2010年4月29日木曜日

教えていただきたい

今シーズンの始まる直前、新聞に、野球のカウントの取り方を、本来通り、ボールを先に言うことにしたと、そんな記事が載ったように記憶する。昨日、久しぶりに野球中継(NHK-BS)を見ながら夕食を食べたが、相変わらずストライクが先に表示されていた。ぼくは何か勘違いしていたのか? 

今日、CSの放送局J-Sportsを見たら、ボールから先にカウントしていた。画面の表示もそうだった。この事態はいったいどういうことなのだろう?

ご恵贈いただいた。

アンヘル・エステバン、ステファニー・パニチェリ『絆と権力――ガルシア=マルケスとカストロ』野谷文昭訳(新潮社、2010)

原書のタイトルはGabo y Fidel。愛称とファーストネームだけで通用する希有な存在の2人。その関係の検証。1848年のボゴタ騒動の際、カストロはボゴタにいた。そこで邂逅していたとしても、あるいはすれ違っていたとしてもおかしくはない2人だが、その可能性の検討から入って気を引く。フィデルが後年、ガボに騒動の最中、タイプライターを投げている人に会ったので、自分が代わりに壊してやった話をしたら、ガボが言ったという、「そのタイプライターの男は私だ」。もちろん、そんなはずない、というのが、エステバンとパニチェリの結論。

第3部はいわゆる「パディーリャ事件」以後の言論弾圧の時代、ガボがフィデルに進言して、何人かの作家の亡命に便宜を図ったことなど。ああ、それなのに当の作家たちは……

他に買ったのは、

サルトル『自由への道4』海老坂武、澤田直訳(岩波文庫、2010)
ギジェルモ・マルティネス『ルシアナ・Bの緩慢なる死』和泉圭亮訳(扶桑社ミステリー、2009)
パブロ・デ・サンティス『世界探偵倶楽部』宮崎真紀訳(ハヤカワ文庫、2009)

ちなみに、マルティネスの『オックスフォード殺人事件』は映画化されて評判を得たが、日本では公開されなかったと思う。が、DVD化されてもうすぐ発売になる模様。

2010年4月25日日曜日

この反応の速さが怖い。

『朝日新聞』書評欄には早くも『1Q84』が取り上げられていた。朝日など、近年は小説の書評が不毛な地帯で、この速さはどうしたことだ! どこかのブログだかツイッターだかの記事によれば、読売や日経などもそろって『1Q84』を取り上げているとか(紙名は勘違いかもしれないが、ともかく数紙)。なんだか怖いような気がするな。

ところで、一方、ぼくがボラーニョの翻訳に関して、俗語などの訳に困り、徹底的に調査したと発言したとのニュースが、メキシコの新聞El universal 電子版に! 

うーむ、速い。ボラーニョはこのように、村上春樹なみに速くニュース化する存在なのだな。

……ところで、おれ、そんなこと言ったっけ? あ、そういえば、質問に答えて、苦労したんですよ、この種の言葉には、と言ったな。あの質問した人が記者だったのかな?

で、しかも、ぼくのことをカルペンティエールの翻訳者でもあると書いてくれているのは嬉しい。でもね、アルフォンソ・レイェスの訳者でもあるんだよね。

ちなみに、ぼくはこの2年ばかり、2つ3つの無償の名誉職のようもものをやるはめになっていて、それがつらくてたまらなかった。今日、おそらく、その最後の仕事が終わった。一安心。

2010年4月24日土曜日

終了&好評

で、J. Pressのコットンスーツどころか、それの数分の1の値段でユニクロで(初!)買った、コーデュロイのハウンズトゥース……ってつまり千鳥格子のスーツを着て(スリーピースなのだけどヴェストは着けずに)、出かけていった。

出かけていく以前の話。1時限の2年生の授業前、ぼくをじっと見つめる学生がいた。どうした? ――ネクタイなんですね。珍しい。

うむ。彼女はぼくがネクタイをしていることに驚いたらしい。スーツを着ていることには驚かないのか? 普段は小汚いジーンズに覆われている下半身にまとった、上着と同じ柄、同じ素材のボトムズには気づかないか?

それだけスーツであることを主張しないスーツなのだろう。ネクタイだってあまり主張したくなかったから、黒地に小さなドットのニットタイにしたのだけどな。……それとも、「ネクタイ」とは、スーツ&ネクタイの堤喩なのか?

出かけていった用事の後の話。レセプションというかカクテルというか、そうしたものでチリ・ワインを楽しんでいる最中、顔なじみの学生たちが、それはユニクロのスーツでしょうと言ってきた。うむ。彼女たちには卒業式の日にその旨を伝え、自慢したのであった。見抜かれた。鋭い。

で、夕方、出かけていった。セルバンテス文化センターに。打ち合わせをして、登壇。ぼくは「あとがき」に書いたポイントに沿い、「あとがき」では触れなかった例を出して『野生の探偵たち』の面白さを説いた。その前にMさんの詩の朗読に聴き入り、その後にN先生にお叱りを受け、質問への回答の優先権を一番若いMさんに譲った。

会場前で『野生の探偵たち』と、併せて『通話』も即売(というのか、この場合?)していたが、売り上げは順調とのこと。

カクテルの後、白水社の人たちと軍鶏鍋をつついていると、知り合いの学生たちが乱入。オーケストラの定演に来なかったのかと追求される。

さらにその後、ちょっと飲み直して、結局、午前様。一緒にタクシーに乗ったボラーニョ第3弾『2666』の翻訳者Uさんは杉並区の某所で早々と下車。ああ、都心近くに住みたい……

用意していた名刺を1枚残らず使い果たした。ぼくにあっては珍しいこと。

あ、そうそう。会場は満員だった。ぼくの学生や元学生、東大の学生なども来ていたが、それ以外にも多くの方々がいらっしゃった。なんと、ヨーロッパにいらっしゃるはずの方まで!

2010年4月22日木曜日

社会は一定の機能不全を必要としている

東八道路が3月以来、おかしなことになっている。わりとスイスイと車の進んでいたポイントを、わざわざ詰まるような仕組みに作り替えている。具体的に言うと、右折車が多くいた地点での右折専用レーンをなくそうとしているのだ。渋滞を作り出すための構造に作り替えている。

道路には渋滞が必要なのだ。それが事故を減らす手段。

……なのか?

さて、つくづくと雨男だなと思う。

数日前、ちょっと暖かくなったときには、そういえば、23日のイベント、人前に出るんだし、夏用にと久しぶりにJ.Pressで買ったコットンスーツでも着ていくかな、と思いついたのだが、もうこの寒さ。雨だって降るという。いやだな。体調の維持すら難しい。

明日のイベントに行く予定の学生が、知り合いのチリ人留学生も誘う前から行くつもりでいて、既に申し込みも済ませているという。「なんだか盛り上がってますね」と。久しぶりのチリ人のスター作家だ。今回のもチリ大使館共催のイベントだ。

どうやら、その『野生の探偵たち』は今日から店頭に並び始めた模様。そろそろ献本も送られるころだと思う。ぼくがてづから渡すための献本用の本はもうすぐ来るはず。

この白水社エクス・リブリスのブログのように並べて写真に写してみると、とてもきれいな本であることがわかるはず。

2010年4月17日土曜日

出来

昨日は予告のごとく、授業後、焼き肉に行った。吉祥寺の李朝園。この前に李朝園に行ったのも雪が降る日だったが、昨日も季節外れの雪。参った。

この時期のこの天候くらいイカレた、不条理な、傑作な小説、ついに出来(しゅったい)。

ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』上下巻、柳原孝敦、松本健二訳(白水社、2010)

左の枠に写真、貼っておきました。ジュール・ド・バランクールの『衆愚の饗宴』は、実にこの小説にぴったりの絵だ。遠景の盆地はメキシコ市のようにも見える。すばらしい。

今日はこれから卒業生たちに会うのだが、みんなに差し上げたいくらいだ。そんなにたくさん持って行けないけど。

これは小説の歴史を変えた小説だ。

2010年4月16日金曜日

ライヴァル出現

ぼくが共訳者として名を連ねた翻訳小説がもうすぐ市場に出回ろうかというときになって、ずいぶんと強力なライヴァルが出現してしまったぜ。困った。

村上春樹『1Q84 Book3 〈10月―12月〉』(新潮社)

ええ、わかってますよ、向こうにしてみりゃ、ぼくなど目じゃない、……いや、目にも入ってないってことなんざ。この100分1くらいは売れるかなあ? でもまあ、思想の自由は万人に認められている。ぼくにとってライヴァルは村上春樹。

敵に勝つには敵を知るにしくはない。では、読んでみようか……

おお、なんと、天吾青年と青豆の章が交互に続くのでなく、新たに牛河さんの章が介入しているじゃないか。お行儀よく、牛河、青豆、天吾、と3人交互に現れる。

牛河さんかあ……

? 

誰だっけ? ああ、新日本学術芸術振興会専任理事の牛河さんだ。小男の。ふむ。あれが大きくフィーチャーされて来たか!

……午後も授業。そして焼き肉。

2010年4月14日水曜日

授業開始

授業開始といっても、それは3日前のこと。月曜日は大学院の授業が2コマ。火曜日は非常勤。水曜日は2時限の1年生の授業だけだけど、会議日。今日も3つほど会議やら打ち合わせやら……明日が「アメリカ文学II」の授業に副専攻語スペイン語、「表象文化とグローバリゼーション」。さらには5限後の院「多分野交流」。金曜日は2年のスペイン語(今年はアントニオ・ムニョス=モリーナの『リスボンの冬』を読む)、3年のゼミ、卒論ゼミ。

うーむ、やはり安らぐ暇がないな。まだ残っている原稿があれとあれと……

スペイン語の入学定員は70人。少し多く入ることもあるし、留年する学生もいるので、多いときには80人くらいになる。ぼくが担当する講読の授業はそれをAB2つに分けたクラス単位でやる。つまり、ひとクラス35から40人くらい。苗字のアルファベット順で1から70または80まで並べ、真ん中から割って2つのクラスに分ける。どんな苗字の者が入るかは不可知なので、どこまでがA組か前もって言うことはできない。

ぼくは外語に移って以来、ずっと1年生の両クラスの講読の授業を担当していた。昨年度は1年A組と2年B組を担当した。今年もその分担で行く。去年の1年B組の学生は、順当にいけば、今年、2年B組として受け持つことになる。

1年A組の教室に行ったら、去年1年B組だった学生がいた。

学年を間違えたのではない。去年はB組だったが、そんなわけで、留年したら、名前の順番で新たにA組に編入されることになった学生がいたという次第。どちらに転んでもことしぼくの授業を取ることになったというわけだ。

一方、2年に進んだ連中は、人数調整のために、去年A組にいた学生が、2人ほどB組に編入になるはずだった。ところが、間違えて去年のクラス割のまま名簿が発表されてしまい、結局、人員の移動はないことになった。結果、2年B組はA組に比べて何人か人数が少なくなった。

ぼくはB組を担当する。何か得した気分。

2010年4月11日日曜日

文学教育を思うか

今野雅方『深く「読む」技術――思考を鍛える文章教室』(ちくま学芸文庫、2010)

今野雅方と言えばコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の翻訳者。NPO日本論文教育センターというのを主催している。実はぼくの知り合いの学生にも彼の私塾(? のようなもの?)に通っているのがいる。その彼がちくま学芸文庫のために書き下ろした読書論のような論文指南のようなもの。人の思い込みがいかに理解を妨げるかという例から始まり、事実と価値判断を分けること、含意を考えること、などと説き進む。

本当はこの本を買ったのは、ドイツで日本語を教えた経験をこの本の起源として置いた前書きを読んだからなのだった。

ぼくが自己啓発本だかマニュアル本だかと間違えられかねないこんな本(特に「読む」と括弧つきなのがいただけないな。あ、でもこの本は、ともかく、そんなものではないけど。たとえば『下流志向』批判としても面白いけど)に目を通してしまうのは、以前書いたかもしれないけど、何年か前、授業で、語り手と登場人物と事物との区別、焦点化の問題などを取り上げたときに、ある優秀だと思っていた学生が、「今日はとりわけ難しかった」とつぶやいたことが背景にあるかもしれない。爾来、授業ではセルバンテスだサイードだだのという以前に、まずはとても基本的な、視点と語りと話法と、読み取れる事実と形容詞句(だの節だの)といったものをはっきりと認識してもらうようなことから始めるべきなのじゃないかと思い続けているからだ。こうしたことって、日本では主に外国語教育が担ってきたと思っていたが、その予断も捨て去って、それこそ文学と名づく授業でやるべきことじゃないかなと……

お、今気づいたぜ。こんな宣伝が出ている。この美しい装幀!

2010年4月10日土曜日

授業の始まりを思う

昨日の記事、最後の小話(?)は、ぼくから献本をもらった人で要らないと思っている人は、どうか、古本屋に売らずに、それを欲している若い連中にあげてね、というメッセージ。

かな?

トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』志村正雄訳(ちくま文庫、2010)

サンリオ文庫で出たと思ったら会社が倒産、1992年に筑摩から単行本として新たに出たのが、今回、文庫化されたもののようだ。ぼくがピンチョンが面白いらしいという話を聞いて探したころにはなかったわけだ。ペーパーバックを買った記憶はあるが、日本語訳は記憶がないのだ。だから、新たに買った。

でもところで、ペーパーバックで読んだんだったっけか? 

……どれどれ……

 ある夏の日の午後、エディパ・マース夫人はタッパーウェア製品宣伝のためのホーム・パーティから帰って来たが、そのパーティのホステスがいささかフォンデュ料理にキルシュ酒を入れすぎたのではなかったかと思われた。(8ページ)


この書き出しに訳者志村正雄が「解注」をつけていて、ふむ、なるほど、あれとああいうふうに組み合わせて、今度の授業でこんな話に持って行こう、などと考えているのだから、ぼくもそろそろ新学期に臨む覚悟ができつつあるということか。

2010年4月9日金曜日

悩める46歳

学部の新入生オリエンテーションやら大学院の新入生オリエンテーションやらで、授業は始まっていないが、大学に顔を出すことになる。そして新任の歓迎会とか、会議とか……

われわれには

献本

という習慣がある。先輩とか友人とか、尊敬する人とか読んで欲しい人とかに自分の著書や訳書を献呈するのだ。本当は、金がないのであまり本は買えないけれども知的好奇心には満ちている学生なんかにあげる方が有効ではないかと思うのだけど、したがって、本は放っておいても買わなければならないのじゃないかという立場の人にただで行ったりする。

最近ぼくも、たまに献本をいただくことがある。この数日でいただいたのは、

キャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』上野直子訳(明石書店、2007)

いやあ、これなんか、本当に、自腹を切ってでも自分で買ってなきゃいけなかったはずの本なんだけどな……

石橋純編『中南米の音楽――歌・踊り・祝宴を生きる人々』(東京堂出版、2010)
牛田千鶴『ラティーノのエスニシティとバイリンガル教育』(明石書店、2010)


お二人とも先輩だから、いただいちゃったら何だか恐縮しちゃうな。

3月の終わりくらいにも献本をいくつかいただいた。嬉しい。

さて、嬉しいことは嬉しいが、ここに問題がある。献呈には返礼がつきものだ。本のお返しは、本で。ぼくが次に出す本は2,940円×2巻本だ。訳者割引というのがあるのかもしれないけれども、ともかく、これを自腹で買って先輩方に送ったり、以前の献本の返礼をしたりする。印税が入る仕事なら(というのは、印税が入らない出版というのは、ぼくたちの世界にあってはざらだからだ)、印税相殺という形を取ったりする。実際の印税が自腹分を上回ればいいのだが、……

うーむ、怖いお話だ。印税が入れば年度末に税金は取られる。でも献本分が控除されるわけではない。

さて、ここまではしみったれた愚痴だ。ここからは背筋の寒くなる都市伝説。

大学の近くには古本屋がある。大学の近くの古本屋だと、当然、授業の教科書などがおいてあったりする。その昔、牧歌的な時代の古本屋には、十年一日同じ教科書を使い、同じ話ばかりしていた先生たちの教科書が何冊も、二束三文で置いてあったりして、学生たちはそんなものを安く買い求めた。

誰かが、そんな指定教科書の1つを探して本棚に目を這わせていた。教科書ではないが、見覚えのある先生の名を冠した本があった。手に取った。見返しに献辞があった。「恵存●●様」別の先生の名が書いてあった。著者の同僚だ。著者はその人に献本したのだ、そして献本を受けたその人は、それをすぐさま古本屋に売り払った。

ぼくらはすぐに古本屋に売り払われるために自腹を切って本を贈る。

怖いでしょ?

2010年4月5日月曜日

新たなゲラ


今日いただいた、新たなゲラ。ここからわかることは2つ:横書きであること;そして二色刷であること。

さて、何の本でしょう? 楽しみ♪

外大生などはこんなのに反応して「面白そう」なんて言うんだよな。いや、実際、面白いけど。たぶん。ぼくも楽しみながらやった仕事なので。

2010年4月4日日曜日

白熱教室


プロメテウスという名のホールを含む多目的会館アゴラ・グローバルが大学にオープン。その中にカフェ〈カスタリア〉が店を開けた。昨日は新歓の日で、ぼくが顧問を務めるサークルの者にちょっとした頼まれごとをしたので、顔を出し、ついでにそのカフェでエスプレッソなどを飲んできた。写真はオープン直前の会館。コンクリートの台座部分に今では木製のベンチが据え付けられ、入り口横にはカスタリアの看板が出ている。

アドルフォ・ビオイ=カサーレス『メモリアス――ある幻想小説家の、リアルな肖像』大西亮訳(現代企画室、2010)

セルバンテス賞作家シリーズなのだが、どうやらこのシリーズはやはり、エッセイに特化するつもりなのだろう。かろうじて予告されているフアン・マルセーやフランシスコ・アヤーラのスペインの作家2人は小説が出るらしいことは救い。

阿部和重『ピストルズ』(講談社、2010)

などと同時に手に取ったら、そりゃあ、後者を読み始めてしまう。小説とエッセイじゃあ読み方が違うのだから、どうしたってこの優先順位になる。ただし、ビオイのやつはエッセイとは言え、自伝なので、少しは小説のように読めるのは幸い。他に、

鹿島茂『パリの秘密』(中公文庫、2010)

NHK教育で「ハーバード白熱教室」などという番組が始まって、ええ、そりゃあFD(今となっては懐かしいフロッピー・ディスクのことでなく、ファカルティ・ディヴェロップメント。学部=教員=技能の開発、だ)などとうるさい昨今のこと、名にし負うハーヴァードで千人からの学生が詰めかける人気授業というのがどういうものかと、後学のために見た次第ですよ。

Justice: What's the Right Thing to Do? (Farrar Straus & Giroux, 2009) などの著者Michael J. Sandelの授業だ。たぶんこの本の基になった授業なのだろう。「正義」とか「公共性」、「四人の人間を助けるためにひとりを殺すことは正当化できるか」などといったことについて、本当に千人以上いるのだろう三層の講堂で、学生に質問をぶつけながらの授業。まず問題設定、そしてそれに関係する事例紹介、そして学生に疑問を投げかけ、質問とやりとりで興味をぐっと惹きつけてから、肝心の内容を講義するという形式。ベンサムやらカントやらを引きながら、公共性、定言的道徳原理などの話を展開する。

こうしたときの常で、いじましいぼくは副音声にして吹き替えでなく英語で聞いていて(リスニングの練習だ。本当にいじましいだろ?)、だからところどころよくわからない箇所もあったが(……いや、本当はところどころわかった、のかもしれない……コーヒーを淹れたりしながらだったし、……と言い訳)、まあそれほど晦渋に陥るでもなく、クリアな語り口だった。後半は原稿を読んでいて、ちゃんと「講義」なのだなと感心。

大講堂での授業がハーヴァードでも行われているというのが驚きではあったが、サンデルの投げかけた質問に学生が手を挙げて答えているところなどを見るにつけ、こうした光景は、しかし、日本の大学の授業では生まれにくいだろうなと、暗澹として思う。文化のあり方の問題だ。大学生にもなれば教室で教師からの質問に自ら手を挙げて答えたがる学生など多くはいない。彼我の差は大きい。だからまったくこれを真似た授業などできるはずもない。と思う。

でもまあ、それなりに考えさせられるところはあった。

ところで、1時間のこの番組、約30分ずつの2回の授業が紹介された。大講堂で学生に質問して答えてもらいながらだから、TAにマイクをそこまで運ばせたりするのに時間がかかるはずで、きっとそうしたもたつく無駄時間はカットされているのだろうが(だから実際以上にリズミカルに見えるのだろうが)、実際には1つの授業は何分からなるのだろうか? 1時間くらいだろうか? 日本の大半の大学のように90分では、少し間延びするのは避けられないのだろうか?

2010年4月2日金曜日

a ciegas

ペドロ・アルモドバル『抱擁のかけら』(スペイン、2009)

最終日にかろうじて。2008年現在から見て14年前の、ある失敗した映画の記憶を、その映画の成り行きから起こした事故で視力を失った元映画監督(現脚本家)が回想し、その傷から癒え、編集し直すという話。失敗した映画というのが、アルモドバル自身の『神経衰弱ぎりぎりの女たち』を一部パロディ化しながら再現するようなもので、ロッシ・デ・パルマやチュス・ランプレアベなども出演。

最後のセリフは「映画は終わらせることが大切。たとえ手探りでも」というような内容だったが、「手探り」というのが、a ciegas(盲目の状態で)という表現で、なんだ、要するにダジャレか、と……

しかし、ところで、エンドクレジットをぼんやりと眺めていてぼくはびっくりした。COMPOSICIONというスタッフの一員にソンソーレス・アラングーレンの名が! 『エル・スール』で8歳のエストレーリャを演じていた彼女だ。

撮影はゴンサレス=イニャリトゥと組んで知られるロドリゴ・プリエト。

2010年4月1日木曜日

生きにくい


4月1日である。エイプリルフールである。ぼくが子供のころ身につけた言語によれば4月馬鹿である。

何か嘘をつかねばというオブセッションを抱かねばならないのじゃないかというオブセッションがある。そんなオブセッションに突き動かされていると、嘘などつけない。考えつかないのだ。本当に嘘をつかねばというオブセッションにまで達しないのだから。なにやら生きにくい。

溜まっていた原稿、書き終えました。

なんて嘘は悲しくなるだけだ。

溜まっていた原稿、破産宣告してすべて放棄します。

できたらこんな嬉しいことはないのだけど、どうせできないに決まっているから、よけいに悲しい。

いっそのこと書いている原稿の中に嘘を込めてしまおうかと思うのだが、それはまあだいたいいつもやっていることだから、新味に欠ける。しかたがないから粛々として原稿を書く。

でも終わらない。