2016年8月31日水曜日

ジュリエッタってわたしのこと? とフリエタ言い

ボラーニョ・コレクション・プロモーション第3弾。



そのためもあって、25日にはアテネ・フランセ文化センターで『チリ 頑固な記憶』を見てきた。クーデタの16年後、1999年にチリに戻ってこの映画をいろいろな集団に見せ、その反応を記録した映画。こはれ『チリの闘い』三部作を見た後にぜひとも見ておきたい1作だ。

下北沢でのイベントの三日後、9月10日には、ここで話してくる(リンク)。

屋仁小学校という、僕が学んだ小学校で話してくる。小学生16人(1年から6年まで全学年、全校生徒だ)を前に、いったいどんな話をすればいいのだろう? 

上のリンクから飛べる小学校のHP、「概要」のところには、僕が在校中の出来事がふたつ書いてある。でも、もちろん、ここには書いていないことの方が多い。そんな話から始めてみようか。

ところで、ペドロ・アルモドバルの新作Julieta 『ジュリエッタ』として公開されるそうだ。

本当に一部の映画配給会社のスペイン語をないがしろにする態度には腹にすえかねるものがある。トレーラーのごく冒頭であれほどはっきりと「フリエタ」と発音されているのに、「ジュリエッタ」でごまかしがきくと思っているらしいところが舐めた態度というしかない。4億数千万に上るとされるスペイン語話者に対する冒涜なのだ。安倍晋三並みの傲慢さだ。


やれやれ。

2016年8月23日火曜日

今日の学習:ロンメル・ジレンマ

台風に閉じこめられ、学会関係の仕事をしていたら、リオ・オリンピックの閉会式の話題でツイッターのトレンドが騒然となり、何ごとかと映像も確認したら、安倍晋三の大根役者がマリオに扮してリオに現れたとか。

恥ずかしい。いくら何でも恥ずかしい。ふだん日本国民たることをことさら言いつのるつもりもない僕も、さすがに日本人として恥ずかしいと思ったのだった。だからすぐさまツイッターに「ほんのちょっと前まで日本はおのれを恥じることができると自慢していたはずなのに、今や恥そのものがのさばっている」という主旨の文章を書きこんだのだった。かつてブッシュ(子)に対して "Shame on you" と叫んだ映画監督がいたが、僕としても同じ叫びをあげたい。

そして台風一過も一過、夕方には下北沢に出かけて行った。米光一成さんとのトークをB&Bでやってきたのだった。

米光さんはピーター・P・パーラ『無血戦争』を紹介し、ゲームとしてやっていることを現実と混同してしまう「ロンメル・ジレンマ」などの現象を説明し、『第三帝国』中に言及されるゲーム〈ダンジョンズ・&・ドラゴン〉からRPGが派生していくことなどを語ってくださり、ゲームを取り込んだこの小説について、僕の持ち得なかった視点を開いてくださったのだった。


机上でウォーゲームをするうちに戦争で勝った気になる……というか、自分も戦争したくなっている男の幼児的自意識を肥大させるだけのオリンピック引き継ぎ式演出は本当にいかん、と思いながら帰宅したのだった。

2016年8月22日月曜日

日本一の雨男

8月16日にはアレハンドロ・サンブラの講演会@セルバンテス文化センターに行った。

8月18日にはEva夏公演『月と薔薇のブルース――雨音がブルース2――』@中野ザ・ポケットに行った。全人類クローン化計画を扱ったものだ。かつてクローンによる世界征服を企むマッドサイエンティストを主人公兼語り手とする小説を翻訳した僕が見ないわけにはいかないだろう。

8月20日、こんな事態になった。

ちょっと前にある大学に行った。そこで懐中時計を取り出したのを憶えている。その日は、打ち上げで飲みに行った。翌日、時計がなくなっていることに気づいた。前日の大学に問い合わせてみても要領を得ず、後日、またそこを訪れた時に探してみたのだが見当たらず、時計はすっかりなくしたものだと思い、諦めて新たに買うことにした。同じ型の色違い(金ではなく銀にした)。

20日、前日ソファに掛けたチノパンを取り上げたところ、そのウォッチポケット(蓋なし)に入れたはずの時計がなくなっていた。ソフィのクッションに少し隠れているのが見えた。つまりウォッチポケットから飛び出してしまっていたのだ。さらにふと見ると、クッションの奥にも何やら見える。メキシコの1ペソ貨幣のようだ。

コインを取り出すべくクッションを上げた。他の硬貨に混じって、金の時計も出てきた。


つまりなくしたと思ったその日、酒を飲んで帰ってチノパンをソファに掛け、その時、時計が落ちてしまったのだ。翌日、それに気づかず、なくしたと思ってしまったようなのだ。

今さら時計など必要か? という人もいるかもしれない。だが、我々大学教員はセンター試験の監督の時など、スマートフォンの時計を使ってはいけないので、こうした時計専用マシン(?)が必要なのだ。そうでなくても僕は懐中時計が好きだし、こうして持っている次第。

ソーラー電池、電波時計なのだ。


今日はこれから『第三帝国』について米光一成さんとのトークに行ってくる。下北沢のB&B。台風で外は雨と風が激しい。

2016年8月15日月曜日

ゴジラとともに、あるいは石原さとみ讃

庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』(東宝、2016)である。

Sin Godzilla(ゴジラなし)ではない。むしろCon Godzilla(ゴジラとともに)だ。「シン・ゴジラ」の「シン」の意味は、たぶん、「新」だ。事実、この作品には先行するゴジラ映画に比してふたつの新機軸がある。

ゴジラが出現し、人類が英智を振り絞り、技術力=軍事力の粋を凝らして退治する。ゴジラ映画のストーリーなど常にそんなものだし、『シン・ゴジラ』もそんなストーリーだ。ゴジラのあり方やその退治の仕方などに意匠を凝らすのがこの手の映画のヴァリエーションだ。その意味だけでもこの映画は十分面白い。世代交代を経ずして進化する(要するに変態する)ゴジラなのだから。

ただ、今回の新しさはゴジラに対峙し退治すべく振り絞られる英智(インテリジェンス)が政府情報機関(インテリジェンス)であることだ。ストーリーのほとんどは総理官邸とその避難先である立川の防災基地で繰り広げられる。だからこそ、軍事力行使のための手続きが、たぶん、ゴジラ映画史上はじめて前景化されることになった。

それゆえこの映画はフクシマの悲劇と戦争関連法案をめぐる昨今の事情へのアレゴリカルなレヴェルでの批判として理解される。そういう解釈をしている人は多いようだ。防衛大臣が女性であること(余貴美子)、金銭スキャンダルに見舞われたくせになぜかやめずにいる実在の大臣によく似た人物(誰とは言いません)のキャスティングなど、なるほど、アレゴリカル・キャラクターは多い。合衆国の傀儡である政府の悲哀もあぶり出されている。主人公の大臣補佐の名矢口蘭堂(長谷川博己)すらアレゴリー的だ。こうした解釈が可能になるのも、怪獣パニックものではめったにみられなかった官僚的手続きが語られるからだ。

この映画のふたつめの新しさは、おそらく映画中すべてのキャストに徹底されていた早い台詞回しに由来する。ハリウッドのパニックものを意識しているのだろう。母語話者も100%は理解できないのではないかというスピードでの会話はキビキビとして小気味いい。その台詞回しの成果として、この映画の第二の新機軸が出現する。

石原さとみだ。彼女の演じるUSA大統領特使カヨコ・アン・パターソンだ。

日本語もしゃべれる外国(他国もありうるが、話をわかりやすくするために、ここではUSAのみに話を絞ろう)からの使者というのも、この手の映画ではなくてはならない存在だ。しかして、そうした存在はどんな発話をしていたか? いわゆる「カタコト」である。英語訛りを消しきれない日本語話者だ。いや、むしろ、彼らは英語訛りを残していなければならなかったはずだ。それが外国からの使者であり、異者であり、彼と我とを繋ぐ存在となりえる者の符丁もしくは聖痕だったのだ。

しかるに石原さとみは祖母が日本人という設定で、日本語は流暢に(石原さとみだと思えば当たり前だが)、英語もそれなりに(さすが、AEONのCMは伊達ではない。とはいっても、もちろん、完璧ではないが、それには目をつむろう)、そして日本語中に混じる英単語は英語風に発音する発話を駆使して不思議と嫌味なしに演じている。

不思議だ。こんな発話がこれだけ嫌味なしに演じられるのは、既に述べた台詞回しの速さだけでなく、この女優の力に預かるところ大なのだろう。石原さとみって、実はすごい役者なのじゃないかと思う。

いや、女優として石原さとみその人が好きだ、ファンだと言っているわけではない(まあ好きよ。でも、……というくらい)。ファンというならば僕は、今回ほぼスッピン(もしくはスッピン風メイク)で環境省の切れ者官僚を演じていた市川実日子さんのファンだ。お姉さんの市川実和子さんともども、大ファンだ。彼女たちのことなら何ページでも讃えてみせよう。そうではないのに、今回、石原さとみに魅入られてしまったのだ。


我々は石原さとみとともに生きるしかない。

2016年8月14日日曜日

壊れていく

オリンピックだ。

まあさしてオリンピックには興味もないのだが、普段から見ている種目ならば、観戦しなくもない。

錦織圭とアンディ・マレーの試合を見ていた。昨晩のことだ。試合はマレーの一方的な展開だった。やはりジョコビッチ、マレーとそれ以下の間には大きな開きがあるのだろうか? 

それはまあいい。その試合、第2セットの途中にニュース速報が流れた。

いよいよか? と思った。いよいよ何なのかはわからない。でもまあ、ニュース速報にはそんなふうに身構えさせる何かがある。

で、流れてきたのは、「人気アイドルグループ スマップ解散。12月31日で 所属事務所発表」(文面は記憶に頼っているので、多少違うかも)との報。

なんだこれは? 

どうなっているのだ? 

この国は大丈夫なのか? 

もちろん、SMAPの人気と知名度、その影響力を知らないわけではない。どういうわけか大学時代の同期の女性には木村拓哉はことに人気だ。それ以外のメンバーのファンだってたくさん知っている。

SMAPの先日の事務所移転騒動、異様な謝罪映像も知らないわけではない。愚だ、という印象を持つのみだが。

しかし、それにしてもなあ、オリンピックを中継していたのはNHKだった。ためしに、他局でこの速報が流れているか確かめるべくザッピングしてみた。それぞれ瞬時のことなので、断言はできないが、少なくとも僕は他局で確認できなかった。あるいはNHKだけのスクープなのかもしれない。

もしこれがNHKだけのスクープなのだとすれば(ツイッター上で流れてきたので、それ以前にどこかのスポーツ新聞が記事を掲載したことも知っている。だから文字どおりの「スクープ」というよりは、これは独占公式発表)、そこには別のレベルの考察を加えねばならないだろう。「所属事務所」つまりジャニーズ事務所の横柄というか何というか……

まあいいや、そのことを措いておこう。ともかく、これが深夜のNHKでニュース速報で流すようなことなのか、という話だ。

この価値観(SMAP解散はNHKがニュース速報で流すべきことである)が疑問を引き起こさないのだとすれば、この国は僕が思う以上に何らかの事態が進行しているのだろう。僕はその世界観にとり残されてしまっているのだ。「何らか事態」というのは、報道のサブカル化かサブカルの肥大化かだ。あるいは社会の幼児化だ。サミットの晩餐会にAKB48を出演させるような感覚の容認だ。社会における価値の序列の崩壊だ。

如何に「国民的」と呼びうるほどとはいえ、SMAPはたかだかアイドルだ。そんなのがニュース速報の価値に見合うのだと言われたら、SMAP支持者がそもそも迷惑がるのではないか? 


でもそれは、たかだかエージェント(代理人)に過ぎないはずの「所属事務所」が、当のアーティストたちの意向の障害になっていいのだとうぬぼれることと似ているのかもしれない。

2016年8月10日水曜日

早くも紅葉が……

京都に行ったのは日本イスパニヤ学会の理事会があったからだ。僕は理事3年目(任期4年)で、毎年8月の理事会は京都でやることになっている。

このところ京都に行く際には1回につき1箇所ずつ観光旅行をすることにしている。観光地の神社仏閣などを訪ねることにしている。

今回は三十三間堂。

10歳の時以来だ。

隣にあった養源院では、早くも紅葉が! 


季節ってわからないものだ。こんなに暑いのに。

2016年8月9日火曜日

何回目の京都だろう?

京都に来ている。

これは〈ホテルゆにぞ〉というホテルのファサード。この向こうは鉄筋コンクリート十数階だてのビルになっている。

でも、ここに泊まっているわけではない。

京都に来るのはもう何度目にもなるのだけれども、今回、はじめて京都駅よりも南側に宿を取っている。九条のあたりだ。

このゆにぞは四条通を少し入ったところにある。

前回京都に来たときに、四条西洞院にあるハンバーグ屋〈ハンバーグ・ラボ〉に行って、そこがたいそう美味しかったので、今日も来てみた次第。(ただし、日付が替わっているので、もう昨日のこと)

カウンターに座れば、オープンキッチンでハンバーグを作っている姿が見られる。

ウェイトレス(の責任者だと思うのだが)が麦わらのカンカン帽姿で応対してチャーミングだ。

きっと僕は帽子好きなんだな。


ハンバーグ、そんなに好きというほどではないのに、こうして〈ハンバーグ・ラボ〉に来ているのだった。

2016年8月5日金曜日

年中行事の大切さ

昨年、新国立劇場演劇研修所とちょっとした仕事をしたので、時々、ご招待いただく。今日も第十期生の公演に行ってきた。

朗読劇「ひめゆり」脚本 瀬戸口郁、構成 道場禎一 演出 西川信廣@新国立劇場小劇場 The Pit

明日は8月6日だ。毎年、この時期になるとメディアはこぞって戦争を取り上げた。戦争のドラマや映画を流し、メディアの戦争関与についての反省の特集記事を掲載していた。そんなに遠い昔のことではない。

今、8月にメディアで取り上げられる戦争の話題はいつの間にか激減しているように思う。

以前のそれは、いわば年中行事だった。斜に構えた者などは、そう位置づけて鼻白ませていたかもしれない。僕にもそんなところがなかったとは言わない。でも、年中行事は年中行事であるがゆえに大切なものなのだ。8月に戦争のことを語らなくなったら、僕たちはきっとまた戦争を始める。

『ひめゆり』はもちろん、ひめゆり学徒隊を扱ったもの。沖縄の一高女と女子師範、それぞれの広報誌のタイトル「乙姫」と「白百合」を合わせて「ひめゆり」。沖縄戦の最中、看護救援に駆り出され、多数が死んだ。

劇は石垣島から女子師範に進学した3人の少女に焦点を当てたもの。朗読劇らしく台詞と地の文とを訳者が本を手に持ちながら発し、最低限のアクションで補う。


この研修生公演は3年の研修期間の最後の年に行う者。修了生なども参加するけれども、中心は最終年度の研修生が務める。さすがに3年目ともなると、皆、立派な役者だ。すすり泣きの声はあちこちから聞こえた。

2016年8月4日木曜日

トルタはサンドウィッチではない

以前、星野智幸さんがどこかで、トルタの屋台のことを書いていた。

トルタtortaというのはポリージョbolilloと呼ばれるコッペパンをかたく、平たくしたようなパンを水平に切り、フリホール豆のペーストを塗っていろいろな具を詰めたものだ。

サンドウィッチではない。メキシコではイギリス式のサンドウィッチのことはsandwichesと英語からの借用語で呼ぶ。トルタはあくまでもトルタだ。

で、そのトルタの屋台サチータ。日替わりで都内のどこかに出没する。

木曜日は渋谷の新南口近くに店を出している。それで、行ってきたのだ。

黄色い車。

一番人気だというティンガ。これで500円。


東大本郷の構内には屋台村と言って何カ所かに日替わりで屋台が出るのだが、ここに参加してくれないかな……

2016年8月2日火曜日

端っこつまむと線香花火♪ 

僕の所属する現代文芸論研究室は毎年夏に合宿をするのが恒例になっている。

今年も、8月1日から2日にかけて行ってきた。白子海岸だった。

行って何人かの学生たちの研究発表を聴き、食事し、宴会し、翌朝また研究発表を聴き、というスケジュール。

卒論を準備中の学部学生から、大学院生まで、『古事記』からコルタサルまで、いろいろなのだ。

夜、宴会の後、というか、途中、近くの海岸で花火をした。


最近のカメラは大したもので、ストロボなしでもこんな絵が撮れるのだ。

2016年8月1日月曜日

夏は始まらない

ともかく、僕らはファシズム政権の誕生を見たのである。国と、そして昨日、都で。教科書や歴史書の記述としてでなく、繰り返される茶番として。

歴史上、最大のファシズムは戦争でしか倒れなかった。このことが心配の種だ。先日、ボラーニョ『第三帝国』発売記念イベントで都甲幸治さんが言っていたことが不気味な警鐘となる。ナチは悪いことをしたから戦争に負けたのではない。つまり勧善懲悪の摂理は働かない。

僕はこのファッショ政権が一刻も早く倒れて欲しいと願うが、それが戦争によってであることは願わない。さりとて、論理(および倫理)だけでは、もはや打倒できないだろうとも思う。

安倍晋三の背後に(アメリカ合衆国のジャパン・ハンドラーたちと並んで)広告代理店が存在することはたまに言われる。では、なぜ反対勢力も広告を利用しないのか? ピノチェト政権打倒のための国民投票の成功の裏に広告代理店を見出したのはアントニオ・スカルメタ/パブロ・ラライン(映画『NO』)であった。

まあいいや。個人の身の振り方としては、身近にいるファシスト支持者たちにどう対処していけばいいのか、そのことが問われている。

原稿をひとつ送付し、これから現代文芸論研究室の合宿に向かうところ。合宿から戻ってきたら、ある授業の成績〆切り日だ。


まだ当分、夏は始まらない。(写真はイメージ)