2011年4月30日土曜日

悲しみ

注文していた「復刊!」ガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』鼓直訳(集英社文庫、2011)が届いた。

本当に牛だった。インパクトがある。モレスキンのフォリオ・フォルダーの上に置いて1枚。はい、チーズ(あ、やっぱり牛だ)。

「復刊!」と謳ってはいるけれども、このたびのそれはこの作品とプイグ『蜘蛛女のキス』ボルヘス『砂の本』、それに短編集だけだとか。とりあえずは。

うーん。これなんか、わざわざ「復刊!」しなくても流通しそうなラインナップだとぼくなどは思うのだけどな。一度集英社で文庫されたコルターサル『石蹴り遊び』(ぼくはこれに関する1冊分の原稿を持っていて、ある人に渡したのに、なしのつぶて)、カルペンティエール『失われた足跡』(ぼくはこれの解説を書いているのだ)、ビオイ=カサーレス『豚の戦記』(これについては、特に何もないが、ともかく、面白い!)などを出してこそ本当の「復刊!」なのじゃないかと思うのだけどな。

ええ、そうなんですよ、どうせぼくなんざオールドファッションドな人間さ……でもね、これだけは言っておく。『石蹴り遊び』と『失われた足跡』が読み継がれないなら、人類はおしまいだ。

今日、エルネスト・サバトが死んだ。99歳だった。

勉強の息抜きとしての勉強

イタロ・カルヴィーノ『アメリカ文学講義:新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫・和田忠彦訳(岩波文庫、2011)は、かつて『カルヴィーノの文学講義』というタイトルで朝日新聞社から出されていたもの。これを読んでぼくはジョルジュ・ペレックの面白みなどを教えられたように記憶する。それに、「補遺」として「始まりと終わり」の章を、故人となった米川良夫に代わって和田忠彦訳で加えて文庫にしたのが、今回の本。

ハーヴァード大学のノートン詩学講義に招かれたのだが、カルヴィーノは死んでしまい、その草稿だけが残された、それを出版したのが『文学講義』。前回の版ではまだメモに過ぎなかった「補遺」は削除されたけれども、今回、文庫化にあたって、遺族の意向を汲んでこの部分を加えたようだ。

サイードには『始まりの現象』という小説の始まり方を扱った本があるが、これは始まりに加えて終わりをも扱った草稿。メモの段階なので、本当はもっと十全に展開したかったのだろうとは思うが、それでも示唆に富む記述が見られる。

「おそらく始まりと終わりの問題が気に掛かるがゆえに、わたしは長編小説でなくショート・ストーリーの書き手になったのかもしれません。自分がこしらえた物語が独立し自律した世界で、そこに居つづけるというか少なくとも長居できるということが、どうやらわたしにはまったく納得できないみたいです。長居などせずに、この架空の世界を外部から捉え、数多ある可能世界のひとつとして、群島のなかの島のひとつとして、銀河のなかの天体のひとつとして見る必要に駆られるのです」(247)なんて記述を読むと、『レ・コスミコミケ』のあの素晴らしい銀河を思い出さないではいられないじゃないか!

それから、デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』秋草、奥、桐山、小松、平塚、山辺訳、沼野充義解説(国書刊行会、2011)なんてのも目を通したりしていたのだが、問題は、昨日書いた連休中にしなければならない勉強とは、これらとはまったく異なることなのであった。

さ、勉強勉強……? あれ? でも今日はこれから飲みに行くんだっけか?

2011年4月29日金曜日

iPad2は買いだ

先のiPad2、PC2台オブセッションについて。以前書いたことだが、何人かの売れっ子作家たちが執筆に際して2台のPCを駆使しているようだと知った。参照用と執筆用だ。参照用というのは、それでネット接続して検索をかけたり、リファレンス類をインストールしてそれで調べたり、ということ。

ぼくはそこまで忙しいわけでもないのだが、ともかく、外出先でも仕事をしなければと追い込まれることはたまにある。リファレンスを参照するだけでなく、最近は、たとえば翻訳なら、分厚い本を持ち歩くのは難儀なので、PDFファイル化したものを常にPCに入れておいてそれを参照することにしている。それをPCでなくiPadですることが可能だというわけだ。

iPadのAppアプリには『西和中辞典』、『リーダーズ英和辞典』、『ブリタニカ』、『大辞林』など、ぼくが頻繁に使う辞書があり、それらをインストールして使っている。だから、これを「参照用」PC代わりに使うというのは実に素晴らしいアイディアだと思う。PDFファイル化したテクストもたくさん入っている。実は今、ぼくのiPadは、家ではそんな使われ方をしている。

これが重いので、なかなか気軽には外出先には持って行けない。辞書などはiPod Touchでも使える(だからいっそのことiPhoneに換えるという手もある)が、やっぱりテクストやブラウザなどは見づらい。iPadくらいがいいに決まっている。iPad2は軽くなったというが、持ち歩く気になれるほど軽くなっているだろうか? それが一番気になるところ。カメラなどは大した問題ではないのだ。

で、今日、散歩がてら電気店に寄ってiPad2を見てきた。案の定、人だかりで、触れそうにない。

ところが、そこへ、店員が「iPad2ぜひ触れてみてください」と言いながら現物を持ち歩いていた。だからお願いして持たせてもらった。

軽い! 

先代はお世辞にも軽いとは言えなかったけれども、これはお世辞抜きに軽い。白いやつだったからよけいに軽く感じたのかもしれないけれども、いや、それにしても軽い。片手で下の端を持って斜めにかざしても手首近くの筋が突っ張らない。

うむ。これは買いだ。やはり案の定、注文して待つことになるとのことだったので、注文は控えたけれども、今の発売直後の狂騒に一段落ついたら、考えてもいいかもしれない。

連休の計画

プレ-タ-ポルテの……ってつまり既製服のシャツの袖が長くて(ぼくの腕が短くて)ジャケットからはみ出すぎてみっともないとき、こんなふうに袖を折り返して逆側からボタンをかけてみることがある。なんちゃってカフスボタンと呼んでいる。

こんなことを書く気になるのは連休だからだ。心の余裕というやつだ。

しかし、連休明けにある仕事に備えて、この連休はいろいろと資料を読んだりして準備しなければならない。大変な仕事を引き受けてしまったかな?……

以前、柴田元幸さんにお話をうかがったときに、自分が新たに何か勉強すべきことがある仕事でなければ引き受けない、というようなことをおっしゃっていて、ああ、この柴田さんにしてからこんなことをおっしゃるのだから、すごいな、と感服したことがある。彼ほどの人ならば、もう勉強する労力など必要ない仕事でもあぶく銭を稼いで、なんてことしてもよさそうなものなのに……と。

で、そんなことがあったので、ぼくも勉強を要する仕事を引き受けたという次第。この一週間で千ページばかりも読まねば。

柴田元幸といえば、このブログのリンクから飛んだこの動画に再現された対談で、いろいろと興味深いことを言っていたのだが、そんなことより、ポール・オースターの証言。ワールド・シリーズは『ワールド』という新聞がスポンサーだったからそう呼ばれるようになったという話。本当かな? だとすれば面白いな。この対談はおそらく、『モンキー・ビジネス』に収録されているわけだが、このところ街に出てないので、それを買うことができていないのだ。

さ、連休の間に、iPad2がどれくらい軽いのか手に持って確かめに行き、『モンキー・ビジネス』を買って……なんてやってると、勉強、できるかな?

ぼくには相変わらず、PC2台による仕事へのオブセッションがある。参照用のPCと執筆用のPCだ。その参照用をiPadに換えて仕事をしているのだが、それを新型に変えるだけの価値があるか? それが問題なのだ。

2011年4月28日木曜日

ハレオがうまくかけられない。

ある人が、自分のブログで「日本では国立大学が偉い。しかし西洋ではそうではない。米国の有力大学はみな私立である。(略)英国も、オックスフォードやケンブリッジは私立である。(略)フランスやドイツは何かややこしいが、日本の国立大学で神学部だの仏教学部だの神道学部だのが、つくれるわけがないのである」と書いていた。

枕に過ぎないこの言葉に噛みつくつもりはないが、まったく……その「ややこしい」ドイツやフランスの例をちゃんと述べずして米英加だけの例をもって「西洋では」とくくる乱暴さにため息が出た。フランスのグラン・ゼコールやパリ大学の例など言わずして、「西洋」を語れるか? 事態は逆だ。米英の例が特異なのだ。そもそも「偉い」とはなんのことだろう? 

以前どこかに書いたが、オックスブリッジやアイヴィ・リーグの例しかしらずして「欧米に比べて授業料が安い」というメリットがわれわれにあると書いた人物に対するのと同じような恐怖を感じた。

「偉い」日本の国立大学の中では、どちらかというとあまり偉くない方に属するのかもしれないぼくの大学(という自己卑下がこの大学の学生たちの多くに見られるように思う)の、しかし人格が高潔だという意味で「偉い」(ということにしておこう)学生たちのスペイン舞踊部のリサイタルに行ってきた。

ぼくはフラメンコを鑑賞し批評する言語を持たない。それが舞踊である限りにおいて体の切れなどはみていてわかる。そしてそれが人それぞれだということも。カンテ(歌)部の者とギタリストがギターと歌、パルマ(手拍子)のセッションを見せ、そのときにパルマの女性が即興で少し踊った。そういうインプロヴィゼーションなどはもっともっと見ていたかったとも思った。

府中グリーンプラザけやきホールでのこと。

2011年4月27日水曜日

視点の転換

イグナシオ・ラモネ『フィデル・カストロ:みずから語る革命家人生』伊高浩昭訳(岩波書店、2011)
Ignacio Ramonet, Fidel Castro: Biografía a dos voces (2004)
の訳。そしてまたこの本はかつてTV用にラモネがカストロに行ったインタビューを再編成したもの。

そのインタビューはかつてNHK-BSで一週間かけて全編放送された。それを観ていたし、原書にもところどころ目は通していたのだが、翻訳は発売されてしばらく、開かずにいたのだった。

オピニオン詩Le monde diplomatique の編集長だったラモネによるまえがきはさすがに示唆に満ちている。「キューバは史上初めて、スペイン、米国、ソ連のいかなる帝国にも従属しない時代に入った。ついに完全な独立を果たし、国際左翼陣営の最左翼として、国際社会のあらゆる進歩主義勢力と連携し、新自由主義とその全体化に対し一大攻勢をかけながら、政治的な第二の人生を迎えたのだ」(XV-XVI)などという指摘には目から鱗が落ちる。

崩壊したソ連に取り残された社会主義の生き残り国なのではない。ソ連帝国から脱却し「第二の人生を迎えた」真の独立国なのだ。うーむ、うまい。

2011年4月20日水曜日

リャかジャかヤか?

スペイン語の初級、中級くらいの授業も持っている。スペイン語の授業などやることは決まっているし、毎年同じことの繰り返しだと思われるかもしれない。そうには違いない。でも意外に変化はある。毎年毎年、毎回毎回、ひとりひとり反応は違うし、去年のやり方が今年うまくいくとは限らない。教材も毎年違う。

今年は2年生の講読でJuan José Millás の Letra muerta というのを使っている。ただし、教材用にリライトされたやつ。これを足がかりにして、慣れたらステップアップ。本物の文学作品に取り組もうという姿勢だ。

ぼくは意外にこの作家が好きだ。昨日そんな話をしたら、ある人がわたしも好きだとおっしゃった。意外に人気作家だ。

フワン・ホセ・ミリャースだ。Juan は最近ではフアンとする表記が主流だ。それをかたくなにフワンと書くことについては、今はこだわらない。ミリャースだ。Millás。

学生に書いてもらったのを見ていると、ミジャスとミリャスが半々くらいだろうか? ミヤスというのはいないようだ。スペイン語の ll の音表記の問題。頭が痛いところだ。パエーリャ、セビーリャなどと同じ、あの問題だ。バルガス=リョサかバルガス=ジョサかの問題。

どうもスペイン人は「リャ」に近い音を出し、その他の国々では「ジャ」に近いよ、という人がいるみたいだ。でもそんなはずはない。「俺ってカスティージャ人だからさ、ジャって発音しちゃうんだよね」と主張したカスティーリャ(スペイン中央部)の人間をぼくは知っている。どう聞いたって「ジャ」ではないメキシコ人もたくさん知っている(それにしても、「スペインでは……、イスパノアメリカでは……」という乱暴極まりない分類が、多すぎる気がする。スペインとメキシコのスペイン語が違うなら、メキシコとアルゼンチンのスペイン語だってだいぶ違うのに。ちなみに、アルゼンチンでは「シャ」と言え)。「リャ」でもないけど「ジャ」でもない、だからといって日本語の感覚で「ヤ」でも困る、というのがいちばんしっくりくるのだが。

少なくとも、既に定着しているバルガス=リョサに逆らってまでバルガス=ジョサとすることの意義は認められないと思う(検索でヒットする機会を逃してしまう)。ギリェルモというのは、日本語として見たときに語呂が悪そうに見えるので、ぼくはギジェルモと書くことが多い。それ以外はリェとしている。

でも新たに記す名なら、あまりこだわらない。ミリャースでもミジャースでもいいかと思う。どちらがいいか? それともミヤース? 

と、ここまで書いてブラウザを開いたら、ツイッター上で、こんなのを教えてもらった。リャマ・フォント。これも ll 問題だ。リャマ・フォント? ジャマ・フオント? ヤマ・フォント? それにしても、F や T のリャマのアクロバティックな体勢!

2011年4月17日日曜日

aを抜く

田村さと子『百年の孤独を歩く——ガルシア=マルケスとわたしの四半世紀』(河出書房新社、2011)
ご恵贈いただいた。

『謎解きミストラル』(小沢書店、1994)でガブリエ・ミストラルを論じた田村さと子が、今度はガブリエ・ガルシア=マルケスについて書いたもの。作家本人との「四半世紀」のつき合いを謳ってはいるけれども、実際には2005年くらいからこの本を書こうとの意図をもってなされた旅の記録。ガルシア=マルケスの作品世界ゆかりの地を歩き、本人や親族たちに会見する田村さんの記録だ。

Hannes Wallrafenのすてきな写真のカバーを開いてみれば、序章では著者とガボとの出会いが語られている。これがキャッチーな話。「健次君」こと中上健次がどうしてもガルシア=マルケスに会いたいと言ってきたというのだ。ちなみに、二人は幼なじみで、おなじ中学の文芸部に在籍していたらしい。だから、「健次君」なのだ。その健次君に頼まれて、つてを辿ったはいいが、結局、健次君抜きで会うことになったとのこと。そしてインタビューを取り、それを『朝日ジャーナル』誌上に掲載した。

そこでぼくも記憶が蘇ってくるのだ。ぼくはこの『朝日ジャーナル』誌上のインタビュー記事を読んだことがある。まだ学生だったころ、リアルタイムで触れたのだった。そのときの発言なども後々、引用されていて(たとえば、川端康成に触れて、ガボ自身を耽美派だと称しているくだりとか)、記憶が新たにされる。なるほど、旅はここ5年くらいのものだったけれども、「四半世紀」かけた取材の成果といえるのだろうなと思う。最終章の「カルタヘナ」は去年『文學界』に発表した文章を展開したもののもよう。他にも、そのように先行して発表されたものがあるのかもしれないが、くわしくは知らないので、ともかく、読む。

第1章の「グアヒラ半島」はとりわけ、本当に「歩く」「旅」といった感じが強く、友人の女性たちと3人で連れたって、ベネズエラ国境に近い、ワユー族などの先住民も多い地域の町々を訪ねて回った記録。その中に、こうした旅の重要さを伝えるハイライトがある。半島の突端、ラ・ベラ岬からマイカオという町に行ったときのこと。

 マイカオに入ると商店だらけである。どの通りにも店がぎっちり入っている建物が並んでいて、その間の通りに張られたテントでは衣類やら靴やらの商品が山積みされている。なんとなく写真で見たことのあるアラブの市場のようだ、と思っていたら、働いている人たちの服装のせいだった。ここはコロンビアでアラブ系の人たちがもっとも多く住む町で、南米で一番立派なイスラム教寺院きがある。ほとんどはシリアやレバノン、パレスチナ、ヨルダン出身なのだが、彼らが十九世紀末にコロンビアにやってきた当時、中東をオスマン・トルコが支配していたので、トルコのパスポートを所有していた。それでこの国ではアラブ人のことを今も「トルコ人」と呼んでいる。おそらくマルケス作品にしばしば登場するトルコ人街は、ここでみているようなアラブ人街の光景なのだろう。(49)

「ラテンアメリカ」、先住民、混血、etc. などという紋切り型のイメージにとらわれていたのでは、ガルシア=マルケスのテクストに出てくるアラブ人、「トルコ人街」、逃亡奴隷の影などは見落としてしまうだろう。気づくことが肝心なのだ。マイカオのような町がある。つまりコロンビアにはぼくたちが想像する以上のアラブ人がいる。人口統計などではわかってはいても、それだけでは見えてこない雰囲気のようなもの、それを把握すること。その雰囲気を感じとるのがこうした旅の最大の成果。

世界遺産に登録されている、フランチェスコ・ロージの映画版『予告された殺人の記録』のロケ地モンポスを訪ねた4章「マグダレーナ河」などはもっとたくさん訪ねて、書いて欲しかったところ。だが、文句は言うまい。なにしろ、ゲリラの活動などで危険極まりない地帯。ゲリラに加わるために旅をしていたと思われる少年たちと話したりと、後から思うと冷や汗の出そうな旅だったのだから。

2011年4月13日水曜日

授業開始

非常勤先の大学に、初日から忘れ物をしたことに気づいて連絡すると、すぐ対応してくれた。同じ国立大学でも……いやいや、外語だってしっかりして……いる? ……だって今日は1限から授業で、10分ほど前に行くと、まだその教室には鍵がかかっていたけど、教務課はすばやく対処してくれたじゃないか。

そんなわけで授業が始まった。8:30の早い時間に開始の授業のために6時に起きたら、夜10時にはもう目がショボショボだ。

1時限は「欧米第二地域基礎I スペイン語文化に触れる」というもの。

この授業の目的はふたつ。ひとつめはスペイン語圏発の、そこに関係するスタンダードな文化・芸術現象に触れ、馴染んでいただくこと。ふたつめはそれらにただ漫然と触れるのでなく、それに批判的に対峙し、分析し、学問的に論じるための基礎訓練を行うこと。

そのためにはただ教師が語りっぱなしの授業ではなく、ほぼ毎回、なんらかの作業を行っていただく。いわゆる「参加型」の授業のごとくディスカッションしたりプレゼンテーションをしたりしている暇はないし、それらも大切ではあるが、書く行為にも重点を置きたいがために、ここでは「作業」とは、たいてい、何かを書いてもらうことにする。

およそアカデミック——と称するのはまだ口はばったいが——な文章表現という概念を持たない1年生に、その概念を自らに植え付けていただくこと……

というような話をした。

そしていろいろ書いてもらって、こうして添削に追われている。

やれやれ。当面忙しいな。

2011年4月12日火曜日

日本の大学を憂え、自身を哀れむ

毎学期毎学期、授業の始まる前日には、最後の悪あがきのような、後にはひけない覚悟を決めたもののような思いを抱き、それを場合によってはブログに書いている。半年に一度のことだから、いい加減、慣れればよさそうなものを、ぼくもほとほと諦めが悪いのだ。

が、今学期はとりわけ、事情が異なっている。地震の影響、……というよりもそれに対する(なんだかまだ中途半端な)計画停電への対応というやつで、今年、とりあえず前期は1時限の始まりが8:30。つまり30分繰り上がりになったのだ。

けっ、1995年くらいまで、つまりぼくがドクターの学生のころまではそれが普通だった。東大もそうだったはずだし、外語もそうだった。元に戻っただけだ。そう考えることは可能だ。

いや、それどころかぼくは大学の授業なんて8時に始まってもかまわないと思っている。

日本の大学はたいていが90分授業だ。それを2時間と読み替えて時間計算し、単位数を算出している。ぼくは秘かに、それを字義通り2時間にして、8:00-10:00、10:00-12:00、12:00-14:00、14:00-16:00、16:00-18:00なんて時間割でもいいと思っている。授業担当者の裁量で適度に休みを取ったりして、それを休み時間代わりにすればいいのだと。あるいは逆に、1時間ずつにして一授業あたりの単位数を半分に減らすのでもかまわないのだが。

授業と授業の合間に休み時間も置いていると、理論上はメリハリが効くように思えるかもしれないが、その上に始まりが担当者の裁量で10分遅れる日本の大学の授業は、逆説的にダレてしまっているのではないかと思う。ダラダラと2時間、始まりも終わりもわからない授業、これが実はうまく収めるタイムテーブルなのかもしれない。そう夢想する。

話しがそれた。そんなわけで、20分とか30分とか40分とか、中途半端な時間に始まったり終わったりするのは、ややこしくていけない。8:30なんてけちくさいこと言わずに、いっそのこと8:00ぴったりに始めてくれ。

……と、思うことがある。

でもなあ、8:30……ちゃんと起きられるかなあ? おれはもう数年で50になろうとしているのだが、いまだに朝が心配なのだよ。

2011年4月10日日曜日

オブセッションを楽しみに換える


ある書類を、地震後のゴタゴタとそれを片付けるための研究室の整理の最中に紛失したかもしれないという疑念が芽生えたのは、昨日の夕方のことだった。どんな書類かは言わないが、ともかく、それを紛失するなど、職業人としてのモラルを問われそうな、つまり、これをなくしたのだったら、ぼくはもう大学教員としてやっていけなくなるかもしれないというような、そんな類の書類だ。

疑念は強迫観念へと変わった。いや、でも、封筒に入っていたはずだ。封筒は貧乏性なぼくは再利用しようとして取ってあるはずだ。捨てる封筒もあるけども、そのときは中身を確認するはずだ。だから捨ててはいないはず。冷静に考えると、そういう結論に達するのだが、それでも落ち着かない。でもぼくほどのそそっかしい人間のこと。封筒は中身を確かめてから捨てるという原則など、何千回破ったことか……

いても立ってもいられなくなった。眠れなかった。気持ちを鎮めるために、仕方なしに研究室に見に行った。東京都知事選の投票を済ませてから、そのまま、自転車で。

書類は、やはり、あった。これでしばらくは路頭に迷わずとも済みそうだ。

で、ただで書類の確認のためだけに行くのもしゃくなので、行き帰りにサクラを愛でてきた。武蔵野公園やら野川公園、武蔵野の森公園、多磨霊園など。サクラは方々で満開だった。写真は大学の南側の裏道。そしてそれと直角に交わる警察学校および警察大学校の裏道。なかなか壮観なサクラ並木だ。

多磨霊園では、花見をしている人もいた(いや、もちろん、公園にもいたが)。これは花見を自粛しろなどと言ったあの現東京都知事へのプロテストか? だったら嬉しいぞ。今日、われわれの投票行動によって、不当に長居したその公職を追われるはずの、あの老人への抗議なのか? それともサクラの木の下には死体が眠っている、という梶井基次郎のテーゼの確認なのか?

2011年4月9日土曜日

検閲は始まっている?

斎藤和義が自身のヒット曲「ずっと好きだった」を「ずっとウソだった」という替え歌にして原発を批判し、それを歌う姿をYouTubeにアップしたのは正確にはいつのことだったかわからない。7日の午前中からこの映像が爆発的にネット上で評判を呼ぶ。Googleのリアルタイム検索で見ると、正午くらいにはTwitterでの言及が非常に多くなっているのがわかる。

ツイッターというのは、たとえばぼくが誰かをフォローするとすると(その「誰か」の画面上に「フォローする」というボタンがあるので、それをクリックすると)、その人の発したツイートがぼくのツイッター画面上に出てくるという仕組みだ。ぼくは80人ばかりのツイッターユーザーの発する情報が有益だ、もしくはおもしろい、と思ったからフォローしている。ぼく自身とその80人前後の発した言葉が投稿順にぼくの画面に現れるという仕組みだ。

もうひとつのツイッターの重要な機能がリツイート。誰かの書いたことを再生産する仕組みだ。ぼくは、そんなわけで、80人ばかりの情報を得ているが、その80数人は、それぞれ何人か何十人か何百人か、多い人だと千人を超えるくらいの人をフォローしている。その人たちのフォローしている相手をぼくがフォローしているとは限らない。ところがその人が誰かのツイートをリツイートすることによって、それがその人のツイートと同様、ぼくの画面上に出てくるという仕組みだ。可能性として、ぼくは80人×数百人の情報を得ることができるようになるということ。リツイートは何重にもできるから、80人×数百人×数百人×……と可能性は無限大だ。

そのようにして情報が広まる。評判は評判を呼び、加速度をつけて広まる。「燎原の火」というやつだ。

斎藤和義の「ずっとウソだった」はこのようにしてあっという間に広まった。

ところが、肝心のYouTube映像はすぐに削除された。削除されても斎藤和義(あるいはそのスタッフ? ファン?)は手を変え品を変え映像をアップし続けた。イタチごっこだった。

総務省の「東日本大震災に係るインターネット上の流言飛語への適切な対応に関する電気通信事業関係団体に対する要請」というのが出されたのが前日だった。斎藤和義のこの替え歌は「流言飛語」とみなされたのかと、ますます話題になった。

昨日、斎藤はUstream上でライブを敢行。そこで「ずっと好きだった」から「ずっとウソだった」のメドレーを歌った(途中、ネットの不具合による中断を挟みながら)。そのときの映像は今、YouTubeで閲覧可能。当初の「ずっとウソだった」は、最後に「ずっとクソだったんだぜ、東電も東北電も/中電も九電も」(記憶による再生。少し違うかも)と歌っていたのだが、ここでは「T電もK電も/S電もH電も」に変えている。それによってこの映像は、今のところ、削除されずに済んでいる……のだろう。

「東電」と「T電」。この間に「流言飛語」と表現の違いが横たわっている。消されるべき運命と生き残る運命の差が横たわっている。

明日は東京都知事選。TT選だ。原発が必要だとか日本は核武装すべきだとか、たわけたことを言っている老人IS以外の誰かに投票せねば。

2011年4月7日木曜日

そして誰もいなくなった

昨日ほのめかしたことだが、渋谷に向かう電車の中で読み終えたのは:

エベリオ・ロセーロ『顔のない軍隊』八重樫克彦・八重樫由貴子訳(作品社、2011)

コロンビアの田舎町、サン・ホセに暮らす引退した教師イスマエル・パソスによって語られる閉塞感。何が閉塞感をもたらしているかというと、軍隊の存在。軍隊は国軍と右派武装組織(パラミリターレス)、ゲリラという3つの異なる組織。政治的立場の異なる組織が、自らの地歩を固めるためにいつこの村を武力占拠するかしれたものではないという恐怖。つまりは、国は違うけれども、ゲリラに占拠され、暴力を受け、そこから逃れてきた人々を扱った昨日の映画の題材と、呼応しているという次第。

第1章で語られることは、しかし、このイスマエルという老人に覗き見趣味があるということ。とりわけ隣家の「ブラジル人」とあだ名される人物の妻ヘラルディーナにはぞっこんで、長年連れ添った妻オティリアにもほとほとあきれられている。

イスマエルの狒々じじいぶりはこの小説に俗っぽさというか、なまめかしさというか、そうしたものを与えていて、それがこの村の者たちを支配する死の恐怖と好対照をなしている。こんな感じだ。

周囲が夜の明かりに包まれていくなか、おれもコーヒーカップを手に持って、飲んでいるふりをしながらヘラルディーナを見つめている。昨日の朝は裸でいたが、今夜は服をつけている。とはいえ薄手の藤色のワンピース姿は、別の形の裸というか、ある意味、全裸よりもさらに淫靡かもしれん。ただ、裸であろうとなかろうと、別の形の裸であろうと、おれにとって肝心なのは、先日垣間見たように、背中全体を躍動させて、胸に心臓を厳かにも打ちつけて、上下する尻に魂を込めて、彼女が歩くとき、体の奥のひだが開かれ、秘部が露出するさまを拝むことだ。(32ページ)

まったく、こんな調子で下世話な話が進むものだから、いったいいつから緊迫が始まるのかよくわからないほどだ。

それでもこの村が緊迫していることは、4年前にマルコス・サルダリアガという人物が失踪している(つまりはゲリラかパラミリターレスに誘拐された)ということからもうかがい知れる。この人物の失踪した日3月9日にはイスマエルたちは残された妻オルテンシアを見舞いに訪れるというのだ。しかしこの日は、いろいろな偶然が重なって見舞いに行くことができなかったイスマエルが、あちこちに寄るうちに徐々に恐怖を感じていく。人か物か、何かよくわからないものの気配に体を強張らせ、ゲリラかパラミリターレスか、と身構えるようになってくるのだ(結局はそれは犬だったけれども)。そして帰宅してみると、ついには妻が行方不明になっている。

 そのままごろごろしていたところで、どうなるもんでもないだろう? 夜明けとともにベッドから抜け出し、おれは家をあとにして、昨日と同じ道をたどって崖まで行ってみた。朝日が当たるこの時間帯には正面の山がよく見渡せて、山腹に点在する家々が不朽の景観を誇っていたよ。一軒一軒は離れていても、ひとまとまりになっていてさ。今後も高くそびえる緑の山に、色どりを添えつづけることだろう。昔オティリアと出会う前には、余生はあそこでと夢見たもんだが、今やあれらの家はもぬけの殻か、住んでいてもわずかだろう。つい二年ほど前まで九十世帯が暮らしていたのに——麻薬密売組織と政府派遣の軍隊間、ゲリラとパラミリターレスのあいだに起こった——戦闘に巻き込まれ、多くが殺され、強制退去させられて、結局残ったのは十六世帯。この先、何世帯が残るだろうか、そう言うおれたちも残るだろうか? (65)

つまりこれは、「そして誰もいなくなった」という話なのだ。たとえばフリオ・リャマサーレス『黄色い雨』木村榮一訳(ソニーマガジンズ、2005)のように、死者(死に行くもの、死んでいるかもしれないもの)が語る、次々と、ひとりまたひとりと人がいなくなることの寂寞を語った物語なのだ。

徐々に人が消えていく恐怖。怖い。

2011年4月6日水曜日

ディジタル的深みを堪能する

1月に紹介した土濵笑店でランチの鶏飯を食べてから、円山町のラブホテル街を抜けてユーロスペースで映画を観てきた。

クラウディア・リョサ『悲しみのミルク』(ペルー、2008)マガリ・ソリエル他

前提が衝撃的だ。ゲリラ兵士たちにレイプされ殺された女の無念を即興の歌(ケチュア語)で歌う母がいて、それを受ける娘ファウスタ(ソリエル)がいる。娘は母の乳を通じてこの無念と恐れを受け継いでいると信じ込み、それを恐乳病と呼んでいる。La teta asustada これが原題だ。このファウスタ、レイプされないようにと、子供のころ、膣内にジャガイモを入れたというのだ。ペルー、80年代のセンデロ・ルミノソのゲリラ活動盛んなりしころの記憶。それが衝撃の前提。

母が死に、リマに埋葬することを拒んだファウスタは、しばらく母の死体を家に保管し(これも衝撃だ)、金を作って、ゲリラを恐れて逃げてきた故郷の村に埋葬したいと願う。身を寄せるリマ郊外のおじ夫婦の家から市内の市場を抜けたところにある豪邸に家政婦の仕事に通うことになる。

屋敷の女主人は定例のコンサートを控えて作曲しなければならないのだけど、できずに苦しんでいるピアニスト。その彼女がファウスタの歌を聞きつけ、頼み込んでさらに歌わせる。そこからインスピレーションを受けて新曲ができるという感動のお話かと思いきや、そうではなく、要するにこれを剽窃して、ファウスタにひどい仕打ちをする、という、これもまあ、いってみれば衝撃の展開。

『悲しみのミルク』は、たしかに、ペルーの凄惨な記憶を前提にしているが、そのことだけを強調しすぎると、この映画は捉え損なうだろう。むしろ、展開に不満を持つ社会派の人々もいるかもしれない。これは巧みな語り口を発揮して飽きさせない映画だ。そのことが併せて評価されなければならないだろう。

ひとつだけ例を:ファウスタの奉公先で、初めて女主人と対面(対面ですらないのだが)するシーンだ。台所で待機していたファウストにピアノの音が聞こえてくる。つっかえつっかえなのだから、不調であることがわかる。やがて、バーン! と鍵盤を叩く音がして、続いて呼び出しのベルが鳴る。ピアノの置いてある食堂に行ってみると、女主人の姿はない。それからいくつか部屋を巡って探してみるが、どこにもいない。寝室に行ってみると、中からドリルの音がする。壁に写真か何かを飾るために穴を開けているのだ。

ファウスタを前任者と勘違いした女主人は、こちらを振り返ろうともせず、その名を呼ぶ。ファウスタが名前を修正しても「ああ、どうでもいい」と言いながらドリルを差し出す。それをおそるおそる受け取るファウスタの目に、椅子に立てかけられた額入りの肖像写真が入る。カメラは、しかし、首から下の軍服姿だけをフレームに収めている。代わりに、その額のガラスが鏡がわりとなってファウスタの顔が写りこんでいる。ファウスタの目が肖像画の顔を見た(と思われる)瞬間、彼女は気分が悪くなって駆け出す。

そのときはじめて、女主人は後を振り返り、やっとその顔を見せるのだ。何しろ渋谷に向かう電車の中でエベリオ・ロセーロ『顔のない軍隊』を読み終えたばかりのぼくには、このシーンには実に興味をそそられた。

この出会いのシーンのうまさ、こうした手練れの技巧(はっと息をのむほどではないにしても)が全編続くから、これは面白い映画なのだ。撮影はナターシャ・ブレイア。ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』の撮影監督だ。いかにもディジタルなりの深み(背景のあからさまなボケ)を出していて美しい。

ところで、この邦題、どうなのだろう? 原題は、上にも書いたとおり、字幕で「恐乳病」とされた恐れ。「おどろいた乳房」もしくは「おどかされている授乳作用」。それが『悲しみのミルク』では、母乳なんだか牛乳なんだか脱脂粉乳なんだかわからない。

これは英訳の翻訳なのだろうか? 公式サイトでもパンフレットでもThe Milk of Sorrowという英題を前面にかかげているのは、いかにもダサイ。映画の作りのうまさに対応していないな、このダサさ。ケチュア語を敢えて排除しなかった映画だ。それがなぜ英題なのだ?

2009年に東京フィルメックスで一度上映された作品が、こうして一般公開されているのだという。

2011年4月4日月曜日

いかに、いずこに導くか

一昨日、卒業生からメールをいただいた。弟が外語に入学したというのだが、新入生向けのパンフレットだかガイドだかにぼくの名があったとのこと。

スペイン語(専攻)の紹介で、「新入生に紹介したい先生」という欄に、「柳原先生/クセになるおもしろさ☆」と。

うーむ。ぼくのウリは「おもしろさ」などではなく、鋭敏な知性、豊かな学識、驚異の記憶力、等々、であったはずなのだけどな……

「わたしはお笑い芸人じゃないぞー」と、いつだったか、同僚の先生が、学生たちの授業での反応に対してどこかに書いていたな。ぼくも同じこと言いたいな。「クセになるおもしろさ☆」ねぇ……

ヤツら、……ってつまり学生たちはぼくらをお笑い芸人を見るように見る。それは頭ごなしに否定することが無理なほどの前提だろうなとは思う。かといってそれに迎合していたのでは授業は悲惨なことになる。ぼくらがお笑い芸人と張り合ってかなうわけはないのだから。ヤツら……学生たちのそうした態度にどれだけの反省を強いるか、あるいは反省とまで言わずとも、どれだけ思いがけない地点に連れて行くか、その技能が試されるところだろう。なかなか難しい。「クセになる」くらいでは、まだまだ、喜んではいけないのだな。

喜んではいけない。喜んでもいないけど。といいながらこうして載せたりしているのだから、喜んでいるように見られるんだろうな。あーあ。

2011年4月3日日曜日

今日も後追いのご報告

昨日、4月2日は日本ラテンアメリカ学会東日本研究部会という研究会で、東大駒場キャンパスに行ってきた。新歓か何かで学生でごった返していた。

さて、研究会は、主に修士論文を出したばかりの若い会員の発表会。ガルシア=マルケスについての発表から始まって、ブラジルのストリートチルドレン支援の「プロタゴニズモ」(主人公主義、ということだが、つまり、参加型、だな)、メキシコのとある先住民言語の初めての記述の試み、と続いた。休憩を挟んで、そこからはメキシコ南部チアパス地方を巡る発表三連発。先住民の非インディオ化を歴史的に探ったのや、現在の移民のあり方を記述しようとしたの、大地大学という民衆教育の実践の監察報告、などだった。

ブラジルの「プロタゴニズモ」の発表に関してどなたかがコメントしておられたが、ラテンアメリカにおける民衆運動のその意義を理論化して説明したものはなかなかなく、その実践があまりにも優れているために、理論の貧困が残念なところ。「プロタゴニズモ」にしてもチアパスの大地大学にしても、とても興味をそそられる実践だ。

2011年4月1日金曜日

飛鳥山公園の桜を拝めず

3月29日にはスペイン語技能検定優秀者への文部科学大臣賞、スペイン大使賞その他の賞の授賞式に信濃町のスペイン協会に行ってきた。

賞をもらいに行ったのではない。あげに行ったのでもない。記念講演というのをしに行ったのだ。昨年末にノーベル賞をもらったことだし、何かバルガス=リョサについて話せと言われて、話してきた。バルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』のサナダムシのたとえ話のことなど。文学を志すものは腸内にサナダムシを飼っている者に似ていると、自分の人生のすべてがそのもののためにあるような生活になるのだという話。

その日はその後、卒業生の謝恩会に呼んでいただいた。

3月の終わりの日は、とっておきの昼餐会の後、金英蘭舞踊研究所第8回定期発表会に王子の北とぴあまで行ってきた。そこのさくらホールまで。

ぼくは朝鮮舞踊部の顧問なんてものをやっている。現在2年の学生で在日で子供のころから朝鮮舞踊を習っている者がいて、その彼女が創設した部。ちょっと印鑑を押してくれと頼まれたので、成り行き上、顧問になったという次第。

で、ぼくは朝鮮舞踊というものをほとんど知らず、その後、彼女らの学祭での踊りくらいしか見たことなかったのだが、今回、気づいたことをいくつか。

1)バレエでいうフエテ、すなわち連続旋回を見せたら、拍手が起こる。拍手していい。つまり、それがひとつの見せ所。
2)今年生誕百年を迎える崔承喜(チェ・スンヒ)によって近代化して体系化されたのが現在の朝鮮舞踊だということ。
3)これはつまり、植民地下で成り立ったということ。

バレエふうなところ、太鼓や鈴などの小道具を使うところが、なんとなく時代背景から理解できるような気がする。

しかし、そんなことより思ったこと。この朝鮮舞踊の特異な点が何かあるような気がして、それがなかなかこれまで言語化できないでいたのだが、それが分かったような気がした。

バレエに似ていながらバレエのような物語に欠けるのだろうか、と最初思っていたが、そうではない。物語はある。テクニックも要する激しい運動としての醍醐味もある。しかし考えてみたらこの舞踊は、ただ女性だけで踊られているのだ。群舞もソロも踊っているのは女性のみだ。男女で踊ることによる一種のエロティシズムというか、そういったものがないのだ(男女である必要のないエロティシズムというのはあると思うが)。そしてそのことこそがまさに日本による植民地化の時代に稀代の舞姫によって整えられた踊りの取らざるを得なかった必然的な方向性のような気がする。うまく説明できないけど。

フィナーレの盛り上がりは済州島における1948年4月3日の事件(米軍による「赤狩り」名目の虐殺事件)を扱った創作ダンス。ちょっと前に「物語がないのかな? いや、そういうわけじゃないな」などと考えていた自分が恥ずかしくなるほどの大きな物語。

王子までは大塚から都電で行った。学生時代に使っていた懐かしの路線だ。大塚駅は変わっていた。都電の車両がLRT(軽量軌道交通)風になっていた。大学時代の先輩にあたる同僚がいらしていたが、彼は早めに来て王子の駅に隣接する飛鳥山公園を歩いてみたのだとか。飛鳥山公園か! そういえばそろそろ花見の季節。まだ花は見ごろではなかったらしいが、ぼくはここに立ち寄るのを忘れていた。