今度、『第三帝国』出版記念のイベントがあるのだが(詳細は後ほど)、その時には、雨が降らない限り、これで行こうか、などと思っている。

2016年7月9日土曜日

劇を観たぞ

薦めた以上は行ってみた。守山真利恵演出『この村に泥棒はいない/コルネリア』プレヴュー公演。

この順番で書かれてはいるが、演目としては逆の順。シルビーナ・オカンポの「鏡の前のコルネリア」、そしてガルシア=マルケスの「この村に泥棒はいない」をそれぞれ脚色した劇を、むらさきしゅう、鎌田紗矢香の2人芝居で。

受付というかホワイエ(と呼ぶべき狭いスペース)は写真展のようになっている。開場すると実際の演技スペースの前にもう一部屋あって、そこにも写真が飾ってあるが、ひょっとしたら役者かもしれない男女(事実、役者)が中心に立ち、座っているので、見て回るのが憚られる。奥の部屋ですと紹介されて入ったスペースには、これが客席だろうと予想される丸椅子が9脚並ぶだけ。舞台装置は姿見に丸椅子、狭いクッション椅子が3脚。

なるほど、プレヴュー講演とはこういうことなのだ。

自殺願望のあるコルネリアが、泥棒や昔の恋人など(の幻影? いずれもむらさきしゅうが演じる)に向かって、そして鏡に向かって自らの人生と願望とを語る「コルネリア」では、官能と絶望、幻想が記憶に寄り添う。「この村に泥棒はいない」は『ママ・グランデの葬儀』の一部をなすマコンドものの短編。鎌田沙也香が一転、妊婦の文字どおりの身重の演技で唸らせる。マコンドの数倍の田舎に育った僕には身につまされる話。

本公演は会場を変えて行われるはずだが、2つの部屋を使った舞台作りなど、どんな風に作りかえられるのだろう? 


2016年7月5日火曜日

劇を観よう

なんと! ガルシア=マルケスの「この村に泥棒はいない」が劇になるのだ。さらにシルビーナ・オカンポの「コルネリア」が。

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昨日、4日(月)はフアン・ビジョーロ作の独り芝居「雨についての講演」をセルバンテス文化センター東京で観てきた。上演後、フアン・ビジョーロと演出家アントニオ・カストロ、それに役者の丸尾聡、演出の山下由らのトーク。

これは日本演出者協会のやっている国際演劇交流セミナーの一環としてのもので、ビジョーロとカストロは日曜から明日の水曜まで連続でティーチインやシンポジウムらをやっている。

で、今日も二人に加えて吉川恵美子さんとのシンポジウム「演劇と言語」を聴きに行ったのだった@芸能花伝舎。

ビジョーロは劇作家として、劇の持つ時間が黙読で得られる時間とは異なること、エクリチュールでは表し得ない演劇言語があることなどを語り、カストロは自身の仕事の中でとりわけ言語を意識させられた四つの例を語った。

明日はカストロ作品の紹介と「誰が観客(読者)か」というシンポジウム。僕は授業で行けない。


みんな、行ってね。

2016年7月3日日曜日

展覧会ふたつ

『第三帝国』が一段落ついたので、土日はいずれも展覧会に行ってきた。

まずは、ロメロ・ブリット展@池袋西武ギャラリー。

ブラジル出身でUSA(マイアミ)在中のポップアーティスト。マイケル・ジャクソンなどにも愛された作家だ。ディズニーのキャラクターとのコラボレーションもしている。こんな風に。

ハートをモチーフにした作品も多く、なるほどハートウォーミングな作品が多い。

日曜日は「アルバレス・ブラボ写真展――メキシコ、静かなる光と時」@世田谷美術館。

マヌエル・アルバレス=ブラーボのキャリアを総括的に振り返る192点。加えてアンリ・カルティエ=ブレッソンからのスペイン語の手紙やエドワード・ウェストンからの英語の手紙、種々の雑誌などの資料もあって見応えはたっぷり。後に約束が控えていたので、むしろ時間が足りなかったくらいだ。

世田谷美術館は以前、フリーダ・カーロ展もやっていた。メキシコへの目配りが利いているというべきか?

アルバレス=ブラーボに触発され、その後の食事の場所をモノクロで撮ってみた。