2010年8月29日日曜日

ひとつ終了

そんなわけで、戸塚に行ってきた。戸塚スペイン語教室というNPOの毎年の恒例行事、夏期講座、それで話してきたというわけ。題目は「"ラテンアメリカ"を巡る攻防:もうひとつの南北アメリカ関係史」。『ラテンアメリカ主義のレトリック』で書いたようなことを少しやさしくして話しては、ということだったので、視点を変え、切り口を変え、そうしないといやなので、新たな情報を加え、やってみた。ジョン・オサリヴァンの「われわれの明白な運命」(1845)とか、エマ・ラザルス「新たなる巨像」(1883)とかも紹介した。時間が来たのでアレックス・コックスの『ウォーカー』(1987)の最後を見せたかっのが、できなかった。それが悔やまれる。

なるほど、それがうまく行ったどうかは別として、ともかく、このタイトルでやってみると、色々と見えてくることがあるな、と我ながら感心。うーむ。この切り口でまとめ直すということ、いつかやっておくべきかな? つまり、「アリエル主義」から語り起こすというオブセッションをやめて、編年体で、スポットごとに書く。「1810:イダルゴ神父の演説」「1845:テキサス併合、『明白なる運命』」とか。前回の書き込みとの兼ね合いで言うと、こつこつとやっておいた方がいいことかな? 

ま、ともかく、仕事がひとつ終わった。一安心。

2010年8月28日土曜日

逃避

映画や小説にはストーリーとは無関係に心に残ってしまう場面、一節というのがある。ストーリーを忘れてもそこだけ忘れないちょっとした細部だ。最近観た『瞳の奥の秘密』では、ごく最初のころのワンシーンがそうなるだろう。主人公が忘れられない事件を小説に書いていることを示すシークエンスの一部で、寝ていた彼が突然何か思いつき、枕元にあるメモパッドにある語を書きつける、という場面だ。

書いた語は "Temo" (私は恐れる)で、これが後半、この中にあるひと文字を挿入することによって違う意味を持つフレーズとなり、主人公の行動を動機づける。そのことの伏線であり、同時に小説化しつつある事件の不気味さに彼自身が恐れをなしているということを観客に知らしめる語となるメモだ。それがこの場面のプロットに対する機能。だが、ぼくがこのシーンを気に掛けるのは、そんな機能のゆえではない。機能とは無関係にこのシーンが告げていることは、主人公のベンハミンが一心不乱に小説を書いているということだ。夢は記憶と思考を整理する。起きている間、ひたすらあることを考えていれば、寝ている間に行き詰まりを打開するようなアイディアが湧くこともある。彼はそこまで書きかけの小説に没頭していたということだ。

既に書いたことだが、たとえばボラーニョの『野生の探偵たち』には、毎朝最低でも6時間はものを書くことを自らに課すことによって作家になった人物というのが出てくる。バルガス=リョサも似たようなことを言っている。毎朝6時間くらいは執筆するのだと。たとえ筆が進まなくても進めようと努力するのだと。昨日、NHKの「スタジオパークからこんにちは」というトークショウで高橋源一郎が言っていたことは、彼が小説を書こうと決意してから、毎日最低3枚書くことを自らに課し、それができなければ作家になることはあきらめようと覚悟し、書き続け、2年後にデビューできたのだということ。

書くばかりではない。かつてどこかに紹介したかもしれないが、ぼくの恩師は、この道に進もうと決意してからというもの、毎日最低でもスペイン語の小説を30ページ読むことを自らに課したという。それを聞いてある先輩は、それならと毎日40ページ読んだという。

ぼくはこのように努力する人たちのその努力を美しいと思う。ぼくも似たようなことをしたいと思うのだが、そうしたことができたためしがないのだ。で、こうした努力ができていれば、ぼくだって立派な作家になったか、もう2冊くらいは本を出しているか、もう3冊くらいは翻訳を出しているかしたんだろうな、と仮定法の思想を展開して悲しんでいるばかりだ。高橋源一郎の毎日3枚(1200字だ。今ならA4用紙1枚というところだ)なんて分量は、肉体労働をしながらの話だから、つつましく現実的な目標で、授業を抱えながらのぼくらにも参考になる。毎日最低でも1枚訳せば、年に1冊以上の翻訳は出せる。毎日1枚書けば、1冊本は出せる。毎日30ページ読めば、10日で1冊読み終わる。それくらいの努力がなぜできないかなと自らを呪う。

きっとぼくはロマン派的な天才の概念にとらわれているのだろうな。インスピレーションを得て一気呵成に書き上げる。一気呵成だから、それは締めきり直前でなければならない。だから締め切り直前まで何もしなくてもいい。締め切り直前になればすべてが解決するはず。だってぼくは天才なんだから(!?)……

明日、29日、あるところで講演しなければならいのだけど、ということはその準備をしなければならないのだけど、まだ終えていないのだ。なぜ毎日少しずつでいい、こつこつと着実に準備を続けて来なかったかな? と後悔しているという話だ。出るのはため息ばかり。

明日、がんばります。

2010年8月27日金曜日

オーケストラ!

『グレン・ミラー物語』以来というべきか、フェリーニの『オーケストラ・リハーサル』以来というべきか、ともかく、音楽(家)を題材にした映画はついつい観たくなる。『無伴奏シャコンヌ』とかイシュトヴァーン・サボーの『ミーティング・ヴィーナス』とか、『バード』(イーストウッドだ!)とか、オリヴァー・ストーンの『ドアーズ』とか……

で、今回、見逃しちゃうかもなとあきらめていたけど、追加上映のおかげでまだ観ることのできた、ラデュ・ミヘイレアニュ『オーケストラ!』(2009)をシネスイッチ銀座で。

ブレジネフ時代の1980年、体制批判をしたユダヤ人演奏家をかばったことで不興をかこつことになりボリショイ劇場の清掃夫にみをやつしていた往年の名指揮者アンドレイ・フィリポフ(アレクセイ・グシュコブ)が、正式のオーケストラに対する出演依頼のファクスを盗み出し、かつての仲間たちとボリショイ・オーケストラを騙って再起を期す話。演目となるチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」にまつわる団員たちやアンドレイの思い出が、ソリストとして出演を要請したヴァイオリニスト、アンヌ=マリー・ジャケ(メラニー・ロラン)の人生、ペレストロイカ前夜のソ連邦の暗い時代の出来事と絡まってくるところが泣かせどころ。全体としては喜劇仕立てで楽しい。

マリオ・バルガス=リョサの『チボの狂宴』(作品社)とか、エンリケ・ビラ=マタスの『ポータブル文学小史』(平凡社)とか、色々と楽しみな新刊の知らせが届く。

2010年8月23日月曜日

何と言おう?

大学で仕事をし、ついでにさる方にお会いして、別れ際、何かを言われた。何を言われたかわからなかったので、

えっ?

と素っ頓狂な声を出してしまった。間抜けだ。しかしその方はすぐに立ち去り、もう廊下の向こうに見えなくなったころに、

あ、なるほど!

と思い至った。その人が何を言ったか、理解できた。そのひとの発した音の連なりが、そのときになって初めて意味を担った言語に変じたのだ。

あ、なるほど!

とすぐにまた思い至ったのは、もうその人の発話内容に関係ないことだった。

ぼくは外国語の聴き取りにあまり自信がない。第三者間で話されているときには問題ないのだが、突然、質問が自分に向けられたりすると、たちどころにわからなくなることがある。聞き返して初めて、実は大した質問を受けていなかったことがわかる。一番困るのは、聞き返して、言い直してもらわないうちに直前の発話内容がわかってしまい、相手の言い直しを遮って答えてしまったりすることがあるということだ。

ぼくはつまり、日本語といわず外国語といわず、自分に対して発された発話を理解するのが遅れてしまうという傾向を有する。日ごろ漠然と感じていたこの法則に、今日、確信が持てたという次第。

これは言語運用能力の問題というよりは、心理的な何かだと思うのだが、ぼくはこのことを説明する原理を持たない。ともかく、自分に対して発された言葉の理解が遅れる。それともこれはぼくのみに固有な現象ではないのだろうか? みんなそうなのだろうか?

ところで、思い立ってカメラにこんなものをつけてみた。ハンドストラップだ。ぐっと軽くコンパクトになったような気がする。下にある本の表紙のジャングル写真をこのカメラで撮ったのだと言いたくなる。ちなみに、下にある本は、

マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』上下、木村榮一訳(岩波文庫、2010)
新潮の単行本および文庫本で絶版になっていたバルガス=リョサの代表作、復刊だ。めでたい。

2010年8月21日土曜日

なるほど!

ツイッターにはtwilogというのがあって、ブログ形式で表示できる。ツイッターに登録していないけど、この人の情報を得たいと思う人がTwilog登録していれば、ブログを見るのと同じ感覚で閲覧できるというわけだ。ぼくのは、ここ。

……いや、そうではない。そもそもぼくのツイッター画面にアクセスして、ぼく以外の人間が見ることができるのは、ぼくのツイートの羅列だ。twilogはむしろ、やはり、ブログのように見られるということが特徴。

2010年8月19日木曜日

理不尽の夏

千野帽子がちょっとした災難に遭ってそのことを嘆いている。大変でしたね、と同情するばかり。

要するにこの編集者の人というのは自分可愛さに嘘をついたということなのよね。愚図なぼくなんかも、こんなこと(とはつまり、糊塗)してしまいそうだから怖い。自分が怖い。

でも一方で、そういえば、確かに受注したと思ったので始めて、終わらせまでしたのに、編集者とのディスコミュニケーションのせいでいまだに印刷に回っていない翻訳がまるまる一冊分あるなあ、と思いだし、ぼくも我が身を哀れんだりしている。あれを優先させるという義理を働いたおかげで、本当は今ごろ出ていてもおかしくない別の翻訳の催促をうけたりしているんだよな、とますます我が身を哀れむ。このことに関して、ぼくは正当性を主張していいのかな? 

あ、つまり、こういうこと。翻訳A、B、Cがある。B、Cは同一出版社の企画。翻訳Aに取りかかろうかというころ、翻訳Bの話が持ち上がった。場合によってはある人との共訳になるかもしれない。そんなわけもあって、当然、Aを優先させた。終わって送った。さて、Bに取りかかろうとしたら、こんどはぼくの参加する予定のなかったCに参加してくれという。しかも、優先的に。共訳だ。そしてそれは無事、出た。つまり、Cというのは『野生の探偵たち』だ。で、今、2度までも先送りされたBをやっているということ。翻訳Aは、そして、いまだ本になっていないということ。連絡不足で。ぼくからの連絡不足らしい。B、Cの順序の逆転は、今、問題ではない。Aがいまだに出版されていないことに対して、ぼくはどういう態度をとればいいのだろう、ということ。Cの後には翻訳Dや翻訳Eが控えているのだけどな。そしてAとついでに約束した、同じ叢書から翻訳Fを出すという企画、あれも没になったということなのかな? 翻訳Eとの関連でどうしてもこれもやりたいのだけどな。

そんなあれやこれやに追い立てられているというのに、ところで、ぼくがこのところ何をしているかというと、さる方の蔵書整理みたいなもの。もちろん、これだってぼくが今のように愚図でなければ、ここまで長引くこともなかったかもしれない。一方で、ぼくが本当にここまでする必要があるのか、との根源的疑問も湧かないではない。まあゆっくりと、1日3時間くらいずつ、息抜きみたいにしてやっているので、さして嘆くほどでもないのだが、ましてやこの問題に関して、ぼくはそのくだんの編集者のような嘘はつかなかったまでも、100%誠実で潔白であったわけでもないから。

さ、採点やら翻訳Bやら講演の準備やらに取りかかろう。

でもなあ、翻訳A、本当に出ないのかな? これが19世紀スペインの小説でなければ、少しは話が違っていたのかな?

2010年8月15日日曜日

司法ってどんなものか、わかるさ

最近のぼくの大きな情報源のひとつとなってしまったツイッターでまたしても知らされて、観てきた。

フワン・ホセ・カンパネラ『瞳の奥の秘密』(スペイン、アルゼンチン、2009)

アカデミー賞外国映画賞受賞作品。なるほど、いかにもハリウッド好み。というのは、決して悪く言っているのではない。洗練されたカメラワークと編集、音楽などがただひたすらショッキングなストーリーを見せるために与しているという意味だ。面白い。とても面白い。そしてそれ以上かどうかはわからない、ということ。でも面白いのだから、いい。

裁判所書記官の仕事を定年で辞したベンハミン・エスポシト(リカルド・ダリン)が、25年前(というのは、1974年だ)の担当事件の思い出を小説に書こうとする話。その事件で彼は恋(のチャンス)と友だちと首都での仕事を失ったのだ。

当の事件は新婚の妻が強姦されて殺されたというもの。担当するはずでなかったのにベンハミンにお鉢が回ってきて、冤罪で済ませようとする裁判所の方針に納得がいかず、アル中の部下パブロ・サンドーバル(ギジェルモ・フランチェラ)をうまく手なずけ、ともに独自に捜査を続けることになった。同時期にやってきた直属の上司、判事補のイレーネ(ソレダ・ビジャル)とはお互いに惹かれ合っているようだが、言い出せない。イレーネはやがて婚約する。

このレイプ殺人の犯人捜しは、しかし、メインプロットではない。犯人が捕まったはいいが、刑務所内の取引によって恩赦に紛れて出獄し、報復を恐れたベンハミンが地方(フフイ)に転勤することによってイレーネとの仲は終わりを告げる。そして25年の空白を隔てて小説が書かれるというわけだ。小説を仕上げるために、ベンハミンが納得のいかない点を関係者に確かめて回るというのがもうひとつの大切なプロット。ここで犯人や被害者の後日譚が語られ、ベンハミンとイレーネの結ばれなかった恋のその後が模索される。

エドワルド・サチェリの小説を原作として、サチェリ自身が脚本に加わっているこのストーリーは、この第2のプロットの展開を第1のプロットにおけるいくつかのセリフが暗示する形になっている。このセリフをどう聞かせるか、それがこの映画の最大の難関だったのだろうなと思う。それもうまくできていて、面白かった。

死刑のないアルゼンチンで実際死刑など望まないと言っていた被害者の夫リカルド・モラレス(パブロ・ラゴ)のセリフの真意などが25年後に明かされる。深刻に考えるなら、司法システムへの問題提起とも取り得るだろう。「司法ってどんなものか、わかるさ」というのも、映画のセリフのひとつ。

帰りにデッキモカシンを買った。これだ。

2010年8月14日土曜日

オペラは長い

画期的なことなのだろう。NHKはBS-Hiでバイロイトの音楽祭を生中継するという。1876年、ワグナーが自作オペラを上演するためだけに作った劇場で、自分のオペラを上演する音楽祭を始めた。それがバイロイト。何年も待たなければチケットも手に入らないと言われている催し。それがTVでの生中継が初だというのだ。画期的じゃないか。

ラジオの生放送は1936年が最初。アレホ・カルペンティエールが小説の中で証言している。

夏の訪れとともに、初めてバイロイトの音楽祭がラジオ放送されるというニュースが伝わった。僕は上等な受信機を買い、その日の午後は暑かったので二人裸で並んで『トリスタンとイゾルデ』を聴いた。長い幕間には愛を交わし、音楽祭の終わり、「イゾルデの愛の死」の最後の和音の後にはもう一度抱き合っていた——それは音楽のゆったりとしたテンポに合わせて重ねられた最良の、最も長い抱擁だった……(『春の祭典』拙訳、87ページ)

この直後、主人公は同じラジオからスペイン内戦の勃発のニュースを聞くというのだから、それは36年の話なのだとわかる。

それから74年経って、やっとTV生中継なのだという。21日(土)。

しかしなあ、夜の10時過ぎに始まって翌朝の5時まで続くのだから、やはり長いな。さしてオペラ好きでもないし、ワグネリアンでもないぼくとしては、起きていられない。『ワルキューレ』がもう少し短ければな。

ワグナーのオペラに短さを求めるのは、木によりて魚を求む、というもの。19世紀とは長さの別名なのだ。たぶん。

ある授業でドン・フワンものの比較というのをやってみた。『セビーリャの色事師と石の招客』『ドン・ジュアン』(モリエール)『ドン・ジョヴァンニ』(モーツァルト)『ドン・フワン・テノーリオ』などだ。ひとことで言って、『ドン・フワン・テノーリオ』は長い。セリフが過剰だ。おそらく、19世紀的な「近代」「深さ」「内面」の概念というのは、言葉でもってなにもかも説明しつくしてしまおうというこの劇作の態度だ。セリフが長くてト書きが多い。

一方で、ワグナーのように長いものではないオペラ『ドン・ジョヴァンニ』は、ドン・ジョヴァンニ(ドン・フワン)のいまわの際の独白の長さが印象深い。韻文による悲劇の世俗化したジャンル(スタイナー風に言うなら)であるオペラがこうした心情吐露の歌の長さで人間の内面の深さ(時間の長さ)を開拓した。

授業ではそんな話をしたわけではないけど、そうなんだろうなと思う。

2010年8月9日月曜日

地下鉄に乗って

試写会に呼んでいただいた。@松竹試写室@東劇会館。

ゴンサロ・カルサーダ『ルイーサ』(アルゼンチン、スペイン、2008)

脚本コンテストで一番になったロシオ・アスアガの脚本を、映画の監督としては新人のカルサーダが撮ったフレッシュな一作。とはいえ、初老の女性の悲哀を描いて身につまされる。一方でところどころに笑いを織り込むので深刻になりすぎるわけでもない。つまりは手練れの作品という感じ。新人コンビにして手練れ。すごい。

夫と娘をいっぺんに亡くしたルイーサ(レオノール・マンソ)は、午前中は墓場の連絡係、午後は映画スターの家政婦として働いていた。早朝に出勤し、勤務先に葬られている夫と娘にバラの花を1輪ずつ手向けるのが日課。友は猫のティノだけ。そんなルイーサがティノに死なれて仕事に遅れた日、解雇を告げられ、女優も引退するからもう来なくていいと言われ、つまりは一度に3つの生活の糧を失ったという次第。

退職金も20ペソ50しかもらえず、猫の火葬代300ペソの持ち合わせすらない。銀行に行くときに初めて地下鉄に乗り、そこで多くの物乞いや物売り、ストリート・ミュージシャンらがいることを知り、自らも物売りや物乞いに身をやつしていく。

老後に不安を抱えるすべての現代人にとって、身につまされる辛い話。これを見ているわれわれ日本人は、さすがにストリート・ミュージシャンはこの十数年で常態と化したものの、地下鉄内の物売り物乞いなどほとんどいないので、この手段すら残されていないのかと、恐怖しながら見ることになるはず。ただし、上に書いたように、ところどころ笑いながらではあるけど。

ブエノスアイレスの美しい街並みと地下鉄がとにかく印象的(映像処理がうまいんだな)。ここの地下鉄(スブテSubteなんて変な略しかたをされるんだよな)、アルヘンティニスタたちが良く言うことには、東京の丸ノ内線車両が払い下げられているとのこと。残念ながら映画の中の地下鉄は黄色い車体で統一されていて、丸ノ内線らしき車両は見つけられなかった。

2008年の時点でいまだにダイヤル式の固定電話を使い、銀行の頭取名で何かの文書が来たから頭取に会わせろと窓口ですごみ、地下鉄の乗り方を知らないばかりか、エスカレータすらこわごわ乗るオールドファッションドなルイーサが、冒頭、起き抜けにぞうきんつきスリッパを履いてすり足で歩くずぼらさを見せているところなどが可愛らしい。ついに猫を葬ることになったルイーサの号泣も印象的だ。

帰りは地下鉄丸ノ内線に乗った。猫というグループの歌った「地下鉄に乗って」が耳もとで流れてきた。

2010年8月8日日曜日

心残り

昨日報告した『シルビアのいる街で』。間違いではなく、映画中、男が探していた女の名前はシルヴィーだ。シルビアSilviaはスペイン語名、シルヴィーSylvieはフランス語名。映画はスペインとフランスの共同資本、俳優も、主要登場人物の2人はそれぞれ、スペイン人とフランス人。だが、映画の中の重要なセリフはフランス語だ。舞台はフランス(ストラスブール)だ。だからシルビアでなくシルヴィーという名の女性を捜す話になる。

そもそもこの映画が観客を飽きさせないサービス精神はタイトルクレジットから明らかだ。最初、TVEなどのスペインの出資者を提示するときにはスペイン語で、フランスのそれを提示するときにはフランス語で提示している。言語が切り替わるのだ。そして、タイトル。En la ciudad de Silvia とスペイン語が出る。やがて"En la ciudad de" の部分がフランス語に変わる。Dans la ville de

が、待てよ、前半部分の変化だけに気を取られて、名前が変化したかどうか、気づいていない。不覚だ。Silvia はSylvieに変わったのだろうか? i がy に変わるなど、けっこうな変化だと思うのだが、もっと大きな変化に気を取られて、気づかなかった。

ああ、悔しい。

どうしよう? これを確かめるためだけにもう一度観に行こうか? でもなあ、今日はさすがに行けない。明日は違う映画に行く。うーん……

なんのことはない。公式サイトを見たら、フランス語のタイトルが出ていた。

Dans la ville de Sylvia

……Sylvia? 

SilviaでもSylvieでもない、Sylviaなのか! うーむ。これはまた、なかなか興味そそられる折衷案だ。

2010年8月7日土曜日

行列嫌いなぼくが列を作って観た

起きてすぐ思い立って、公開初日第1回上映にと、青山のシアター・イメージフォーラムに行ってきた。何かのBL映画の整理券待ちと一緒にされて、炎天下、並ぶ羽目になった。

ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』(フランス、スペイン、2007)。傑作だ。

6年前にストラスブールのバー《飛行士たち》Les aviateursで出会ったシルヴィーという女性を捜してその街に逗留している男(グザヴィエ・ラフィット)が、彼女が入学したと言っていたコンセルヴァトワール前のカフェで彼女を捜し続けるという話。客の女たちをスケッチして過ごすうちに、それらしき女(ピラール・ロペス・デ・アヤーラ)を見つけ、後をつける。トラムに乗った彼女に話しかけると、人違いと発覚、その夜、思い出の《飛行士たち》で知り合った女性客と行きずりの関係を持った男は、翌日もいつものカフェで女たちの顔をスケッチして過ごす。

ただそれだけのストーリーだ。題材として短編映画に似つかわしい。これが短めとはいえ、かりにも85分の長編として作られるのだからすごい。要するに、ストーリーなど問題ではないのだ。セリフもほとんどなく、それなのにとてもはらはらドキドキさせられる映画だ。これだけの他愛ないストーリーを見せるその見せた方がすばらしいのだ。何と言ってもこの映画は主人公やわれわれ観客の視界を遮ることによってやきもきさせる作品だ。カフェにたむろする多くの女たちをスケッチするために眺める主人公の視界は、他の女に遮られる。焦点を当てた人物の手前にまったくピンぼけな他の人物が割り込むことによって、見たい相手をまっすぐ完全に見ることのできない隔靴掻痒の感覚が観客にも伝わる。あるいはカフェのウィンドウの向こう側は光と外の景色が映り込んでよく見えない。わずかに影がさし、ガラスが鏡の役割をすることをやめた瞬間に、店内に探していた女の姿が映る。しかし、一瞬目を離すと、また光が差し込んでウィンドウの向こうは見えなくなる。再び見えたときには彼女はいない。こういう風に人物や観客の視界を欺き、「やきもき」させる、実につれなくて楽しい映画だ。

視界だけではない、音もわれわれをどぎまぎさせる。街の喧噪、というか、サウンドスケープとでも呼ぶべきものの処理が繊細で、観客を飽きさせない。靴音や車輪の音、フランス語のみならず時にスペイン語やドイツ語、英語が飛び交う街の人々やカフェの客の話し声(ただし、字幕もなく、聞き取れるほどの大きさでないものも多い。つまり、発話内容は問題とされない。騒音、もしくはサウンドスケープとしての話し声)。そういったものをサラウンド・システムのステレオ装置をフルに利用してうまい具合に絶妙の場所からそれにふさわしいタイミングと大きさで聞かせる。音声およびポストプロダクションの勝利だ。男がシルヴィーだと勘違いした相手を見つけ、追い掛け、話しかけるまでの1時間近い、大半は沈黙の時間が、ぜんぜん苦痛でないのは、この音声処理のおかげだ。

たとえばこうした音声が、視界に見えるものとシンクロしながら、われわれを「はらはらドキドキ」させるのは、男が女を追っている最中、間にトラムが入り込む瞬間だ。少し離れて女を追う男の視線でカメラは回っている。そこにいきなり、トラムが視界を横切り、手前のスピーカーから大きめの車輪や車体の音が流れ、観客はびっくりする。トラムの窓の向こうの女は見えたり見えなかったり、幻のように見えたりで、目がくらむ。これが、10秒くらいのシークエンス。実に絶妙ではないか?

生半なデュアル・オーディオしか持たないのならば、これをDVDで家で見ようなどと考えず、サラウンド・システムを備えた映画館に観に行かなければならない。

ちなみに、大久保清朗が『キネマ旬報』8月下旬号に書いたレヴュー「あわいの官能」は、この映画のインスピレーションがどこから来ているかを示唆していて、実に刺激的。

2010年8月5日木曜日

複雑な愛

ツイッターでフォローしているある人物が、『読売』のオンライン上のこの記事にリンクを貼り、まるでインターンよりゼミを優先させることが悪いみたいじゃないか、と疑義を呈していた。記事になっているのが自分の勤める大学なだけに驚いた。

後で『朝日』を見たら多摩版(13版31面)に同じ記事が出ていた。ちなみに、この記事についての説明は大学のサイト、トップページにも既に掲載されている。ぼくはこの40歳代女性准教授というのが誰のことなのか知らないし、特に彼女を擁護も非難もしない。よく知らないのだから。

『読売』よりも『朝日』の記事の方が少しだけ詳しい。「複数の学生が通学できなくなるといった精神的被害を受けたという」との説明を加えている。さらに、「准教授は、2008年から10年にかけ、学部生、大学院生をゼミで指導する際、同じ内容について長時間しかったり、外国で言葉を学ぶインターンシップへの参加の予定がある学生に対し、その期間内にゼミの発表を割り当てて参加できないようにしたり、威圧的な言動を繰り返したという」と続く。

「外国で言葉を学ぶインターンシップ」とは何だ? なんだか企業がただ働き同然で学生に就業経験をさせるというアレとは少し異なる様相を呈しているようだ。都合が悪いのなら学生から申し出てなぜ順番を変えてもらわないのだ、との疑問が残るが、たぶん、「威圧的な言動」におびえて言い出せなかったのだろうな。もちろん、企業が大学の都合も考えずにあたら学生をただ働きさせることにはおおいに反対ではあるけれども、一方で、学生には労働の厳しさを知れ、とも言ってやりたくはある。

でも今は一般的にインターンシップのことではない。この「外国で学ぶインターンシップ」というのが何だかわからないということだ。しかもそれは授業が開催されるような学期中にあるのだろうか? 日本とは異なるカレンダーで動いているから「外国」ならこういうこともあるということだろうか? 

こうした記事は常にそうだが、謎が残る。

でも、ところで、こんな不名誉なことでも自分のかかわる大学がニュースになると、こうして触れてみるのだから、へんなものだ。先日、ある学生がにこにこと笑いながら、「昨日ぼくの実家のある市が日本で一番気温が高かったとニュースになったんですよ」と話していた。それに類するメンタリティだろうか? 

そしてまた同時に、ぼく自身の言動が「威圧的」に受け取られていないかとの恐れもあるのか? ちょうど昨日、学生がメールをくれて、後期の卒論ゼミはあるのかと訊いてきた。あるに決まってるじゃないかと返事を書いたら、「ご機嫌斜めですか?」と尋ねられた。ぼくのご機嫌は斜めどころか、まっすぐに突っ立っていたのだが、何やら誤解を与えたようだ。

まあ大学における師弟関係の難しさは、とてもとても古くからある問題なのだけどね。

2010年8月4日水曜日

(部分的)電子図書館化計画

それでまあ、遊び呆けていたわけだ。

……あ、いや、そうではない。とりあえず非常勤先の授業の成績締め切りが昨日、3日に迫っていたので、それの採点を優先させることによって、その他の仕事をしないでいたわけだ。仕事関係のメールもタイトルと差出人だけ見て、ろくに確認もしていなかった。

すると、とある編集者の方からのメールがあった。

あれ(次の翻訳)、進んでます? ええ、もちろん、進んでますとも。遅々としたものではありますが。第3章がもうすぐ終わりそうです。2章まで送ります。

というようなやりとりがなされた。さ、本務校(これはぼくらのジャーゴン。ぼくにとっての外語大)の成績つけが終わったら本腰を入れなきゃ。そのためには、電子化だ! と思った。

他の無視していたメールにあった仕事を済ませるために大学に行き、ついでにテクストをコピーしてきた。コピーしたものを見開き2ページでなく、半分に切り、スキャナで読み込んでPDFファイルに落とし込み、それをドロップボックスへ。そのファイルをiPadで読み取り、iBookの本棚へ。これで電子書籍のできあがりだ。iPadさえあれば、これで、出先でも翻訳作業にいそしめる。もっとも、それより軽い、コピーした紙を持ち歩いてもいいのだが。

ちょうどその連絡をしてきた編集者がこの前に担当していた本の翻訳者が、なんでも原書はPDFファイルで受け取る、紙は要らない、と言っているという話を伺ったような記憶がある。それを思いだし、こうしてみた次第。

本当は紙の本が好きだけれども、たとえば、ある仕事に使うために買った本で、でももうこの関係の仕事はしそうにないから、処分してもいいんだけど、というものがだいぶある。けれども、捨てるに忍びないし、捨てる気になったとしても書き込みやら傍線やらがあって、ブックオフみたいなところに売っても嫌がられるし、お得意、というほどのつき合いのある古本屋もないし、……などと悩むことがある。悩んだ結果、捨てられないでいる。iPadの電子書籍に触れて(ただし、電子書籍自体はiPad以前からあることはちゃんと言っておかなければならない。なにもiPadがすべての始まりではない。Biblioteca Virtual Miguel de Cervantesなど、どれだけ重宝していることか)、かつこのごろ急に増えた書籍のPDFファイル化サービスのことなど聞きかじりながら、こういうのもいいかもしれない、と思っている。用済みの本をPDFとして残す。また必要がでてくれば、電子書籍として読む。

ちょっとまじめに考えてみよう。

では手始めに……