2010年11月4日木曜日

言葉の力

山崎佳代子さんの講演会「たゆたう世界」はぼくも関係している授業「表象文化とグローバリゼーション」の一環として行われた。

300人入る教室101で、まずマイクを使わずに詩を朗読することから始めた山崎さん、その後の講演はマイクを使い、外国語環境の中で母語(に近い言語)をかけることの効用、母語でなくても言葉を適切にかけることによって通じるコミュニケーションの例、などを挙げながら言語の大切さを説き、その言語における文学の存在意義を説いて力強かった。話すことと聴くことをきちんとすることから作られる教室という公共空間のことなども話され、おおいに感銘した1時間だった。

山崎さんはベオグラードに住み、あのNATOによる空爆の時代を生きてきた人。質問がその時代の暴力というよりはメディアによる情報操作、言葉による暴力についてのものに及ぶと、その時代にまさに、その時代を乗り切るためにダニロ・キシュを訳していたのだなどとおっしゃった時には、ちょっと呆然としてしまったな。涙のひとつも流していたかもしれない。

帰宅すると日本イスパニヤ学会の会報第17号が届いていた。ぼくがここに『野生の探偵たち』についての紹介を書いた号だ。表紙の「目次」には「ボラーニュ」と誤植があったけど。ぼくが書いたのは、以下のような文章だ。

訳者のとまどい
ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』柳原孝敦、松本健二訳(白水社、2010)

私はボラーニョや『野生の探偵たち』の面白みを十全に表す語をまだ見出せないでいる。

なるほど、その価値を文学理論や批評の用語をちりばめながらもっともらしく語ることは出来るだろう。『野生の探偵たち』の翻訳者(松本健二との共訳)として小説の3分の2ばかりを訳し、「あとがき」も書いた私は、その「あとがき」にそれらしいことを書いたはずだ。大学院の授業ではここ数年、連続してボラーニョの他の作品を読んでいる。『野生の探偵たち』のみならず、広くボラーニョの特徴というのもつかんでいるはずだ。でも彼がなぜこんなに面白いのか、それがうまく説明できないのだ。

「はらわたリアリズム」という前衛詩の運動の中心人物の足跡を、第1部と第3部ではその仲間になった17歳の少年の日記を通じて、第2部では50余名にものぼる関係者の証言を通じて辿るというただそれだけの筋の小説が、なぜこんなに面白いのだろう? 

私自身は映画における擬似ドキュメンタリーの手法との比較で価値づけてみた(「あとがき」)。野谷文昭さん(『日経新聞』書評)は二人の詩人の「危険で魅力的な旅の切なさと豊穣さにため息が出る」と評された。沼野充義さん(『毎日新聞』書評)は「貧血気味の現代文学への強烈なカンフル剤、いやちょっとした爆弾くらいの効果はある」と評価してくださった。都甲幸治さん(『読売新聞』書評)は「革命や詩に憧れながらも、革命家にも詩人にもなれなかったすべての人にも本作は捧げられている。それでもいいじゃないか。あのころの友情や夢は本物だったんだから」としてノスタルジーに訴えかける面白さだと言う。越川芳明さん(『図書新聞』書評)は「移民が常態と化し、国境がゆらぐ21世紀の現状を扱うこれからの若い日本の作家たちが目指さねばならない作品である」とグローバル化時代に対応するアクチュアリティに面白さを求めている。おそらく、こうした評価はどれも正しい。どれも正しいと言えるだけの豊かさがこの小説の強みには違いない。でもやはりそれだけでは、陣野俊史さん(『週間金曜日』書評)の「なんだろう、これ」という素っ頓狂な驚きの声に応えることができない。

私自身もこの小説を訳しながら、常に思っていた。なんだろう、これ。なんでこんなに面白いんだろう? わからない。でも、私が面白いと思う箇所は、いくらでも示すことができる。たとえば、次のような一節だ。

うつむきながらの作業で目は少しばかりかすんでいたな、チリ人は書斎の中を静かに歩き回っていて、私はただ彼の人差し指と小指の音だけを聞いていたんだが、やれやれ、たいそう器用な奴でね、私の分厚い本の背をさっと指で撫でていくんだが、肉と革の、肉と紙の擦れる音がして、これがまた耳に心地よくて、夢を見るのにちょうどいい、きっと私も夢見る態勢になったに違いない、というのも、いつの間にか目を閉じた(その前から閉じていたのかもしれない)と思ったら、サント・ドミンゴ広場とそのアーケードが目に浮かんだからだ、……(上巻340ページ)

第2部のキーとなる人物アマデオ・サルバティエラが、「チリ人」ことアルトゥーロ・ベラーノ(小説全体の中心となる詩人)の来訪時の話をしている箇所だが、ここでアマデオは嬉しい酒を飲んで寝てしまい、昔の思い出を夢に見たと言っている。その夢の世界への下降のしかたが甘美だし、この後に展開される夢の内容も素晴らしい。でも何と言っても私が面白いと思うのは、( )内の一文だ。「その前から閉じていたかもしれない」。ただでさえ不確かな夢の話が、その夢さえ見たかどうか不確かだと、いったいいつから目を閉じていたのかわからないと、はぐらかされることになるのだからだ。

こうしたはぐらかしが、ボラーニョを読む楽しみの最大のもののひとつだと思う。しかし私はこれを何と呼べばいいのか、知らずにいるのだ。