2012年3月30日金曜日

ムチのようにしなる大外刈り

ツイッターには「トレンド」という項目があって、つぶやかれる頻度の多い言葉がリストアップされる。そこに「大外刈り」と出た。クリックしてみると、その言葉を含むツイートがずらりと表示される。「静岡」「中学の柔道、大外刈り禁止」「試合は座ったまま」などの文章が踊っていた。全柔連も変なことを言い出すな、中学の柔道は立ち技なしということか? と思ったら、元記事は、これ。つまり、中学の体育で武道が必修化されるが、大外刈りは危険な技だからその授業では禁止しようと静岡県が決めたということだ。中学の部活動や町の道場などで柔道をやる者全員が大外刈りを禁じられるわけではないらしい。

やれやれ。

ん? 

必修化? 

先日、ダンスが中学の授業で必修化されるという話を聞いたばかりなのだった。全国的なダンス人気を受け(ダンス人気のなかで、でなく)、中学の体育の授業でダンスが必修化されると。それを聞いたとき、ずいぶんと馬鹿なことをするな、と思ったものだった。人気があるから必修化とはどういうことだ、と……

おそらく、ダンスの必修化は武道の必修化と表裏一体をなす。人気をとりいれる/人気の凋落著しいものを、モラルを盾に存続させる。アメとムチだ……いってみれば。なるほど、そういえばAKB48か何かがやはり教科書に載るなどとどこかのニュースが伝えていたが、この「アメ」の裏になんらかの「ムチ」があるのかもな、と勘ぐってみたくなる。君が代を歌わなきゃ処分だ、などと「ムチ」を振りかざす人たちは、きっと何かの「アメ」を背中に隠しているのかもな。

以上の文章とは無関係だが、写真は文庫になった『1Q84』Book1

2012年3月27日火曜日

そしてまた業務

昨日はここで卒業式だった。府中の森芸術劇場。

毎年700人ちょっとの卒業生しか出さない小規模大学だけれども、付き添いの親なども入れるとだいぶな数になるので、こうして大きなホールを借りて行われる卒業式。府中が改装工事中だったとかで、数年連続でここより小さい調布のグリーンホールで開催されていたのだが、今年はまたここに戻って来た。そしてまた、いつか書いた、長い卒業式のセレモニー。

夜は卒業生たちが謝恩会を開いてくれた。卒業生たちの同期で既に卒業して働いている者や同期だけどまだ卒業していない者なども来ていた。昼の陽気のわりに夜は寒かったので、3シーズンもののスーツからツイードのそれに着替え、ついでにネクタイも替えて、ストライプのボウタイにしていったら、皆にそれを指摘された。ボウタイなのだけど、やはりまだ「蝶ネクタイ」という語の方が主流なのだと実感。

 そういえばメディアは古いメディアの様式を踏襲する。写真などデジタルになったのだから、ひとりが撮ってそれを共有すれば良さそうなものなのに、同じメンバーでメンバーひとりひとりのカメラで別々に撮る。銀塩の時代の、あるいは使い捨てカメラの時代のカメラのように。そうして何枚も何枚も写真を撮った。きっと今日あたり、それがフェイスブックにアップロードされて、共有されるのだよな。メディアは古いメディアの様式を踏襲する。でも新しいメディアは確実に新しいメディアとしての役割を果たす。

少し朝寝して、今朝は土曜日の研究会の報告書を作成。ゲラ、そして次の翻訳の残りわずかな部分。

2012年3月25日日曜日

ゲラ、業務、ゲラ

昨日、ある原稿のゲラを校正して送付。そのまま早稲田大学に行った。日本ラテンアメリカ学会東日本部会研究会だ。ぼくはこの会の委員としての業務を2年間つとめてきて、昨日がその任期最後の研究会。

3月のこの研究会は、修士論文の発表会。
「メキシコ合衆国ハリスコ州エル・バルソン運動再考」
「越境する『メキシコ派』と壁画運動」
「非自覚的文化としての早期妊娠」
「ルベン・ダリオの詩と詩論」

という4つの修士論文(を基にした)発表を聞いた。みなさん立派な修士論文で、議論は盛り上がった。

帰ってみたら着いていたのが、新たなゲラ。150ページ弱の長さになった。次の翻訳だ。小説だ。短いけれども、傑作だ。

2012年3月23日金曜日

アレゴリーとシンボル

実は数ある格安カフェチェーン店の中でいちばんぼくの性に合っているのはカフェ・ド・クリエだったりする。そんなわけで、車の12ヶ月点検が仕上がるまで、クリエで仕事やら読書やら。

川村二郎『アレゴリーの織物』(講談社文芸文庫、2012)

ぼくの修士論文のタイトルは『アレゴリー作家カルペンティエール』と言った。1991年1月提出だ。川村のこの原本が出るよりも前だった。自慢しているのではない。これは参照できなかったと言っているだけだ。ただし、当然、彼が共訳者として訳しているベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』は大いに参考にした。というか、ベンヤミンにアレゴリーという概念を教えてもらったのだ。修論に取りかかるころ、さらに、柄谷行人は大江健三郎の小説をアレゴリーの名の下に読み替え、そのさいにポール・ド・マンらの仕事も教えてくれた。アレゴリー表現に対立する形でロマン主義の作家たちに称揚されたシンボルという語が、やがてロマン主義以後、比喩表現全般を表す語に堕してしまったことを説く「時間性の修辞学」などだ。

ともかく、そうした理論家の仕事を参照しながらカルペンティエールはアレゴリーの手法を現代に蘇生させた作家のひとりなのだと説いた。日本では、そんな風にアレゴリー/シンボルの対立を見直す風潮が1989-91くらいにあったように思うのだが、どうしたわけかカルペンティエールを論じる人たちでもこの対立を問題にする人は少ない。不思議なことだと思う。

94年に『失われた足跡』が集英社文庫に入ったとき、解説を書くことになった。その一部にぼく自身の卒論から修論にかけてのそうした仕事を踏まえて、カルペンティエールはアレゴリー作家なのだと書いた。

で、まあ、カルペンティエールはともかくとして、時々、アレゴリー/シンボルのこの対立に触れずにはいられない問題を扱っているはずなのに、これに触れずに妙に「シンボル」の語を濫用して議論を混乱させる人がいる。そういう人にはぜひ読んでいただきたい1冊。これが文庫本になるのだから、すごい。1冊の文庫本が1700円もするのだからもっとすごい。

2012年3月12日月曜日

田舎へいらっしゃい

で、『澄みわたる大地』には、もう1箇所印象的な箇所があったな、と思ったら、すぐ近くにあった。ロブレスの妻ノルマ・ララゴイティ(スペイン語圏の大半の国の場合、夫婦別姓だ)にその昔、恋をしていた文学青年がロドリゴ・ボラ。その彼が文学にいわば幻滅する瞬間。詩集を出版し、希望を抱き、詩の仲間たちとあつく文学を語っていたロドリゴが、ある日、「そこそこ名のある南米詩人フラピオ・ミロスがメキシコに着いたばかりだったから」(154)、仲間たちで彼を招くことにした。さんざん準備して盛装して待ったけれども、だいぶ遅れて訪ねてきたこの詩人、開口一番、言うのだ。

「おう、兄チャンたち、いいケツしてんな!」よく覚えているけど、この最初の言葉で一同の礼儀正しい知的振舞いはガラスのように脆くも崩れ去ったよ。奴は挨拶もなしにワインのボトルを取り上げると、床の上にごろんと寝転んだ。ラデイラは笑顔をひきつらせ、メディアナは真っ青になっていた(155)

どういうわけかぼくはこれを読んだとき、1936年のパリでの「文化の擁護」国際作家会議におけるポリス・パステルナークの言葉を思い出した。おそらく、その前後に『セーヌ左岸』を読んでいたからだろう。パステルナークは作家たちの政治談義盛んな会場で、「政治なんてつまらないですよ。田舎にいらっしゃい、詩を詠みましょう」というような趣旨のことを発言した。

方向性は逆だけれども(詩に幻滅させるか、詩を称えて政治に幻滅させるか)、ひと言にして一座の空気をぶち壊しにする詩人の言葉の爆弾。そんなものを感じたのだろうか。

フエンテスの悲劇、メキシコの悲劇、人間喜劇

まさかこれが翻訳される日が来るなんて、

カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』寺尾隆吉訳(現代企画室、2012)

フエンテスの初の長編小説(1958)だ。「澄みわたる大地」La región más transparente というのは、アルフォンソ・レイェスが『アナワクの眺め』でエピグラフを模して書いた「旅人よ、君は空気の最も澄んだ土地に着いたのだ」Viajero: has llegado a la región más transparente del aire からできた、メキシコ市周辺の盆地部を指すときのトピックで、つまりは、「メキシコ市」という名の都市小説なのだ。

小作人の息子から革命を通じてのし上がった実業家フェデリコ・ロブレスをはじめとする、メキシコ市に住まうさまざまな階層の多数の人間たちの過去と現在を、遍在するイスカ・シエンフエゴスという人物が目撃し、聞き手となって展開するという壮大な(バルザック的、などとも言われる)構成。

ただ、何しろ市井の人々の語りを取り入れたり、行を途中で寸断したり、過去と現在とが入り交じったりと、なかなか一筋縄ではいかない、難解な小説。とりわけ初期のフエンテスは翻訳不可能なのだ。

ぼくはこの小説は大学院の学生のころに読み、その後、授業で再読してみようと試みては挫折している。立ち止まって読もうとすると、辛い。一気呵成に読んでこそ読めるたぐいの小説だ。

記憶をたどりながら言うと、この都市小説の都市小説としてのクライマックスのひとつは、今回の邦訳で99ページから始まる「フェデリコ・ロブレス」の章。ラテンアメリカタワーあたりの、アラメダ公園と芸術宮が見下ろせるオフィスから、街並みを見下ろしながらフェデリコがイスカに対して自身の過去を語る、そのパッセージだ。

「そんなこと聞かれても、もう別人も同然だからね、シエンフエゴス」オフィスの青い窓の前に立ったままフェデリコ・ロブレスは言った。両手に目を落とした後で視線を上げ、寒々とした軽い空気のなかに立ち現れた別人の姿をガラスに映し出そうとした。「もう自分があそこの出身だったことすらおぼえていないぐらい
穏やかな小川、そのほとりに立つ小屋、小さな森、周りはとうもろこし畑。次から次へと弟が生まれ、もはや喜びも悲しみもなくなっていた。(略)

鏡にもなるガラス窓という光学装置を通じて、別人としての自分を眺め、都市を自分の育った田舎の農園に変えるフェデリコの、そのセリフ自体が時間の移行に応じて字体を変え、行を変えることによって過去の思い出へと流れ込んでいく。その瞬間だ。こうして過去と現在、田舎と都会が都市の風景の上に重ね書きされていく。みごとな瞬間。

2012年3月11日日曜日

相変わらずの切れと冴え

フエンテスの『澄みわたる大地』邦訳が出たというから、昼食がてら近場の大きめの書店に行ってみたが、そこにはなかった。代わりに買ってきたのが、

ミラン・クンデラ『出会い』西永良成訳(河出書房新社、2012)
柄谷行人『政治と思想 1960-2011』(平凡社ライブラリー、2012)

柄谷行人を丹念に追わなくなってからもうずいぶん経っているので、この本の第一部が『柄谷行人 政治を語る』(図書新聞、2009)として出たときにも、それは買わなかったし、読んでいなかった。最近の『週間読書人』でのインタビューに平凡社ライブラリーに収録するにあたって行われた平凡社の方によるインタビューまで加えて出したのが、『政治と思想 1960-2011』。

さて、そんなわけで、第一部の小嵐九八郎によるインタビューもはじめて読むもの。で、出だしの数ページ読んで、相変わらずの切れに唸ってしまった次第。

まず、世代論を嫌うとしながらも、敢えて言うならば「安保世代」(60年の世代)である自分は「全共闘世代」(68年の世代)とは、わずかなずれながら、ぜんぜん違うのだと柄谷は主張する。68年の動きの方が全世界的な同時性を持っていたので、「全共闘世代」という語彙も残っているのだと。しかし、世界的な68年は、むしろ、日本の60年に似ていたのだとして、その構造的類似の根拠を共産党との関係に求める。この展開が冴えてるなあ、と思わせるのだ。

たとえば、ヨーロッパ、とくにフランスの場合、左翼の学生・知識人の間で共産党の権威が失墜したのが一九六八年です。だから、画期的なものとみなされる。しかし、日本では、それが一九六〇年に起こった。六八年の時点では、共産党の権威はまったくなくなっていました。また、六八年の時点では、新左翼の運動はほとんど学生に限られていて、労働運動や農民の運動はすでに衰退していたと思います。フランスの五月革命の場合、そうではなかった。新左翼や学生の運動は、労働組合や共産党と並ぶかたちで存在していた。その意味では、むしろ、日本の「六〇年」に似ていたのです。もちろん、七〇年以降には、ヨーロッパの新左翼運動も日本と同じようなかたちになっていったのですが。(18-19ページ)

うむ。

世界同時多発的でありながら差異をはらんでいた68年、最近、メキシコの場合のことを少しだけ触れた文章を書いたのだけど、共産党との関係を考えたことはなかったな。制度的革命党一党独裁みたいな国だったから、ということもあるが。

ところで、一方、日本の共産党の権威の失墜というのも面白い問題。戦後すぐのころには、日本から切り離されてしまった琉球の問題をめぐって、中央共産党とは無関係に琉球で独自の共産党が生まれたりしている。すでに危なっかしい存在だったのか? ぼくの母のいとこにあたる人が長いこと共産党から出て名瀬市議をつとめた人物だったのだが、その彼が何かそれに関することを書いていたような気が…… 

明日は後期日程入試。去年は前日、つまりちょうど1年前の今日の震災で取りやめになった入試だ。2学部体制で、ぼくが属することになる言語文化学部はもう後期日程入試をやらないのだが、手伝いはしなければならないみたいだ。やれやれ。

2012年3月9日金曜日

チェルノブイリに帰る

フランシスコ・サンチェス(文)、ナターシャ・ブストス(画)、管啓次郎(訳)『チェルノブイリ 家族の帰る場所』(朝日出版社、2012)
ご恵贈いただいた。ありがたい限り。

チェルノブイリと、そこで働く人たちの町プリピャチに住む3世代を「レオニードとガリア」(祖父母)、「ウラジミールとアンナ」(原発の職員とその妻)、「ユーリーとタチアーナ」(その子どもたちタチアーナは事故後の出生)という三部構成で描いた「グラフィック・ノヴェル」(マンガ)。この画風が何かを思い出させてしかたがないのだが、中国滞在経験のあるブストスは墨などを多用したイラストを描いているらしい。

墨なのだ、この黒は。墨の鮮やかな黒が印象的だ。事故後、放射線を浴びることを覚悟して帰る「レオニードとガリア」(とその隣人)、良く知らされなかったがために過去のことを知りたくて帰る孫の「ユーリーとタチアーナ」が、ある思い出の品によって繋がり、示唆的だ。

一方で、付録で知らされたのだが、描かれている映画館内の一コマで、スクリーンに投影されているのが『不思議惑星キン・ザ・ザ』であるところなど、いろいろな目配りが利いている。

2012年3月7日水曜日

まったく……読書なんてできません!

だいぶ更新を怠ってしまった。忙しいのだ。読書や映画鑑賞どころではないのだ。だからこんなのを読むのだ。

デヴィド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』井上里訳(柏書房)

原題は The Lost Art of Reading: Why Books Matter in a Distracted Time  読書という失われた技法:読書に集中できないのはなぜ? 

息子がフィツジェラルドを読む宿題に悩まされたところから始まり、気になって『グレート・ギャツビー』の再読を始め、そしてエピローグでそれを読み終える、という外枠の中に、本を読むとはどういうことか、なぜ現代人は本を読めないのか、といった考察を進める内容。読むことにまつわるさまざまな問題を、博覧強記の引用で説明している。

基本姿勢は、こういうこと。「読者は本と一体化する」(129)。つまり本を読むことは没入することだ、とする姿勢。この場合の読書は主に黙読。このことも実はかなり重要だが、ともかく、黙読を、つまり、没入を邪魔するのがインターネットやらそれにまつわる情報、電子ディバイスなどであり、しかし同時に、電子ディバイスが読書を存続させてもいるという皮肉もまた、考察されている。示唆に富む文学論であり、示唆に富む読書論だ。

でもあくまでも、こうした本を読むのが楽しいのは、そこに書き手の読書のスタイルが露わにならざるをえないからだ。たとえば、どのように書き込みをしているか、どのようにコメントをつけていくか、といった、いわば手の内が明かされる。とりわけ、この本の出発点となっている、どうして読書に集中できないか、という問題点は、逆に、どのように本に集中していたか、という話と隣り合わせで出てきて、何やら興趣を感じないではいられない。

大人になってからは、ロスの『ゴースト・ライター』に出てくるE・I・ロノフと同じく、読書をするのはもっぱら夜が多かった。レイと子どもたちが寝てから、百ページかそこら読むのだ。ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくなった。一段落ほど読むと、すぐに気がそれて心がさまよい始める。すると、わたしは本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどるのだ。あるいは、そうしたい気持を抑え、無理にじっとして本を読むこともあるが、結局いつものパターンに身をまかせてしまう。(47ページ)

あはは。同じだ。で、2006年に高速回線につないだところから始まって、2008年の大統領選挙ではすっかりネットがもたらす情報に埋もれ、こんなクセがついたというのだ。

ネット以前に、ラジオやTVが読書を邪魔してきただろう。ぼくは1996年にJ:COMに加入してしばらくは、すっかり読書を妨げられることがあった。でも問題は何によって、いつから邪魔されるようになったかではなくて、読書とそれを妨げるものがメディアがもたらす文化の形の問題だということをユーリンが示そうとしているということだ。エピローグのあとの「日本語版によせて」で言っている。「道具は違っても、本を読むという行為は同じなのだ」(195ページ)

ところで、この本のカバー、どこかの書店のカバーみたいで、これがなかなかいい。もっともぼくは、ふだん、書店でカバーなどかけてくれるなと断るのだが。